朝倉氏景 (3代当主)とは? わかりやすく解説

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朝倉氏景 (3代当主)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/01 05:13 UTC 版)

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朝倉氏景
時代 南北朝時代 - 室町時代前期
生誕 暦応2年/延元4年(1339年
死没 応永11年12月28日1405年1月28日
改名 孫次郎(幼名)→氏景
別名 孫右衛門
戒名 大功宗勲・勝勲
官位 美作
幕府 室町幕府
氏族 朝倉氏
父母 父:朝倉高景
兄弟 氏景、阿波賀茂景、向久景、三段崎弼景
貞景、東郷正景、中島景康
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朝倉 氏景(あさくら うじかげ)は、南北朝時代の武将。朝倉氏の第3代当主。第2代当主・朝倉高景の子。

生涯

父・高景と同じく、文和4年(1355年)2月15日の京都の合戦において[1]、貞宗(相州貞宗か)の名刀で奮戦し、足利尊氏から偏を賜り、氏景と称するようになったとされるが、この時朝倉氏は南朝側に属して尊氏と敵対していたため、尊氏が氏景に偏諱を与えたという話は怪しい[2]

その後、貞治の変で主君・斯波高経が室町幕府から討伐の対象とされると、父・高景が幕府側に通じて所領を安堵され、一時期斯波氏を離れている。康暦年間に斯波氏が越前守護に復帰すると、斯波氏の家臣に復帰した[3]

その後、摂津の合戦でも戦功を挙げ、足利義満から「大功」の法名を賜ったとされる(『朝倉始末記』末巻「日下部系図」より)。

しかしその後、朝倉氏は幕府や主筋たる斯波氏から冷遇されるようになり、明徳年間の斯波氏重臣を記した「相国寺供養記」に氏景など朝倉氏の名前は記載されていない。

応永8年(1401年)、弘祥寺に仏殿を建立し、一乗谷に熊野権現を勧請した。これが朝倉家の一乗谷と関係する最初の事例である[1]

応永11年(1404年)に死去、享年66。家督は子の貞景(大心宗忠)が継いだ。

脚注

  1. ^ a b 水藤真 『朝倉義景』 吉川弘文館人物叢書〉、1981年、3頁。ISBN 9784642050609 
  2. ^ 主君足利高経の嫡子斯波氏頼からの偏諱(但し氏頼自身は、尊氏と敵対する以前にその偏諱を受けている可能性がある)とも考えられる。
  3. ^ 河村昭一「南北朝期における守護権力構造」『若越郷土研究』23巻2-4号、1978年。/所収:木下聡 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』 戒光祥出版、2015年。ISBN 978-4-86403-146-2



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