大谷吉継
大谷吉継
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大谷 吉継(おおたに よしつぐ、永禄8年〈1565年〉- 慶長5年9月15日〈1600年10月21日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが[注釈 2][注釈 3]、現存する古文書では確認できず、いずれも「吉継」である[3]。通称は紀之介、号は白頭。
注釈
- ^ 慶松とも書く。
- ^ 関ヶ原の戦いで西軍へ加担することを決めた際に、吉継では「(三好)義継」に音が通じて不吉であるという理由で吉隆に改名したという(安積澹泊『烈祖成績』)。
- ^ 関ケ原町にある吉継の墓塔は「大谷吉隆墓」として国の史跡に指定されている(国の史跡「関ヶ原古戦場」の附指定)。陣跡を示す碑に「大谷吉隆陣所古址」、墓塔の案内板に「大谷吉隆(吉継)」とそれぞれ記されている。
- ^ 宮本義己も2000年9月3日、歴史シンポジウム「大谷吉継の謎に迫る」(敦賀・プラザ万象)において永禄8年説を指摘し、染谷光廣の説を補強する。
- ^ 兼見卿記天正二十年一月三日 「ひかし殿子息刑部少輔廿八才」(数え年。満年齢27歳の年である)このとき吉継の母である東殿は吉田神社の神主である吉田兼見に祈祷を頼んでおり(朝鮮出兵の戦勝祈願か)、この年齢も東殿の申告である可能性が高い
- ^ 太田亮の『姓氏家系大辞典』に「大谷刑部少輔吉隆は豊後の人にして」「子孫盛治の子吉隆、刑部少輔に任ぜらる」とある。『名将言行録』においても「吉隆は大友家の臣なり、大友家亡し時、浪遊し、姫路に来り、石田三成に寄り、秀吉に仕ふ」とある。『国史大辞典』では「父は豊後の国主大友宗麟の家臣大谷盛治であるといわれている」とある
- ^ 毛利氏に仕えた石見益田氏の家臣に平貞経を祖とする広瀬古土居城主・匹見大谷氏があり、この匹見大谷氏の初代に「盛」の字を持つ大谷盛胤がいること、16世紀半ばの当主に姓名官途とも同じ大谷吉隆がいることから、これとの混同が生じたものと思われる。この大谷氏は毛利氏の敵対勢力に内通した疑いで主家益田氏から族滅されているが、内通した勢力が大友氏であった場合、「大友氏の家臣だった大谷氏」との俗説には「毛利氏陪臣から大友氏家臣になった」ということで説明がつくが、吉継豊後出身説の証拠とはならない
- ^ 『淡海温故録』『輿地志略』で吉継は近江大谷村の出身としている
- ^ 『交合雑記』『挍合雑記』とも。国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『淡海温故録』で「秀吉公長浜御在城の頃召出され」とある
- ^ 『一柳家記』では賤ヶ岳七本槍や石田三成らと14人と共に柴田軍1万5000人相手に無類の働きをしたとある[18]。
- ^ 洗礼名はシモン。安威弥四郎の子。
- ^ なお、慶長3年(1598年)の太閤検地により3,000石近い加増をうけるが、その際に今立郡の領地は収公されている[26]
- ^ 孫の一人に大坂の陣に徳川方として参陣、功を賞されて家康から50石の加増を受けた大谷隆昌(隠岐、五右衛門)がおり、判明していない一族に徳川方についた者がいた可能性はある
- ^ 実際に前田軍と戦ったのは丹羽長重であるが、利長は吉継によって流された偽情報に動揺して軍を加賀に撤退させる際、丹羽軍に襲われたという。
- ^ 吉継に関しては諸説があるが、『淡海温故録』は吉継を近江出身としている。尤もこの史料は吉継を若狭国小浜城主だったとしているなど信憑性が疑問視されている。
- ^ 九州征伐では共に兵站奉行を務め、天正18年(1590年)の小田原征伐でも兵站奉行を、文禄の役でも「船奉行」を共に務めている。また太閤検地でも三成と検地奉行を担当しており、天正14年(1586年)に三成が堺奉行になった際には三成の補佐役に付された。天正13年(1585年)9月14日に秀吉が有馬温泉に湯治に出かけた際にも、三成や増田長盛とその供を務めている(『宇野主水日記』)。『甫庵太閤記』では「御扶持方渡し奉行」として三成と吉継、長束正家の3人を挙げている。
- ^ 一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ち、周りの者達はさらにその茶を飲むのをためらったが、三成はその膿ごと茶を飲み干し、「おいしいので全部飲んでしまったから、もう一杯茶を注いでほしい」と気を利かせたとされる。
- ^ 本郷和人によると、この逸話の典拠は不明で、江戸時代に遡ることが難しく、明治時代のジャーナリストであった福本日南が明治43年(1911年)に刊行した『英雄論』では、三成ではなく秀吉の話として載っていて、本郷は「これがぼくが知っているものとしては一番古い。もし何かソースをご存じの方、ぜひご教示下さい」と述べている[50]。
- ^ 大道寺友山『落穂集』では、三成に対して「殊外へいくわい(横柄)に候とて、諸大名を始め末々の者迄も日比(頃)あしく取沙汰を仕る由也」とある。
出典
- ^ 『華頂要略』門主傳第二十四
- ^ 『兼見卿記』文禄4年時点
- ^ 花ヶ前盛明 2000, p. 219, 平野明夫「大谷吉継の発給文書」.
- ^ 桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年、158頁。ASIN B000J9GTRU
- ^ 岡本良一「武家の書状・大谷吉継」『日本美術工芸』365号、1969年。
- ^ 染谷 1986, p. 166.
- ^ 荻原勝「小瀬甫庵『太閤記』を中心とする大谷吉継の軌跡」『敦賀論叢』第2号、1987年。
- ^ 外岡慎一郎「青蓮院坊官大谷家と大谷吉継-その系譜をめぐって-」『敦賀論叢』第17号、2002年。青蓮院坊官大谷家の系譜に大谷泰珍の子として吉継の名がみえる。
- ^ 『関ヶ原合戦史料集』新人物往来社
- ^ 染谷 1986, p. 164.
- ^ a b 宮本義己「関ヶ原合戦―西軍の孤塁を守り義に殉じた熱き闘将―」『歴史読本』42巻7号、1997年。
- ^ 外岡慎一郎「徹底検証大谷吉継の実像」『歴史読本』54巻7号、2009年。
- ^ 宮本義己「大谷刑部と豊臣秀吉」、花ヶ前盛明 2000, p.77
- ^ 『武功夜話』の「天正五年十月十九日、羽柴筑前守播州発向の陣立て覚えの事」
- ^ 『武功夜話』の「羽柴秀吉、尼子勝久を救えず上月城落城の事」
- ^ 『武功夜話』「播州三木城責めの事」
- ^ 『武功夜話』「天正十年四月、備中陣惣仕立ての覚えの事」
- ^ 花ヶ前盛明 2000, p.17
- ^ 『称名寺文書』、日付不詳。
- ^ 五野井隆史『日本キリシタン史の研究』吉川弘文館、2002年、185頁。
- ^ 「1586年10月付フロイス書簡」松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告書』
- ^ 新異国叢書『イエズス会日本年報』下. 丸善雄松堂. (1969)
- ^ 松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告書』同朋舎、1987-1998年。
- ^ 狭間芳樹「大谷吉継」『キリシタン大名 布教・政策・信仰の実相』宮帯出版社、2017年、523‐528頁。ISBN 9784801600188。
- ^ 『古今武家盛衰記』
- ^ 『福井県史』通史編3 近世一 第一章/織豊期の越前・若狭 第三節/豊臣政権と若越 一/越前・若狭の大名配置 大谷吉継の敦賀入部
- ^ 大谷幹伸「太宰府天満宮の鶴亀文懸鏡の願主の考察」『歴史研究』51巻10号、2009年10月、102-105頁。
- ^ 『鹿苑日録』
- ^ 『戸田左門覚書』
- ^ 石畑匡基「秀吉死後の政局と大谷吉継の豊臣政権復帰」『日本歴史』第772号、2012年9月。
- ^ 『関原軍記大成』
- ^ 宮本義己「大谷刑部と豊臣秀吉」、花ヶ前盛明 2000, pp.82-83
- ^ 二木謙一『関ケ原合戦―戦国のいちばん長い日―』(中央公論社、1982年)
- ^ 敦賀新聞社 編「国立国会図書館デジタルコレクション 大谷吉継の墓」『敦賀』山上書店、1912年 。
- ^ 登谷伸宏『近世の公家社会と京都 集住のかたちと都市社会』思文閣出版、2015年、45頁。ISBN 978-4-7842-1795-3。
- ^ 『常山紀談』による。花ヶ前盛明「大谷刑部とその時代」、花ヶ前盛明 2000, pp.48-49
- ^ 福井県敦賀郡 編「国立国会図書館デジタルコレクション 大谷吉継の墓」『敦賀郡誌』福井県敦賀郡、1915年 。
- ^ "ハンセン病患者訴訟". 知恵蔵. コトバンクより2020年7月10日閲覧。
- ^ 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、61頁。
- ^ 温泉草津資料
- ^ 『刀根市左衛門文書』
- ^ 花ヶ前盛明「大谷刑部とその時代」、花ヶ前盛明 2000, p.11
- ^ 伝真田信繁写本『源家訓閲集』
- ^ 池内昭一「大谷刑部と徳川家康」、花ヶ前盛明 2000, p.112
- ^ 大道寺友山の『異本落穂集』
- ^ 池内昭一「大谷刑部と徳川家康」、花ヶ前盛明 2000, pp.118-119
- ^ 池内昭一「大谷刑部と徳川家康」、花ヶ前盛明 2000, pp.116-118
- ^ 『慶長軍記』『校合雑記』
- ^ 小和田哲男「大谷刑部と石田三成」、花ヶ前盛明 2000, pp.122-130
- ^ 本郷和人『戦国武将の明暗』新潮社、2015年、31-32頁。
- ^ 『常山紀談』より。花ヶ前盛明「大谷刑部とその時代」、花ヶ前盛明 2000, p.40
- ^ 小和田哲男「大谷刑部と石田三成」、花ヶ前盛明 2000, p.132
- ^ 花ヶ前盛明「大谷刑部とその時代」、花ヶ前盛明 2000, p.41
- ^ 『慶長軍記』『関東軍記大成』
- ^ “智と仁の将 敦賀城主 大谷吉継(中)”. 福井新聞 (2020年3月17日). 2011年8月24日閲覧。
- ^ “敦賀PR「よっしー」に任せて 市公認キャラ着ぐるみ披露”. 福井新聞 (2011年7月22日). 2011年8月23日閲覧。
大谷吉継(紀之介)
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大谷吉継(おおたに よしつぐ)
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「のぼうの城」の記事における「大谷吉継(おおたに よしつぐ)」の解説
三成の盟友であり、秀吉からは紀之介と呼ばれる。秀吉から密かに忍城降伏の件を聞かされていたため、戦に転じたことに驚愕する。
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大谷吉継(おおたに よしつぐ)
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「センゴク」の記事における「大谷吉継(おおたに よしつぐ)」の解説
通称は紀之介、後に刑部少輔。 豊臣家の家臣。豊臣家の文官で奉行衆の一人。
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大谷吉継(要塞)
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24歳。大谷家は元々九州の大友家に仕えていたが、父盛治と共に大友家を離れ流浪の末に16歳で秀吉の小姓として仕え、鋭敏な才覚を認められて秀吉からの信任を得る。小姓出身からか福島正則や石田三成の面倒をよく見ていたため、彼らからの人気も高い。内政面に堪能だが、軍略においても優れた才能を持つ文武両道の名将。病気の後遺症を患い顔を布で隠しているため、見た目は物々しい。
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大谷 吉継(おおたに よしつぐ)
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「○○せよ!! 戦国学園生徒会」の記事における「大谷 吉継(おおたに よしつぐ)」の解説
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大谷 吉継(おおたに よしつぐ)
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「最上の命医」の記事における「大谷 吉継(おおたに よしつぐ)」の解説
元偏郷大学医学部心臓外科准教授。年齢の割に頭髪が薄い。診察時に患者に丁寧に接しているため義明達から尊敬されている。上司である今川に反抗できないため悪事を黙認していたが義明達を見て今までの行動を恥じ、誤った術式をしようとした今川を締め落とし辞職した。義明達の紹介で平聖中央病院の心臓外科副部長として採用される。本来なら准教授まで務めた人物を副部長として採用するのは心苦しいと前置きした奠から、平聖中央病院での激務をこなし、覚悟がついた時点で部長への昇進の含みを持たすことでの副部長採用となった。
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