前野長康
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前野 長康(まえの ながやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。織田信長に仕えた後豊臣氏の宿老となる。播磨国三木城主ののち但馬国出石城および有子山城主となる。蜂須賀正勝の義兄弟。官位は但馬守。坪内光景という別名でも知られる。
注釈
- ^ a b c 坪内家に伝わる「富樫庶流旗本坪内家一統系図並由緒」(各務原市歴史民俗資料館編)の系図では、ほとんどが長康として記され、光景は1点のみである。
- ^ a b ただし『大かうさまくんきのうち』には養女の件は書かれていない。享年19。
- ^ 『寛政重修諸家譜』では勝定の長男は「某」とされ、加えて「勝右衛門 但馬守 従五位下 今の呈普光景に作る」とあり、さらに但し書きに「前野某が家を継、豊臣太閤に仕へ、但馬国出石の城主たり」とある。坪内「某」が「前野某」の家を継いだと解釈される。また、坪内系図では勝定は永正13年(1516年)生まれ。長康は前野系図では大永8年(1528年)生まれ。これによると二人は12歳差で、実の親子とは考えにくい。ただし、生没年、親子関係等、今後の確実な研究を必要とする。
- ^ 史実ではそのようなことはなく、本能寺の変当時、長康は播磨国三木城にいた。
出典
- ^ 「野史」、「尊卑分脈」
- ^ 『信長公記』巻首「一、前野但馬守辨慶」による。
- ^ a b c 吉田蒼生雄『武功夜話』新人物往来社、1987年
- ^ 小坂孫四郎書留『吉田家所蔵文書』
- ^ 『武功夜話 巻四』永禄辰年勢州陣、伊勢国司の居城阿坂城落去の事、滝川三郎兵衛の事
- ^ 『武功夜話 巻四』木下藤吉郎江州先懸の事、みつくり観音寺山責めの事
- ^ 『蜂須賀家家臣成立書并系図』徳島大学附属図書館蔵
- ^ 『武功夜話 巻四』横山の城において、木下藤吉郎様内輪衆の覚え
- ^ 『武功夜話 巻四』木下藤吉郎様横山在番の事、並びに洛中警固の事
- ^ 『武功夜話 巻四』摂州石山御坊顕如上人の事
- ^ 『武功夜話 巻四』江州野洲郡建部郷において、一揆出入りの事
- ^ a b c 『武功夜話 巻四』木下藤吉郎様、佐保山の磯野丹波御調略の事
- ^ a b 『武功夜話 巻四』竹中半兵衛尉意見候事、五宗記に曰くこれを写す
- ^ 『武功夜話 巻四』江州箕浦中入りの事
- ^ 『武功夜話 巻四』横山在番の経緯、清助殿より申し聞き候事
- ^ a b 『武功夜話 巻五』喜左衛門日次記、これを写す
- ^ 『柴田退治記』群書類従第二十一輯合戦部に、「前略...播磨但馬ノ守護ハ、羽柴美濃守秀長、姫路居城也、東部三木城ハ前野将右衛門尉長康、西部龍野城ハ蜂須賀小六正勝...以下略」の記述あり
- ^ 『武功夜話 巻十』明智日向守謀反の事
- ^ 『武功夜話 巻十』天正十年六月六日、前野長康、羽柴筑前守の問いに答える事
- ^ 『武功夜話 巻十』天正十年六月七日、前野長康、蜂須賀正勝の両名池田恒興を調略の事
- ^ 『武功夜話 巻十』天正壬年天王山切崩しの事
- ^ 『武功夜話 巻十』天正十年十二月三日、羽柴筑前守神戸信孝を岐阜城に責むる事
- ^ 『武功夜話 巻十一』天正十一年四月、岐阜表の事、長浜において岐阜攻めの御評定の事
- ^ “賤ケ岳合戦:黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文書発見”. 毎日新聞. 毎日新聞社 (2013年5月10日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。[リンク切れ]
- ^ 『武功夜話 巻十五』前野但馬守長康、所領地の事
- ^ 『豊鑑巻三』群書類従第二十一輯合戦部に「内野行幸 関白殿前駆、前野但馬守。」の記述あり
- ^ 『細川忠興軍功記』続群書類従第二十輯下「摂政関白秀次御身体果申次第」
- ^ 父である秀次の法名が道意であり、若君の中で百丸だけに誓道または道喜と、同じ「道」の一字が用いられていて、他の3人の男児は「妙」の字である。『大かうさまくんきのうち』では若君は3人しか登場せず、仙千代丸は登場しないので、登場するなかで最年長の百丸が嫡男の扱いを受けているようである。
前野長康(まえの ながやす)
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