朝倉義景(あさくら よしかげ) 1533~1573
◇父:朝倉孝景 室:細川晴元女、義種女、近衛前久妹、鞍谷刑部大夫嗣知女、斎藤兵部女 子:朝倉阿君丸、愛王丸
越前・朝倉氏最期の当主。溺愛する息子を失い、国政に対する気力を無くしていき、一方で学問や芸能に深くのめり込んでいった。都を追われた将軍足利義昭が頼って来た際、上洛を促されるがこの機会を活かさず、義昭に見限られる。その義昭を奉じて上洛した尾張・織田氏に攻められるが、盟友北近江・浅井氏の来援に助けられ危機は逃れた。しかし、その後も自ら積極的に出ることはあまりなく、浅井氏の要請に対し家臣に軍を率いらせるのみで、士気は振るわなかった。その為、織田方との決戦である姉川の合戦においては、数に劣る三河・徳川軍相手に敗走してしまう。最期は一族景鏡、重臣魚住景固らに迫られ、自害して果てた。
朝倉義景
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朝倉 義景(あさくら よしかげ) は、戦国時代の武将。越前国の戦国大名。越前朝倉氏最後(11代)の当主。
注釈
- ^ 『若州武田之系図』『武田系図』では若狭武田家の出身として記されているのは確かだが、父に関しては異なっている[3]。
- ^ これは永禄11年(1568年)8月まで続いた。
- ^ この越前出兵は本来、足利義昭の意向を受けた若狭侵攻であったとする説[24]もあるが、この説を採ったとしても義昭の意図は若狭武田氏の再興にあったと考えられるため、義景が若狭から撤退しない以上、朝倉討伐に発展するものであったと言える。
- ^ 『言継卿記』では越前衆5000余が討死して大敗としている[27]。
- ^ この勅命講和は朝倉方を対象とせず、延暦寺だけに限定されていたとする指摘もある[30]。
- ^ 『越州軍記』では「先ず、式部大輔景鏡、出陣あるべきの旨、義景宣いける処に、所労もってのほかなる由にて立たず。魚住備後守は、江州丁野の城の番手にありけるの条、人馬をくつろぐべしとて、是も立たず」とある[35]。
- ^ このときの朝倉軍の潰走ぶりを
- 「義景立出馬ニ乗玉ヘバ、右往左往ニサワギ、下人ハ主ヲ捨テ、子ハ親ヲ捨テ、我先我先トゾ退ニケル。此間雨降タル道ナレバ、坂ハ足モタマラズ、谷ハ泥ニテ冑ノ毛モ不見。泥ニ塗レテ足萎へ友具足ニ貫テ、蜘蛛ノ子ヲ散ガ如クシテ、其路五六里ガ間ニ、馬物具ヲ捨タル事足ノ踏所モナカリケリ。軍ノ習勝ニ乗時ハ鼠も虎トナリ、利ヲ失フ時ハ虎モ鼠トナル物ナレバ、草木ノ陰モヲソロシクシテ、シドロモドロニ退キケリ」
- ^ 「山の険阻を云ず馳重りける間、朝倉軍は或は谷へ堰落とされ、或は高岸より馬を馳倒して、其侭討たるる者もあり、唯馬具を抜捨て、逃伸とする者はあれども、返合戦はんとする者はなかりけり」(越州軍記)というような悲惨な状況だったと言われている。
- ^ 『越州軍記』には、この時の状況が、
- 「義景15日に館へ入せ玉へば、昔の帰陣に引替、殿中粧条寂莫として、紅顔花の如くなりし上籠達も、一朝の嵐に誘はるる心地、涙に袖をしぼり、夜の殿に入せ玉ひても、外の居もなし。寝頭に星を烈し武士老臣も、満天の雲に覆われて、参する人独もなかりければ、世上の事何とか成ぬらんと、尋聞かるべき便もなし」
- ^ ただし、これは三河物語のみの記述であり、肝心の朝倉側の資料にはこのような記述はない。
出典
- ^ 『朝倉義景』 - コトバンク
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 23頁。
- ^ 水藤 1986, pp. 47–48.
- ^ 水藤 1986, p. 48.
- ^ a b c 水藤 1986, p. 49.
- ^ 水藤 1986, p. 50.
- ^ 水藤 1986, p. 53.
- ^ 宮永一美 著「戦国武将の養鷹と鷹書の伝授―越前朝倉氏を中心に―」、二木謙一 編『戦国織豊期の社会と儀礼』吉川弘文館、2006年。
- ^ 水藤 1986, p. 225.
- ^ 水藤 1986, pp. 63–64.
- ^ 水藤 1986, p. 67.
- ^ 水藤 1986, p. 68.
- ^ a b 水藤 1986, p. 70.
- ^ 渡辺世祐「上洛前の足利義昭と織田信長」『史学雑誌』29巻2号、1918年。/所収:久野雅司編著『シリーズ・室町幕府の研究 第二巻 足利義昭』戒光祥出版、2015年。ISBN 978-4-86403-162-2。
- ^ 水藤 1986, pp. 71–72.
- ^ 水藤 1986, pp. 73–74.
- ^ a b 水藤 1986, p. 74.
- ^ a b c 水藤 1986, p. 76.
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- ^ 水藤 1986, p. 79.
- ^ 水藤 1986, p. 80.
- ^ 水藤 1986, p. 86.
- ^ 水藤 1986, pp. 86–87.
- ^ 久野雅司「織田信長と足利義昭の軍事的関係について」『白山史学』第53号、2017年。/所収:久野雅司『織田信長政権の権力構造』戎光祥出版、2019年、137-140頁。ISBN 978-4-86403-326-8。
- ^ 水藤 1986, p. 88.
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- ^ 水藤 1986, p. 98.
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- ^ 桐野作人「志賀の陣 和睦の真相」『歴史読本』56巻7号、2011年。
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- ^ 桑田 1958, p. 25.
- ^ 宮本 2010, pp. 61–62.
- ^ 『完訳フロイス日本史3』54章(本来の第2部32章)
- ^ 水藤 1986, pp. 66–67.
- ^ 水藤 1986, p. 175.
- ^ 天野忠幸「等閑視されてきた信長以前の機内近国」『本郷』150号、吉川弘文館、2020年。
- ^ 水藤 1986, pp. 170–173.
- ^ 水藤 1986, pp. 89–90.
- ^ 水藤 1986, pp. 98–101.
- 1 朝倉義景とは
- 2 朝倉義景の概要
- 3 辞世
- 4 朝倉義景が登場する作品
朝倉義景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 00:33 UTC 版)
越前の戦国大名。長政の盟友。作戦能力は天才的だが、むらっけが極度に強く、雨が降っただけで勝機を放り出して撤退したりする。この「天才肌の超気まぐれ男」という義景像はおそらく本作のオリジナルで、多くの歴史小説がうまく説明しきれていない、史実での彼の奇妙な動きをあっさり納得させてしまう。
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朝倉義景(あさくら よしかげ)
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「秀吉でごザル!!」の記事における「朝倉義景(あさくら よしかげ)」の解説
越前の武将。領土経営はかなり上手く、信長侵攻まで越前は乱世とは思えないほど平和な国であった。やがて、近江を狙う信長と戦うため、浅井長政と共に信長を破滅させようと企てる。憑き鬼神は目・口・手の生えた刀型憑き鬼神であり普段は普通の刀として間柄の腰に刺さっている。
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朝倉義景
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朝倉家当主。織田軍の一乗谷侵攻に際には、秀吉の調略によって多くの家臣が内応し敗戦してしまう。一乗谷から落ち延びた後、一族の景鏡を頼って最後の一戦に及ぼうとするものの景鏡にも裏切られ、手勢に包囲されてしまう。最後は自分の命運を悟り、立ったまま自刃した。
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朝倉義景(声:森岳志)
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「決戦III」の記事における「朝倉義景(声:森岳志)」の解説
越前の戦国大名。将軍義昭の上洛要請により軍を出し、長政と共に信長と敵対する。名門意識が強いものの、戦はあまり得意ではない。
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朝倉義景(あさくら よしかげ)
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「センゴク」の記事における「朝倉義景(あさくら よしかげ)」の解説
通称は左衛門督、左京太夫とも。名門・朝倉家当主。英林孝景以来の繁栄を守ってはいるが、幼くして家督を継いだために戦国の倣いになじまず、一乗谷に引き籠って女色に溺れていた。自身は一乗谷から動かず名代として朝倉景健を派遣するに留まり、台頭する織田信長に対して警戒心が薄く、信長を討てる絶好の機会を幾度となく逃すなど暗君としての面が強く、織田包囲網参加勢力にも半ば呆れられていた(武田軍の山県らからは「馬鹿で阿呆でさらに間抜け」と言われる始末だった)。しかし体勢を立て直した織田家の脅威を前に内憂外患に気付き、当主としての自覚を持ち始める。以後は主戦派の鳥居景近を抜擢して信長と対決姿勢を表明するが、朝倉景鏡ら対立派閥に足を取られ、結局信長と対決する事はなかった。間もなく織田軍の一乗谷侵攻を受けて敗戦し、景鏡を頼るものの裏切られ、最期は景鏡に一乗谷を託して自害した。
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朝倉義景
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※この「朝倉義景」の解説は、「戦国無双シリーズ」の解説の一部です。
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