石山合戦
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石山合戦(いしやまかっせん)は、元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い。本願寺法主の顕如が石山本願寺に篭って戦った。
注釈
- ^ 真宗高田派・真宗三門徒派のように浄土真宗の中でも反本願寺勢力諸派は本願寺勢力に呼応しなかった。また、本願寺勢力傘下でも富田林寺内町のように信長側による安全の保証を条件に中立もしくは信長方についた者もあった。
- ^ 雑賀には浄土真宗の鷺森御坊の他に浄土宗西山派の本山である総持寺があるため浄土宗信者も多く、石山合戦の対応についても真宗門徒や信長に反発する非門徒の国人が多く本願寺支援に積極的な「雑賀荘」「十ヶ郷」と消極的な「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」に分かれていた。
- ^ 庭田重保は顕如の母方の叔父であると同時に門跡寺院としての本願寺との取次を長く務め、勧修寺晴豊本人は本願寺とのつながりはないが実弟の万里小路充房が継いだ万里小路家が能登畠山家を介して本願寺と婚姻関係を持っており、晴豊も充房の後見人として万里小路家が持つパイプを活用できる立場にあったとみられている[7]。
出典
- ^ 吉井克信「戦国・中近世移行期における大坂本願寺の呼称-『石山』表現をめぐって-」『ヒストリア』第153号、大阪歴史学会、1996年。/所収:吉井克信『寺内町の研究 三』法蔵館、1998年。
- ^ 大阪真宗史研究会 2005, 川端泰幸「大坂本願寺戦争をめぐる一揆と地域社会」.
- ^ 大阪真宗史研究会 2005, pp. 317–322, 武内善信「雑賀一揆と雑賀一向一揆」.
- ^ 奥野 1996, p. 261.
- ^ a b 谷口克広 2006, p. 194.
- ^ 谷口克広 2006, p. 197.
- ^ 永村 2017, 太田光俊「本願寺〈門跡成〉と〈准門跡〉本願寺」.
- ^ 森嵩正『森蘭丸の母とその流れ~妙願寺史に沿って』近代文芸社、1996年。ISBN 978-4773357240。
石山合戦
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天正年間の織田氏との戦いにおいても毛利水軍の将として戦い、石山合戦では毛利氏からの援軍として摂津国大坂へ何度も出陣する。天正5年(1577年)5月の英賀合戦では小早川隆景の指示を受けて横田壱岐入道と共に播磨国英賀へ出陣している。さらに飯田元著と共に数年に渡って石山本願寺に籠城した。 その恩賞として天正4年(1576年)11月16日に20貫の地を、天正5年(1577年)6月19日に安芸国佐東郡五ヶ村の内、手嶋六郎二郎の拘所8貫300目、手嶋源次兵衛の先給の6貫500目、周防国都濃郡富田の内、手嶋六郎二郎先給の10石足・富海の内5石足を与えられた。 天正8年(1580年)3月17日、毛利輝元は数年に渡って石山本願寺に籠城した就重の辛労は神妙なものであり子々孫々まで忘れないと労い、美作国内で100貫の地を与えた。また、同年閏3月26日、教如(本願寺光寿)は輝元に書状を出し、「就重は数年在城し、諸事の才覚も比類なきものであった。今般、就重は帰国したいと願い出ていたが、就重が帰国したならば本願寺は力を失ってしまうため、是非を顧みず抑留してしまった」と謝している。 天正11年(1583年)閏1月28日、2月24日、3月30日と度々輝元から沼田郡へ呼び出され、その都度伊予国の来島や務司へ派遣された。また、同年2月26日に「河内守」の受領名を輝元から与えられた。 天正12年(1584年)、小早川秀包が羽柴秀吉に従って小牧・長久手の戦いに従軍するにあたって、小早川隆景と秀包は、辛労ながら就重も同行させて欲しいと輝元に求めた。輝元は3月19日に就重へ書状を送って上洛を依頼し、就重は4月12日に出立した。 天正15年(1587年)7月8日に死去。嫡男の元直が後を継いだ。
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石山合戦
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元亀元年9月12日(1570年10月11日)、織田信長との間で石山合戦が始まる。父・顕如を助けて信長と徹底抗戦する。元亀2年(1571年)6月、朝倉義景の娘である三位殿と婚約。 天正8年(1580年)3月、顕如は正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介による講和を受け入れ、石山本願寺から紀伊国鷺森(和歌山県和歌山市)へ退去する。しかし教如は徹底抗戦を主張、同じく和議に不満を持つ信徒らとともに石山本願寺に籠城する(大坂拘様)が、8月2日、近衛前久の説得に応じ、信長に石山本願寺を明け渡す。その直後に、石山本願寺は失火により炎上し灰燼に帰した。 なお、この籠城中に教如が顕如から宗主を継いだと称したことから父子間に不和が生じ、顕如は教如を義絶する。教如は一旦は鷺森に入ったが顕如と対面できず、東海・北陸を転々とした。 天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で信長が自害した際、残された文献・記録によれば、教如は美濃国郡上郡と越前国との国境付近にいて越後の高田本誓寺に向かおうとしていたとの説がある。同年6月23日、後陽成天皇は顕如に教如の赦免を提案。6月27日、顕如より義絶を赦免される。赦免後は、顕如とともに住し、寺務を補佐する。
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