朝倉景鏡(あさくら かげあきら) ????~1574
朝倉景鏡
朝倉景鏡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 03:06 UTC 版)
義景の従兄弟で、朝倉家筆頭家老。義景に見切りをつけて織田家に内応し、義景を自害に追い込んだ。その後義景の首級を持参して織田氏重臣への参入を請うも、信長には本領の大野一郡のみの安堵しか聞き入れられず、さらに織田重臣達から冷たい視線を浴びせられた。後に越前一向一揆にて戦死している。
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朝倉景鏡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 17:58 UTC 版)
義景のいとこ。髪型や服装は義景に似ているが、色黒であり、彼に比べ目鼻立ちがくっきりしている。朝倉家のため、主君である義景に強く迫ることも辞さないが、それは元気な時の話である。
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朝倉景鏡(あさくら かげあきら)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)
「センゴク」の記事における「朝倉景鏡(あさくら かげあきら)」の解説
通称は式部大輔、後に織田信長の偏諱を受けて土橋信鏡と改名する。義景の従兄弟で朝倉家筆頭家老。家中の派閥争いでは守旧派に属し、自らの矜持も高く、領内の窮状を伝えなかったりと義景から当主の座を奪うべく暗躍する。内憂外患が頂点に達した際に家中を調略して朝倉家当主となろうと画策するも、鳥居景近の尽力で叶わなかった。その後は出陣を拒否したばかりか山崎吉家を扇動して信長との対決をも妨害し、「刀根坂の戦い」で朝倉家の命運が決すると、秀吉を仲介にいち早く織田家に寝返る。そして景鏡を頼って逃亡してきた義景を自害に追い込み、臆面もなく義景の首を持参して織田軍の陣中に現れた際には諸将から「とんだ不忠者」と白眼視されていた。その後は朝倉旧領に配されるも、義景の娘の意を受けた本願寺によって扇動された一向一揆により討死した。
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