朝倉氏 子孫

朝倉氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/25 16:37 UTC 版)

子孫

小田原の後北条氏家臣、または伊勢や遠江にも"朝倉氏"がおり、越前朝倉氏との系図上の関係は資料に乏しい。小田原の朝倉氏は越前との関連がある、と伝わり、遠江に関しては旧主である斯波氏が守護を務めていたこともあり、ライバルであった甲斐氏同様に、同国にも一族が分かれている可能性はある。伊勢の朝倉氏も早期の分家と伝わり、家紋の同一性も見ることができる。ともあれ、広義の"朝倉一族"ではなく"戦国大名越前朝倉氏"の子孫伝承を考える場合には、これらの朝倉氏との誤認・自称などが考えられることに留意したい。

  • 越前朝倉氏滅亡後、越後国朝倉愛王丸が落ち延びたという伝承が、また、出羽などにも子孫伝承が残るが、真偽は不明。
  • 日本海側各所に一向宗と結びついた「朝倉末裔伝説」がパターン流布している。
  • 渥美半島にも末裔伝説が残る。伊勢から渡ったとされている。
  • 越後国の上杉謙信を頼り、朝倉家再興を果たそうとした朝倉景嘉がいるが、謙信の死により頓挫した。以降の動向は不明。
  • 備後にいた足利義昭(実質的には毛利氏)を頼り朝倉家を再興しようと奔走した朝倉宮増丸、及び家督後継者と擬せられていた朝倉景忠がいるが、毛利氏と織田氏織田信長)の中国戦線の激化などの影響により、不成功に終わった。以降の動向は不明。
  • 江戸時代初期に、朝倉義景の子と伝わる信景が、江戸に本願寺派の一寺「朝倉山一乗院遍立寺」を開き、住職として生涯を全うしている。系図上は不明だが、朝倉氏の縁戚の本願寺と縁を持ち、江戸幕府の足元にて実在したらしい人物である。
  • 英林孝景の次男・秀景の孫と称する朝倉政元は、後北条氏、豊臣秀次徳川家康徳川頼宣徳川頼房と仕えた。政元の子・政明は徳川秀忠に仕え、500旗本として存続した。
  • 徳川家康家臣 → 家光弟で駿府藩徳川忠長附家老 → 同家改易後、古河藩土井氏預かり → 同藩家臣、と続いた朝倉氏(朝倉宣正系)がいる。朝倉景鏡の甥とされるが、父親の動向等に不明な点が多く、越前朝倉氏との関連は確定ではない(北条家臣、もしくは伊勢、遠江の朝倉氏等の系統か? 今川氏との関連など、朝倉在重の項目参照。)。
  • 幕末の小幡藩(現在の群馬県甘楽郡甘楽町小幡)の藩士に、朝倉良則なる人物がいた。家紋は三盛木瓜。家禄は50石。越前朝倉氏との関連は不明。しかし、群馬県富岡市龍光寺にある墓にははっきりと三盛木瓜の家紋と小幡藩士族であった旨記載あり。家紋と名字の共通点から、祖先において何らかの関連があると思われる。小幡藩士朝倉氏の子孫には、日本泌尿器学会初代会長の朝倉文三(朝倉良則の次男)などがいる。その他小幡藩士朝倉良則の子孫は現在も群馬県内に居住しており、現在も三盛木瓜を家紋として用いている。小幡藩士朝倉良則については『群馬県史』(資料編9)所収の小幡藩「藩中分限帳」や朝倉文三関係の資料に記載あり。
  • 江戸時代初期に武蔵国稲城の長沼村と大丸村を領した旗本に朝倉豊明がいるが、越前朝倉との関連など、どの系統に属するのかは不明。
  • 土佐国に早期に分かれた分家(朝倉友景系)と称する朝倉氏が残る。
  • 早期に朝倉氏から分かれたと考えられている溝江氏は、越前朝倉氏滅亡後に織田信長に従うが、一向一揆に敗北して一族の多くが自害し、没落する。後に溝江長氏豊臣秀吉に馬廻として仕え、のち1万石で旧領復帰したが、子の溝江長晴関ヶ原の戦いで西軍に所属したため改易され、浪人を経て井伊直孝の家臣となる。子孫は彦根藩士として続いた。
  • 会津藩士(江戸時代後期~幕末)にも「朝倉興八郎日下部存恒(ありつね)」なる朝倉義景時代からの分家系統がある。
  • 水戸藩には、朝倉時景 - 之景系と称する後北条氏家臣の朝倉氏が藩士として存続した。子孫の伝承によれば、備前国に移住した系統と、水戸藩士になった系統がある、と伝わり、幕末水戸藩の天狗党の乱に参加した朝倉源太郎(朝倉景行)は同系統の子孫と称する[8]。 また、源太郎の弟の朝倉三四郎(景敏)は元治元年(1864年江戸から松平頼徳に随い、各地を転戦。西上軍にも加わり、慶応元年(1865年2月23日、越前敦賀にて斬首となった。享年19。従五位贈位され靖国神社に合祀された[9]
  • 薩摩藩にも朝倉氏がいる。系統は不明だが、御側用人を務めた「朝倉孫十郎矩」の名乗りなど、越前朝倉氏との関係も考えられる。徳川13代将軍御台所天璋院に仕えた老女幾島はこの家の出身と考えられる。「朝倉孫十郎」は朝倉貞景の子の朝倉景延の名乗りでもあり、「孫(数字)郎」は越前朝倉氏の名乗りとして例が多い。
  • 岐阜県中津川市にある真宗大谷派西生寺は、越前朝倉氏一門の「朝倉周興」が開基した寺院で、一乗谷の草庵を去り飛驒高山中山道美濃街道を経て中津川宿に入ったとされる。

  1. ^ 『越州軍記』
  2. ^ 『朝倉始末記』
  3. ^ 河村昭一「南北朝期における守護権力構造」(初出:『若越郷土研究』23巻2~4号(1978年)/木下聡 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』(戒光祥出版2015年ISBN 978-4-86403-146-2
  4. ^ 大乗院寺社雑事記』文明15年(1483年)4月30日条「越前国守護代朝倉」
  5. ^ a b c d 今岡典和「戦国期の守護権をめぐって:越前朝倉氏の場合」『関西福祉大学社会福祉学部研究紀要』第12号、関西福祉大学社会福祉学部研究会、2009年3月、55-60頁、CRID 1050282812568651520ISSN 1883566XNAID 40016560024 
  6. ^ 松原信之:越前朝倉氏の実像に迫る◇著者・成立年代未詳の軍記物「朝倉始末記」を読み直す◇『日本経済新聞』朝刊 2017年9月26日(文化面)
  7. ^ 松原信之『越前 朝倉一族』(新装)(新人物往来社、2006年)
  8. ^ 明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社1986年)333頁参照。
  9. ^ 明田鉄男前掲書(新人物往来社1986年)343頁参照。


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