石山合戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 06:46 UTC 版)
石山本願寺は、織田信長との戦い石山合戦となった時に長島一向一揆衆や雑賀衆などが応援として駆けつけていたが、大坂並と呼ばれた「寺内町」で、実際に石山本願寺方として兵力を出した事が確認できるのは、萱振(八尾市)、貝塚(貝塚市)のみである。それ以外の大坂並と呼ばれた「寺内町」、特に富田林寺内町では、 今度、下間丹後所行をもって、大坂の動き不慮の体、かつは天下に対して不儀、かつは門下の法度に背くの条、かたがたもって是非なき次第なり。しかるに、当寺内の事、下間にくみせざるのよし、忠節神妙に候。寺内の儀、いささかも別条あるべからず候。なお、蜂屋、佐久間申すべきの状くだんのこどし。 元亀元 九月 日 信長 富田林寺内中 — 織田信長の朱印状 (京都大学所蔵杉山家文章) とある。これは野田城・福島城の戦いの直後に織田信長が富田林寺内に出された朱印状で、内容は、石山本願寺顕如の側近であった下間頼総のせいで戦闘となったが、富田林は石山本願寺に味方しないのは神妙で、その安全は保証し「寺内の儀、いささかも別条あるべからず」とあることから特権はそのまま継続された。また1572年(元亀3年)には新たな禁制を与えている。富田林寺内町と織田信長は同盟関係にあった。すべての大坂並と呼ばれた寺内町が石山本願寺に加担したわけではなかった。
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