朝倉義景とは? わかりやすく解説

あさくら‐よしかげ【朝倉義景】

読み方:あさくらよしかげ

[1533〜1573]戦国時代の武将元亀元年(1570)浅井氏とともに近江(おうみ)姉川織田信長戦って敗れ、のち、居城一乗谷自刃


朝倉義景(あさくら よしかげ) 1533~1573

長夜叉丸 孫次郎 延景 左衛門督
◇父:朝倉孝景 室:細川晴元女、義種女、近衛前久妹、鞍谷刑部大夫嗣知女、斎藤兵部女 子朝倉阿君丸、愛王丸
 越前・朝倉氏最期当主溺愛する息子失い国政対す気力無くしていき、一方で学問芸能深くのめり込んでいった。都を追われ将軍足利義昭頼って来た際、上洛促されるがこの機会を活かさず、義昭に見限られる。その義昭奉じて上洛した尾張織田氏攻められるが、盟友北近江浅井氏来援助けられ危機逃れた。しかし、その後も自ら積極的に出ることはあまりなく、浅井氏要請対し家臣に軍を率いらせるのみで、士気は振るわなかった。その為、織田方との決戦である姉川の合戦においては、数に劣る三河徳川軍相手敗走してしまう。最期一族景鏡、重臣魚住景固らに迫られ自害し果てた

朝倉義景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 21:59 UTC 版)

朝倉 義景(あさくら よしかげ) は、戦国時代武将越前国戦国大名。越前朝倉氏最後(11代)の当主。


注釈

  1. ^ 『若州武田之系図』『武田系図』では若狭武田家の出身として記されているのは確かだが、父に関しては異なっている[3]
  2. ^ これは永禄11年(1568年)8月まで続いた。
  3. ^ この越前出兵は本来、足利義昭の意向を受けた若狭侵攻であったとする説[24]もあるが、この説を採ったとしても義昭の意図は若狭武田氏の再興にあったと考えられるため、義景が若狭から撤退しない以上、朝倉討伐に発展するものであったと言える。
  4. ^ 言継卿記』では越前衆5000余が討死して大敗としている[27]
  5. ^ この勅命講和は朝倉方を対象とせず、延暦寺だけに限定されていたとする指摘もある[30]
  6. ^ 『越州軍記』では「先ず、式部大輔景鏡、出陣あるべきの旨、義景宣いける処に、所労もってのほかなる由にて立たず。魚住備後守は、江州丁野の城の番手にありけるの条、人馬をくつろぐべしとて、是も立たず」とある[35]
  7. ^ このときの朝倉軍の潰走ぶりを
    「義景立出馬ニ乗玉ヘバ、右往左往ニサワギ、下人ハ主ヲ捨テ、子ハ親ヲ捨テ、我先我先トゾ退ニケル。此間雨降タル道ナレバ、坂ハ足モタマラズ、谷ハ泥ニテ冑ノ毛モ不見。泥ニ塗レテ足萎へ友具足ニ貫テ、蜘蛛ノ子ヲ散ガ如クシテ、其路五六里ガ間ニ、馬物具ヲ捨タル事足ノ踏所モナカリケリ。軍ノ習勝ニ乗時ハ鼠も虎トナリ、利ヲ失フ時ハ虎モ鼠トナル物ナレバ、草木ノ陰モヲソロシクシテ、シドロモドロニ退キケリ」
    と越州軍記にはある。
  8. ^ 「山の険阻を云ず馳重りける間、朝倉軍は或は谷へ堰落とされ、或は高岸より馬を馳倒して、其侭討たるる者もあり、唯馬具を抜捨て、逃伸とする者はあれども、返合戦はんとする者はなかりけり」(越州軍記)というような悲惨な状況だったと言われている。
  9. ^ 『越州軍記』には、この時の状況が、
    「義景15日に館へ入せ玉へば、昔の帰陣に引替、殿中粧条寂莫として、紅顔花の如くなりし上籠達も、一朝の嵐に誘はるる心地、涙に袖をしぼり、夜の殿に入せ玉ひても、外の居もなし。寝頭に星を烈し武士老臣も、満天の雲に覆われて、参する人独もなかりければ、世上の事何とか成ぬらんと、尋聞かるべき便もなし」
    とある。
  10. ^ ただし、これは三河物語のみの記述であり、肝心の朝倉側の資料にはこのような記述はない。

出典

  1. ^ 朝倉義景』 - コトバンク
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 23頁。
  3. ^ 水藤 1986, pp. 47–48.
  4. ^ 水藤 1986, p. 48.
  5. ^ a b c 水藤 1986, p. 49.
  6. ^ 水藤 1986, p. 50.
  7. ^ 水藤 1986, p. 53.
  8. ^ 宮永一美 著「戦国武将の養鷹と鷹書の伝授―越前朝倉氏を中心に―」、二木謙一 編『戦国織豊期の社会と儀礼』吉川弘文館、2006年。 
  9. ^ 水藤 1986, p. 225.
  10. ^ 水藤 1986, pp. 63–64.
  11. ^ 水藤 1986, p. 67.
  12. ^ 水藤 1986, p. 68.
  13. ^ a b 水藤 1986, p. 70.
  14. ^ 渡辺世祐「上洛前の足利義昭と織田信長」『史学雑誌』29巻2号、1918年。 /所収:久野雅司編著『シリーズ・室町幕府の研究 第二巻 足利義昭』戒光祥出版、2015年。ISBN 978-4-86403-162-2 
  15. ^ 水藤 1986, pp. 71–72.
  16. ^ 水藤 1986, pp. 73–74.
  17. ^ a b 水藤 1986, p. 74.
  18. ^ a b c 水藤 1986, p. 76.
  19. ^ 水藤 1986, p. 77.
  20. ^ 水藤 1986, p. 79.
  21. ^ 水藤 1986, p. 80.
  22. ^ 水藤 1986, p. 86.
  23. ^ 水藤 1986, pp. 86–87.
  24. ^ 久野雅司「織田信長と足利義昭の軍事的関係について」『白山史学』第53号、2017年。 /所収:久野雅司『織田信長政権の権力構造』戎光祥出版、2019年、137-140頁。ISBN 978-4-86403-326-8 
  25. ^ 水藤 1986, p. 88.
  26. ^ 水藤 1986, p. 89.
  27. ^ 水藤 1986, p. 96.
  28. ^ 水藤 1986, p. 98.
  29. ^ 水藤 1986, p. 100.
  30. ^ 桐野作人「志賀の陣 和睦の真相」『歴史読本』56巻7号、2011年。 
  31. ^ a b 水藤 1986, p. 104.
  32. ^ 水藤 1986, p. 112.
  33. ^ 水藤 1986, p. 113.
  34. ^ 水藤 1986, p. 116.
  35. ^ 水藤 1986, p. 117.
  36. ^ 水藤 1986, p. 119.
  37. ^ a b 水藤 1986, p. 120.
  38. ^ 桑田 1958, p. 25.
  39. ^ 宮本 2010, pp. 61–62.
  40. ^ 『完訳フロイス日本史3』54章(本来の第2部32章)
  41. ^ 水藤 1986, pp. 66–67.
  42. ^ 水藤 1986, p. 175.
  43. ^ 天野忠幸「等閑視されてきた信長以前の機内近国」『本郷』150号、吉川弘文館、2020年。 
  44. ^ 水藤 1986, pp. 170–173.
  45. ^ 水藤 1986, pp. 89–90.
  46. ^ 水藤 1986, pp. 98–101.


「朝倉義景」の続きの解説一覧

朝倉義景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 00:33 UTC 版)

SENGOKU」の記事における「朝倉義景」の解説

越前戦国大名長政盟友作戦能力天才的だが、むらっけ極度に強く降っただけで勝機放り出して撤退したりする。この「天才肌の超気まぐれ男」という義景像はおそらく本作オリジナルで、多く歴史小説がうまく説明しきれていない史実での彼の奇妙な動きをあっさり納得させてしまう。

※この「朝倉義景」の解説は、「SENGOKU」の解説の一部です。
「朝倉義景」を含む「SENGOKU」の記事については、「SENGOKU」の概要を参照ください。


朝倉義景(あさくら よしかげ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/27 23:43 UTC 版)

秀吉でごザル!!」の記事における「朝倉義景(あさくら よしかげ)」の解説

越前武将領土経営はかなり上手く信長侵攻まで越前乱世とは思えないほど平和なであった。やがて、近江を狙う信長と戦うため、浅井長政と共に信長破滅させよう企てる。憑き鬼神目・口・手の生えた刀型憑き鬼神であり普段は普通の刀として間柄の腰に刺さっている。

※この「朝倉義景(あさくら よしかげ)」の解説は、「秀吉でごザル!!」の解説の一部です。
「朝倉義景(あさくら よしかげ)」を含む「秀吉でごザル!!」の記事については、「秀吉でごザル!!」の概要を参照ください。


朝倉義景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 03:06 UTC 版)

信長 (漫画)」の記事における「朝倉義景」の解説

朝倉家当主織田軍の一乗谷侵攻に際には、秀吉調略によって多く家臣内応敗戦してしまう。一乗谷から落ち延びた後、一族の景鏡を頼って最後一戦及ぼうとするものの景鏡にも裏切られ手勢包囲されてしまう。最後自分命運悟り立ったまま自刃した。

※この「朝倉義景」の解説は、「信長 (漫画)」の解説の一部です。
「朝倉義景」を含む「信長 (漫画)」の記事については、「信長 (漫画)」の概要を参照ください。


朝倉義景(声:森岳志)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 23:13 UTC 版)

決戦III」の記事における「朝倉義景(声:森岳志)」の解説

越前戦国大名将軍義昭の上要請により軍を出し長政と共に信長敵対する名門意識が強いものの、戦はあまり得意ではない。

※この「朝倉義景(声:森岳志)」の解説は、「決戦III」の解説の一部です。
「朝倉義景(声:森岳志)」を含む「決戦III」の記事については、「決戦III」の概要を参照ください。


朝倉義景(あさくら よしかげ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)

センゴク」の記事における「朝倉義景(あさくら よしかげ)」の解説

通称左衛門督左京太夫とも。名門朝倉家当主。英孝景以来繁栄守ってはいるが、幼くして家督継いだために戦国倣いになじまず、一乗谷引き籠って女色溺れていた。自身一乗谷から動かず名代として朝倉景健派遣する留まり台頭する織田信長に対して警戒心薄く信長討て絶好機会幾度となく逃すなど暗君としての面が強く織田包囲網参加勢力にも半ば呆れられていた(武田軍山県らからは「馬鹿で阿呆でさらに間抜けと言われる始末だった)。しかし体勢立て直した織田家脅威前に内憂外患気付き当主としての自覚持ち始める。以後主戦派の鳥居景近抜擢して信長対決姿勢表明するが、朝倉景鏡対立派閥に足を取られ結局信長対決する事はなかった。間もなく織田軍の一乗谷侵攻受けて敗戦し、景鏡を頼るものの裏切られ最期は景鏡に一乗谷託して自害した

※この「朝倉義景(あさくら よしかげ)」の解説は、「センゴク」の解説の一部です。
「朝倉義景(あさくら よしかげ)」を含む「センゴク」の記事については、「センゴク」の概要を参照ください。


朝倉義景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 21:07 UTC 版)

戦国無双シリーズ」の記事における「朝倉義景」の解説

浅井長政コレクション武将一人

※この「朝倉義景」の解説は、「戦国無双シリーズ」の解説の一部です。
「朝倉義景」を含む「戦国無双シリーズ」の記事については、「戦国無双シリーズ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「朝倉義景」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



朝倉義景と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「朝倉義景」の関連用語


2
朝倉 デジタル大辞泉
96% |||||


4
姉川の戦い デジタル大辞泉
74% |||||


6
74% |||||

7
70% |||||

8
70% |||||



朝倉義景のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



朝倉義景のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
戦国武将覚書戦国武将覚書
Copyright (C) 2024 戦国武将覚書 All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの朝倉義景 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、WikipediaのSENGOKU (改訂履歴)、秀吉でごザル!! (改訂履歴)、信長 (漫画) (改訂履歴)、決戦III (改訂履歴)、センゴク (改訂履歴)、戦国無双シリーズ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS