天守
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/29 01:20 UTC 版)
天守(てんしゅ)とは、日本の戦国時代以降の城に建てられた象徴的な建造物の名称[1]。日本の建築学の学術用語である。俗語は天守閣(てんしゅかく)。ヨーロッパの城の象徴的建築である「keep tower」の日本語訳として使われることもある。
注釈
出典
- ^ 西ヶ谷恭弘監修、枻出版社編『再入門 オトナのための城』(別冊Discovery Japan)枻出版社、2015年、ISBN 978-4-7779-3660-1
- ^ お城からの手紙vol.29
- ^ a b c d 三浦正幸『城のつくり方図典』小学館、 2005年、ISBN 4-09-626091-6
- ^ 内藤昌編著『城の日本史』講談社、 2011年
- ^ a b 城戸久『城と民家』毎日新聞社、1972年
- ^ 田中義成「天守閣考」『史学会雑誌』新年号、1890年
- ^ 宮上茂隆『復元模型 安土城』草思社、 1995年、 ISBN 4-7942-0634-8
- ^ a b c d e f g h i j k l m 服部英雄. “名古屋城天守考・天守はなぜ高いのか”. 名古屋市. 2021年4月10日閲覧。
- ^ a b c d e 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社, 1996年,ISBN 4-05-500160-6
- ^ 内藤昌『復元安土城』講談社、 2006年
- ^ NHKスペシャル「安土城」プロジェクト 『信長の夢「安土城」発掘』
- ^ 西ヶ谷恭弘『定本 日本城郭事典』
- ^ 西ヶ谷恭弘監修『日本の城』世界文化社、1997年
- ^ a b c 三浦正幸監修『【決定版】図解・天守のすべて』学習研究社、2007年、ISBN 978-4-05-604634-2
- ^ 天文12年(1543年)に記された『細川両家記』の永正18年(1521年)2月17日の条
- ^ 木戸雅寿「城から見た 秀吉の遠方支配」石井正明ほか執筆『秀吉の城と戦略』成美堂、1998年
- ^ 加藤理文編『城の見方・歩き方』新人物往来社、 2002年、 ISBN 4-404-03003-7
- ^ 全国城郭管理者協議会編『城のしおり』全国城郭管理者協議会 2005年
- ^ 坂井秀弥・本中眞 編『野外復元 日本の歴史』新人物往来社、1998年
- ^ a b 学習研究社編『歴史群像シリーズ よみがえる 日本の城 30』学習研究社、 2006年
- ^ 掛川市商工観光課発行「掛川城パンフレット」
- ^ “台風で落城した、小阪城が復活!NHK「修繕屋」の手でよみがえる”. 週刊ひがしおおさか (2019年1月6日). 2023年9月29日閲覧。
- ^ “「尾道城」の解体検討 市、観光施設整備へ”. 中国新聞アルファ. (2018年2月17日). オリジナルの2018年2月18日時点におけるアーカイブ。 2020年5月15日閲覧。
- ^ a b c “「尾道城」の解体 年内にも着手”. 中国新聞デジタル (2019年11月22日). 2019年12月18日閲覧。
- ^ [国道221号沿い、こんな所になぜ城が…出身男性が半世紀かけた夢 “国道221号沿い、こんな所になぜ城が…出身男性が半世紀かけた夢”]. 讀賣新聞. (2022年4月7日)2023年3月5日閲覧。
- ^ 地域交流センター 施設概要2018年、常総市
- ^ 茶色一面、必死の救助作業=屋上やベランダ、助け待つ姿-濁流のみ込まれた常総上空2015年9月10日 時事通信 Amebaニュース
- ^ 公益法人等の詳細 法人コード:A024887 法人の名称:一般財団法人佐和山三成会 法人番号(JCN)9160005004889 「事業の概要(3)佐和山遊園(工作物の展示施設)の管理、運営に関する活動」とある。公益法人データベース 総務省
- ^ “痕跡一掃、居城「見せしめ」破壊…発掘で裏付け”. 毎日新聞. (2016年3月25日) 2017年7月4日閲覧。
- ^ 石田三成の佐和山城、徳川に破壊尽くされていた 彦根市教委調査で明らかに、産経WEST、2016年3月26日
- ^ しろうや!広島城 第15号 - 広島城
天守(三重櫓)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/03 05:23 UTC 版)
本丸の北西隅に置かれた独立式望楼型三重櫓。天守台は最初から造営されることはなく、本丸に礎石を置いて天守が建てられた。天守の高さ約14メートルで鯱の大きさは約1.4メートルであった。
※この「天守(三重櫓)」の解説は、「浜田城」の解説の一部です。
「天守(三重櫓)」を含む「浜田城」の記事については、「浜田城」の概要を参照ください。
天守(初代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 10:27 UTC 版)
最初の天守は、鷹岡藩2代藩主の津軽信枚により1609年(慶長14年)頃に本丸南西隅に建てられた5重の建物である。内部6階と推定される建築は東北地方では若松城天守に次ぐものであった。しかし1627年(寛永4年)9月の落雷で出火し、天守内部に収納されていた火薬に引火して(4重目に吊るされていた釣鐘が落下して下層に収納してあった火薬に引火したとも)大爆発を起こして本丸御殿や諸櫓とともに焼失した。天守は再建されることなく、今でも天守台を支えていた石垣は本丸南西隅に聳えている。 なおこの天守火災は当時、藩主・信枚の伯母(初代津軽為信の正室・阿保良の姉)の祟りだと信じられていた。伯母は為信のために、横内城城主で南部氏一族の夫・堤弾正左衛門から離縁され失意の内に病没しており、城はそれから30年ほども経ってから完成しているのだが時折、伯母の怨霊が城内に現れていたという。
※この「天守(初代)」の解説は、「弘前城」の解説の一部です。
「天守(初代)」を含む「弘前城」の記事については、「弘前城」の概要を参照ください。
天守(御三階櫓)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 10:27 UTC 版)
本丸唯一の現存建築である天守は層塔型3重3階の建物である。現在は独立式であるが、往時は北側に多聞櫓を付属させた複合式であった。この多聞櫓は明治29年(1896年)ごろまでに破却されている。天守の高さは約14.4メートルあり、現存する三重天守の中で最も低い。 1627年(寛永4年)大爆発して焼失した5重天守の代用として、またロシア船の津軽海峡往来などの事態により幕府の許しを得て、本丸南東隅の辰巳櫓の改修を名目として建てられた。1810年(文化7年)着工、1811年(文化8年)に竣工した。往時は幕府への配慮から天守とは見なさず、櫓(御三階櫓)として扱われていたが、「事実上の天守」としての役割を持ち現在は書籍などの多くで天守として扱われている。昭和20年(1945年)の空襲で水戸城天守が、昭和24年(1949年)に松前城天守が焼失したため、関東以東で唯一の、そして最も北に位置する現存天守である。 外壁は白漆喰塗籠で、窓と狭間の上下に長押形を施し、また屋根瓦には寒冷地のため銅瓦を葺いている。外側に面する東面と南面は1層目と2層目に大きな切妻出窓を設け、窓には狭間窓を用いるなど小さな建物を華美で大きく見せる視覚効果が施される。一方で、内側である西面と北面には破風を全く付けずに連子窓を単調に並べただけである。いわゆる「二方正面」である。内部も通常の天守建築では最高級の木材や技術が用いられるが、弘前城の場合は普通の櫓と同等の木材が用いられ、構造的にも簡素であり、床も全て敷居を設けず畳を敷くことが想定されていないなど、当初から倉庫として利用されることを見込んだ構造となっている。。 平成の天守石垣の修理において明治・大正時代の壺の発見や天守台石垣の四隅からイカの形をした石垣が発掘された。イカの形をした石は市が「いかすみ石」と名付けた。
※この「天守(御三階櫓)」の解説は、「弘前城」の解説の一部です。
「天守(御三階櫓)」を含む「弘前城」の記事については、「弘前城」の概要を参照ください。
「天守」の例文・使い方・用例・文例
天守と同じ種類の言葉
- >> 「天守」を含む用語の索引
- 天守のページへのリンク