朝倉氏
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朝倉氏(あさくらし)は、但馬国を発祥とする氏族。越前国を拠点とし、後に発展して戦国大名となった越前朝倉氏が有名。藤原氏流等の朝倉氏もあるとされるが、別項にて扱う。
- ^ 『越州軍記』
- ^ 『朝倉始末記』
- ^ 河村昭一「南北朝期における守護権力構造」(初出:『若越郷土研究』23巻2~4号(1978年)/木下聡 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-146-2)
- ^ 『大乗院寺社雑事記』文明15年(1483年)4月30日条「越前国守護代朝倉」
- ^ a b c d 今岡典和「戦国期の守護権をめぐって:越前朝倉氏の場合」『関西福祉大学社会福祉学部研究紀要』第12号、関西福祉大学社会福祉学部研究会、2009年3月、55-60頁、CRID 1050282812568651520、ISSN 1883566X、NAID 40016560024。
- ^ 松原信之:越前朝倉氏の実像に迫る◇著者・成立年代未詳の軍記物「朝倉始末記」を読み直す◇『日本経済新聞』朝刊 2017年9月26日(文化面)
- ^ 松原信之『越前 朝倉一族』(新装)(新人物往来社、2006年)
- ^ 明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年)333頁参照。
- ^ 明田鉄男前掲書(新人物往来社、1986年)343頁参照。
朝倉家(越前)
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朝倉義景(あさくら よしかげ) 演:ユースケ・サンタマリア 朝倉家当主。越前守護。 越前に落ち延びてきた光秀たち明智家一門を受け入れる。資金援助を断った光秀に対して必ずしも良い感情を抱いてはいないが、資質と利用価値は認めており、義輝の上京要請や義昭の将軍としての資質を見定める際の使者として指名している。 基本的には、争いごとなど面倒には巻き込まれたくないと考えている。また、貴族趣味な暮らしぶりを好み、伊呂波太夫からは和歌を詠んでいるのがお似合いと評されている。 義輝の後継争いへの介入には当初消極的であったが、光秀の意見を容れて義昭一行を越前に迎え入れ、元服にあたっては烏帽子親を務め、最終的に義昭を擁して上洛する意志を固める。しかし、朝倉景鏡をはじめとして家中の意見をまとめることができずにいる間に、義昭一行に信長を頼みとする選択をされてしまう。面目を潰されたと妨害にでるも、溺愛していた阿君丸が毒殺され、抜け殻のような状態に陥る。 義昭擁立後には、見下していた信長に従うことを良しとせず、反信長勢力として戦うこととなる。しかし徐々に劣勢となり、一乗谷城の戦いで景鏡の裏切りにより命を落とす。 山崎吉家(やまざき よしいえ) 演:榎木孝明 朝倉家家老。 義昭を擁して上洛する義景の意思には表面上は従っているが、本心は反対であり、藤英からの「知恵を出し合う」提言に与する。義昭上洛後の信長との戦いでは、比叡山で光秀と義景を引き合わせるなど、和平の道を目指す一方で信長の精鋭軍と幾度も激戦を繰り広げるが、天正元年(1573年)に織田軍との戦い(刀根坂の戦い)で討死する。 朝倉景鏡(あさくら かげあきら) 演:手塚とおる 義景のいとこ。朝倉家一門衆。 義昭を擁しての上洛には強く反対しており、藤英からの「知恵を出し合う」提言に与する。信長が一乗谷に攻め込み朝倉家が風前の灯になった際、織田軍に内応して義景を自害に追い込む。 阿君丸(くまきみまる) 演:森優理斗 朝倉義景の嫡男。義景から溺愛されている。忠太郎という名の鼠を飼う。 義景が義昭を擁して上洛する意志を固めた矢先、幼くして毒殺されてしまう。 小宰相(こざいしょう) 演:原田佳奈 義景の妻。阿君丸の母。 宇野市兵 演:剣持直明 朝倉家家臣。 光秀と義景の間を取り持つが頼りない。
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