藩史とは? わかりやすく解説

藩史

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岩富藩」の記事における「藩史」の解説

[全画面表示] 関連地図千葉県中部岩富は元は「弥富」と呼ばれ千葉氏家老原氏一族だった弥富原氏居城だった。原氏本拠地生実城小弓城)に置き、後に里見氏圧迫により臼井城移ったが、その後生実城は対里見氏戦の前線基地だった。岩富生実臼井のほぼ中間位置したため、中継基地として重要な存在だった。 「地黄八幡」として有名な勇将北条綱成の孫・北条氏勝は、天正18年1590年)の小田原征伐の際に玉縄城善戦したが、本多忠勝榊原康政説得受けて徳川家康降伏し、やがてその家臣となった。この氏勝が小田原征伐後、原氏替わって下総国岩富1万石を与えられ岩富藩立藩した。氏勝は慶長5年1600年)の関ヶ原の戦い尾張国犬山城守備する功を挙げた慶長16年1611年3月に氏勝は死去し、跡を養嗣子保科正直の四男)の北条氏重継いだ。氏重は慶長18年冬、下野富田藩移封となったため、岩富藩廃藩となった

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谷田部藩」の記事における「藩史」の解説

藩祖は、細川幽斎次男興元である。慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いの後、兄・忠興不仲になって出奔する慶長15年1610年7月27日将軍徳川秀忠より下野国芳賀郡茂木1万石を与えられ諸侯列した茂木藩立藩)。真偽のほど定かでないが、幕府当初豊後国鶴崎10万石を検討したものの、忠興の「興元10万石の器にあらず」との反対によってわずか1万石に留まったため、細川宗家不仲になったと伝えられているが、第2代藩主興昌の代には、熊本藩主息子鷹狩りの際に谷田部訪れて歓待されている。 その後興元大坂の陣における戦功により、元和2年1616年6月26日常陸国筑波郡河内郡6200石を加増され、陣屋谷田部移した土地痩せて凶作多かったため財政難慢性化し、頻繁に援助した熊本藩では貸金返ってこないものと諦めていた。 なお、藩庁茂木から谷田部移転して以降茂木陣屋温存され、藩主および藩主一族住することもあり、『寛政重修諸家譜』の7代藩主興徳記載に「茂木あるいは谷田部住し」とあり、廃嫡となった興誠も茂木にて死去したとある。天保11年1840年)の藩士は、江戸屋敷58名、茂木陣屋47名、谷田部陣屋43名の計148名。この他奥女中足軽門番人その他となっている。 第3藩主興隆の代である万治3年1660年)、検地が行なわれて藩政基礎固められたが、享保年間から、大風による洪水飢饉旱魃熱病天災による凶作続き、さらに江戸藩邸焼失したこともあって財政急速に悪化する天保5年1834年)の負債額は、127000両、米2600俵という巨額のぼっている。生産量激減し享保8年には1万3000人を超えた人口も、天保6年1835年)には6702人と半減し耕地の4割が荒地化した。 第4代藩主の興栄は相続者が決まらず、遠縁公家姉小路家から興誠を婿養子迎えた大名家養子が入ることはよくあることだが、公家から養子迎える例はほとんど無く貴重な例である。 文化5年1808年)、文化6年1809年)、天保4年1833年)、天保7年1836年)には年貢減免求め百姓一揆勃発している。このような財政の悪化対し第7代藩主興徳二宮尊徳報徳仕法手本とし、藩医中村勧農衛(なかむら かのえ)を登用して財政再建とする藩政改革行なった。しかし、藩内部仕法反対求め保守派動きや、興徳がわずか3年後死去した上に晩年冷害見舞われたこともあり、凶作米価上昇改革挫折する。それでも家老就任した中村による耕地回復活動実を結び耕地面積回復した借金豪商釜屋七兵衛からの借金2000両を棒引きにするなどの強引な手段と、年貢収入回復熊本藩からの財政援助によってようやく減少転じた中村勧農衛は間引きを防ぐため『さとし』を著し農業人口維持努めようとした。しかし幕末に至るとまた凶作相次いで一揆頻発する一方幕府政治に不満が高まって世直し一揆発生した最後藩主となった興貫は、戊辰戦争では新政府与して会津若松城攻めに藩兵を派遣する翌年版籍奉還知藩事藩知事)に就任明治4年1871年2月8日陣屋再度茂木移した同年7月廃藩置県ののち、第一次府県統合谷田部茂木藩領は新治県となり、のち茨城県編入された。

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糸魚川藩」の記事における「藩史」の解説

糸魚川北陸道千国街道塩の道)の結節点で、軍事交通の要衝であったこのため糸魚川松平忠輝越後少将家)の時には家老松平信直松平忠昌福井松平家)の時には家老稲葉正成松平光長越後中将家)の時には家老田氏荻田長繁荻田長磐荻田本繁3代)がそれぞれ清崎城糸魚川城)に入っている。延宝9年1681年)に光長が越後騒動改易された後の元禄4年1691年)、日向延岡藩から有馬清純肥前有馬家)が5万石で入る。しかし清純元禄8年1695年5月越前丸岡藩移封され、糸魚川藩廃藩となり、その所領天領となる。 元禄12年1699年)、本多助芳出羽村山藩より1万石で入り糸魚川陣屋を置く。だが、享保2年1717年)に助芳は信濃飯山藩移封。 代わって越前松平家松平直之1万石で入った。この糸魚川藩越前松平家は、福井藩松平光通の子・直堅を祖とする系統である。松平直堅は光通の唯一の男子であるにもかかわらず側室の子であったために家中反対があり福井藩継げず、これを哀れんだ幕府によって賄料1万俵が与えられ以降代々定府日向守名乗っていたが、ここにおいて所領与えられることになったのである糸魚川藩享保末期から財政悪化が始まる。しかもそれに連鎖するように天災相次いで財政火の車となったこのため、藩は新税の設置増税行なったが、それが原因さらなる領民憤激を買う。 この事態打開のために文化11年1814年)に重臣による改革が行なわれたが、この改革農民からの搾取が主という根本的な解決策無かったために失敗。そして文政2年1819年)、遂に郡代黒川九郎治の苛酷な御用金徴収に対して領民怒り爆発し黒川騒動起こったおまけにペリー来航による海防問題によってさらに支出増大し財政難はいよいよ深刻なものとなった第7代藩主松平直廉安政の大獄家督追われ松平慶永に代わって越前松平家を継ぐこととなる。このため播磨明石藩から松平直静が第6代藩主松平直春養嗣子となって糸魚川藩家督継いだ明治2年1869年)の版籍奉還で直静は清崎藩知事となる。同年8月糸魚川藩正式に清崎藩改められたが、同年巳年困窮とまで言われ騒動二歩騒動起こった明治4年1871年)の廃藩置県で、清崎藩清崎県となった

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榎本藩」の記事における「藩史」の解説

榎本城は元は戦国時代小山高朝隠居城であり、後にその実子である結城晴朝領有していた。 結城氏移封後の慶長10年1605年)、本多正信三男で正純の弟に当たる忠純榎本城1万石で入ることで榎本藩立藩された。大坂の陣戦功挙げた忠純1万8000石を加増され、28000石の大名となった忠純は父や兄のように目立った人物ではなかったが、戦国時代小山家旧臣家臣団として新たに組み込んだり、城下町の整備行なったりと、藩政基盤固めに専念した寛永8年1631年12月13日忠純46歳死去し、跡を養嗣子の政遂(加賀藩家老本多政重の子)が継いだ。政遂は寛永15年1638年7月29日26歳早世する。跡を子の千代継いだが、千代寛永17年1640年5月13日5歳夭折した。当然、嗣子がいるはずもなく、本多家は無嗣断絶改易となり、榎本藩廃藩となったその後、この忠純系の名跡は、政遂の弟の政朝が継いで旗本5000石)に取り立てられて、本多大隅守家として続いた

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近江宮川藩」の記事における「藩史」の解説

藩主家堀田家である。第3代将軍・徳川家光時代老中となった堀田正盛は、家光から重用され下総国佐倉藩12万石大名にまで栄進した。正盛は家光死去伴って殉死し、子の堀田正信が跡を継いだ。しかし正信は、万治3年1660年)に老中松平信綱対立したため、所領没収され改易となった正信嫡男堀田正休は父の罪を許され天和2年1682年3月1万石の大名として復帰許され上野国吉井藩封じられた。正休は元禄11年1698年3月7日吉井から近江国坂田郡宮川移封となり、宮川藩成立した第3藩主堀田正陳若年寄となって寛延元年1748年10月15日3000石の加増を受け、1万3000石を領することになった。第5代藩主堀田正穀時代には所領のうち3600石が近江国蒲生郡から播磨国替えられたが、新たな領知生産性近江よりも高かったため、実質的な加増であった。この実質加増文化4年1807年2月7日元に戻された。第6代藩主堀田正民絵画造詣深かった文化人である。幕末期に入ると、宮川藩佐幕派として活動したが、やがて近江国内における諸藩新政府側に与すると、やむなく新政府側に与した。そして第9代藩主堀田正養時代明治維新次いで版籍奉還により知藩事となった明治4年1871年7月14日廃藩置県で、宮川藩宮川県となったその後長浜県犬上県経て明治5年1872年)に滋賀県編入された。また、最後藩主となった正養はその後子爵叙せられて逓信大臣務めている。 歴代藩主多く大番頭奏者番、そして若年寄など幕府要職務めているが、藩政における治績はほとんど見られない小藩だった。

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今尾藩」の記事における「藩史」の解説

今尾城領していた市橋長勝関ヶ原の戦い東軍与して功あり、戦後所領安堵された。慶長15年1610年)、中村一忠改易により長勝は伯耆矢橋藩転封され、元和5年1619年)、竹腰正信今尾陣屋築いて入った竹腰家宇多源氏佐々木信綱を祖とする。竹腰道鎮斎藤道三仕え、その孫正信徳川家康仕えた正信生母お亀の方で、尾張徳川家の祖となった徳川義直正信異父弟である。慶長6年1601年)、正信甲斐国内に5000石を与えられ慶長12年1607年)に成瀬正成と共に義直御附家老となったその後新たに尾張5000石を加増され、合計1万石を領した慶長16年1611年)に尾張藩執政務めていた平岩親吉死去すると、正信その後受けて尾張藩執政任された。また、正信名古屋城築城尽力し、自らが砲術長けていたことを家康の前で披露して褒め称えられたことから、1万石を加増された。元和5年1619年)にはさらに1万石を加増されて3万石大名となった以後竹腰家尾張藩御附家老として代々尾張藩主補佐した。ただし、幕府時代正式に藩としては認められず、正式に認められ立藩したのは、明治元年1868年1月27日明治政府計らいよるものである。このとき、今尾藩同年10月義直から下された1万石を返上している。そして明治2年1869年6月23日版籍奉還行なった

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高徳藩」の記事における「藩史」の解説

慶応2年1866年3月宇都宮藩一門重臣戸田忠至は、天狗党の乱改易危機に立たされた藩を救い山陵奉行として功績挙げたことにより、本家である宇都宮藩戸田家から1万石を分与され大名として菊の間詰となり、高徳藩立藩した。領地高徳藤原塩原など下野で1735石、河内若江・丹北など5265石、他に新田3000石である。戊辰戦争高徳新政府軍旧幕府軍の戦場にもなった。 忠至は明治維新後、新政府招かれ山陵修補奉行京都裁判所副総督宮内大丞御医師支配弁事参与会計事務局判事などを歴任したため、明治2年1869年)に家督を子の戸田忠綱譲った忠綱明治3年1870年)に下野河内両国における所領上知されて下総所領与えられたため、下総国曽我野に移り以後曽我野藩となった

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鳥羽藩」の記事における「藩史」の解説

織田信長仕え当時最強と言われ毛利水軍をわずか数隻の鉄甲船打ち破ったことで有名な織田水軍の将・九鬼嘉隆藩祖とする。慶長5年1600年嘉隆西軍に、子の九鬼守隆東軍与して関ヶ原の戦い戦った。これは、父子対立というよりはどちらが勝利して九鬼家存続できるように嘉隆図ったものと言われている。しかし守隆は戦後、父の助命徳川家康嘆願して認められていたが、それを報せる前に嘉隆自害した。 守隆は戦後に2万石加増され、大坂の陣でも戦功により1,000石を加増されて5万6,000石の大名となった寛永9年1632年)に守隆が死去する家督争い起こり幕府介入結果家督は守隆の五男の九鬼久隆継いで摂津三田藩移封三男九鬼隆季丹後綾部藩に2万石移封となり、九鬼氏分裂させられた上、基盤となる水軍をも失った翌年常陸国内で2万石領していた内藤忠重が35,000石で入る。この内藤氏内藤清長一族で、その分家筋である。忠重の後、内藤忠政、そして内藤忠勝継がれたが、延宝8年1680年)に忠勝は芝増上寺において第4代将軍徳川家綱法会席上で、私情から永井尚長殺害したために切腹改易となり、鳥羽藩その後8か月幕府直轄地となったちなみに忠勝は、後に松の廊下刃傷事件起こした播磨赤穂藩浅野長矩叔父に当たる。 翌天和元年1681年)、下総古河藩から土井利益が7万石で入る。しかし元禄4年1691年)、肥前唐津藩移封となる。入れ替わり松平乗邑が6万石で入るが、これも宝永7年1710年)に伊勢亀山藩移封となる。入れ替わり板倉重治5万石で入るが、これも享保2年1717年)、再び亀山移封となる。代わって山城国淀藩から松平光慈が7万石で入るが、これも享保10年1725年)に信濃松本藩へ、というように藩主家安定しなかった。 稲垣昭賢下野烏山藩から3万石入り、ようやく藩主家定着したその後稲垣氏8代わたって鳥羽支配した幕末には幕府から黒船来航への対策として津藩とともに伊勢神宮伊雑宮防衛命じられ志摩地方沿岸部には次々と台場築かれ大砲設置された。安乗崎日和山台場設置されていた鉄製砲身全長171胴回り最大118)には、藩主稲垣家家紋である抱茗荷浮彫入れられており、安乗神社保存され志摩市指定有形文化財になっている鳥羽・伏見の戦いの際には藩兵が戦闘参加し藩主稲垣長行江戸滞在であったため新政府軍による討伐可能性浮上するが、長行謹慎と・部隊長らの永禁錮軍資金1万5,000両などを引換宥免された。明治4年1871年)の廃藩置県鳥羽藩廃藩となって鳥羽県、さらに度会県経て三重県編入された。

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仁賀保藩」の記事における「藩史」の解説

仁賀保氏甲斐源氏小笠原氏流の大井朝光末裔伝えられ戦国時代には出羽国由利郡小国山根館を拠点とし、国人連合である由利十二頭中心的存在であった由利十二頭状況に応じて大宝寺氏小野寺氏安東氏などの戦国大名同盟を結び保身図っており、その十二家は明らかではないが、仁賀保氏赤尾津氏小助川氏)、滝沢氏由利氏)、岩屋氏打越氏下村氏石沢氏禰々井氏根井氏)、潟保氏子吉氏玉米氏矢島氏大井氏)などの諸氏であるという。 赤尾津氏から仁賀保挙晴の養子となった仁賀保挙誠は、1600年慶長5年)の関ヶ原の戦い東軍与して西軍の上杉氏の属城を落としたことから、戦後5,000石を安堵された。1602年慶長7年)に常陸国武田移封されたが、大坂の陣などでも徳川方として功績挙げたことから、1623年元和9年10月18日旧領である仁賀保1万石を与えられ諸侯列し仁賀保藩立藩した。陣屋はかつての山根ではなく、塩越城置いた。なお、挙誠の弟の仁賀保主馬大砂川500石を与えられている。 寛永元年2月14日1624年4月1日)に挙誠が死去すると、その所領長男仁賀保良俊に7,000石、次男仁賀保誠政に2,000石、三男仁賀保次に1,000石とそれぞれ分封されて旗本になり、仁賀保藩はわずか1年廃藩となった寛永5年主馬が、同8年に良俊が死去し両家は無嗣断絶したが、誠政流(仁賀保二千石家)と誠次流(仁賀保千石家)は平沢に共通の仁賀保陣屋置いて存続し明治維新迎えた

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園部藩」の記事における「藩史」の解説

園部藩参勤交代行列図(南丹市文化博物館, 京都府南丹市園部町小桜町園部藩は、元和5年1619年12月但馬国出石藩であった小出吉親新たに入部してきたことにより立藩した。所領はおよそ29800石ほどである。初代藩主・吉親は園部城築城検地城下町の建設治水事業励んで藩政基礎固めた。吉親は寛文7年1667年6月9日隠居し家督は子の小出英知継いだ。このとき、藩領隠居料として吉親が5000石、英知新墾田併せて25000石を継ぐこととなった翌年3月11日に吉親が死去すると、その隠居料であった5000石は英知の弟・小出直と小出吉忠それぞれ3000石と2000石に分割して相続した。 第4代藩主小出英貞奏者番寺社奉行若年寄歴任し次男小出英治1000石を分与している。第5代藩主小出英持も英貞と同じくその三職を歴任し、第6代藩主小出英常奏者番になるなど、幕府要職歴任している。しかし第7代藩主小出英筠の頃から飢饉旱魃洪水などの天災によって藩財政窮乏化表面化し天明7年1787年)には凶作米価高騰などから百姓一揆発生するいわゆる天明一揆であるが、これを皮切りにしてその後火事などの災害が相次ぎ、藩内では打ちこわし強訴相次いで発生したこのため、藩では煙草専売制木材市場移出制を中心とした藩政改革実施して効果挙げている。 幕末期には早くから御所警備行なうなどして官軍側に帰順した明治2年1869年)の版籍奉還最後藩主小出英尚藩知事となる。明治4年1871年7月廃藩置県園部藩廃藩となったが、なおも英尚は園部県知事となった園部県同年8月廃され同年11月には京都府編入された。なお、藩主家子爵叙された。

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岐阜藩」の記事における「藩史」の解説

天正20年1592年)に織田信長嫡孫秀信が、豊臣秀吉計らいによって13万石で入ることで立藩した。ただし、織田家豊臣家の家臣であるため、幕藩体制下における藩主家ではない。岐阜信長の時代から天下布武重要な拠点であったが、本拠地安土に移すとその重要性薄れていった。しかし、依然織田家の重要拠点として機能していた。 関ヶ原の戦い前哨戦城主の秀信が西軍与したため、岐阜城破却されることになったその後奥平信昌加納城築城し、その完成と共に岐阜藩廃藩となった

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三上藩」の記事における「藩史」の解説

藩主家遠藤家である。遠藤家美濃郡上藩24000石を領していたが、元禄2年1689年)に第4代藩主遠藤常春謎の死遂げると、これが家臣団二分する家督騒動発展した跡目相続した遠藤常久元禄6年1693年)、7歳時に家臣によって毒殺されるに及び、郡上藩遠藤家は無嗣改易となった。しかし藩祖遠藤慶隆功績が特に考慮され結果時の将軍徳川綱吉側室お伝の方の妹と旗本・白須正休の間の長男を、いったん遠藤家姻戚にあたる美濃大垣新田藩主・戸田氏成養子としたうえで、これを改め遠藤家入れて遠藤胤親と名乗らせ、この胤親に常陸下野都合1万石を与えた。こうして旧郡上藩遠藤家はまった無縁ながらも胤親が大名取り立てられたことで、遠藤家は形ながらも家名存続果たした。この胤親が元禄11年1698年)に近江四郡に移封となり、三上藩立藩した。 若年寄となった5代藩主遠藤胤統は、嘉永5年12月1853年2月)、江戸城西の丸造営功績賞され2000石の加増受けた幕末万延元年1860年)には城主格格上げされている。胤統は文久3年1863年)に隠居し、跡を孫の遠藤胤城継いだ。胤城は講武所奉行任じられ長州征伐などに活躍した徳川慶喜の代には奏者番任じられ将軍側近となり、佐幕派としての立場貫いたこのため慶応4年1868年1月新政府から朝敵と見なされて領地召し上げられた。しかし同年5月には罪を許され領地戻され翌年6月三上藩知事任じられた。胤城はその後明治3年4月14日1870年7月31日)に藩庁和泉国吉見移したため、以後吉見藩呼ばれることとなった

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荻野山中藩」の記事における「藩史」の解説

荻野山中藩小田原藩大久保家支藩である。天明3年1783年)に駿河国松長藩主大久保教翅陣屋山中移転したことで立藩した。この頃から山中藩では藩財政窮乏化進んでおり、教翅の子・教孝は「養蚕要略」を公布し養蚕業奨励発展努めたが、効果望めなかった。慶応3年1867年秋頃から冬にかけ関東では勤王の為と称し薩摩藩士ら中心による集団強盗横行愛甲地区でも被害多数出ていた 12月15日江戸薩摩藩邸に集まった四郎薩摩藩中心倒幕派浪士隊は藩主甲府城勤番のために留守であった山中陣屋夜襲焼き討ちするその際即死3人、深手負った2名の内当代官が3日死去。更に12月16日早朝に隊は厚木川入村佐野家押し入り金品強奪し津久井方面へ向かうなど藩や領民衝撃与える。 陣屋焼失にもかかわらず市内王子福伝寺には遺構として陣屋裏門と伝わる門がある。跡地には稲荷石灯籠があるにすぎない慶応4年明治元年1868年)、徳川家達駿府静岡入部にともない駿河国内の領地替えて相模国愛甲郡内の旧幕府旗本領を与えられ現在の厚木市周辺領地集中させた。明治2年1869年6月最後藩主教義版籍奉還により知藩事となった明治4年1871年7月廃藩置県荻野山中藩廃藩となり荻野山中県設置されたが、同年11月足柄県統合され明治9年1876年)に神奈川県編入された。現在の厚木市荻野新宿交差点近くには、参勤交代使われた道が残り案内石碑がある。

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西端藩」の記事における「藩史」の解説

近江国膳所藩本多康俊次男本多忠相が、元和2年1616年)に三河国碧海郡西端1000石を賜り立領。その後三河国上総国下総国安房国加増重ね8000石の大身旗本となる。子の忠将の時さらに加増されて9000石を領す。天明3年1783年)、忠直時に西端陣屋置いた元治元年1864年)、第10代領主本多忠寛江戸警備功績などにより1万500石への高直しを許され、ここに本多氏諸侯列して西端藩立藩した。慶応3年1867年5月20日に忠寛は病気理由隠居し嫡男の忠家督相続した。忠明治元年1868年)に新政府方に与して陣屋官軍兵営として貸し与えた翌年6月には農民兵を募集して洋式訓練行い藩政改革行ない始めたが、間もなく同月23日版籍奉還となり、忠藩知事となって華族列した明治4年1871年7月14日廃藩置県西端藩廃藩となり、旧領その後西端県額田県経て愛知県編入された。忠明治17年華族令子爵授爵している。

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伊勢西条藩」の記事における「藩史」の解説

藩主有馬家摂津有馬氏)は、筑後久留米藩主家分家であり、久留米藩初代藩主有馬豊氏三男有馬頼次を祖とする。頼次は徳川忠長仕えて1万石を得ていたが、忠長改易伴って所領失っている。頼次の継嗣有馬吉政実父建部光重・母は豊氏の姪)は徳川頼宣仕え子孫紀州徳川家代々仕えた。 頼次から4代目有馬氏倫紀州時代より徳川吉宗仕え享保元年1716年)に吉宗将軍就任する幕臣転じて御側御用取次となり、伊勢国三重郡内に1,300石を与えられた。享保2年1717年)に下野国芳賀郡内で1,000石の加増受けた後、享保11年1726年)に伊勢国多気郡河曲郡三重郡内、下野国河内郡内、上総国市原郡内において7,700石を加増されて都合1万石となり、享保12年1727年)閏1月28日領知御朱印状賜った。ここに有馬氏倫大名となり、伊勢西条藩立藩した。本家にあたる久留米藩外様大名であるのに対し大名取立て経緯から伊勢西条藩譜代大名である。 第2代藩主有馬氏久大番頭務めた。氏久の時代である元文2年1737年)、もしくは延享2年1745年)に、藩庁西条村から南林崎村移している。 氏久の後は継嗣恵まれず幼少短命藩主続いた第3藩主・氏恒、第5代藩主・氏恕は、縁戚(氏久正室実家)である信濃飯田藩主・堀家からの末期養子継承している。 歴代藩主定府定められていたために実際に領地赴くことはなく、伊勢下野・上総にまたがる所領経営それぞれ代官委ねられていた。藩庁のある伊勢国所領は、代官瀬氏が管掌している。 天明元年1781年)、有馬氏恕陣屋伊勢国内から上総国市原郡五井移し五井藩)、定府解かれた(参勤交代命じられた)。なお、有馬家その後下野吹上藩移転し廃藩置県迎えるが、伊勢国内の領地一部吹上藩領として残った

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長島藩」の記事における「藩史」の解説

伊勢長島戦国時代織田信長攻撃受けて天正2年1574年)、一向一揆衆2万人大量虐殺されたことで有名である。その後領主滝川一益織田信雄豊臣秀次めまぐるしく変わり慶長3年1598年)に福島正則の弟・福島高晴1万石で入部した慶長5年1600年)に高晴は大和宇陀松山藩移され翌年徳川譜代菅沼家上野阿保藩より2万石で入ることにより長島藩立藩した。第2代藩主となった菅沼定芳は城改修城下町建設新田開発などを行なって藩政基礎固めたが、元和7年1621年)に近江膳所藩移され長島藩一時廃藩となった慶安2年1649年)、久松松平家松平康尚下野那須藩より1万石で入ることで再び立藩する。しかし貞享2年1685年)に康尚の跡を継いだ次男松平忠充元禄15年1702年)に乱心により重臣殺害したため、改易された。代わって常陸下館藩から増山正弥が2万石で入る。増山家は第4代将軍徳川家綱生母宝樹院縁者であったことから取り立てられ大名家である。第6代藩主増山正寧第7代藩主増山正修はいずれ若年寄務めた以後増山家8代わたって支配し明治4年1871年)の廃藩置県によって長島藩廃され長島県となり、その後安濃津県に編入された。 長島デルタ地帯のために洪水による水害を受けやすく田畑等級化することによる災害対策が行なわれていた。

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本庄藩」の記事における「藩史」の解説

天正18年1590年5月小田原征伐後北条氏本庄氏降伏した後、武蔵国江戸徳川家康入城し同年9月、その家臣である小笠原信嶺児玉郡北部国境沿いに位置する本庄1万石で入部した。信嶺は甲斐武田氏家臣であった織田信長甲州征伐寝返り本能寺の変による信長横死経て家康の家臣となっていた。こうして信嶺が本庄城新城主として当地治めたが、入城してから8年目慶長3年1598年)に死去し、その家督継いだ小笠原信之本庄藩初代藩主となり、後期本庄城2代城主となった。信之は徳川四天王筆頭酒井忠次三男であり、家康の命によって信嶺の養嗣子となっていた。慶長17年1612年)、信之は下総国古河藩2万石加増移封され、本庄藩廃藩となり、本庄城廃城となった残され城下町は、中山道宿場町として大きく利用されることとなった

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八田藩」の記事における「藩史」の解説

藩主家加納家である。加納家三河国加茂郡加納村出身で、加納久直のときに徳川家仕えて紀州藩属する。その孫・加納久通紀州藩主徳川吉宗将軍就任に従って江戸城入り延享2年1745年)に吉宗隠居したとき、若年寄任じられ吉宗直属となった領地においては吉宗将軍就任した享保元年1716年)に伊勢国内で1000石、翌年下総国相馬郡内で1000石、享保11年1726年)に伊勢・上野国内8000石をそれぞれ与えられ合計1万石を領する大名となり、東阿倉川陣屋構えて立藩した。 寛政8年1796年)には上野国内でさらに3000石を加増された。第3藩主加納久周若年寄となったまた、領内南河内山には銀山銅山があり、藩は鉱山開発努めることで財政安定化図ったが、やがて鉱山は産銀・産乏しくなって衰退した天保4年1833年)には藩内で騒動起こったが、何とか鎮定している。ちなみに加納家は、参勤交代行なわない定府大名であった。 第5代藩主加納久儔時代飛び領である上総国一宮陣屋移し以後一宮藩として存続した。

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吉井藩」の記事における「藩史」の解説

小田原征伐後、関東入部した徳川家康は、譜代家臣菅沼定利に2万石与えて吉井入れた。これが吉井藩起こりである。定利天正20年1592年)に領内検地行い、さらに六斎市開いて町割りを行うなどして藩政基盤固めた関ヶ原の戦いがあった慶長5年1600年)、定利菩提寺として玄太寺建立している。関ヶ原では徳川秀忠軍に従軍して真田昌幸戦った定利慶長7年1602年10月22日死去し、跡を養嗣子の忠政が継いだ。忠政は家康娘婿奥平信昌三男で、生母家康の娘・亀姫であったことから、松平姓名乗ることを許された。忠政は慶長15年1610年7月26日実父の信昌から家督譲られて、美濃加納藩移封となったため、吉井藩廃藩となり、その所領幕府直轄領旗本となった天和2年1682年3月29日大番頭だった堀田正休1万石で入って吉井藩を再立藩した。正休は元禄11年1698年3月7日近江宮川藩移され、再び吉井藩廃藩幕府領となった宝永6年1709年4月6日松平信清上野国内において3000石を加増されて1万石の大名となり、陣屋矢田現在の高崎市吉井町矢田)に置いて吉井藩を再立藩した。このため松平家時代吉井藩矢田藩とも呼ばれる幕末期元治元年1864年7月21日第9代藩主・信発が陣屋吉井移したため、正式に吉井藩となった最後藩主家となった松平家鷹司松平家)であるが、この家は五摂家一つ鷹司家から分かれており、鷹司信平(信清の祖父)が徳川家光御台所鷹司孝子の弟という縁で江戸入ったことから始まった。信平は承応3年1654年3月10日松平姓与えられ松平信平名乗った延宝2年1674年)には上野上総国両国内において7000石の知行与えられた。その後嫡男信政その子の信清に家督継がれ、信清の時代1万石の大名となった最小藩ながらその待遇国主格、あるいは御三家同様に遇されていた。歴代当主従四位下 侍従に就くことを慣例とした。これは津藩藤堂家土佐藩山内家などの国持大名同等官位 官職である。 しかし石高自体小さく、第5代藩主・信成の頃から財政難が始まる。信成は寛政9年1797年)に倹約令出したが、効果はなかった。第7代藩主信敬倹約令などを出して財政再建を主とした藩政改革行ったが、やはり効果はほとんど無かった第9代藩主・信発は安政6年1859年)、常陸水戸藩主徳川斉昭蟄居の命を伝え上使務めた功績から、莫大な恩賞授かっている。藩政においても農民兵を採用した軍制改革行っている。最後藩主・信謹は慶応4年1868年2月22日徳川家との訣別を表すためにか、松平姓捨てて吉井姓に改めている。その後戊辰戦争では新政府側に与して戸倉出兵した。 明治2年1869年)の版籍奉還上野国諸藩先駆けて行い、信謹は知藩事となる。しかし同年12月25日、信謹は知藩事辞し吉井藩廃藩となったその後吉井の地は岩鼻県群馬県熊谷県経て群馬県最終的に編入された。

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清富藩」の記事における「藩史」の解説

宮城豊盛豊臣政権において豊後国日田郡代官務めていたが、関ヶ原の戦い西軍について改易される。しかし、養嗣子の頼久が実兄山崎家盛から二方郡内に6000石を分知されて徳川家康仕えたことで再興許された。同郡芦屋城跡の東麓芦屋陣屋設けられた。 頼久の子である宮城豊嗣は、寛永4年1627年)に加増受けて二方郡全域気多郡の4か合わせて1万3000石を領して大名となり、清富観音山相応峰寺城跡南麓新たに清富陣屋設けて移転した。 豊嗣が領国下った記録がないため、定府大名であった可能性があり、清富駐在した家臣実際支配行った検地実施岸田川改修清富城下町としての整備などを行ったが、承応2年1653年)に豊嗣が跡継ぎのいないまま病死清富藩は無嗣断絶となり、26年間で改易所領収公された。

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峰山藩」の記事における「藩史」の解説

初代藩主京極高通朽木宣綱次男として生まれたが、母方のおじである京極高知婿養子となった丹後国主であった高知は自らの遺領実子2人と高通に3分割して与え、高通に峰山地方1万石を相続させた。これによって、元々徳川秀忠から拝領していた3000石と合わせて1万3000石の大名となり、1616年丹後峰山陣屋構えて立藩した。 宗家である宮津藩京極家ほどなく改易され、田辺藩舞鶴藩)の京極家但馬豊岡転封となったため、丹後には峰山藩だけが残ることとなった江戸中期享保年間、第5代藩主・高長の時代峰山住んでいた絹屋佐平治森田治兵衛)が西陣学んだちりめん技法元に試行錯誤の末に生み出した丹後ちりめんは、藩の主要な特産品として財政潤した。 第6代藩主高久若年寄となった。この高久は、池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』において、鬼平こと長谷川平蔵良き理解者として登場する人物としても有名である。 幕末藩主である第11藩主高富は、戊辰戦争の際に若年寄であった責任追及されたが、養子である高陳(後の第12代藩主)がいち早く朝廷謝罪をした事から許された。

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陶器藩」の記事における「藩史」の解説

文禄4年1595年)に和泉国大鳥郡陶器岸和田城小出播磨守秀政の領地組み入れられる。 慶長8年3月23日1603年)に、秀政の次男遠江守秀家の死去に伴い、秀家の養子となっていた弟の三尹が大鳥郡の秀家の遺領2千石を継ぐ。 慶長9年3月22日1604年)に、秀政の死去に伴い、秀政の遺領および小出吉政領地より一部が三尹に分与され、三尹は計1万石の陶器藩初代藩主となる。 三尹は、陶器北陣屋を置き、大修恵山高倉寺再建するなど領内整備した2代藩主有宗(有棟)は、正保元年1644年)から正保3年1646年)にかけて新田開発行い開発した土地福田村名づけている。 福田村村高は約827石にのぼったが、これは陶器荘の表高約2931石の3割近く相当する大きなものであった林羅山の詩十首「陶器十景」にその当時風光明媚な地域様子謳われており、豊かな土地であったことがうかがわれるその後慶安2年1649年)、寛文3年1663年)、延宝4年1676年)、天和2年1682年)、貞享5年1687年)に渡って藩主は、公卿江戸日光参向時における院使饗応役務めている。 3代藩主有重の跡を継いだ4代藩主重興は、病となり死に臨んだ元禄9年1696年4月2日に弟の重昌を養子にしたが、重昌も病になり、重興の忌が明けた元禄9年1696年5月28日出仕できず、6月12日遺領1万石を賜る旨の奉書到来するも、翌13日甚だしく登城できず、16歳にて死去した。 重昌が御目見果たせ17歳未満死去したことにより、元禄9年1696年8月12日陶器藩は無嗣子理由収公となった。これにより、陶器荘は幕府代官支配地となる。 なお、宝永2年1705年)に5000石の旗本である小出土佐守有仍(2代藩主有宗(有棟)の4男)が采地替により陶器荘を知行地とする。以降陶器庄は幕末まで小出主水家の知行地となる。

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遠江久野藩」の記事における「藩史」の解説

戦国時代、この久野には豊臣秀吉がまだ名も知られていない百姓のとき、立身出世求めて一時期主君として仕えていた松下之綱治めていた土地である。之綱は今川家次いで徳川家仕えていたが、天正11年1583年)から秀吉家臣として仕え久野1万6000石の所領与えられた。 慶長3年1598年)、之綱が死去し、跡を子の松下重綱継いだ。重綱は関ヶ原の戦いにおいては東軍与して大垣城牽制務め所領安堵された。ところが、久野城石畳幕府許可なく修理したことを咎められて、常陸国懲罰的移封命じられた。これにより久野藩は、一時的に廃藩となる。 その後久野の元領主であった久野宗能戻ってきた。宗能は下総国佐倉藩1万3千石であったが、相続させた子の久野宗朝改易処分となり、宗能に1千石与えられ再勤することとなった関ヶ原の戦い戦功により旧領久野にて8,500石が与えられた。 慶長14年1609年)に宗能が83歳で死去したため孫の久野宗成家督相続し慶長16年1611年)に主君徳川家康の十男の駿河駿府城主徳川頼宣付き家臣となる。 元和5年1619年)頼宣が紀州転封となると御附家老として紀州領に同行し伊勢国田丸城田丸藩1万となった。 代わって下野国富田藩から、北条氏重1万石で入り、再び立藩する。氏重は徳川家仕えて駿河田中城番や二条城西惣門番などを務めた功績から、寛永17年1640年9月28日1万石をさらに加増された上で下総国関宿藩加増移封され、久野藩は完全に廃藩となった

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篠塚藩」の記事における「藩史」の解説

延享4年1747年7月陸奥桑折藩であった松平忠恒が、陸奥伊達郡など1万2250石ほどの所領上野国移され邑楽郡篠塚陣屋構えたことから立藩した。表高は2万石である。翌年8月、忠恒は所領碓氷郡などに移されたため、上里見藩として存続することとなり、篠塚藩短期間廃藩となった

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中島藩」の記事における「藩史」の解説

元和2年とも同3年とも言われているが、伊勢田丸藩45700石より移封された稲葉紀通中島に入ることで、中島藩立藩した。しかし史料乏しく藩政などは明らかではない。寛永元年1624年9月に紀通は丹波福知山藩移封され、中島藩廃藩となった

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村山藩」の記事における「藩史」の解説

天和2年1682年2月22日遠江国横須賀藩5万石の藩主であった本多利長は、一族播磨国明石藩6万石藩主であった本多政利改易連座して改易されてしまった。その後、政利が陸奥国岩瀬藩1万石の藩主として復帰許されると、利長も新たに1万石を与えられ村山藩立藩した。 利長は元禄5年1692年12月死去し、跡を養嗣子本多助芳継いだ。その助芳は元禄12年1699年6月越後国糸魚川藩移封され、村山藩廃藩となった村山藩はわずか17年短期間の藩であるため、藩政藩庁の場所においては不明な点が多い。

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綾部藩」の記事における「藩史」の解説

綾部藩寛永10年1633年3月5日立藩した2万石外様の藩である。藩祖戦国時代織田信長仕えて名を馳せた水軍の将・九鬼嘉隆の孫九鬼隆季である。嘉隆死後九鬼氏は子の九鬼守隆家督継いでいたが、その守隆が寛永9年1632年)に死去すると、三男の隆季と五男の九鬼久隆との間で家督争い起こった。これは守隆が生前に五男の久隆溺愛して嫡男選んだのが原因であるが、御家騒動結果久隆摂津国三田へ、隆季は綾部それぞれ移封され、九鬼氏嘉隆以来故地である志摩国鳥羽藩の地を失うに至った。隆季は寛文元年1661年3月28日、弟の九鬼重に500石を分与し分家創設している。また、隆季は城下町の建設検地などを行なって藩政基礎固めた。 しかし第2代藩主九鬼隆常の代から大洪水暴風雨による天災起こって3729人もの死者を出すなど、早くも藩政衰退が始まる。その後再三わたって大洪水大旱魃、大飢饉などが発生して藩は大被害を受け、第3藩主九鬼隆直時代には藩財政破綻し藩札発行倹約令制定家臣団給米減封などを中心とした財政改革試みられたが、その後大洪水などによる天災百姓一揆までもが発生し藩政はすっかり衰退した。なお、隆直の時代藩校進徳館設立されている。 このような中で第9代藩主九鬼隆都佐藤信淵奥山弘平らを招聘して農業政策中心とした藩政改革取り組み、さらに山鹿素水招いて軍事改革行なった。隆都は弘化4年1847年)に木綿会所創設し専売制実施し、藩財政いくらか再建することに成功した幕末期動乱に入ると、隆都は文久元年1861年6月10日家督を子の九鬼隆備譲って隠居する。隆備ははじめ佐幕派であったが、禁門の変御所警備務めた頃から次第官軍側に与するようになり、慶応4年1868年1月には西園寺公望通じていち早く新政府側に帰順したその後、隆備は版籍奉還により藩知事となり、明治4年1871年)の廃藩置県により綾部藩廃藩となる。その後綾部県経て京都府編入されることとなったちなみに隆備も父に劣らず有能で、藩校進徳館篤信館と改名し、その翌年には藩内6箇所郷学校設立して庶民教育尽力した。これは後に、明治政府による近代化教育先駆けとなったのである

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長浜藩」の記事における「藩史」の解説

長浜の地は、元は今浜呼ばれていたが、羽柴秀吉織田信長から浅井氏旧領与えられた際に、信長一字取って地名長浜改めた秀吉の後は柴田勝豊山内一豊石田三成らが治めた関ヶ原の戦い後慶長11年1606年)、豊臣家動静監視するために内藤信成駿河国府中から移封されて長浜藩立藩した。なお、転封にあたり長浜城修築費として江戸幕府より白銀5千枚与えられた。 子の信正の代の元和元年1615年)、より大坂に近い摂津国高槻転封となり、長浜藩廃藩となった

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近江高島藩」の記事における「藩史」の解説

佐久間安政は、織田信長のもとで「鬼玄蕃」の異名をとった武将佐久間盛政の弟である。安政信長柴田勝家、そして兄の盛政死後豊臣秀吉家臣となり、近江国内において7000石を領していた。 慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍与して戦功挙げたため、戦後8000石を加増されて合計1万5000石を領する大名として諸侯列した。これが近江高島藩立藩である。安政慶長12年1607年)にはさらに常陸国5000石を加増され、大坂の陣でも徳川方与して武功挙げたため、さらに1万加増の上信濃国飯山藩3万石加増移封された。ちなみに近江高島飯山藩領の飛び地となったが、安政の孫である佐久間安次寛永15年1638年)に夭逝して佐久間氏は無嗣改易となったこのため近江高島天領となった

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鶴舞藩」の記事における「藩史」の解説

[全画面表示] 関連地図千葉県市原市付近慶応4年/明治元年1868年5月徳川宗家当主徳川家達新政府から駿府藩主として認められ70万石領主として駿河遠江に入ることとなった。これにより既存駿河遠江大名房総移されることとなった遠江浜松藩は6万石で、移転対象となった中で最大石高有する藩であり、藩主井上正直幕末期老中外国御用取扱歴任した人物であった9月21日浜松藩井上正直に、代地として上総国市原郡埴生郡長柄郡のうち62000石余が与えられることが沙汰された。浜松藩内には移封対する不満もあり、208領民総代として3人の大庄屋が「永城御処置」を太政官嘆願する事態発生した。なお、移転先となる上総国でも、11月房総知県事(安房上総知県事役所に対して領主支配戻さないよう嘆願出されている。 旧浜松藩領の徳川家への引き渡しは、5月発生した天竜川決壊対す普請や、明治天皇東幸によって延期された。12月15日になって中泉代官大竹三郎への引き渡しが行われている。 明けて明治2年1869年)、荷物掛塚港から船便送られた。移住者士族219戸1188人、卒族552戸2136人という。藩主井上正直1月27日浜松から出発2月11日に新領地到着埴生郡長南宿(矢貫現在の長生郡長南町長南)に入り今関家に居を構えて「仮本営」とし、長福寿寺を仮の藩庁とした。房総知県柴山文平から引き渡され領地は、上記3郡に山辺郡加えた4郡中で62000石余であった(仮藩庁長福寿寺置かれたあと、房総知県事が県庁として使用していた浄徳寺移ったともいう)。 長南宿は房総往還大多喜往還)の宿場で、江戸時代には在郷町として栄えた町である。当初長南藩庁建設する計画もあったというが、庁舎家臣住居配置するのは手狭であったとされるこのため市原郡内田石川村地内桐木原と呼ばれる荒蕪地の開拓着手し明治2年2月12日付で桐木原への庁舎造営願い聴許されている)、版籍奉還後の明治3年1870年4月藩庁知事邸(「鶴舞御本営」)や藩士居宅完成浜松にあった藩校克明館」を移転した。「鶴舞」という地名は、が翼を広げたような形から命名されたという。 鶴舞城下町新設道路整備などの大土木工事興されたため、領民夫役などの負担大きかったとされる一方、この地域多く江戸時代には旗本知行地であり、産業開発土木事業村方放任されていたため、藩がこれらの事業意欲的に行ったことには肯定的評価がある。鶴舞藩は短い統治期間中、博奕奢侈無断集会禁止など多く布達を出すとともに々の識見人格優れた者を「敷教小助」という役職任命し統治安定図った産業振興策としては新田畑開墾のほか、養豚養蚕普及図ったことが着目される。 明治4年1871年)に廃藩置県によって鶴舞県となる。7月14日井上正直藩知事罷免され東京去った同年末には第一次府県統合によって木更津県一部となった

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田原藩」の記事における「藩史」の解説

田原城1480年文明12年)、国人領主である戸田宗光によって築城されたのが始まりといわれるその後徳川家康支配経て三河吉田城となった池田輝政支配下入り、輝政は家老伊木忠次城代として入れていた。1600年慶長5年9月関ヶ原の戦いで輝政は東軍与し岐阜城攻め関ヶ原本戦武功挙げたことから、戦後播磨姫路藩加増移封された。 1601年慶長6年3月伊豆下田5000石より徳川氏譜代家臣で、かつて田原治めていた戸田宗光傍系一族に当たる戸田尊次1万石で入ったことにより、田原藩立藩した。1664年寛文4年5月9日第3藩主戸田忠昌加増の上肥後天草郡富岡藩移封された。 代わって、三河挙母藩より三宅康勝1万2000石で入る。三宅家は小大名ながら城持大名であることを許されるほどの名門であったが、知行高較べて藩士多く、さらに田原の地も痩地であった上に風水害被害多く、常に財政難苦しんだこのため、第11藩主三宅康直時代である1832年天保3年)、家老登用され渡辺崋山(登)は有能な人材登用のために各高分合制の給与改革備蓄制度義倉制度整備などを行ない天保の大飢饉から藩を救った1841年天保12年)の崋山死後には農政家の大蔵永常などによる藩政改革財政改革が行なわれ、村上範致による軍制改革行われて大砲の鋳造洋式砲術導入推進した第12代藩主三宅康保時代1869年明治2年6月版籍奉還康保田原藩知事任命され1871年明治4年7月廃藩置県田原藩廃藩となり、田原県経て額田県編入され、後に愛知県編入された。 田原藩江戸藩邸上屋敷)は隼町江戸城内堀沿いに城を望む場所に立地していた。明治維新後、藩邸敷地東京第一衛戍病院陸軍航空本部庁舎在日米軍住宅パレスハイツを経て、現在は最高裁判所国立劇場となっている。また、藩邸跡地前にある内堀通りの坂で、坂に面して建っている最高裁判所や、かつて坂に面して立地していた陸軍参謀本部日本社会党社会民主党通称でもある三宅坂田原藩主である三宅家由来するものである。

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吉江藩」の記事における「藩史」の解説

正保2年1645年)、結城秀康の子第3福井藩主の松平忠昌死去し、その跡を子の松平光通継いだ。このとき、光通は異母兄松平昌勝5万石を分与松岡藩)した。また同じく異母弟松平昌親吉江藩当時名乗りは昌明)に25000石を分与した。 昌明の25000石は越前国各所分散していたため、まず本拠地選定を行わねばならなかった。慶安1年1648年)、昌明は陣所吉江設置することを許可され吉江藩成立した。しかし、藩主正保3年1646年)から江戸下向していたため、藩主吉江入部前に家臣団吉江移って藩政関わる執務行っていたとみられている。陣屋町並み整備し明暦1年1655年6月、昌明が初入部した。従来の町に新しく整備した町をあわせて十一口」、これを縦に並べて吉江」としたとする伝承も残る。また、万治1年1658年)には江戸鳥越屋敷拝領している。福井本藩からの独立性薄く、完全独立経営移行する前に廃藩となった延宝2年1674年)に福井藩であった兄・光通が死去すると、その遺言により昌明が本藩の家督継いで福井藩主となり、昌親と改名した。これにより藩領福井本藩に吸収合併され、吉江藩廃藩となった藩主所縁の地であることから、以降吉江一帯各種税を免除された。 昌親を祭る吉江神社地元に残る。

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下野上田藩」の記事における「藩史」の解説

元禄5年1692年2月7日徳川綱吉寵臣であった安房東条藩主・西郷寿員は、下野国都賀郡河内郡芳賀郡所領移された。これにより、下野上田藩立藩した。 だが、寿員の養父隠居西郷延員が、不行状の咎を受けて寿員預かり蟄居身になると、寿員もその余波を受ける。翌元禄6年1693年11月、寿員は養父同じく不行状勤務怠慢などの罪を咎められ所領半分没収され下野上田藩2年足らず廃藩となった以後西郷家5000石の交替寄合となった

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関宿藩」の記事における「藩史」の解説

関宿徳川家関東移された頃から重要拠点ひとつとしてなされていた。そのため、徳川家関東入ったとき、関宿には徳川家康異父弟・松平康元が2万石入り関宿藩立藩した。康元天正19年1591年)に2万石加増され、4万石となった康元死去すると、嫡男松平忠良が跡を継いだ忠良大坂の陣戦功挙げたことから、元和2年1616年9月1万加増の上美濃大垣藩加増移封された。翌年12月越後三条藩から松平重勝が26000石で入るが、元和5年1619年)に遠江横須賀藩移封となった同年10月下総古河藩より小笠原政信が22700石で入る。政信は寛永17年1640年7月早世し、養嗣子小笠原貞信が跡を継いだが、わずか9歳幼少では重要な関宿にはふさわしくないとして、同年9月美濃高須藩移封となったその後遠江久野藩より北条氏重が2万石で入るが、正保元年1644年3月駿河田中藩移封された。代わって武蔵石戸藩から牧野信成1万7000石で入る。信成は正保4年1647年)に隠居し、子の牧野親成が跡を継いだ。親成は承応3年1654年)に京都所司代となったため河内国内に1万石を加増され、明暦2年1656年)に摂津河内国内に加増移封となった。代わって、それまで京都所司代だった板倉重宗山城近江国内から関宿入った。重宗は同年末に関宿にて死去し、跡を子の板倉重郷が継ぐ。重郷は寺社奉行となったときに弟の板倉重形5000石を分与して、45000石を領することとなる。重郷死後は子の板倉重常が継ぐ。重常は寛文9年1669年2月5000加増の上伊勢亀山藩移封された。 板倉氏去った後、久世広之5万石で入る。広之は徳川家綱の下で側衆若年寄老中歴任した人物である。広之の死後は子の久世重之継ぎ天和3年1683年8月備中庭瀬藩移された。同年9月牧野成貞常陸国内より2万石加増5万3000石で入る。成貞は徳川綱吉の下で側用人として重用されたことから、元禄元年1688年)、和泉国常陸国内に2万石加増されて73000石の大名となった元禄8年1695年)に隠居し家督養嗣子牧野成春継いだ。成春は宝永2年1705年)に7000石を加増の上三河吉田藩移封された。 代わって久世重之関宿藩主に再任となる。以後久世家支配により明治維新迎えることとなる。重之は関宿藩に戻る前にすでに寺社奉行若年寄歴任して5万石を領していたが、関宿藩となった翌年老中栄進したことから、1万石を加増された。久世家3代・暉之は弟に2000石を分与したため、関宿藩5万8000となった幕末期には様々な混乱があったが、何とか乗り切っている。久世家9代・広業の時代明治維新迎え明治2年1869年)の版籍奉還で広業は知藩事となり、明治4年1871年7月廃藩置県によって関宿藩廃藩となる。そしてその所領印旛県併合された。

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板鼻藩」の記事における「藩史」の解説

板鼻には、慶長年間里見忠重1万石で入部していた。忠重は安房里見氏一族で、館山藩里見忠義叔父にあたる。しかし慶長18年1613年10月、忠重は勤務怠慢理由改易され、酒井家次預かりの身となったその後寛永2年1625年9月2日に、上野厩橋藩主・酒井忠世長男・忠行が板鼻に2万石所領与えられた。忠行は部屋住み身分ながら父とともに徳川秀忠側近として仕えた人物である。寛永10年1633年4月14日には1万石を加増された。寛永13年1636年3月、忠行は父の死去により厩橋藩主を継ぐが、忠行の所領であった板鼻3万石そのまま厩橋藩吸収され152000石の厩橋藩領の一部となった。しかし忠行は、父の後を追うように寛永13年1636年11月17日死去した(この時、支藩伊勢崎藩3万石成立しているため、厩橋藩石高としては板鼻藩吸収前に戻っている)。その後寛延2年1749年)の酒井氏姫路転封機に板鼻領は天領編入された。

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湯長谷藩」の記事における「藩史」の解説

元和8年1622年)、内藤政長上総国から磐城平藩7万石藩主として入部寛文6年1666年)、平藩2代藩主内藤忠興は、次男の政亮に所領増加分2万石分与したいと願い出た新田分知)。4年後の寛文10年1670年12月忠興隠居に際して幕府は政亮に対して陸奥磐前郡菊多郡1万石を分与することを許す。藩庁湯本置かれ、ここに磐城平藩支藩である湯本藩立藩した。政亮は本家はばかり遠山姓として遠山政亮名乗った第3藩主・政貞の代になって内藤姓に復している)。 初代藩主となった政亮は、延宝4年1676年)に湯長谷城築城藩庁移転城下町の建設尽力した延宝8年1680年)には内藤忠勝乱心事件食い止めた功績など賞され丹波国氷上郡などに新たに2000石を加増される。貞享4年1687年)には大坂定番命じられたことから河内国内に新たに3000石を与えられ合計1万5000石を領することとなる。このように初代藩主・政亮は藩政基礎固め、『土芥寇讎記』でも「うまれつき悠にして、行跡よし、家臣助け育て奢ることしない誉れの将なり」と高く評価されている。政亮は元禄6年1693年)に69歳死去し、跡を遠山政徳継いだ。 本藩にあたる磐城平藩内藤家は、延享4年1747年)に日向延岡転封されるが、湯長谷藩内藤家そのまま領地保ち幕末まで存続する歴代藩主には実子が跡を継いだ事例少なく、ほとんどが養子よるものであった藩政においては4代藩主・政醇が忠孝倹約扶助旨とする藩法定め10代藩主・政民が藩校致道館創設して自ら四書五経講じたとされるほかは、幕末期まで特筆するような事件発生していない。地元では「名藩主が多い」とされている。 安政2年1855年)、商人片寄平蔵が藩内の磐前郡白水村(現:いわき市内郷白水町)で石炭発見、後に湯長谷が常磐炭田一大産業地になる礎が築かれた。 幼少第13代藩主・政養の時代幕末の動乱迎える。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加盟したため新政府軍湯長谷を攻略される。政養は仙台逃れる降伏1000石を召し上げられ謹慎処分受けた明治2年1869年)、養子・政憲が跡を継ぐことが認められ第14代藩主となった明治4年7月14日1871年8月29日)の廃藩置県により、湯長谷藩廃藩となった

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本荘藩」の記事における「藩史」の解説

六郷氏戦国時代には出羽国山本郡六郷支配する国人領主で、仙北七人衆一に数えられていた。六郷政乗のとき豊臣秀吉小田原征伐従軍し慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍与して小野寺氏攻撃した戦後その功績により六郷4500石から、佐竹義宣移封された後の常陸国新治郡府中1万石の大名として加増移封された。 元和9年1623年)に最上氏改易された後、その旧領である出羽国本荘に2万石加増移封され、政乗は本荘藩藩祖となった以後六郷氏藩主11続いて明治時代至った文化元年1804年)に起きた文化の大地震では、それまで潟湖だった象潟隆起して陸地化したため蚶満寺との間にその土地めぐって係争起きている。

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高富藩」の記事における「藩史」の解説

5代将軍徳川綱吉生母桂昌院異母兄本庄道芳の孫・本庄道章宝永2年1705年3月1万石の大名として高富入ったことから(正式に高富陣屋移ったのは宝永6年1709年))、高富藩立藩した。これはもちろん、綱吉桂昌院縁故のためである。 元来本庄家江戸定府で、その出自立地から京都公家衆との付き合い多く小藩見合わない出費多くあった。そのため第8代藩主本庄道昌時代から財政窮乏が始まる。第9代藩主本庄道貫厳し倹約令出し百姓に対して植林薦める一方で莫大な献納徴収図ったが、この藩政改革失敗した。そのため、今度年貢増徴政策藩札発行から京都豪商財政顧問として招いて藩政改革図ったが、これも年貢増徴反対する百姓反対頓挫する。道貫その後安政5年1858年)にも藩政改革図ったが、同年8月26日道貫死去したため、またも頓挫した。 その跡を継いだ第10代藩主本庄道美時代になると藩財政は完全に破綻し慶応4年1868年)には藩内で打ちこわし百姓一揆起こったこの頃高富藩207400両もの借財抱えていた。藩内の庄屋はじめとする豪農にも多額借財があったが、その大半は後の版籍奉還証文のまま終わっている。1万と言えど知行地本領美濃分領遠く関東にあるという事情も、藩財政窮乏原因あるようである。 明治2年1869年)の版籍奉還で道美は藩知事となり、明治4年1871年)の廃藩置県高富藩廃藩高富県となった明治5年1872年)、高富県岐阜県編入された。 歴代藩主10人のうち、6人が幼少もしくは病弱嗣子がなく、たびたび縁戚関係やあるいは他姓末期養子迎えていた。

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清水藩」の記事における「藩史」の解説

斎藤氏織田信長仕えた西美濃三人衆一人稲葉良通一鉄)は、嫡男稲葉貞通家督譲っていた。貞通の庶兄稲葉重通がいたが、父・一鉄死後清水中心に1万2000石の所領領した。重通は慶長3年1598年10月3日死去し、その跡を子の稲葉通重が継ぐ。通重は関ヶ原の戦いにおいて、当初西軍与していたが、後に東軍寝返ったため、戦後所領安堵された。しかし慶長12年1607年12月天野雄光数名京都祇園遊んでいたとき、酒乱のために乱行起こした。これを原因として幕命により改易され、通重は常陸国筑波流罪となり、清水藩廃藩となった

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伊勢岩手藩」の記事における「藩史」の解説

岩手岩出とも言われる豊臣家の家臣で、斎藤道三織田信長仕えた西美濃三人衆稲葉良通の孫で、外祖父である牧村政倫の家督継いでいた牧村利貞は、小田原征伐後に2万石所領与えられ岩出入った。しかし利貞文禄2年1593年)に朝鮮にて陣没した。 利貞には息子牧村牛之助)がいたが、幼少のため弟の稲葉道通が跡を継いだ。道通は豊臣政権時代から九鬼嘉隆犬猿の仲であり、関ヶ原の戦いでは東軍与して西軍与した嘉隆戦い、これに勝利した。この功績により、戦後に2万石余を加増されて45700石の大名となるが、道通は同時に伊勢田丸藩に移ったため、伊勢岩手藩廃藩となった

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坂木藩」の記事における「藩史」の解説

坂木藩天和2年1682年2月板倉重種蟄居することで成立した藩である。重種は武蔵岩槻藩6万石藩主老中務めていたが、天和元年1681年)に罷免され蟄居命じられのである蟄居翌年、重種は幕府所領返還申し出たが、祖父板倉重昌功績などから、特別に重種の長男重寛が3万石、甥の板倉重宣が2万石それぞれ継ぐことを許された(上総高滝藩)。そして元禄15年1702年12月、重寛が陸奥福島藩3万石移封されたことにより坂木藩板倉家支配最後に廃藩となり、幕府領となった

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久留里藩」の記事における「藩史」の解説

小田原征伐後、関東入部した徳川家康は、徳川四天王一人榊原康政嫡男大須賀忠政松平忠政)に久留里3万石与えた。これが久留里藩立藩である。

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大垣新田藩」の記事における「藩史」の解説

藩は戸田氏鉄次男戸田氏経が旗本として取り立てられたことに始まる。氏経は1619年元和5年三河国渥美郡の畠はじめとする5かに1,500石を領することとなった。もともとこの5か統治していたのは水軍衆系譜を持つ間宮氏だったが、これにより所領失ったこの間事情はよくわかっていない。 次いで同国額田郡内で700石を加増され、明暦元年1655年)、兄の戸田氏信から美濃国大野郡内の新田4000石を加増されて6200石の知行得たその後知行地新田から従来からの耕作地切り替えられた)。 その後戸田氏利が跡を継ぎ元禄元年1688年7月、氏利の跡を継いだ戸田氏成のとき、兄の戸田氏定から美濃国内の新田3000石を分与され、さらに養父の氏利の所領渥美郡内の新田分を合わせて1万となったため、ここに大垣新田藩立藩し、藩庁三河国渥美郡畑村置いた藩領三河国内に3000石、美濃国内に7000石あった(のちに三河国内に6000石、美濃国内に4000石)。その後氏成は、元禄14年1701年)に有名な浅野長矩事件連座して、出仕止められている。 氏成の後を継いだ戸田氏房大番頭奏者番西丸若年寄歴任し戸田氏之大番頭)、戸田氏養と代が続いた明治2年1869年)、最後藩主戸田氏良版籍奉還した後の同年5月藩庁美濃国大野郡野村移したため、ここに大垣新田藩野村藩改名した近く民家総門役所門がそれぞれ移築されている。

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浅川藩」の記事における「藩史」の解説

寛文2年1662年11月石川藩同じく白河藩主・本多忠義三男本多忠以1万石を父から分与されたことで成立した藩である。忠以の跡を継いだ弟の本多忠晴天和元年1681年9月三河国伊保藩移封となり、浅川藩廃藩となった

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真壁藩」の記事における「藩史」の解説

慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いで、浅野幸長東軍与して戦功挙げたため、戦後甲斐国から紀伊国紀州藩376500石に加増移封された。その幸長の父・浅野長政慶長10年1605年)に隠居して家督幸長譲ったが、翌年隠居料として幕府から常陸真壁などに5万石を与えられた。これが真壁藩立藩である。 長政慶長16年1611年4月7日65歳死去し、その所領三男浅野長重継いだ長重大久保忠隣改易のときの小田原城受け取り大坂の陣武功挙げ、さらに本多正純改易後宇都宮城守備などでも功績挙げたため、幕府よりこれらの功績評価され加増移封の命を受ける。しかし長重は父・長政菩提寺真壁郡桜井村伝正寺)のある所領支配望んだため、3500石を加増の上笠間藩加増移封とした。真壁藩廃され、その所領笠間藩領として併合された。 赤穂事件有名な浅野長矩長重曾孫である。

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板橋藩」の記事における「藩史」の解説

慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いで、松平近正伏見城攻防戦戦死した死後家督は子の松平一生継ぎ、父の武功賞され5000石を加増され1万石の大名として諸侯列し板橋藩立藩した。一生の死後その子松平成重が継ぐ。成重は慶長19年1614年)の安房国里見氏改易で城受け取り務め翌年大坂夏の陣でも武功挙げたことから元和3年1617年)に三河国西尾藩に2万石加増移封となり、板橋藩廃藩となった

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大輪藩」の記事における「藩史」の解説

江戸幕府初期老中古河藩主として有名な土井利勝の五男・土井利直正保元年1644年9月、父の遺領から5000石を相続する万治元年1658年9月、兄の土井利隆の子利重宗家を継ぐにあたり5000石を分与され、常陸国河内郡下野国足利郡武蔵国埼玉郡下総国岡田郡葛飾郡領する1万石の大名となり、岡田郡大輪大輪藩立藩した。利直は延宝5年1677年3月死去する。利直は家庭的に不幸な人物で、長男次男自分先立って早世し、残る男児もみな幼少の上病弱であることから、兄・土井利房次男の利良を養嗣子として迎えようとした。しかし一族相談せず願い出たので、幕府はこれを認めなかったため、大輪藩廃藩となった。ただし、利勝の功績考慮されて、所領半分削減した5000石の旗本として利良の相続許され、利直の系統旗本家として存続した。

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鹿沼藩」の記事における「藩史」の解説

正保4年1647年)、第3代将徳川家光小姓組番頭および若年寄であった朽木稙綱が、鹿沼において5千石加増され、25千石大名として鹿沼藩立藩した。 慶安2年1649年)に稙綱は常陸国土浦藩移され、代わって同じく家光近臣相模国下総国常陸国などで1万石を領していた内田正信がさらに5千石加増され、1万5千石鹿沼転封となった正信慶安4年1651年)の徳川家光死去伴って追腹殉死したため、跡を内田正衆継いだ寛文3年1663年)、4代将軍徳川家綱日光東照宮参社に際し陣屋敷地将軍道中接待のための御成御殿造営した。この御殿将軍道中帰路休憩使われたが、その後一度使用されていない。 正衆が元禄12年1699年2月4日死去した後は内田正偏継いだ。正偏は享保9年1724年10月29日狂気により妻女を傷つけた罪を咎められ蟄居処分となった江戸で見初めた町人の妻を正偏が鹿沼に連れて帰り、それを追って尋ねてきた父子無礼と下の者に斬り捨てさせ、それから狂気に走るようになったという伝承がある。 家督長男内田正親継ぎ1万石に減封の上下総国小見川藩移され鹿沼藩廃藩となった

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額田藩」の記事における「藩史」の解説

寛文元年1661年9月水戸藩主徳川頼房の四男松頼元が、兄の徳川光圀から水戸藩領のうち那珂郡内2万石分与される内分分知立藩した。当初領地与えられず、水戸藩から2万石分の年貢与えられるであったが、翌年には地方(じかた)に改められ年貢直接徴収できるようになったまた、御三家分家連枝)であるため参勤交代義務がない定府大名であった元禄6年1693年)に頼元死去し嫡子頼貞が相続した元禄13年1700年9月、頼貞は幕府から陸奥国田村郡などに2万石与えられたため、陣屋田村郡内の守山移した旧領水戸藩返され以後守山藩として存続した。

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松川藩」の記事における「藩史」の解説

徳川頼房の四男で、徳川光圀の弟に当たる松平頼元が、光圀から2万石分与されて額田藩立藩した。頼元死後、跡を継いだ松平頼貞のとき、領地陸奥国守山藩移されたため、頼貞は旧領全て水戸藩返還し以後守山藩として存続した。 守山藩第8代松平頼之のときである明治3年1870年)、藩庁守山から常陸国松川移したため、ここに松川藩立藩する。知藩事である頼之が江戸定府をやめ、任地在住するにあたり陸奥磐城)と常陸の藩地のうち後者居住地選んだことによるが、藩地そのもの守山藩時代と同じである。翌明治4年1871年)、陣屋物置から出火し、強い北風煽られ藩庁など大半焼失し十分な復興をみないままに廃藩置県松川藩廃藩となり、松川県置かれた。その後常陸国内の旧藩領は新治県経て明治8年1875年)に茨城県編入され磐城国内の旧藩領は白河県磐前県経て福島県編入された。

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八木藩」の記事における「藩史」の解説

藩祖別所重宗(重棟)である。所領1万5000石。重棟は織田信長の命を受けて羽柴秀吉率い中国遠征軍が攻めてきたとき、甥で別所家当主だった別所長治に、信長降伏するように進言したが容れられなかったため、甥のもとから去って秀吉家臣となった長治秀吉居城三木城攻められ一族とともに自害したが、重宗は秀吉家臣として存続し天正13年1585年8月八木城主に任命されたため、ここに八木藩立藩する。重棟は長男別所吉治(ただし長治の子という説がある)に家督譲って隠居した後、天正19年6月死去した。 後を継いだ二代藩主吉治は、慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いにおいては西軍味方して細川幽斎が守る丹後田辺城攻めたため、戦後改易され、大坂流浪した。しかし吉治伯母徳川秀忠乳母であったことから、後に罪を許され八木藩復帰した吉治大坂の陣徳川方として武功挙げたことから、5000石を加増されて2万石大名となった。しかし寛永5年1628年5月28日吉治は病を理由参勤交代を行なわず、狩猟して遊んでいたことが露見し改易された。

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花房藩」の記事における「藩史」の解説

横渚前原陣屋花房 広場 北小町 関連地図 慶応4年1868年5月徳川宗家当主徳川家達新政府から駿府藩主として認められ70万石領主として駿河遠江に入ることとなったこれに伴い遠江国横須賀藩主であった西尾忠篤は、安房国上総国所替命じられた。 明治2年1869年5月安房国長狭郡花房村現在の鴨川市花房)を新城地と選定6月24日版籍奉還で忠篤は藩知事となった8月横渚村蔵の台(現在の鴨川市横渚ノ台)にあった岩槻藩取締出張所前原陣屋)を仮藩庁とした。また、西尾忠篤鏡忍寺現在の鴨川市広場)を仮宿所とした。 明治3年1870年2月新政府から藩役所知事宅を下賜され藩士屋敷地として花房村周辺属していた土地取り立てた明治4年1871年2月には藩校修道館建設された。花房村萩原台に花房陣屋花房城)の造営開始したが、どの程度進んだかははっきりしていない。 明治4年1871年)の明治天皇大嘗祭に際しては、当時藩領であった安房国長狭郡北小町字仲ノ坪(現在の鴨川市北小町)に主基斎田定められた。主基斎田には番屋設けられ花房藩役人警備あたった明治4年1871年7月廃藩置県によって花房藩廃藩となり、花房県となった。そして木更津県経て千葉県編入されのである

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狭山藩」の記事における「藩史」の解説

北条氏の祖は、関東地方勢威振るった北条早雲である。しかし北条氏天正18年1590年)、豊臣秀吉小田原征伐により関東支配失ってしまう。戦後処罰により、北条氏4代当主北条氏政北条氏照戦争責任問われ切腹となったが、第5代当主北条氏直徳川家康娘婿であるという所以から、北条氏規北条氏康の五男で氏政、氏照の弟)は和平尽力し秀吉とも会見していたという経緯から特別に許され高野山での蟄居命じられた。 天正19年1591年)、氏直は嗣子の無いまま30歳死去したこのため北条氏嫡流断絶したが、氏規がその跡を継いで北条家当主となる。その後、罪を許されて氏規の子北条氏盛下野国内で4000石、氏規も河内狭山7000石を領することになる。慶長5年1600年)、氏規が没すると氏盛はその家督遺領継いで1万1000石の大名となる。これが狭山藩始まりである。以後後北条家12代の支配明治維新にまで至った当初、氏規の大坂屋敷があった久宝寺町(大阪市中央区)で政務執り行っていた。第2代藩主・氏信の元和2年1616年)、狭山の地に陣屋を営んだ。 第3藩主・氏宗は、日常飲酒により病を得江戸城登城ままならない状態が続いたため、寛文10年1670年)、藩主の座を退いた。しかし、後継の氏治には老中稲葉正則反対により家督相続認められない状態が続いた北条一門運動により前老中酒井忠清取り成しで、氏治は新たに藩を立てるという名目1万石が与えられ狭山藩存続することとなった第7代藩主・氏彦の宝暦10年1760年)、下級武士による藩政改革要求運動世に言う狭山騒動」が起こった。しかし、運動にもかかわらず改革遅々として進まなかった。 第11藩主・氏燕は嘉永元年1848年)、藩校「簡修館」を再興し、他藩の子弟にも広く門戸開放した。また安政5年1858年)、財源確保のため山間農民作る氷豆腐専売品とした。 江戸時代後期から幕末にかけて、天保8年1837年)の大塩平八郎の乱安政元年1849年)のプチャーチン大坂湾進入文久3年1863年)の天誅組鎮圧などに出兵し、軍事費嵩んだ慶応4年1868年)からの戊辰戦争では新政府軍加わった。しかし、江戸中期からの財政赤字度重なる出兵により藩の財政破綻しており、明治2年1869年)、最後藩主である氏恭は他藩に先駆けて版籍奉還行なった。氏恭は藩知事に任ぜられるも辞任乞い同年12月認められた。軍事費藩債潰され狭山藩は、明治4年1871年)の廃藩置県待たずして崩壊し堺県併合となったその後狭山陣屋上屋敷大手筋にあった北表門が本願寺堺別院(堺北御坊)に移築され御成門呼ばれて現存する明治14年1881年)には堺県大阪府編入された。 なお、藩主家明治17年1884年)、子爵となり華族に列せられている。

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柳生藩」の記事における「藩史」の解説

藩祖である宗矩の死後1万2500石の所領は、有名な長男柳生三厳十兵衛)に8300石、三男柳生宗冬4000石、四男の六丸(列堂義仙)に200石、と分知されたため、柳生家大名から旗本となった。三巌の死後、宗冬がその家督遺領継ぎ4000石は幕府返上)、さらに寛文8年1668年1700石を加増され、1万石を領する大名復帰する藩庁柳生陣屋代々藩主将軍家剣術指南役務めるため、江戸定府していた。 以後柳生家13代にわたって支配し明治時代迎えた

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大浜藩」の記事における「藩史」の解説

明和5年1768年)、信濃国佐久郡9000石を領していた御側御用取次役の水野忠友が、若年寄そして奥勤兼側衆となって5000石を新たに加増されたため、1万4000石の大名として大浜藩立藩した。ちなみに水野忠友系統は、かつて信濃松本藩7万石領していた大名であったが、水野忠恒時代刃傷事件理由改易されていた。忠友はその忠恒の跡を継いだ水野忠穀嫡男である。 安永3年1774年7月、忠友は田沼意次の四男を婿養子迎えたことにより、意次との関係はさらに深まった。そのため安永6年1777年4月には側用人となる。その後、忠友は所領駿河沼津藩移され新たに築城することも許されたため、大浜藩廃藩となった。 ただし、水野家明治時代まで三河所領領しており、陣屋大浜構えていた。

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三河水野藩」の記事における「藩史」の解説

水野勝成の弟・水野忠胤関ヶ原の戦いにおいて戦功挙げなおかつ徳川家康従弟に当たるということから、戦後三河国内に1万石を与えられ諸侯大名)に列したその後、忠胤は大番頭となる。 しかし慶長14年1609年9月遠州浜5万石の藩主松平忠頼(忠胤の従弟)を招いて茶会開いていたとき、忠胤の与力である久米左平次服部八郎両名囲碁勝敗めぐって口論、そして刃傷事件にまで及んだ。この争い見て忠頼は両名仲裁入ったが、逆にその仲裁激昂し左平次によって、忠頼は殺害された。 家康はこの忠胤の与力による忠頼殺害事件並びに以前、忠胤が伏見城起こしていた不手際などの責任理由に、同年10月16日切腹命じ三河水野藩廃藩となった

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御所藩」の記事における「藩史」の解説

慶長元年1596年)、桑山重晴次男桑山元晴は父の4万石所領のうち1万石を継承慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いにおいて元晴は東軍与し西軍大谷吉継隊との戦いで武功挙げたため、戦後2000石を与えられ1万2000石の大名として諸侯列し御所藩立藩した。その後2000石ほどを父の隠居料として分与したため、1万石となる。 慶長11年1606年)に父が死去すると、その隠居料の内、6000石を与えられた。さらに慶長14年1609年)には長男桑山清晴所領であった和泉谷川藩領も、改易のときにその所領1万石を継ぐことを許されたため、御所藩所領は26000となった。 元晴は大坂の陣においても徳川方として奮戦し戦後高力忠房と共に大坂方の残党狩り務めた。元晴は元和6年1620年)に死去し、後を次男桑山貞晴が継ぐが、貞晴は嗣子の無いまま寛永6年1629年)に死去する。貞晴は弟の桑山栄晴を末期養子として継がせようとした認められず、ここに御所藩廃藩、その所領天領となったその後、栄晴は500扶持旗本として名跡存続だけは許された。

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西方藩」の記事における「藩史」の解説

藩祖藤田信吉である。信吉畠山重忠の子と言われ北条家武田勝頼家臣として仕えた武田家織田信長によって滅ぼされると、越後の上景勝家臣となった信吉慶長5年1600年)の関ヶ原の戦い直前東軍につくことを主張し孤立する上杉家から出奔した。そして徳川家臣として戦後下野西1万5000石を与えられ西方藩立藩した。 西方には元々は宇都宮泰宗の子とされる西方景泰を祖とする西方氏がいて西方城居城としていたが、豊臣秀吉小田原征伐後に西方領は没収され結城秀康与えられ西方綱吉宇都宮氏家臣として赤坂現在の市貝町)へ移封することで家名保てたとされているため、藤田信吉結城氏越前国移封後に入ったことになる。なお、信吉西方城南東新たに二条城」と呼ばれる城を築いて居城にしたと伝えられている。 慶長7年1602年)、佐竹義宣常陸水戸から出羽久保田藩へ減移封されたとき、水戸城接収担当していた。大坂の陣にも従軍したが、慶長20年1615年)の夏の陣後に、榊原康勝軍の軍監務めていたときの失態戦功対する不満からの失言など諸々理由挙げられ改易され、西方藩廃藩となった

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加納藩」の記事における「藩史」の解説

関ヶ原の戦い前、美濃国中部現在の岐阜県中南部)は織田家嫡流である織田秀信信長の孫)の所領であった。しかし、関ヶ原の戦いで秀信は西軍与したために改易され、居城だった岐阜城破却された。 翌慶長6年1601年)、徳川家康は、娘婿奥平信昌10万石を与えたが、岐阜幕府直轄となる(後に尾張藩与えられる)。奥平信昌加納入り岐阜城の遺材などを用いて加納城築いた。これが加納藩成立である。 慶長7年1602年)に隠居して家督三男の忠政に譲った信昌だったが、忠政へは10万石のうち6万石しか譲らず、残りの4万石隠居料として領有治水工事城下町の整備など、藩政実権握り続けた。ただ跡目の忠政には慶長19年1614年)に35歳先立たれて、大坂の陣へは父子ともに不参となる。翌元和元年1615年3月14日には信昌も死去し家督は忠政の子・忠隆が継いだが、忠隆も父と同じく寛永9年1632年)に25歳死去した嗣子無く加納藩における奥平家断絶した。 代わって加納には信昌の外孫である大久保忠職5万石で入ったが、寛永16年1639年)に播磨明石藩移封となった入れ替わり松平光重が7万石で入る。光重は年貢徴収制度の確立のために五人組制度設立した。光重は厳し取り立てを行うことで年貢徴収確実なものとしたが、同時に代官の不正も許さず、不正があった代官厳しく処罰された。光重の跡は子の光永が、そして孫の光煕継いだが、正徳元年1711年)に山城淀藩移封された。 代わって備中松山藩から安藤信友が65000石で入る。信友寺社奉行老中などの要職歴任した。ところが、その跡を継いだ信尹は無能で、奢侈好んで財政悪化させた。そのために綱紀乱れ家中宝暦騒動発生する。さらに百姓度重なる年貢御用金要求に耐えかねて強訴及んだ江戸藩邸家老たちは信尹を幽閉して事態打開図ったが、この一連の騒動幕府露見し、信尹は不行跡のために妾腹嫡男・信成に家督譲って強制隠居所領も65000石から5万石に減封されることとなった宝暦6年1756年)、陸奥磐城平藩移された信成に代わって武蔵岩槻藩主・永井直陳が32000石で入る。第4代藩主・尚佐は若年寄昇進し、第5代藩主尚典武家諸法度倣って条々」・「定」・「覚」から成る家中制度制定し家臣団統制強めた最後藩主・尚服は大政奉還直前若年寄任じられたが、戊辰戦争では岩倉具定帰順し新政府側に与した明治2年1869年)、版籍奉還により尚服は加納藩知事となる。明治4年1871年)の廃藩置県加納藩廃藩となり加納県替わった明治5年1872年)、加納県岐阜県編入された。 廃藩置県後藩主家である永井家子爵に列せられた。 加納藩では和傘生産が盛んで、年間50本も生産されていた。この伝統は、今日にも岐阜和傘として受け継がれている。

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重原藩」の記事における「藩史」の解説

この地は元々は刈谷藩領土だったが、寛政2年1790年)、土井氏第3藩主土井利制時代寛政一揆発生し、この責任を取らされ1万3000石を陸奥福島藩村替え領地替え)の処罰課せられた。 福島藩主・板倉勝尚戊辰戦争新政府反抗したことから罪に問われ明治元年1868年12月に3万石所領のうち2000石を削減され、さらに強制的に隠居することを命じられた。 代わって家督継いだ板倉勝達は、寛政4年1792年)から三河国にあった福島藩飛び地移封され、これに福島藩旧領上総国にあった所領合わせて28000石の藩主として明治2年1869年1月重原藩立藩する。また、旧幕府直轄地三河県府藩県三治制)の一部地域重原藩編入される明治2年1869年)の版籍奉還重原藩知事任命された勝達は、行政機構の改革をはじめ、藩校教導館を養正館改称し教育普及尽力した。 なお、藩庁建設行なわれたが、明治4年1871年7月廃藩置県により重原藩廃藩となって中止された。そして重原県額田県経て愛知県編入された。

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茨木藩」の記事における「藩史」の解説

戦国時代茨木の地には織田信長家臣であった中川清秀入っていたことで有名である。 慶長5年1600年)の関ヶ原の戦い豊臣家65万石一大名に転落すると、茨木豊臣氏家老片桐且元入ったと言われている。且元は関ヶ原後、徳川家康より大和国竜田藩所領与えられていたが、茨木にも入っていたことが多く実質的には且元の領地のようなものであった。 且元は関ヶ原後、衰退する豊臣家懸命に支え、その存続尽力した近年では且元が大坂の陣直前家康寝返ったため裏切り者扱いされているが、大坂城にいる豊臣秀頼淀殿大野治長などが、家康との交渉尽力する且元が家康内通しているのではないか猜疑し、且元を暗殺しようしたため、且元はやむなく大坂城退去し、弟の片桐貞隆とともに茨木城立て籠もるしかなかったのである大坂の陣豊臣家滅亡した直後、且元は急死している。また、貞隆も大和国小泉現在の大和郡山市)に所領与えられた(小泉藩)ため、茨木幕府領となった。なお、茨木城一国一城令廃城となった

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金山藩」の記事における「藩史」の解説

金山城 (美濃国)」および「松平忠頼」も参照 金山木曽川舟運大きな役割果たした考えられている土地である。永禄8年1565年以後織田信長重臣森可成金山城主となり、以後森家3代35年間にわたって当地治めた2代目森長可金山城下町建設などに尽力し豊臣秀吉政権下の大名として存続した。天正12年1584年)の小牧・長久手の戦いで長可が戦死すると、弟の森忠政家督継いだ関ヶ原の戦い直前となる慶長5年1600年2月、忠政は北信濃川中島137500石を与えられ移された。その後犬山城石川貞清石川光吉)の所領となったが、貞清は西軍属して犬山城抗戦した上に関ヶ原本戦でも戦い戦後改易された。 関ヶ原の戦いののち、桜井松平家松平忠頼武蔵松山藩1万石)は、犬山城城番務めとともに家康からの命を受けて金山城にも在番した。この際、「金山領1万5000石が忠頼に与えられた。これを金山藩立藩捉える見方がある。忠頼は慶長6年1601年4月(『寛政譜によれば2月)に遠江国浜松藩移された。 金山城慶長6年1601年)頃、犬山城となった小笠原吉次清洲藩松平忠吉御附家老)によって破却された。地域幕府代官支配となり、元和元年1615年)からは尾張藩となった

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大宮藩」の記事における「藩史」の解説

大宮村近代には下都賀郡大宮村現在の栃木市大宮町周辺)には、中世には小山氏一族によって築かれ大宮城があった。 貞享元年1684年)、大老堀田正俊下総古河藩13万石)が江戸城中で稲葉正休刺殺された。家督継いだ正仲は、次弟の正虎に2万石を、三弟の堀田正高1万石(下野佐野藩)を分知した。下野都賀郡内に領地得た正虎は、中世大宮城跡に大宮陣屋営んで居所とし、大宮藩立藩した。 正虎の兄の正仲は、古河藩から出羽山形藩経て陸奥福島藩移封され、元禄7年1694年)に死去した。正虎が末期養子としてその跡を継ぐこととなったため、正虎は福島藩移り大宮藩廃藩となった

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七尾藩」の記事における「藩史」の解説

織田信長から能登次いで豊臣秀吉加賀半国と越中三郡を得て次代加賀百万石基礎築き上げた前田利家は、長男前田利長家督加賀所領を、次男前田利政能登七尾215000石を分与していた。利政は七尾港に近い小丸山城移り七尾城1589年天正17年廃城となった。 利家の死の翌年関ヶ原の戦いが起こると、利長・利兄弟東軍として出陣することになったが、利政は大坂妻子人質になっていることを知ってその救出優先すべきと主張して、利長の出兵従わず七尾に留まった。これに激怒した利長は戦後に利政が西軍通じていると訴え出た(『天寛日記』)。このため、利政は所領没収され、その旧領全て利長に与えられ加賀藩成立したちなみに利政の子孫は、加賀藩仕えている(前田土佐守家)。 小丸山城元和元年1615年)の一国一城令廃された。七尾その後商工業港町として発展遂げた

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柿岡藩」の記事における「藩史」の解説

寛永元年1624年)、常陸国新治郡柿岡をはじめ、上野下野において5000石の知行領していた稲葉正勝は、常陸国真壁郡5000石を加増されて1万石の大名となり、柿岡藩立藩した。正勝の父は小早川秀秋仕えた家老稲葉正成。母は稲葉重通養女春日局で、正勝自身徳川家光仕えていたことから加増受けたのである。 正成が寛永5年1628年)に死去すると、正勝家督と父の所領であった下野国真岡藩を継ぐこととなって真岡移ったため、柿岡藩廃藩となり、その所領真岡藩組み込まれた。

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下妻藩」の記事における「藩史」の解説

戦国時代下妻結城氏属していた多賀谷氏治めていた。しかし小田原征伐後、結城秀康結城晴朝養嗣子として当主になると、多賀谷重経徳川氏反発し、秀康の臣下になることを嫌々ながら承諾したが、その後文禄・慶長の役では秀康の出陣命令病気称して拒み、さらに佐竹義宣の弟・多賀谷宣家養嗣子として迎えるなど、反徳川色をますます強めたこのため慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いで重経は秀康に従わず上杉景勝応じ西軍与したため、戦後に6万石改易された。 その後慶長11年1606年)に秀康の異母弟鶴千代10万石で入るが、慶長14年1609年12月22日水戸藩移される。代わって元和元年1615年)に上総姉崎藩より秀康の次男松平忠昌が3万石で入るが、翌年信濃松代藩移封され、代わって下総山川藩から松平定綱が3万石で入るが、元和5年1619年)には遠州掛川藩移封されるなど、短期間藩主めまぐるしく変わったその後正徳2年1712年)までは幕府領となる。 正徳2年12月25日井上正長1万石で入ったことから、再び下妻藩立藩する。正長美濃郡藩主井上正任三男であったが、父から郡上郡内で3000石を分与されて交代寄合旗本となり、徳川家宣甲府藩主の時代からその家老務め家宣将軍後継者となると西の丸御側衆となり、3000石を加増された。そしてその後順調に加増されて8000石になり、家宣死去するとその遺命により、正長2000石を加増されて1万石の大名として下妻藩となった井上家幕末期浜松藩領した井上家分家にあたり、他には上総高岡藩があり、みな明治維新迎えている。 藩主家である井上家歴代藩主多く短命だったため、14人の藩主のうち、10人が他家から迎えられたという異例の家であり、その点においても藩政は不安定であった第14代藩主井上正巳時に明治維新迎え、正巳は明治2年1869年6月24日版籍奉還藩知事となる。そして明治4年1871年7月14日廃藩置県により下妻藩廃藩となって下妻県となり、同年11月には茨城県編入された。

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津藩」の記事における「藩史」の解説

戦国時代の津は安濃津呼ばれ長野工藤氏支配下にあった永禄11年1568年)、織田信長伊勢侵攻長野工藤氏信長降伏し信長の弟・信包を養子迎えて当主とした。信長没後、信包は豊臣秀吉仕え文禄3年1594年)に2万石削減され近江移封された。 代わって、富田知信5万石で入った。知信は慶長4年1599年)に死去し、跡を子の信高が継いだ。信高は徳川家康接近し家康主導による会津征伐参加し石田三成西軍挙兵すると本国戻り西軍伊勢侵攻軍である毛利秀元長束正家戦い敗れて高野山逃れた安濃津城の戦い)。関ヶ原の戦い後家康は信高を2万石加増の7万石安濃津城主として復帰させた。慶長13年1608年8月24日、信高は伊予宇和島藩移封された。 翌日8月25日伊予今治藩10万石から藤堂高虎22万石加増された上で入った内訳伊予越智郡今治2万石伊賀国10万石、伊勢安濃郡一志郡10万石で計22万石である。 高虎江戸城普請などにも功を挙げて家康から絶大な信任を受け、外様ありながら早くから別格譜代厚遇を受けることとなる。慶長19年1614年)からの大坂の陣でも家康側に与して戦功挙げた伊賀上野藩主・筒井定次改易もあって伊勢津藩伊賀国内と伊勢鈴鹿郡安芸郡三重郡一志郡内で5万石を加増され計27万石となり、更に元和3年1617年新たに伊勢度会郡田丸城5万石が加増され、高虎の弟藤堂正高下総国所領3千石津藩領に編入し最終的に323000石を領する大大となった。 なお、田丸5万石は元和5年1619年)に和歌山城徳川頼宣移封されてくると紀州藩領となり、藤堂家には替地として大和国山城国5万石が与えられた。 藩政初代藩主高虎時代行なわれ城郭普請家臣団編成農業制度改革城下町建設などで確立する第2代藩主藤堂高次寛文9年1669年9月29日隠居する際、子の第3藩主藤堂高久命じて次男藤堂高通5万石を分与して、支藩である久居藩立藩させた。このため津藩273950石となった高久元禄10年1697年10月5日藤堂高堅3000石を分与して、27950石となった高久は藩財政再建のため、地方知行制廃止蔵納制の移行田畑永代売買の禁止新田開発商業統制などを行なった効果はなかった。 第4代藩主藤堂高睦在職期に3度にわたる地震などの天災見舞われた上、藤堂家嫡流も高睦をもって早くも終焉し、以後支藩久居藩から招かれ藩主となった者が多い。第5代藩主藤堂高敏、第6代藩主藤堂高治第7代藩主藤堂高朗藤堂高豊)らはいずれ久居藩主を経て津藩になった面々である。なお、これら養子藩主時代幕命による手伝い普請などによる出費天災凶作相次いで財政悪化した第9代藩主藤堂高嶷久居藩から津藩となった養子藩主で、藩財政再建中心とした藩政改革行なったが、あまりに急性すぎる改革周囲反発を受け、寛政年間津藩最大百姓一揆発生して改革挫折した特筆すべき藩主が、第10代藩主藤堂高兌である。高兌も久居藩から転任した藩主で高嶷の実子だったが、すでに久居藩主時代からその敏腕をもって藩政再建成功していた。このため津藩藩政でも綱紀粛正倹約植林養蚕の奨励福祉政策文武奨励などを実行して藩政改革成功させ、藤堂家中興英主と讃えられた。また、文武推奨して藩校「有造館」を創設伊賀にも藩校崇広堂」を創設した。各武術稽古場整備され剣術では新陰流若山流、戸波流などの流儀修練された。 高兌の跡を継いだ11藩主藤堂高猷時代には、凶作地震などの天災が相次ぎ、藩の借金明治に至るまでに212万両にまで達したといわれる幕末には幕府から黒船来航への対策として鳥羽藩とともに伊勢神宮伊雑宮防衛命じられ志摩地方沿岸部には次々と台場築かれ大砲設置された。 慶応3年幕命受けて山崎関門守衛の任に就く。その後の王復古により新政府誕生した後も、政府命令引き続き山崎関門守衛続けた1868年慶応4年1月鳥羽・伏見の戦いが始まると、「薩長と会私闘くみしない」として中立保っていたが、新政府四条隆平津藩陣営勅使として訪れ敗退した旧幕府軍への追撃命じる。津藩守備隊指揮していた藤堂元施吉村長兵衛は、勅命出た以上は官軍協力することを決意し対岸の幕軍砲台砲撃して官軍勝利大きく貢献することになった当初こそ中立宣言していたものの、旧幕府側から味方思われていたため、「藤堂犬侍」「その行い藩祖高虎)に似たり」とそしられた。[要出典] その後津藩兵は戊辰戦争東海道先鋒となって各地旧幕府軍と戦った1869年明治2年)の版籍奉還で、高猷は津藩知事任じられる。しかし1870年明治3年)には高猷が行なった藩政改革平民による部隊編成され、これに不満を持った士族派の長谷部一(藤堂監物)らが反対して処刑されるという庚午事変監物騒動)が起こるなどしている。また、伊賀4郡で打ちこわし(平高騒動)も起こっているなど、高猷の失政目立った1871年明治4年6月28日、高猷は隠居し第12代藩主津藩知事には藤堂高潔就任したが、直後7月14日行なわれ廃藩置県津藩廃藩となり、安濃津となった1872年明治5年)に三重県改称され1876年明治9年)には度会県三重県編入された。

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小幡藩」の記事における「藩史」の解説

[全画面表示] 関連地図群馬県南西部)。

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吹上藩」の記事における「藩史」の解説

藩主有馬家は、筑後久留米藩主・有馬家分家であり、久留米藩初代藩主有馬豊氏三男・頼次を祖とする。頼次の子孫紀州徳川家代々仕え、頼次から4代目の氏倫が徳川吉宗将軍就任伴って幕臣となり、のちに大名として取り立てられた。このため氏倫系有馬家伊勢西条藩、のち上総五井藩)は譜代大名として扱われる吹上藩初代藩主の氏郁は、氏倫から数えて9代目にあたる。 天保13年1842年)、五井藩主だった有馬氏郁下野吹上移封され、吹上藩立藩された。2代氏弘は天狗党の乱戊辰戦争への対応を行っており、戊辰戦争では新政府側に与して奥州出兵している。明治2年1869年3月には、家老若年の氏弘を欺いて軍費戦死者の手当金横領しているとして、家臣団一部江戸藩邸襲撃家老らを殺害するという事件が起こった。この事件起こした9人の吹上藩藩士平民1人について、8人を自裁切腹)、1人斬首刑武士の身分でない平民のため)、1人終身流刑判決明治2年1869年8月出ている。また、太政類典によれば有馬氏弘はこの事件の責任を取る形で明治2年5月12日から同年9月28日まで謹慎10日間の閉門刑罰執行される明治4年1871年7月廃藩置県吹上藩廃藩となり、栃木県編入された。 明治17年1884年7月8日旧藩主家当主の頼之(久留米藩主家からの養子)は子爵叙されている。

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上野豊岡藩」の記事における「藩史」の解説

慶長7年1602年)、根津政直軒)の子である根津信政5000加増により1万石の大名となり、上野豊岡藩立藩した。 信政没後息子政次2代藩主となるが早世、さらに養子となった弟・信直が家督を継ぐものの、寛永3年1626年4月異説として寛永2年1625年))に病死した。 信直に嗣子がなく、根津家は無嗣断絶改易となり、上野豊岡藩廃藩幕府領となった

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喜連川藩」の記事における「藩史」の解説

頼氏は関ヶ原の戦い1600年)に出陣しなかったが、戦後徳川家康戦勝を祝う使者派遣したことから、1602年慶長7年)に1000石の加増受けた。それでも総石高4500石程度過ぎず、本来ならば大名ではなく藩と呼ぶことはできない。しかし江戸幕府開き源氏長者となった家康は、かつての将軍家でありかつ源氏長者でもあった足利氏格式重んじ、高い尊称である御所号許して厚遇した。また四品格となり、代々鎌倉公方叙任され左兵衛督左馬頭称したが、これは幕府から受けた武家官位ではなく自称であった。にもかかわらず幕府などもこの自称認めていた。また足利名字を名乗らず喜連川称した以後将軍代々喜連川家重んじ享保年間には諸侯扱いとなり、藩庁喜連川陣屋のままにもかかわらず10万石相当の国主家格となった。しかし石高大幅に加増されることはなく、喜連川家江戸期通じて表高実高1万石に満たなかった唯一の諸侯とされている。1815年文化12年)に先代藩主であった喜連川恵氏家臣充て書状の中で、喜連川家喜連川藩)に認められ特例として「国勝手」(参勤交代義務免除および妻子在国許可)「諸役御免」(幕府からの諸役賦課免除)「無高にて五千石」(表高無高ゼロ)で、実高は5千石)を挙げている。ただし、参勤交代については毎年12月自主的に参府していた。また、諸役負担表高から計算されるため、表高無高喜連川藩は当然、軍役など諸役負担義務を有さなかった。ちなみに 喜連川氏春の頃までは伺候席前田家越前松平家などと同じ大廊下であった(後に柳之間となる)。こうした高い格式を持つ一方で式日正装通常の四品大名直垂ではなく喜連川家だけ六位以下の平士着用する素襖であったまた、喜連川藩1万石を満たしていないことから、喜連川家諸侯大名)の概念当てはまらないとして高家交代寄合とみなす説もあるが、高家のような具体職掌朝廷との交渉上必要とした武家官位持たず交代寄合のような参勤交代軍役負担義務有しないなど、高家交代寄合概念からも外れている。 このように喜連川家江戸幕府から受けてきた待遇は「大名諸侯)」「旗本」「交代寄合」のいずれにも当てはまらずその実態は幕藩体制における武家身分統制から外れており、徳川将軍家との明確な主従関係すら存在しなかった(喜連川家自身を「天下客位」「無位ノ天臣」と称していた)。こうした特殊な存在許されたのは、喜連川家の祖である古河公方徳川家関東移封の少し前まで実際に関東地方支配者としての一定の権威有していた存在であり、徳川家による関東地方支配および幕藩体制における日本全国支配確立していない時期には喜連川家対す一定の配慮なされたとみられる。『徳川実紀』の「東照宮御実紀附録」(巻17)には慶長20年1615年)閏6月記事として、上洛中の家康拝謁した頼氏が退出時に家康から御送礼受けたことが記載されている。この記事には喜連川家室町将軍家支族鎌倉幕府鎌倉府誤記か?)の末裔であるため、その筋目を重んじたこと、台徳院(徳川秀忠以後御送礼の儀は停止されたことが記されており、徳川家支配安定化とともに喜連川家重要性低下していったことを物語っているが、その特殊な立場明治まで継続していったとみられている。 鎌倉公方以来家臣団は、かつての小弓公方方・古河公方方の対立などで複雑であり、1647年正保4年)には御家騒動喜連川騒動)が起きている。 1789年寛政元年)には500石の加増受けたものの、10万石の格式を保つ出費莫大であり、藩財政厳しかった荒川・内川氾濫天保の大飢饉は藩財政をますます窮乏させた。9代藩主喜連川煕氏1839年天保10年)から藩政改革乗り出し義援米のための倉の設置厳格な検地実行新田開発、藩内の士風刷新などの政策実行しようとした。しかし家中の上士と下士対立と、財政基盤弱さ政策の実行阻害し、ほとんど成果が上がらなかった。唯一の救いは、喜連川奥州街道沿いの宿場町であったことで、奥州大名わけても仙台藩参勤交代時には喜連川宿場潤った仙台藩費用節約のために喜連川通り過ぎたくても、宿場前にはいつも喜連川藩主(御所様)が待っていたという。一度仙台藩喜連川迂回して参勤交代した時には御所様義務もないのに江戸城参勤に赴き、伊達侯に嫌味言った伝えられる江戸時代通じて喜連川家支配続いた明治維新後の1870年明治3年)、廃藩置県先立って喜連川藩封地新政府奉還し日光県組み込まれ喜連川藩消滅した。翌1871年明治4年)には日光県合併に伴い宇都宮県一部となった喜連川家足利姓に復し華族列して子爵叙せられた。

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石戸藩」の記事における「藩史」の解説

藩祖牧野信成である。牧野家には同姓同名の人物同時代にいるために混乱生じやすいが、この信成は天正6年1578年)、牧野讃岐守康成の子として生まれ慶長4年1599年)に家督継いだ人物である。この頃領地は、畔吉小敷谷藤波小泉村(以上 現上尾市)、日出谷村川田谷村(現桶川市)、石戸宿(現北本市)、馬室村(現鴻巣市であった。信成は大坂の陣武功挙げたため、大番頭任じられた。その後5000石から1万1000石にまで加増されて大名列し石戸藩立藩した。寛永10年1633年4月23日のことである。 正保元年1644年3月18日、信成は下総国関宿藩1万7000石に加増移封され、石戸藩廃藩となった正保4年1647年)、信成が致仕すると石戸領5000石は隠居料となり、死後庶子の尹成、永成、直成らに分知された。

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一宮藩」の記事における「藩史」の解説

戦国時代、この地には一宮城存在していた。ここは北条氏里見氏勢力圏境目にあり、しばしば支配者変わったが、小田原征伐の際に本多忠勝によって攻め落とされ廃城となり、以後大多喜藩領などを経て伊勢国八田藩加納家の飛領となった加納家代々紀州徳川家家臣であったが、徳川吉宗将軍就任した際に紀州から随行してそのまま幕臣転じて大名取り立てられた家である。1826年文政9年3月伊勢八田藩であった加納久儔陣屋上総国長柄郡一宮本郷村にあった一宮城跡地移したことにより、一宮藩立藩した。初代藩主である久儔は天保期、軍制改革を主とした藩政改革行なって兵団組織農民徴兵制施行するなど、ある程度成功収めたこのため第2代藩主加納久徴1855年安政2年2月5日講武所総裁任じられた。その後、久徴は奏者番、そして若年寄歴任し公武合体運動推進して活躍した1863年文久3年11月真忠組の乱が起こると、この鎮圧で功を挙げた第3藩主加納久恒1867年慶応3年7月29日若くして死去した。 第4代藩主加納久宜戊辰戦争のとき、新政府側に与した1869年明治2年)の版籍奉還で久宜は知藩事となり、1871年明治4年)の廃藩置県により一宮藩一宮県となり、11月には木更津県経て千葉県編入された。 なお、最後藩主となった加納久宜子爵)は、鹿児島県知事務めるなど明治維新後も政財界で活躍し、後に入閣要請蹴って一宮町となったその子加納久朗は、戦後千葉県知事務めている。平成時代内閣総理大臣となった麻生太郎祖母加納久朗の妹である。 現在の一宮陣屋跡は大手門模擬門があるくらいである。

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小泉藩」の記事における「藩史」の解説

小泉藩藩祖は、賤ヶ岳の七本槍一人として名を馳せた片桐且元の弟・片桐貞隆である。貞隆は兄とともに豊臣秀吉仕えて小田原征伐文禄の役武功挙げ播磨国内で1万石の所領与えられた。貞隆は、豊臣秀頼傅役となった兄・且元とともに秀吉没後豊臣家支えた慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いの後、貞隆は徳川家康によって所領大和小泉1万石に移された。これが小泉藩立藩である。慶長19年1614年)に起こった方広寺鐘銘問題きっかけに、片桐兄弟は秀頼らから家康内通していると猜疑され、貞隆は且元とともに大坂城から退去し摂津茨木城移った大坂城からの退去の際、片桐家の兵300人は完全武装の上鉄砲火縄点火するという物々しいものであったと言われている。豊臣家片桐兄弟という柱石失い同年から始まった大坂の陣で、家康により滅ぼされた。 大坂の陣の後、貞隆は家康の家臣となり、6000石の加増を受け、小泉藩1万6000石となる。 貞隆の子である第2代藩主片桐貞昌茶人として高名であり、「片桐石州」の名で知られる寛文5年1665年)には将軍徳川家綱茶道指南となり、茶道石州流地位築き上げたそのほかにも、建築関係で功績が高い人物である。貞昌は弟の片桐貞晴3000石を分与したため、小泉藩1万3000石となる。 貞昌の三男第3藩主片桐貞房のときに庶兄片桐信隆1000石を分与したため、1万2000石となる。その後、さらに1000石を収公されて、総石高1万1000となった。 第5代藩主片桐貞音不手際から幕府処罰された。第8代藩主片桐貞信は遜斎と号した茶人で、石州流中興の祖といわれている。 幕末期には藩主早世相次いだため、第11藩主片桐貞利からは他家養子迎えられる至った。しかしその養子早世相次いでいる。最後藩主となった片桐貞篤時代幕末迎えた。貞篤は水戸徳川家出身で、天誅組の変鎮圧などに貢献するなどはじめ佐幕派であったが、慶応4年1868年)の戊辰戦争では新政府協力して京都守備務めている。 明治2年1869年)の版籍奉還小泉藩知事となり、明治4年1871年)の廃藩置県藩知事免官され、小泉藩廃藩となった

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成羽藩」の記事における「藩史」の解説

成羽藩元和3年1617年)、因幡国若桜藩山崎家治大坂の陣戦功により35,000石に加増され入部したことに始まる。 家治それまで鶴首城廃し新たに麓に成羽陣屋築いた成羽藩時代家治幕府御用忙殺された。まず、元和5年1619年)の福島正則改易時には義兄池田長幸と共に備後国三原城守衛命じられている。翌元和6年1620年)の大坂城築城工事において天守本丸二の丸石垣構築携わり、その才能評価され築城名手」と呼ばれるようになった。現在でも大坂城天守石垣には山崎家刻印施され石垣を見ることができる。尚、この築城工事出た廃石は、家治アイデア中之島基礎として再利用された。家治中之島開発のきっかけとなったことから、中之島東端現在の北区中之島1~2丁目)には山崎家大坂蔵屋敷所在し通称山崎の鼻」と呼ばれた続いて寛永11年1634年)、伊予国松山藩蒲生忠知死去し無嗣断絶になると松山城城番勤めた。そして寛永13年1636年) 、江戸城外堀普請丸の内1丁目鍛冶橋付近)において、親戚筋の備前国岡山藩主池田光政組頭とする石垣方四組に属し普請行っている。その後その石垣小石川後楽園移設され、現在でも山崎家刻印掘られ石垣を見ることができる。また、家治は飛領の浅口郡連島新田開発積極的に推進し、その技能幕府より高く評価された。尚この連島次男山崎豊治大身旗本(のち交代寄合表向御礼衆)として成羽戻った際に再び山崎家所領となり、江戸時代通じた新田開発奏功し、成羽領が幕末維新立藩する契機となった寛永15年1638年)、島原の乱により荒廃した天草復興託され、7,000石を加増のうえで肥後国富岡藩4万2,000石を与えれて転封となった家治は、上述した築城技術連島新田開発、それに幕府御用への忠勤などが幕閣より評価され、その能力買われ転封となった家治島原の乱によって疲弊した天草復興富岡城修築注力し、その功績により寛永18年1641年)、讃岐国丸亀藩5万3,000石へ加増転封となった。 代わって寛永16年1639年)、常陸国下館藩より水谷勝隆5万石で入部した。なお、勝隆の義弟島原の乱責任を取らされ天草郡4万2,000石を没収され寺沢堅高である。勝隆は成羽陣屋城下町拡張推進したが、寛永19年1642年)に在任わずか3年備中国松山藩転封となったため、成羽藩廃藩となり代官支配天領となった一方明暦3年1657年3月山崎家治嫡孫讃岐国丸亀藩3代藩主山崎治頼8歳夭折し丸亀藩山崎家嗣子断絶改易となった。しかし、治頼の後見人として讃岐国三野郡仁尾5,000石を分知されていた家治次男山崎豊治は、幕府より山崎家名跡相続許され所領安堵された。翌万治元年1658年5月幕府計らい所領備中国川上郡浅口郡内に移され旧領で豊治の出生地でもある川上郡成羽村居所とした。父家治寛永15年1638年)に肥後国富岡藩転出し以来山崎家19年ぶりに成羽に戻ることとなった。豊治は幕府国元赴くことを許可され万石未満旗本ながら領地赴いた。このお国入り山崎家代々習わしとなり、大名同等格式与えれた交代寄合表向御礼衆に加わる契機となったその後豊治の子孫は、転封することなく明治4年1871年)の廃藩置県まで交代寄合表向御礼衆慶応4年1868年)から大名)として成羽の地を治めた交代寄合表向御礼衆時代動向については、特筆すべき事柄あまりない次の3点挙げておく。 1点目は、宝永元年1704年)に2代領主義方が、尊崇していた江戸愛宕神社成羽愛宕山頂に勧請し愛宕神社白谷提にて花火奉納したことである。この花火は現在でも「成羽愛宕大花火」として毎年7月開催されている。 次に2点目は4代領主信盛は嗣子がいなかったため、嫡母実家である豊後国森藩久留島家より久留島光通の六男通有(のちの5代領主義俊)を養子として迎え家督相続させたことである。この養子縁組により、家治・豊治父子血統は信盛をもって途切れることとなった成羽藩最後藩主である治敏は、下総国小見川藩内田氏の男系子孫であり、豊後国森藩久留島氏豊後国日出藩木下氏大和国田原本藩平野氏肥後国宇土藩細川氏などの女系子孫に当たる。著名な先祖には治敏の母(肥後国宇土藩9代藩主細川行芬の娘)を通じて細川幽斎細川忠興、父治正を通じて平野長泰毛利輝元加藤嘉明祖母山崎義徳の娘)を通じて木下延俊戸田忠昌来島長親らがいる。これらの先祖のうち戸田忠昌取り上げると、忠昌は山崎家治後任として肥後国富岡藩主となり、家治再建した富岡城修築領民負担与えるとして破却した人物である。(忠昌の曾孫豊後国日出藩10代藩主木下俊胤であり、俊胤の娘が山崎義徳正室であり、治正の祖母に当たる。) 最後に3点目は、幕末慶応4年1868年)、義厚(大名となり治正と改名)の代に浅口郡連島新田開発分を明治政府申し立て1万2,746石に高直しがあり諸侯列して立藩したことである(維新立藩)。山崎家家治の代より浅口郡内の新田開発推進していたが、豊治の時代である延宝6年1678年)には亀島新田280町歩完成しており、さらに幕末には280町歩余りに及ぶ鶴新田開拓が行なれていた。廃藩置県成羽県となり、後、深津県小田県経て岡山県編入された。山崎家明治17年1884年)の華族令男爵叙されている。

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大田原藩」の記事における「藩史」の解説

大田原氏下野国大名那須氏属す豪族衆・那須七党那須七騎)の一つであった天正18年1590年)、豊臣秀吉小田原征伐のとき、主家那須氏小田原に参陣しなかったが、大田原晴清小田原に参陣したため、7000余石の所領安堵された。慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いで、晴清は東軍与して下野国小山参じた後、帰国して会津の上杉家西軍)の動き備えた。この戦功により戦後徳川家康から5000石を加増され、1万2000石を領する大名となった第3藩主・高清は弟の為清に1000石を分知し、以後表高1万1000となった大田原家小藩ながら、外様大名として明治時代まで存続した。 幕末嘉永3年1850年)、第12代藩主・広清は、藩校時習館」を開いた最後藩主・一清は戊辰戦争において新政府軍についたこのため地理的に東北に近いこの地は旧幕府方の東北諸藩狙われることとなった慶応4年1868年5月城下会津藩攻撃を受け大田原城焼失した明治4年1871年)、廃藩置県により大田原県となる。その後宇都宮県経て栃木県編入された。 大田原家明治2年1869年)の版籍奉還とともに華族列し明治17年1884年)の華族令より子となった

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鹿野藩」の記事における「藩史」の解説

尼子氏遺臣亀井茲矩豊臣秀吉1万3500石を与えられ天正10年1582年)より鹿野城主となりこの地を治めたことに始まる。 慶長5年1600年)茲矩は関ヶ原の戦いに於いて東軍方についたため24500石を加増され、38000石を領することとなった2代・政矩はさらに5000石を加え、43000石を領した元和元年1617年)、政矩は石見津和野藩国替えとなり、鹿野鳥取藩領地となった寛永17年1640年)、播磨山崎藩池田輝澄お家騒動池田騒動)を起こして鳥取藩預けとなったが、堪忍料として1万石を与えられ、ここに鹿野藩が再立藩した。寛文2年1662年)、輝澄の跡を継いだ政直は播磨福本移り鹿野藩は再び廃藩となって鳥取藩領に戻された。 なお、貞享2年1685年)に鳥取藩から新田分知受けて成立した鳥取東館新田藩が、明治元年1868年12月10日に鹿奴(鹿野陣屋藩庁定めており、「鹿奴藩」と呼ばれている。

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高井藩」の記事における「藩史」の解説

尾張徳川家第2代当主徳川光友次男松平義行は、天和元年1681年8月13日信濃国伊那郡高井郡水内郡内において父より3万石分与され、高井藩立藩した。ただし義行尾張藩江戸藩邸住んでおり、藩政三沢彦兵衛代官天和2年1682年)に創設した竹佐陣屋現在の飯田市)に常駐して行なったと言われている。藩政大半尾張藩準拠したものであり、藩法尾張藩倣って制定されている。 元禄13年1700年3月25日高井郡水内郡領地美濃国石津郡海西郡内の領地交換され美濃高須藩立藩し、高井藩廃藩となった。ただし、伊那郡内における1万5000石の所領高須藩領として明治維新まで竹佐陣屋支配されていた。

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作手藩」の記事における「藩史」の解説

奥平信昌徳川家康長女亀姫との間に生まれた四男の松平忠明は、外祖父家康養子となって松平姓名乗ることを許され、兄である松平家治遺領上野国長根に7,000石を領していた。関ヶ原の戦い戦勝に伴い慶長7年1602年)には1万加増1万7,000石で作手入り三河作手藩立藩した。 忠明は、菩提寺甘泉寺庇護する一方で藩政基礎固めるべく早くから検地実施し、さらに家臣団編成努めている。しかし慶長15年1610年)、伊勢亀山藩移封されたため作手藩廃藩となる一方所領忠明慶長19年大坂藩転封して天領となるまでは、そのまま忠明のものであった

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丸亀藩」の記事における「藩史」の解説

1587年天正15年讃岐国織田信長豊臣秀吉の下で功のあった生駒親正封じられる1597年慶長2年亀山丸亀城築き始める。 1602年慶長7年丸亀城完成し、親正の嫡子である生駒一正居城とする。 1615年元和元年播州赤穂の人が塩屋にきて製塩業始める。一国一城令により丸亀城破却命じられる1640年寛永17年生駒騒動により生駒氏改易される。 1641年寛永18年山崎家治肥後富岡より西讃に入封し、丸亀城本城とし丸亀藩となる。生駒氏改易から山崎氏入封まで、讃岐隣国伊予西条藩大洲藩今治藩分割統治となっていた。 1642年寛永19年丸亀城改修着手し、ほぼ現在の縄張りとなる。 1658年万治元年山崎氏3代断絶し改易となり、代わって京極高和播磨龍野より入封する。 1660年万治3年現在の丸亀城天守完成する1670年寛文10年丸亀城大手一の門、二の門を南から北へ移築する。 1688年貞享5年下金中洲別邸をつくり、万象園名づける1694年元禄7年京極高通多度津1万石を分け多度津藩とする。 1705年宝永2年初めての藩札発行する。 1781~1788年天明年間)うちわの製造藩士内職として盛んに奨励される1794年寛政6年藩学校正明館を創立する1838年天保9年金毘羅街道一つである丸亀街道起点目印として、江戸に住む人々浄財により、太助灯篭作られる1858年安政5年西讃府志完成する1871年明治4年廃藩置県により丸亀県となる。

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高松藩」の記事における「藩史」の解説

四国平定後の天正15年1587年)、生駒親正豊臣秀吉から讃岐1国、126千200石(のち高直しで173000石)を与えられたことに始まる。親正の子一正慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いにおいて東軍加担したため、戦後所領安堵された。しかし、第4代藩主高俊の代の寛永17年1640年)にお家騒動生駒騒動)により改易され、出羽国矢島藩転封された。 その後讃岐国一時隣国伊予国の3藩、西条藩主一柳直重大洲藩加藤泰興今治藩松平定房により分割統治された。 寛永18年1641年)、西讃地域山崎家治入り丸亀藩興った寛永19年1642年)、東讃地域常陸国下館藩より水戸藩主徳川頼房庶長子松平頼重12万石で入封し、東讃地域高松藩成立した頼重は入封にあたり幕府より西国諸藩動静監察する役目与えられたという。高松松平家水戸徳川家分家御連枝)であるが独立色の高い支藩水戸藩指示を受ける立場ではなかった。彦根藩井伊家会津松平家と共に代々江戸城伺候席溜詰(最も将軍執務空間である「奥」に近い)であった溜詰とは将軍政治顧問務め大老政治報告聞く立場にあり、(徳川御三家政治への意見介入禁止されていた)、徳川幕府の中では政治最高機関という高い家格有していた。 水戸藩主徳川頼房は甥である将軍徳川家光や二兄(尾張藩主徳川義直紀州藩主徳川頼宣)に先だって嫡男もうけたことを憚って頼重ではなく三男光圀水戸藩主立てた。後に頼重家光配慮により初代高松藩主として高松に入る。頼重家光従兄弟同士であった一緒に風呂に入る程の仲で、江戸城に於いて頼重将軍私室奥の間)にも自由に出入りできたという。 また、水戸藩二代目継いだ光圀家督頼重次男綱條に譲り自身の子頼常を高松藩主に据えた。こういった水戸本家高松藩の子入れ替え何度か行われており、最後の将軍徳川慶喜高松藩初代藩主松平頼重直系の子孫である。 こうした高い格式だったため、正月には近隣の藩からの挨拶を受けるのが慣例だったと言う松平氏は入封当初より、高松城下に水道を引き(地下水使っての上水道日本初とされている。)、灌漑用高松真ん中通っていた香東川流れを西に変えたり溜池造るなど水利の悪い讃岐の地を整備し海岸線沿いを埋め立て新田開発塩田開発行ったまた、漆芸陶器などの生産講道館などの学問奨励した。 藩からは寛政の三博士1人とされる柴野栗山平賀源内などの学者肌の人物多く出ている。 歴代藩主もまた学問歌など優れ将軍朱子学講義した天皇に歌を師事された藩主やその一門からも優れた人物輩出されている。 茶道では千利休を祖とする三千家表千家裏千家武者小路千家)の一つ武者小路千家庇護し現代でも武者小路千家代替わりには高松藩子孫挨拶が行われている。 高松市内の名勝栗林公園」は高松藩主が代々渡って手を加えて完成付させた広大な敷地整った5つの湖が備わった名園であり三名園よりも優れているとの評価もある。平成にはミシュランガイド3ツ星付けている。 また、琴平町金毘羅大権現御朱印地として高松藩からの庇護も受け、江戸時代には伊勢神宮出雲大社並んで一生のうちに一度参詣した神社として全国庶民崇拝受けた松平氏5代藩主頼恭将軍吉宗農産物国内生産研究奨励するとの方針添う形で城下栗林荘(現在の栗林公園)に薬草園を作らせた。ここには藩内の優秀な学者招聘したがその中には平賀源内もいた(初代坊ではない)。また、この薬園初代坊(学長)の医師である池田玄丈に砂糖研究指示したがその研究弟子向山周慶によって実を結び白糖製造可能にした。これにより塩・綿と並ぶ讃岐三白一つである讃岐和三盆糖製造技術確立し、現在も香川県名産品一つとなっている。9代藩主頼恕は久米通賢登用し坂出浜辺日本最大級塩田開発した江戸時代における高松藩での白砂糖と塩の生産量全国となっている。漆芸では玉楮 象谷 による象谷塗り、陶器では紀太里兵衛の里兵衛焼きなどが朝廷や他藩へ輸出される物販として著名となった幕末宗家である水戸藩尊皇に傾く中、溜詰という幕府政治指導する立場にあり、しかも同じ溜間詰という関係から井伊直弼の娘弥千代藩主・頼聰の正室したため苦し立場に立たされた。 加えて13代将徳川家定後継を巡る安政の将軍継嗣問題において、紀州徳川家徳川慶福(後の14代将徳川家茂)を将軍継嗣推した一派井伊会津松平などの溜詰メンバーとして名を連ねることとなり、一橋派本家水戸家とも対立深めることとなった一橋派中心徳川斉昭蟄居申し付けた側であるがこの斉昭が初代高松藩頼重直系であったことなど皮肉な結果となっている。この件で高松市水戸市不仲となっていたが昭和49年友好都市結んだ結局慶応4年1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府方に就いたため、朝敵となった高松藩庇護受けていた京都興正寺高松使者派遣し責任者処罰行って新政府謝罪することを勧めた。そこで、家老2名を切腹させて恭順姿勢を示すことになり、藩主・頼聰も浄願寺にて謹慎同様に藩主松平頼胤江戸にて謹慎した。一方土佐藩中心とする討伐軍は丸亀藩多度津藩従えて高松向かっていたが、高松藩縁戚である徳島藩協力消極的で、松山藩討伐にも兵力割く必要があった土佐藩整備されていない丸亀多度津両藩では攻略困難と見込まれところに高松藩恭順見通しであることが判明し1月20日高松城無血開城されると、ただちに同城に入って接収完了させた。興正寺などの取り成しによって2月には藩主・頼聰に上京謝罪命じられ土佐藩高松城返還し撤退したその結果4月15日新政府への軍資金12万両献上引換宥免された。 ところが、この一連の動き対する藩内の不満が高まり明治2年1869年9月尊王派松崎右衛門暗殺され、頼聰以下の藩首脳はこの事件を、松崎新政府への反逆企て発覚したことによる自殺として届け出た。だが、松崎知己である木戸孝允らはこれを疑い弾正台再調査命じる。その結果、藩内保守派による殺害判明し藩主頼聰は明治4年1871年7月閉門処分命じられるなど、多く藩士処分された。その後間もなく同年廃藩置県により高松藩高松県となるも幕末から明治初期政府からの高松に対して心象からか徳島愛媛統合され独立したとされることなく結果として全国で一番最後に香川県として認められたのが1888年12月3日である。

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伊勢亀山藩」の記事における「藩史」の解説

伊勢亀山戦国時代織田信長豊臣秀吉仕えた関盛信領していた。盛信の子関一政美濃多良移封され、代わって豊臣家の家臣岡本良勝が22000石で入る。良勝は、亀山城築き城下発展させて検地行なったことから確立しているといってよい。しかし慶長5年1600年9月関ヶ原の戦い西軍与して改易された。 代わって東軍与した関一政が、関ヶ原における功績旧領復帰許されて3万石で入る。一政は、亀山宿整備城郭修築などに尽力した。しかし慶長15年1610年7月19日伯耆黒坂藩移封され、8日後の7月27日三河国作手藩より松平忠明5万石で入る。慶長20年1615年5月大坂夏の陣豊臣家滅ぼされると、直後6月10日忠明摂津大坂藩移封され、亀山藩廃藩となり、その領地四日市代官水谷光勝や津藩領として支配された。 元和5年1619年9月29日三河挙母藩より三宅康信1万石で入る。康信は元和6年1620年8月2000石の加増受けて1万2000石の藩主となったが、第2代藩主三宅康盛時代寛永13年1636年5月18日旧領戻された。 約1ヵ月後の6月23日三河西尾藩より本多俊次5万石で入る。俊次は、寛永14年1637年)に領内のほぼ全域検地行ない、翌寛永15年1638年)には代官大庄屋制度確立し亀山城修築行なっている。しかし、慶安4年1651年4月4日近江膳所藩移封となる。入れ替わり石川憲之5万石で入るが、寛文9年1669年2月25日山城淀藩移封となる。 代わって下総関宿より板倉重常5万石で入るが、第3藩主板倉重治時代宝永7年1710年1月26日志摩鳥羽藩移封される。入れ替わり松平乗邑が6万石で入るが、享保2年1717年11月1日山城淀藩移封となる。 再び板倉重治戻ってきて、第2代藩主板倉勝澄時代板倉家石川総慶交代する形で延享元年1744年3月1日備中松山藩移封と、藩主家交替激し土地であり、藩主長期間における支配定着しなかったが、石川総慶が6万石入ってようやく藩主家支配定着したちなみに、この石川家徳川家康から豊臣秀吉主君替えたことで有名な石川数正系統石川家ではなく、数正の叔父石川家成系統石川家である。ただし、血統としては大久保家から養子にきている。 第4代藩主石川総純は米の専売荒地における検地行なって財政再建目指したが、これに反対する百姓一揆明和5年1768年)に起こって改革失敗した。第5代藩主石川総博寛政2年1790年)に藩校明倫堂(のち明倫館改称)を創設した第10代藩主石川総禄洋式軍備導入茶の栽培奨励などを行なっている。 明治2年1869年)の版籍奉還で、最後藩主石川成之藩知事任じられる明治4年1871年7月14日廃藩置県伊勢亀山藩廃藩となり、亀山県安濃津県を経て三重県編入された。

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下館藩」の記事における「藩史」の解説

下館下総結城氏家臣で、結城四天王のひとつ水谷氏支配していた。水谷氏正村(幡竜斎)の時代全盛期迎えた宇都宮氏争って勢力拡大豊臣氏時代には主家をも凌ぐ存在となり、正式に結城氏から独立した。その跡を継いだ勝俊は、関ヶ原の戦い西軍石田三成人質取られかけるなど圧迫受けたが、東軍与したため戦後所領安堵された。勝俊の跡を継いだ水谷勝隆城下町社寺建設検地実施などを行なって藩政確立努めたが、寛永16年1639年6月備中成羽藩移封となる。 代わって同年7月水戸藩主徳川頼房長男松平頼重5万石で入る。頼重城下町の整備水谷氏旧臣登用町年寄設置などを行なって藩政確立するが、寛永19年1642年2月讃岐高松藩移封となり、下館藩一時廃藩幕府領となった寛文3年1663年7月三河西尾藩より増山正弥が23,000石で入るが、元禄15年1702年9月1日伊勢長島藩へ移封となる。代わって丹波亀山藩より若年寄井上正岑5万石で入るが、正岑は城地狭く若年寄としてふさわしくない土地であるとして下館に入ることもなく同年9月28日常陸笠間藩移封となる。わずか1か月にも満たない藩治であったその後、しばらくは再び幕府領となる。翌年1月9日大名列した中山氏一族黒田直邦1万5,000石で入る。宝永4年1707年)に5,000石を加増された。享保17年1732年3月上野沼田藩へ移封された。 代わって伊勢神戸藩より石川総茂が2万石入り以後石川家支配明治時代迎えた石川家治世は9代130年長期わたって安定したため、下館綿花木綿特産地として栄え城下町大い繁栄した。しかし第4代藩主石川総弾の頃から大洪水大火大飢饉などの天災相次いで財政破綻寸前となり、農村荒廃したこのため第8代藩主石川総貨二宮尊徳招聘し、報徳仕法による藩政改革着手している。 最後藩主石川総管幕末期幕府の中で若年寄陸軍奉行務め天誅組反乱鎮圧にも貢献した。しかし総管新政府寄り態度示したため、慶応4年1868年4月戊辰戦争旧幕府軍に攻撃され下館の地を追われた。翌年版籍奉還により知藩事となり、明治4年1871年)の廃藩置県により下館藩廃藩となり、下館県となった

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長尾藩」の記事における「藩史」の解説

[全画面表示] 関連地図千葉県館山市付近慶応4年1868年5月徳川宗家当主徳川家達新政府から駿府藩主として認められ70万石領主として駿河遠江に入ることとなったこれに伴い駿河田中藩4万石藩主であった本多正訥(まさもり)に対して7月新政府より安房国への所替命じられた。新領地安房国3郡(安房郡朝夷郡平郡)内162上総国天羽郡15の計1774万石であった安房への移転にあたり兵学者である藩士恩田仰岳の選定によって、軍事的な観点から白浜に近い滝口要害の地に陣屋長尾陣屋、あるいは長尾城)を建設し藩庁を置くこととなった。ここに長尾藩立藩する。 安房国での仮役所は朝夷郡白浜村南房総市白浜町白浜)の法界寺置かれた。急な移転命令であったために移転先準備整わず藩主正訥や藩士多くしばらくのあいだ藤枝宿寺院止宿した。藩士安房移住本格化するのは、翌明治2年1869年)からである。 明治2年1869年6月、正訥は版籍奉還行なって藩知事となる。この年の夏、台風によって建設中長尾陣屋倒壊した長尾への陣屋建設には土地狭隘さや交通不便などの面から当初から反対論強かったが、陣屋倒壊によって恩田仰岳は譴責を受け、反対論主導権握った明治3年1870年1月以降北条村鶴ヶ谷にあった海防陣屋鶴ヶ谷陣屋北条陣屋とも)を改修し新たな藩庁藩士居住地建設進められた。5月には藩知事正訥が北条陣屋着任11月には長尾から北条藩庁が完全に移転したこの間明治2年1869年9月田中藩時代藩校「日知館」を引き継ぐ藩立学校白浜村設置し北条村北朝(現・南房総市千倉町北朝夷)に分校設けた長尾藩「日知館」では藩士子弟就学義務とするとともに希望する地元住民にも門戸を開いていた。 明治3年1870年12月に正訥は隠居し、後を甥の本多正憲継いだ。翌明治4年1871年7月廃藩置県により長尾藩廃藩となって長尾県となる。同年11月長尾県木更津県編入され、のちに千葉県組み込まれた。なお、北条陣屋明治7年1874年)まで県の出張所として使用された。 明治17年1884年)の華族令公布に伴い、正憲は子爵叙せられた。

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西尾藩」の記事における「藩史」の解説

西尾城は、徳川家康今川氏から自立した永禄4年1561年)、家臣酒井正親城主任命して治めさせた地である。なお、正親徳川家臣団の中で家康から初め城主任命された人物である。 関ヶ原の戦い後豊臣氏恩顧大名家康によって西国移封され、慶長6年1601年2月下総小篠から本多康俊が2万石入った。これが西尾藩立藩である。元和3年1617年10月康俊近江膳所藩移封された。 代わって下野板橋藩から松平成重が2万石入った。しかし元和7年1621年7月丹波亀山藩移封される。 そのため、父・康俊の跡を継いで近江膳所藩第2代藩主となっていた本多俊次が35,000石で西尾藩入ったが、寛永13年1636年6月23日伊勢亀山藩移封された。これにより西尾廃藩幕府領となった寛永15年1638年4月24日下野山川藩から太田資宗が35,000石で入る。資宗は西尾城城下町改築尽力したが、完成直前寛永21年1644年2月28日遠江浜松藩移封された。このため西尾藩は再び廃藩となった正保2年1646年6月23日上野安中藩から井伊直好が35,000石で入る。直好は井伊直政の孫に当たり、西尾城改築完成させた後の万治2年1659年1月28日遠江掛川藩移封された。 直後2月3日相模国内から増山正利が2万石で入る。正利の姉・お蘭お楽の方)は第4代将軍徳川家綱生母で、正利家綱教育係行なった人物であり、その縁から家綱によって大名取り立てられた。第2代藩主増山正弥寛文3年1663年7月常陸下館藩移封された。 代わって、下野国内から土井利長が23,000石で入る。利長は江戸幕府老中大老として前期幕政主導した土井利勝三男である。第2代藩主土井利意税制改革農政尽力した善政行なった名君といわれる。第4代藩主土井利信時代延享4年1747年2月11日三河刈谷藩移封された。入れ替わる形で三浦義理が23,000石で入る。しかし第2代藩主三浦明次時代明和元年1764年6月21日美作勝山藩移封される。 このように江戸時代前期西尾藩転封多く、入封しても十数年で再度移封されるという状況であった出羽山形藩より松平乗祐が6万石で入封して以降、この状況はようやく解消された。乗祐の家は十八松平家の一つ大給松平家宗家に当たり、6万石表高であったが、西尾のみでは石高足らず越前国内にも飛び地として所領与えられた。また松平一門名門として、摂津尼崎藩桜井松平家と共に諸大夫筆頭として殿中での拝謁では従五位下大名の中で最初に拝謁することになっており、以降歴代藩主老中として幕政関与するものが多かった。ただし、幕閣入りしたため松平家財政困窮することが多かった第3藩主松平乗寛松平定信寛政の改革参与し幕政改革に従って藩政改革行ない幕府機構取り入れ行なっている。第4代藩主松平乗全井伊直弼安政の大獄井伊派として一橋派処分務めた。 第5代藩主松平乗秩時代慶応4年1868年)の戊辰戦争では、佐幕派尊王派による大論争が行なわれて藩が分裂の危機陥ったが、下級武士層による尊王派大局占め尾張藩に従って新政府与し存続苦慮している。明治2年1869年)の版籍奉還乗鉄西尾藩知事任じられ明治4年1871年)の廃藩置県藩知事免官され、西尾藩廃藩となった西尾藩山本周五郎作『町奉行日記』(市川崑により『どら平太』として映画化された)の舞台となった藩のモデルと言われる

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東条藩」の記事における「藩史」の解説

[全画面表示] 関連地図千葉県鴨川市付近江戸時代初頭安房一国戦国大名起源を持つ館山藩里見家治めていたが、慶長19年1614年)に改易処分受けた江戸幕府安房国再検地を元和4年1618年)に終え以後安房国大身旗本や小大名配分する元和6年1620年9月下総国生実5000石を知行していた旗本西郷正員は、安房国5000石の加増受けて1万石の大名となり、東条陣屋構えて東条藩立藩した。東条藩は、館山藩改易以後はじめて安房国藩庁置いて成立した藩である。なお、正員館山藩改易に際して城地収公の任を担った一人であった藩領朝夷郡196894石、長狭郡4ヵ3106石の計1万石。 正員寛永15年1638年11月14日死去し、跡を子の延員が継いだ。延員は名君で、領民にも慕われていたと言われているが、後継には恵まれなかった。元禄3年1690年12月25日家督養嗣子の寿員に譲って隠居したが、間もなく幕府から不行状理由蟄居処分となった徳川綱吉側近として仕えていた寿員は、元禄5年1692年2月7日下野国上田(かみだ)に移封され(下野上田藩)、東条藩廃藩となった。 なお、下野上田藩間もなく所領半減処分受けて廃藩となっており、寿員は5000石の交代寄合として生涯閉じている

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飯野藩」の記事における「藩史」の解説

飯野陣屋#歴史」も参照 慶安元年1648年6月26日7000石を知行していた旗本保科正貞大坂定番となって摂津国有馬郡河辺郡能勢郡豊嶋郡などにおいて1万石を加増されたことから、1万7000石の大名として飯野藩立藩した。正貞は初めは兄である保科正光養子となっていたが、兄が2代将軍徳川秀忠落胤(後の保科正之)を秘かに養子として迎えることになったために一度廃嫡された。しかし正之が秀忠の子として認められると正貞が改め保科家家督相続することになったのである。正貞は寛文元年1661年11月1日死去し、跡を保科正景継いだ。このとき、正景は正貞の養子だった保科正英2000石を分与している。延宝5年1677年7月7日、正景は大坂定番になったことから丹波国天田郡内に5000石を加増された。その後歴代藩主多く大坂定番務めた。特に最後藩主保科正益大坂定番務めた後の慶応2年1866年5月26日若年寄にまで栄進し、第二次長州征伐では征長軍の指揮務めた慶応4年1868年)の戊辰戦争では、正益は新政府側に与する代わりに徳川慶喜助命求めて入京ようとしたが、親戚に当たる会津藩徹底抗戦構え取ったため、正益も連座して謹慎処分となった。これに対して正益は幕府側に与した家臣処刑して罪を許されている。翌年版籍奉還により知藩事となり、明治4年1871年7月廃藩置県飯野藩廃藩その後飯野県木更津県経て千葉県編入された。

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五井藩」の記事における「藩史」の解説

五井 木更津 千葉 関連地図 藩主有馬家摂津有馬氏)は、筑後久留米藩主家分家であり、久留米藩初代藩主有馬豊氏三男有馬頼次を祖とする。頼次の子孫紀州徳川家代々仕え徳川吉宗時に側近務めた有馬氏倫大名取り立てられ伊勢西条藩初代藩主となった西条藩南林崎藩とも称する)は、伊勢国上総国下野国またがって1万石を領する定府大名であった天明元年1781年11月28日西条藩5代藩主有馬氏恕上総国市原郡五井本拠移し有馬家五井藩となった有馬家定府解かれ参勤交代命じられ、翌天明2年1782年2月には初めての藩主領国入りが行われている。しかし間もなく、氏恕は天明3年1783年)、23歳死去した。 氏恕の跡は末期養子有馬氏保越後長岡藩牧野忠寛次男)が継いだが、寛政2年1790年)に29歳死去した嗣子はなく、有馬久保伊勢八田藩加納久周次男)が娘婿として迎えられる形で跡を継いだ久保以後嫡男への家督相続が行われるが、幼少短命藩主が続く。 第5代藩主有馬氏郁の代、天保13年1842年4月17日下野吹上藩転封となったため、五井藩廃藩となった。 現在、五井陣屋跡には、JR内房線小湊鉄道線五井駅建てられている。

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鶴牧藩」の記事における「藩史」の解説

鶴牧 (椎津) 五井 木更津 千葉 関連地図 安房国北条藩であった水野忠韶文政10年1827年5月19日上総国市原・望陀両郡に移封されたことから、鶴牧藩立藩した。忠韶は市原郡椎津1万7000坪の城地陣屋建設する城主格大名であったことから、この陣屋鶴牧城(鶴牧陣屋)と名づけられた。しかし忠韶は翌年5月27日68歳死去し、跡を養嗣子水野忠実酒井忠徳次男)が継いだ忠実奏者番西の丸若年寄などを歴任し藩政においては財政再建のために倹約などの諸政策を講じたが、あまり効果はなかった。天保13年1842年1月19日忠実死去し、跡を嫡男水野忠順継いだ明治元年1868年4月戊辰戦争のときに鶴牧藩内の市原郡五井村五井村戦争が起こる。この不手際から同年10月安房国長狭上総国夷隅市原埴生長柄・山辺などの所領上知され、代わって上総国市原・望陀両郡に新たな所領与えられた。翌年版籍奉還忠順藩知事となった。そして忠順官制軍制改革を主とした藩政改革行なったが、明治4年1871年7月廃藩置県鶴牧藩廃藩となった

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紀州藩」の記事における「藩史」の解説

紀伊国慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いの後、甲斐国であった浅野幸長与えられ外様浅野家治め紀州藩成立した元和5年1619年)の福島正則改易に伴い浅野家安芸国広島藩移されると、それまで駿府藩主だった徳川家康の十男・徳川頼宣浅野旧領南伊勢を加えた555千石入部紀州徳川家治め親藩紀州藩成立した。 頼宣は浪人多く召抱え、慶安4年1651年)の慶安の変ではその首謀者由井正雪との関係を幕府疑われたこともあった。これは将軍家対す対抗心からともいわれる詳細不明。頼宣の孫である第3藩主の綱教は第5代将軍徳川綱吉長女鶴姫娶ると、子のない綱吉後継者擬せられるようになった早世した。その後紆余曲折経て享保元年1716年)に綱教の弟で第5代藩主吉宗将軍家相続し第8代将軍となると、200名を超える紀州藩士が吉宗供奉して江戸上り幕臣組み込まれた。 吉宗出した後に支藩から宗家相続した6代藩主の宗直は、石高57%を損失した享保飢饉による財政難を2万両公金拝借切り抜けたが、以後はこの財政赤字公金で繕うやりくり踏襲された。和歌山藩将軍家に近いことから財政的に幕府への依存深め、これが一方で幕府財政圧迫する要因となった。 第11藩主の斉順は天明年間拝借金棄損となり、幕府大坂詰米より新たに2俵を借用した拝借金残金は45千両達していた。 第13代藩主慶福は第11代将軍・徳川家斉の孫で、安政5年1858年)に子のない第13代将軍・家定の後将軍家を相続し第14代将軍家となった第8代将軍吉宗以後歴代将軍はいずれ紀州藩およびその連枝である一橋徳川家連なる者で占められることになった明治期には廃藩置県により和歌山県になるが、紀伊国東部伊勢国紀州藩領は三重県編入された。

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高畠藩」の記事における「藩史」の解説

藩主家織田氏である。明和4年1767年8月上野国小幡藩織田信邦明和事件連座したため、信邦は幕命により強制隠居の上蟄居命じられた。家督は弟の信浮が相続し小幡から高畠への移封命じられた。封地としては、上述高畠の六天童など村山郡一部信夫郡一部。なお、この時にそれまで織田氏国主格などの特権全て剥奪され無城陣屋大名降格された。信浮をはじめ藩士陣屋藩庁として整うまで、役宅などに在住するなど上杉氏庇護受けた高畠陣屋は、高畠城縄張り内に置いたが、のち糠野目移された。旧陣屋破却はされず米沢藩管理した天明2年1782年)からの天明の大飢饉で藩財政悪化し家臣団ですら食うに困って織田家から辞した者も少なくなく、藩主幕閣対し小幡への復帰嘆願したが、叶えられなかった。文化7年1810年)には陣屋焼失し、再び上杉氏援助受けた文政9年1826年)には2度目焼失で、織田氏はまた高畠城内の陣屋戻り糠野目陣屋再建されなかった。 第3藩主織田信美所領大部分天童中心とした村山郡集中していることを考慮して居館高畠陣屋から天童移そうとした。文政11年1828年5月幕府から移転許され天保元年1830年)に陣屋天童移したこのため以後は「天童藩となった

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土佐藩」の記事における「藩史」の解説

土佐藩領域戦国時代末期には長宗我部家統治していたが、長宗我部盛親慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いにおいて西軍与して改易となった。この合戦において徳川家味方した遠江掛川城主・山内一豊が、新たに土佐国202600石を与えられた。以降明治時代初頭まで山内家治めた当初、「一領具足」と呼ばれた半農半兵の長宗我部家旧臣が、山内氏馴染まずに反乱繰り返したため、山内家は藩内の要衝重臣配して反乱備えた中村山内康豊(2万石)を始め佐川深尾重良1万石)、宿毛山内可氏7000石)、窪川山内一吉5000石)、本山山内一照1300石)、安芸五藤為重1100石)を配している。 当初、一豊は長宗我部家浦戸藩)の旧城である浦戸城入城したが、城下町を開くには狭かったため、現在の高知市中心部高知城城下町の建設行った藩政確立したのは2代山内忠義時代で、忠義野中兼山登用して新田開発など殖産興業努めたが、兼山強引な施策政敵恨み買って失脚する。 藩財政江戸時代中期頃までは比較安定的に推移したが、宝暦期(1751年 - 1764年以降一揆農民他領への逃散など藩政には動揺見られた。9代・山内豊雍による質素倹約基本とする藩政改革天明の改革が行われ、藩政はやや立ち直った。さらに13代・山内豊熈は「おこぜ組」と呼ばれる馬渕嘉平中心とする改革派起用して藩政改革乗り出した藩閥派の敵対により失敗した幕末には、15代豊信(容堂)が吉田東洋起用して改革断行した東洋保守派門閥郷士反感を買い武市瑞山中心とした土佐勤王党によって暗殺された。後に勤王党実権回復した容堂(豊信)の報復を受け、瑞山切腹党員処刑されるなど弾圧解散された。なお、上士勤王派から板垣退助や、東洋門下より後藤象二郎岩崎弥太郎明治時代代表する人物を、また、郷士である坂本龍馬中岡慎太郎など優れた人材輩出された。坂本後藤通じて容堂から15代将徳川慶喜献策された大政奉還により、江戸幕府歴史閉じられた。土佐藩薩長土肥一角をなし、時代転換大きな役割演じた明治4年1871年)、廃藩置県により高知県となった山内氏明治17年1884年)の華族令により侯爵に列せられた。

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津和野藩」の記事における「藩史」の解説

戦国時代津和野大内氏毛利氏仕えていた豪族吉見氏支配していた。そのため、関ヶ原の戦いまで毛利であった

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烏山藩」の記事における「藩史」の解説

戦国時代烏山那須氏一門である那須資晴治めていた。天正18年1590年)、資晴は豊臣秀吉小田原征伐に参陣せず改易となる。子の資景は那須藩立藩する。天正19年1591年)、成田氏長が2万石烏山入部する。これが烏山藩立藩である。氏長後北条氏家臣で、小田原征伐では小田原城に籠もっていたが、北条氏滅亡後秀吉から召し出された。氏長死後家督は弟の成田泰親(長忠)が継いだ慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いで長忠は東軍与し在国して上杉景勝備えた戦功評されて、1万7000石を加増された。大坂の陣でも徳川方として参戦し武功挙げたが、元和2年1616年12月18日、長忠が死去した後に家督争い起こり、27000石の減封処分となる。家督は長忠の次男成田泰之継いだ。泰之は元和8年1622年11月8日死去し成田家では再び家督めぐって騒動起こり改易となる。 元和9年1623年3月15日常陸国小張藩から松下重綱が2800石で入る。寛永4年1627年3月14日陸奥国二本松藩移封となる。代わって下野国真岡藩から堀親良が25000石で入る。親良は寛永14年1637年5月13日死去し、跡を堀親昌継いだ。親昌は領内検地行い烏山城改修を行うなどして藩政基盤固めた寛文12年1672年)閏6月1日、親昌は信濃国飯田藩移封となり、代わって京都所司代老中職を歴任した板倉重矩入った。重矩は家臣地方知行制度を廃止して村請制制定した寛文13年1673年5月29日に重矩が死去した後、その跡を継いだ板倉重種烏山城拡張工事城下町区画整備宗門改めなどを行い藩政基礎固めた延宝9年1681年2月25日武蔵国岩槻藩移封となる。 代わって下野国那須藩から那須資弥が2万石で入る。90年ぶりの那須氏旧領復帰となった貞享4年1687年6月25日、資弥が死去し、その跡を継いだ養子那須資徳のときに家督争い起こり同年10月14日那須氏改易となった烏山騒動)。代わって河内国摂津国山城国などに所領領していた永井直敬が3万石入った元禄15年1702年9月1日播磨国赤穂藩浅野氏赤穂騒動取り潰された後を受けて、直敬は赤穂藩移封となる。 代わって若年寄であり、上総国大多喜藩であった稲垣重富が25000石で入る。宝永7年1710年4月17日重富死去し、跡を稲垣昭賢継いだ享保10年1725年10月18日、昭賢は志摩国鳥羽藩移封となる。 若年寄近江国内に1万5000石を領していた大久保常春が2万石入り以降大久保家定着した。後に常春老中栄進したため役料として1万石を加増された。常春領民家臣に対して法律制定することで藩政固めた。しかし第3藩主大久保忠卿治世末期から農村荒廃化や財政難深刻化し、第4代藩主大久保忠喜倹約令荒地改めなどによる藩政改革行ったが、効果はなかった。第5代藩主大久保忠成農村支配の強化結婚奨励政策などによる「厳法と言われる藩政改革着手したが、やはり効果はなかった。第6代藩主大久保忠保菅谷八郎右衛門家老登用し、さらに二宮尊徳から報徳仕法などを学ぶことで藩政改革目指した。天保10年1839年12月17日 復興事業先導していた菅谷八郎右衛門辞職願提出復興事業中断する菅谷は同25日隠居を命ぜられる。翌天保11年1840年12月11日菅谷復興事業反対派圧される形で失脚し領外追放となる。その後、帰藩を許され復興事業再開のため、200石で家老職復帰する弘化2年1845年3月菅谷隠居復興事業には3年復帰していたが、結局挫折した嘉永5年1852年1月9日死去)。 幕末期は藩の領内荒廃して確立していなかったことなどもあり、あまり目立ったことはなかった。明治2年1869年)に版籍奉還が行われ、明治4年1871年7月廃藩置県烏山藩廃藩となる。その後烏山県となり、同年11月宇都宮県に、また相模国内の管轄区域神奈川県足柄県編入された。

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福知山藩」の記事における「藩史」の解説

関ヶ原東軍与した有馬豊氏は、本戦後ろ揃え務めたことで、遠江横須賀3万石から福知山6万石加増移封されて福知山藩立藩した。慶長7年1602年)に豊氏の父・有馬則頼死去すると、豊氏は父が摂津三田知行していた2万石併せて相続することとなり、福知山都合8万石大名となったその後大坂の陣においても徳川方として武功挙げたため、元和6年1620年)閏12月20万石加増の上筑後久留米藩移封された。 その後伏見奉行小堀政一がしばらくは統治行なう元和7年1621年8月丹波亀山藩から岡部長盛5万石で入るが、寛永元年1624年9月美濃大垣藩移される替わって摂津中島藩から稲葉紀通が45700石で入るが、慶安元年1648年8月改易となったその後半年ほどは公儀御料として幕府直轄したが、慶安2年1649年2月28日三河刈谷藩から松平忠房が45900石で入る。これも寛文9年1669年6月8日には肥前島原藩に7万石加増移封となり、替わって常陸土浦藩から朽木稙昌が32000石で入り以後朽木氏13代の支配藩政安定した明治4年1871年7月14日廃藩置県福知山藩廃藩となり、福知山県となる。同年10月2日豊岡県となり、明治9年1876年8月21日には京都府編入されることとなった

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島原藩」の記事における「藩史」の解説

島原戦国時代有馬氏治めていた。キリシタン大名有馬晴信関ヶ原の戦い東軍与して本領安堵されたが、慶長17年1612年)、岡本大八事件により、甲斐国都留幽閉の上切腹処された。しかし子の直純は、父の晴信と疎遠幕府とも親しかったことから、事件の累が及ばず遺領を嗣いだ。直純は慶長19年1614年)、日向国県藩延岡藩)に加増の上転封となったその後しばらく幕府領となったが、やがて元和2年1616年)、松倉重政大和国五条藩より4万石で入る。松倉氏は戦国時代筒井順慶家臣として仕えた。特に重政の父・松倉重信島清興と共に右近左近」と称されるほどの名将であったが、重政は父に似ず暗愚で、領民苛酷な政治敷きキリシタン厳しく弾圧したまた、彼の代に島原城築かれ政庁日野江城からこちらに移った。 そして重政の後を継いだ勝家は父以上の苛酷な政治敷きキリシタン厳しく取り締まった勝家残酷さを示すものとして、年貢払えない者には着せて生きたまま火あぶり処すという、いわゆる踊り」という処刑方法があったという。また、年貢払えない者の子女を捕らえて処刑したり、幕府歓心を得るために4万石取立て10万石と申告するなど、島原はまさに地獄そのものだったという。この苛酷な勝家政治遂に領民怒り爆発し寛永14年1637年)に天草四郎総大将として有名な島原の乱が起こる。領民怒りは凄まじく、松倉軍の中にも領民側に寝返る者が現われたため、松倉単独ではとても鎮圧できなかった。ここに至って江戸幕府事態重く見て板倉重昌総大将とした鎮定軍を派遣するが、重昌は功にあせって戦死してしまう。代わって「知恵伊豆」で有名な老中松平信綱総大将となる。信綱は九州諸大名およそ12総動員して原城兵糧攻めにした。この中には戦国時代古強者立花宗茂らも加わっている。反乱軍兵糧攻めにはかなわず、3ヵ月後に反乱鎮圧四郎はじめとする反乱軍皆殺しとされてしまった。その一方領主松倉勝家苛酷な政治敷いて領民反乱を引き起こさせた責任厳しく問われ、乱の鎮圧後斬首刑処された。勝家大名身分ありながら武士としての名誉の刑である切腹さえも許され一介罪人として斬首刑処された点からも、幕府勝家の罪をいかに重く見ていたかがうかがえる松倉勝家の後、徳川氏譜代家臣高力忠房遠江国浜松藩より4万石で入る。忠房は乱で荒廃した島原地方復興することに尽力した。そして巧み農業政策植民奨励政策などを行なって島原復興成し遂げたのであるちなみに現在、島原多く方言があるのは、忠房が各国武士の次男・三男農民などの植民奨励して様々な国の人々島原土着したためと言われている。しかし忠房の後を継いだ隆長は藩の体制確立躍起になったためか失政多く幕府より咎を受け寛文8年1668年)に改易となった。 代わって丹波国福知山藩より深溝松平氏松平忠房が65000石で入る。松平氏5代わたって島原支配したが、寛延2年1747年)に下野国宇都宮藩戸田忠盈が77000石で入り入れ替わり松平氏宇都宮移封戸田氏2代続いたが、安永3年1774年)に宇都宮移封されていた松平氏が65000石で再び戻ってくる。戸田氏入れ替わり宇都宮へ戻る。以後松平氏8代わたって支配し明治4年1871年)の廃藩置県迎え島原県となったその後長崎県編入された。 島原の乱教訓からか、松倉氏の後に入った高力松平戸田の3氏はいずれも、徳川氏譜代家臣である。なお、島原気候温暖であるが火山地帯土地がやせており、実際年貢収穫高は表高よりも少なかったと言われている。

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白河藩」の記事における「藩史」の解説

白河の地は、古代においては白河の関設けられ奥羽地方への出入り口として要衝の地となっていた。江戸時代になって白河藩締め地位奥羽地方外様大名抑えであり、初代丹羽氏除いて有力な親藩譜代大名頻繁に入れ替わった三方領知替え3度行われた藩でもある。 戦国時代後期からは一時会津藩となった江戸時代初頭寛永4年1627年)、陸奥国棚倉藩福島県東白川郡棚倉町)より丹羽長重10万石余で入り白河藩成立する長重白河城とその城下町建設した寛永20年1643年)、第2代藩主・光重のとき、丹羽氏陸奥国二本松藩転封となった同年上野国館林藩より榊原忠次14万石入部した忠次は母が徳川家康の姪にあたることから一代限って松平姓許されていた。慶安2年1649年)、播磨国姫路藩転封となる。 替わって越後国村上藩より本多忠義12万石入部する忠義新田開発に力を注いで実高1万5千石加え慶安3年から4年1650年1651年)には検地行ってさらに実高37千石加えた。さらに付加税の別俵を徴して増収努めたが、年貢増に喘ぐ領民反発減免求めて幕府への直訴招いた第2代藩主の忠平のとき、天和元年1681年)に下野国宇都宮藩転封となった入れ替わり同地より奥平松平家松平忠弘15万石入部する。病に伏した松平忠弘は、家老・奥平金弥と黒屋数馬対立治めきれず、元禄5年1692年)、お家騒動のため藩主閉門の上出羽国山形藩転封となった。忠弘は隠居したが、後を継いだ孫の忠雅は減封のみならず程なく備後国福山藩伊勢国桑名藩へと次々転封命じられるなど厳し処分となった入れ替わり同地より越前松平家松平直矩15万石入部した苦しい藩財政の中、家臣禄高減じるなど財政改革断行したが、これに反対する土岐派により中断余儀なくされた。享保5年1720年)には土岐派が進めた強引な増税大規模な農民一揆引き起こした第3藩主・義知は目安箱設置して藩政改革努めたが、寛保元年1741年)に姫路藩転封となった替わって越後国高田藩より久松松平家松平定賢が、高田藩領だった越後国柏崎所領と共に都合11万石入部する。この久松松平家徳川家康異父久松定勝三男・定綱の系統であるが、第2代藩主の定邦の跡に御三卿田安徳川家初代当主徳川宗武の七男が入った。これが後に老中首座進み寛政の改革行なった第3藩主定信である。文政6年1823年)、次の永のときに久松松平家旧領伊勢国桑名藩転封となった替わって武蔵国忍藩より阿部正権10万石で入部する以後幕末まで阿部家8代44年間在封した。幕末分家旗本から本家相続し第7代藩主となった正外は間もなく老中となり、攘夷派反対押し切って兵庫開港決定したが、結果的にこれが仇となって老中罷免され、4万石減封された。慶応2年1866年)、第8代藩主の正静のとき棚倉藩転封白河藩領は二本松藩預かり地となったため、戊辰戦争時は藩主不在係争の地となり、白河城戦火によって大半焼失した慶応4年1868年2月、正静は白河藩復帰したが、同じ年の明治元年12月、再び棚倉藩転封となり白河藩廃藩となった以後天領天皇御料地)となり、明治2年1869年8月白河県設置された。明治4年1871年7月廃藩置県はさんで同年11月二本松県となり、その後福島県へ編入された。

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鳩ヶ谷藩」の記事における「藩史」の解説

阿部正勝は、徳川家康織田家今川家人質となっていた頃から仕えていた譜代家臣で、家康関東入部する武蔵国足立郡鳩ヶ谷などで5000石を与えられた。鳩ヶ谷鎌倉街道要衝であった町で、江戸時代には日光御成道鳩ヶ谷宿となる。 慶長5年1600年4月7日正勝大坂死去し、跡を子の阿部正次継いだ。正次は徳川秀忠のもとで御書院番頭務め会津征伐にも供奉して宇都宮至っているが(なお、会津征伐赴く家康秀忠父子鳩ヶ谷で1泊している)、関ヶ原の戦いでは家康に従っている。戦後相模国高座郡一宮現在の神奈川県高座郡寒川町一之宮付近)に5000石を与えられ1万石を領して大名列した。『寛政重修諸家譜によれば居所鳩ヶ谷とされており、ここに鳩ヶ谷藩立藩する。なお、鳩ヶ谷陣屋所在地はっきりしておらず、一説法性寺境内現在の埼玉県川口市桜町)であるという。 慶長15年1610年)、下野国都賀郡鹿沼領内5000石を加増された。その後、正次は大番頭伏見城番などを歴任し大坂の陣従軍して戦功挙げた元和2年1616年)、大坂の陣での功績理由として、下野鹿沼郡内7000石を加増合計22000石)。元和3年1617年9月8000石を加増の上上総国大多喜藩移された。 鳩ヶ谷藩廃藩となり、その所領幕府領となって代官伊奈氏支配となった。なお、阿部正次その後数度加増転封経て最終的に岩槻藩86000石の藩主となった

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菰野藩」の記事における「藩史」の解説

藩祖土方雄久長男土方雄氏である。雄氏は織田信雄豊臣家仕えて伊勢菰野1万石を領していたが、慶長4年1599年)に徳川家康本多正信主従画策した「幻の家康暗殺事件」の嫌疑かけられ所領没収され常陸国太田追放となった。しかし関ヶ原の戦い直前赦免され、雄氏は伊勢近江国内に1万2000石の所領与えられ菰野陣屋構え菰野藩立藩した。第2代藩主土方雄高陣屋と城下町を建設し商工業者招いて新たに東町河原町新設するまた、藩の体制整備して藩政基礎固めた。 しかし以後藩主財政において放漫だった結果菰野藩財政逼迫する。このような状況見た第7代藩主土方雄年保守的な家臣団処罰し緩んだ綱紀引き締め図ったが、大坂駿府加番勤務、藩内における凶作などの天災から、藩財政悪化一途たどった第9代藩主土方義苗は「臨時準備積立法」を制定し年間225俵の米を1割2分の利で13年間も積み立てた。さらに質素倹約経費節減灌漑工事などを積極的に行なって財政再建成し遂げ文化的に藩校麗沢館を創設するなどした菰野藩中興名君であった第10代藩主土方雄興のとき、佐々木惣吉が稲の品質改良務め、種関取米の栽培に見事成功したまた、紅屋善左衛門現れ菰野として売出しをはじめ、嘉永年間には大谷左衛門が第11藩主土方雄嘉許可得て茶園建設した明治4年1871年)、廃藩置県により廃藩となって菰野県安濃津県となり、翌年三重県編入された。 年貢取立て比較緩やかだったため、明治維新まで一揆がなかった珍しい藩である。

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芝村藩」の記事における「藩史」の解説

織田信長の弟で茶人として有名な織田有楽長益)は、関ヶ原の戦いでは東軍与して戦功挙げたが、その後豊臣秀頼大叔父に当たるということから豊臣氏家臣となっていた。ただし、これには徳川氏間諜として豊臣氏潜り込んでいたという説もある。しかし大坂冬の陣では豊臣氏与していたため、豊臣氏滅亡後徳川氏釈明する意思を表すために、有楽は3万石所領のうち、1万石を自分隠居料味舌藩)に、残り1万石ずつをそれぞれ四男の長政と五男の尚長に分与し相続させた。この四男・長政系統芝村藩、五男・尚長の系統柳本藩としてそれぞれ存続することとなる。 藩政基礎初代藩主長政の頃に固められた。第4代藩主織田長清の頃には長清自身優れた文化人であったことも影響して藩校遷喬館設立され藩士文武奨励され、さらに長清によって織田氏信長記録である『織田真記』15巻編纂されるなど、芝村藩全盛期迎えた長清陣屋戒重から岩田移そう願い出て宝永元年1704年4月11日認められたが、しかし長清治世末期頃から財政悪化表面化し実現しなかった。正徳3年1713年9月27日岩田村芝村改めたのち、芝村陣屋桜井市織田現在の市立織田小学校)に移転したのは、第7代藩主織田輔宜の代である延享2年1745年)閏12月12日のことである。ちなみに長清以来歴代藩主陣屋移転こだわったのは、戒重年貢収納不便な土地だったのに対し芝村岩田村)が藩領中心地何かと便利だったためである。 ちなみに第7代藩主・輔宜の頃から幕命によって幕府領預かり任されるようになった延享3年1746年)には預かり地が9万石近く達し第8代藩主織田長教の代になると93430石を任されるようになった。つまり、大半預かり地であるが芝村藩領は10万以上になったのである。さらに預かり地統治任されていた杉浦弥左衛門吉田左衛門らの預かり地における統治ある程度成功収めたため、幕府から厚く賞賛されるに至った。しかし宝暦3年1753年)末、杉浦吉田が行なった年貢増徴政策に対して預かり地における百姓一揆頻発し遂に百姓たちが芝村藩批判して預かり地所替え要求する至った。これを芝村騒動という。幕府はこの騒動鎮圧したが、寛政6年1794年)に預かり地における芝村藩役人による不正が発覚し幕命により藩主・長教をはじめとする要人処罰され預かり地全て召し上げられるに至った。 藩内においても長教の時代から藩財政窮乏化深刻化し明和5年1768年)末には年貢減免求め強訴発生する。これに対して藩では藩札発行家臣知行借り上げ御用金調達などによる藩政改革試みられたが、あまり効果はなく、安政6年1859年)には藩の借金は銀2693貫という莫大なものになったと言われている。 幕末期最後藩主である織田長易天誅組追捕功績挙げている。しかし明治維新頃から幕府より離れて新政府側に与し維新後高取藩と共に大和国内における御料取締り命じられた。明治2年1869年)の版籍奉還で長易は藩知事となり、同4年1871年)の廃藩置県芝村藩廃藩となった藩領のうち、摂津国島下郡における領地大阪府大和山辺郡式上郡奈良県それぞれ編入された。 代々墓所桜井市内にある慶田寺であり、有楽分骨墓標もある。なお、織田氏諸藩では他に、織田信雄系統天童藩柏原藩が、有楽系統では上述柳本藩が、明治維新まで存続した。有楽系統は他に野村藩存在したが、江戸時代初期除封、無嗣断絶している。

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仁正寺藩」の記事における「藩史」の解説

戦国時代蒲生氏本拠として蒲生氏郷輩出した日野城中野城)は、関ヶ原の戦い領主長束正家没落と共に廃城となる。 元和6年1620年)、市橋長政近江国蒲生野洲両郡と河内国内に合わせて2万石与えられたことから、かつての日野城跡に仁正寺陣屋設置仁正寺藩立藩した。長政元和8年1622年1月幕命により市橋長吉三四郎)に2000石を分与したため、所領1万8000となった長政徳川家光の下で奉行として功を挙げている。慶安元年1648年)に長政死去すると、跡を長男市橋政信が継ぐ。このとき、弟の市橋直に1000石を分与したため、1万7000となった。政信は徳川家綱徳川綱吉の下で功を挙げている。その後藩主は第5代藩主市橋直挙第8代将軍徳川吉宗認められ教養人であるということくらいで、特筆すべき事柄はない。 最後藩主であった市橋長和は、幕末の動乱の中で国防のために火薬製造武芸奨励などに尽力した文久2年4月28日1862年5月26日)には仁正寺を西大路改名したため、以後西大路藩称された。長和当初佐幕派であったが、次第新政府側に傾いてゆき、明治天皇東京へ行幸するときには天皇奉送京都守衛などで功績挙げている。明治2年1869年)の版籍奉還長和藩知事となり、2年後廃藩置県西大路藩廃藩となったその後西大路県大津県経て滋賀県編入された。

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七日市藩」の記事における「藩史」の解説

七日市藩藩祖は、加賀藩前田利家の五男の利孝である。利孝は利家の死後異母兄の利長が徳川家康本多正信主従画策で「幻の家康暗殺事件」の疑惑かけられた際、利長の生母芳春院(まつ)と共に人質として江戸で幼年期過ごした大坂の陣で利孝は徳川方として参戦して武功挙げたことから、元和2年1616年12月26日七日市1万石(寛文4年調査では12036石、貞享元年調査では13135石)の所領与えた。これが七日市藩立藩である。小藩であったため、また天保の大飢饉などの天災相次いだため、本家である加賀藩財政的援助受けてようやく存続するというような状況であった歴代藩主多く駿府城大坂城守備役を務めている。 第11藩主・利豁の代である天保13年1842年)、藩校・成器館が創設された。しかしこの頃には七日市藩邸が焼失するなど、治世多難極めた慶応4年1868年)の戊辰戦争では新政府側に与し会津藩討伐参加した翌年版籍奉還最後藩主の利昭は知藩事となる。利昭は成器館を文武学校改称し、さらに軍務局はじめとする藩政改革行なった明治4年1871年)の廃藩置県七日市藩廃藩となる。その後七日市県経て群馬県編入された。

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高岡藩」の記事における「藩史」の解説

[全画面表示] 関連地図千葉県北部高岡周辺は、中世には大須賀荘の一部で、高岡にある天台宗寺院眞城院寺伝によれば応永3年1396年)に創建されている。高岡村江戸時代初期には佐倉藩となっていた。なお、近世近隣滑河(なめがわ)(滑川には「滑河河岸」、猿山には「源太源田河岸」があり、利根川水運要衝として栄えた地域である。 藩祖である井上政重井上正就の弟)は徳川秀忠家光2代仕えて大坂の陣などで功績挙げ御書院番士大目付当時は惣目付という名称)などを歴任して次第加増を受け、島原の乱でも戦後理などで功を挙げたこうした功績によって寛永17年1640年6月12日、政重は6000石を加増されて1万石を領する大名となった。ただし、当時高岡陣屋築かれず、江戸定府していた。政重はその後キリシタン取締りのために宗門改役設置し長崎出島における交易制限行なうなど、鎖国体制確立尽力した。この功により寛永20年1643年5月23日3000石を加増された。政重は万治3年1660年7月9日に、加齢理由として家督井上政清譲って隠居する第2代藩主・政清のとき、弟の井上政則に1000石、井上明に500石を分与したため、高岡藩領は1万1500石となる。第3藩主井上政蔽のとき、高岡陣屋築かれた(高岡陣屋)。また、弟の井上政式に1500石を分与したため、高岡藩領は1万となった高岡藩領地上総下総分散しており、早い時期から財政難に陥っていたという。元禄年間、政蔽は財政家として知られる松波勘十郎(良利)を招聘して財政再建委ね成功したとされる高岡藩尾張藩つながり深く、第6代藩主井上正国徳川宗勝の十男、第7代藩主井上正紀尾張藩付家老家である竹腰勝起次男である。第10代藩主井上正和文久2年1862年)に江戸藩邸内に藩校学習館創設した儒学者朝川善庵門人の随朝欽哉などが教授し藩士だけではなく庶民入学許可した開放的な藩校であった譜代井上家は他に常陸下妻藩主家もあり、みな明治維新迎えている。 最後藩主井上正順明治2年1869年)の版籍奉還知藩事となる。2年後廃藩置県高岡藩廃藩となり、高岡県となる。のちに高岡県新治県経て千葉県編入された。

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佐賀藩」の記事における「藩史」の解説

鍋島家龍造寺家臣であったが、龍造寺隆信戦死後鍋島直茂領地継承して成立した。藩の成立後もしばしば残存する龍造寺分家との対立がおきた(鍋島騒動)。この対立の構図から生まれたのが「佐賀化け猫騒動」という話である。

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伊予吉田藩」の記事における「藩史」の解説

明暦3年1657年7月21日宇和島藩初代藩主伊達秀宗の五男・宗純本家より3万石分知されて立藩した。三河国吉田藩区別するため伊予吉田藩呼ばれた藩庁として、現在の愛媛県宇和島市吉田町立間尻御殿内(旧北宇和郡吉田町)に伊予吉田陣屋置かれた。この3万石分知経緯については諸説ある。秀宗は宗純寵愛しており、父・政宗死去するまで支出していた隠居料3万石宗純のために分知した、と一般に言われている。一方で2人の兄が相次いで早逝するなかで世継となった三男・宗利を妬んだ宗純が、仙台藩伊達宗勝政宗の十男で秀宗の異母弟)と共謀し、秀宗の遺言書偽造した、とも言われている。当時の秀宗の病状悪く、筆を取るのもままならない状態であったとして、宗利は不審の念を呈する書簡仙台藩第2代藩主伊達忠宗送っている。なお、宗勝は後の伊達騒動首謀者として断罪されていることも一考価する結局彦根藩主井伊直孝仲裁により3万石分知果たされたが、吉田伊達家宇和島宗家領地帰属巡って激しく対立した。 両藩の確執は、元土佐藩浪人の身から吉田藩家臣となり専横を奮った山田左衛門を巡る一件山田騒動)に仙台伊達家指示宇和島藩介入するまで続いた以後吉田藩対す宇和島藩発言権大きくなった。第7代藩主・宗翰は宇和島藩主・寿の子第8代藩主・宗孝も宇和島藩主・宗城の実弟で、いずれも養子として藩主となっていることから、この事件機に宇和島藩従属し支藩扱い受けていたと考えてよい。 三代村豊(当時は宗春)は元禄14年1701年2月霊元上皇院使として江戸下向する清閑寺熈定饗応役任じられ一方で播磨国赤穂藩主・浅野長矩勅使柳原資廉高野保春饗応役任じられた。2人指南役高家肝煎吉良義央であった3月14日浅野長矩吉良義央への刃傷の際にも現場居合わせ梶川頼照と共に浅野取り押さえ加わっている。浅野凶事の後も宗春の方は、無事役目勤め上げ賞賛された。 享保の大飢饉では大被害を受け、27000石の損失があった。さらに幕府の公役負担などにより財政苦しくなるこのため吉田藩重税強いて、さらに製紙専売化するどしたがこのため寛政5年1793年2月吉田藩最大一揆である武左衛門一揆起こり、藩は百姓要求受け入れて製紙専売取りやめた。寛政6年1794年11月13日には藩校・時観堂を創設し退堂を登用した。 幕末第8代藩主・宗孝が実兄・宗城と不仲だったことから佐幕派として行動し、兄の仲介新政府より許されている。 明治4年1871年7月14日廃藩置県断行により、旧伊予吉田藩領を管下とする吉田県設置草高3万石現石1万4730石。同年11月15日第1次府県統合により吉田県廃止同時に宇和島県、旧大洲県、旧新谷県合併し新たに宇和島県設置本庁宇和島支庁大洲)。その後神山県経て愛媛県編入された。

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常陸宍戸藩」の記事における「藩史」の解説

慶長7年1602年)、出羽秋田より秋田実季5万石で入ったことにより立藩した。寛永7年1630年9月、実季は罪を得て幕命により伊勢国朝熊流され家督は子の俊季が継いだ正保2年1645年7月、俊季は陸奥国三春藩転封となり、その後宍戸幕府領水戸藩となった天和2年1682年2月水戸藩主徳川光圀は、弟の松平頼雄1万石を分与し新たに立藩させた。6代藩主頼敬の頃から財政窮乏化天災による農村荒廃が相次ぎ、藩は北陸などから逃散した百姓入植奨励したが、不徹底だったため改革失敗し天保年間には窮した百姓水戸藩に対して救援求め越訴起こした8代藩主頼位は水戸藩主徳川斉昭同調して軍事改革など藩政改革行なっている。天狗党の乱では、9代藩主頼徳は幕命により鎮圧当たった失敗したその後天狗党同情的であったことを幕府から追及され元治元年1864年10月、頼徳は切腹命じられ宍戸藩改易された。 その後宍戸幕府関東取締出役5名が支配する幕府領となったが、慶応4年1868年2月朝廷計らいにより先代頼位(頼徳の父)の再襲が認められて再び立藩した。明治2年1869年)、版籍奉還で頼位は知藩事となり、明治4年1871年)の廃藩置県によって廃藩宍戸県となった松平氏参勤交代せず江戸定住する定府制であったため、宍戸において際立った治績見られない宍戸における政務としては陣屋構えて年貢取り立てるのみで、実質的な藩政は本藩である水戸藩によって執り行なわれていた。

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高井野藩」の記事における「藩史」の解説

藩祖豊臣秀吉仕えて賤ヶ岳の七本槍一人数えられ福島正則である。正則秀吉より尾張清洲20万石与えられていたが、慶長5年1600年)の関ヶ原の戦い徳川家康味方したため、戦後安芸広島藩498200石に加増移封された。 しかし元和5年1619年)、広島城無断修築武家諸法度違反として改易され、改め信濃国高井郡2万石越後国魚沼郡25000石の捨て扶持計45000石を与えられることとなった。このとき正則嫡男福島忠勝家督譲っているが、その忠勝が翌年死去したことから、正則魚沼25000石を幕府返上している。なお、高井郡北信地方全体を指す川中島四郡の一部であったため、正則改易転封後の封地信濃川中島とする史料が多い。 寛永元年1624年)に正則64歳死去する。このとき、家臣団正則遺体幕府検使である堀田正吉正利)が到着する前に火葬してしまったことから、またも法度違反であるとして、残りの2万石没収された。ただし、正則功績考えて幕府正則末子である福島正利に3112石の所領与え旗本として存続許している。 寛永14年1637年)、正利嗣子無く死去した。これにより福島家断絶したが、天和元年1681年)に正利の甥・福島正長福島忠勝の子)の長男福島正勝2000石の旗本として取り立てられ福島家再興された。

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大和五条藩」の記事における「藩史」の解説

松倉重信筒井順慶のもとで、島清興と共に筒井氏片腕呼ばれた名将であった重信死後松倉氏は子の松倉重政が継ぐ。順慶の死後重政筒井氏離れ浪人となる。 関ヶ原の戦い重政徳川家康味方して軍功挙げたことから、戦後五條1万石を与えられ、ここに五條藩立藩した。重政城下町づくりや諸役免除など、藩政確立尽力して商業としての五條藩作りだした。 重政大坂の陣においても徳川家康味方して軍功挙げたため、元和2年1616年)に肥前島原藩43000石に加増移封され、五条藩廃藩となった

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興留藩」の記事における「藩史」の解説

延宝7年1679年)、松平信之大和郡山藩主となり、8万石所領領した貞享2年1685年)に信之は老中栄進したことから1万加増の上下総国古河藩移されたが、翌年死去した。信之死後の貞享3年1686年8月家督所領9万石内の8万石長男松平忠之継ぎ残り1万石は次男松平信通継いだ。信通は大和国興留陣屋構えたことから、ここに興留藩立藩した。 しかし元禄6年1693年11月本家家督古河藩継いでいた兄の忠之が発狂したために改易されると、信通は藤井松平家家督を継ぐこととなり、2万石加増の上備中国庭瀬藩移封され、興留藩廃藩となったのであるその後陣屋翌年7月破却された。

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信濃中村藩」の記事における「藩史」の解説

鬼義重」で有名な戦国大名佐竹義重三男で、佐竹義宣の弟に当たる岩城貞隆は、岩城常隆養子として岩城氏家督継ぎ磐城国12万石所領安堵された。しかし慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いで、兄の義宣と共に東西どちらにもつかないという曖昧な態度見せたため、慶長7年1602年)に徳川家康によって所領没収されてしまった。 慶長19年1614年)からの大坂の陣で、貞隆は本多正信属して功績挙げたことから、元和2年1616年7月松平忠輝改易された後、その旧領1万石を与えられ信濃中村藩立藩したのである元和6年1620年10月に貞隆は死去し、後を長男岩城吉隆継いだ吉隆元和8年1622年)に出羽由利郡内において1万石を加増されて2万石大名となる。そして翌年吉隆出羽亀田藩藩庁移し信濃中村采地出羽替地されたため、信濃中村藩廃藩となり、以後岩城氏亀田藩2万石として明治維新まで存続した。 なお、吉隆は後に佐竹義隆として義宣の養子となり、久保田藩第2代藩主となった

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矢島藩」の記事における「藩史」の解説

生駒氏大和国生駒荘に出自を持つ。戦国時代尾張国移り生駒親正織田信長豊臣秀吉仕えた豊臣政権下では讃岐高松171800石の大名立身した関ヶ原の戦いで親正は西軍味方したものの、嫡男一正東軍参加させたため、戦後所領安堵された。 しかし、一正の孫である高俊は酒色耽って民政顧みなかったため、家中激し派閥抗争発生した生駒騒動)。やがて内紛幕府の知るところとなり、寛永17年1640年)に改易された。堪忍料として矢島1万石を与えられた高俊は、八森陣屋にて約20年軟禁生活を送った。高俊の跡を継いだ高清は弟の俊明に伊勢居地2000石を分知したため生駒伊勢居地家)、以後生駒家8000石の江戸詰交代寄合御礼となった歴代当主江戸定府であったため、領地統治郡奉行三浦伊右衛門山本一党に委ねられた。しかし山本一党は暴政限りを尽くしたため、1677年農民代表が江戸へ上り、高俊から数えて3代目当主である親興に直訴した。親興は山本一党に切腹命じ年貢もかつての基準に戻すよう命令した。しかし、城代家老市橋彦兵衛山本一党と変わらない基準徴収しようとしたため、農民たちは逃亡し佐藤仁左衛門が再び直訴する事態となった。親興は従来徴収基準に戻す旨の朱印状仁左衛門に渡すが、仁左衛門国許朱印状奪われ仁左衛門やその家族協力者たち処刑された。しかし逃亡した農民たちは帰郷しなかったため、やむなく年貢従来基準に戻すことを約束する至った。これを「延宝騒動」または「仁左衛門騒動」という。 1780年7代当主親睦将軍徳川家治より国入り許され以後参勤交代行った交代寄合)。領内実情把握が可能となったため、それ以降歴代当主藩政力を入れた慶応4年1868年)の戊辰戦争において、新政府抗する奥羽越列藩同盟結成される12当主の親敬は、当初同盟加盟したが、のちに家中勤王論に統一して新政府与した。これによって庄内藩から攻撃を受け、親敬は陣屋自焼して撤退する以後新政府軍とともに東北地方鎮撫つとめた戦後高直しの結果生駒氏1万5200石の諸侯大名)に列し領地加増はなし)、約250年ぶりに讃岐守を称することが許された。翌年軍功により賞典禄1000石を下賜される。しかし明治4年7月21日1871年8月29日)の廃藩置県矢島県となり、同年11月2日1871年12月13日)に秋田県統合された。 明治17年7月8日、親承に男爵授けられる

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大胡藩」の記事における「藩史」の解説

天正18年1590年)、豊臣秀吉小田原征伐に参陣した後、関東国替された徳川家康は、麾下東三河国衆一人である牧野康成を2万石大胡城主に入れ大胡藩立藩させた。康成は、徳川氏における武断派ともいうべき武将であり、武田氏との戦い小田原征伐でも戦功挙げている。 慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍に属して信濃上田城にて真田昌幸戦ったが、康成は血気逸り軍監本多正信制止無視して上田城攻めかかり、逆に昌幸の知略前に大敗喫したこのため軍法違反として康成は吾妻城に蟄居処分とされたが、この処分について康成は数か月許され大胡城戻れたことから、処罰形式的なのだったとする説が存在する。しかし、康成はなお公事遠慮して大胡城蟄居し、軍務藩政嫡子である牧野忠成代理した。 慶長14年1609年12月、康成は死去して子の忠成が跡を継いだ。忠成は元和2年1616年7月越後国長峰藩5万石で移された。元和4年1618年3月21日越後長岡藩6万石(のちに74000石)に加増移封された。もっとも、長峰城未完成だったために直接大胡から長岡移ったという伝承もある。これによって大胡藩廃藩となり、その所領前橋藩領として併合された。

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深谷藩」の記事における「藩史」の解説

小田原征伐後に関東入った徳川家康は、深谷譜代家臣松平康直長沢松平家)を封じ1万石を与えた。しかし康直は文禄2年1593年)に24歳死去した。康直に嗣子がなく、家康の子松千代生母側室茶阿局)が長沢松平家家系継いだ松千代慶長4年1599年)、5歳早世し、同母兄である忠輝が家督継いだ。忠輝は慶長7年1602年)、下総国佐倉藩4万石加増移封となったため、深谷藩廃藩となった慶長15年1610年7月から元和8年1622年10月までは松平忠重8000石で同地治めているが、万石以下の、大身ではあっても旗本であるため大名(藩)とはされないその後元和8年1622年)に酒井忠勝1万石で入り深谷藩が再び立藩する。忠勝は寛永元年1624年8月上総国武蔵下総国内に2万石加増され、老中任じられるその後も2万石加増され、合計5万石の大名となった。忠勝は小農民を保護し藩政確立努めたが、寛永4年1627年)に父で川越藩であった酒井忠利死去したため、その跡を継ぎ川越藩となったため、深谷藩廃藩となり、深谷城寛永11年1634年)に破却された。

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姫路新田藩」の記事における「藩史」の解説

元和3年1617年)に姫路藩入った本多忠政本多忠勝嫡子)は、その所領15万石ほどであった。しかし、このときに忠政の子本多忠刻に父とは別に10万石を与えられた。忠刻の妻が徳川秀忠の娘・千姫(もとは豊臣秀頼正室で、秀頼死後嫁いだ)だったからである。しかし忠刻は父に先立って寛永3年1626年)に早世する。このため忠刻の遺所は、忠刻の弟で部屋住みであった本多政朝5万石、同じく部屋住みで弟の本多忠義に4万石、残る1万石は播磨龍野藩であった小笠原長次所領として組み込まれるなど、分割して相続された。 寛永8年1631年)に忠政が死去して政朝が姫路藩となると、その所領5万石のうち4万石は忠政の弟・本多忠朝次男本多政勝(忠朝が大坂の陣戦死したため、政朝の養子となる)に与えられ、残る1万石は忠義に与えられた。寛永15年1638年)に政朝が死去すると、政勝が跡を継いだが、幼少のために大和郡山藩移される。このとき、政勝が姫路新田藩領として領していた4万石大和移され、また忠義5万石も忠義自身遠州掛川藩移封されたため、廃藩となった本多家の後に姫路入った奥平松平家では、正保元年1644年6月姫路18万石藩主松平忠明の跡を継いだ松平忠弘が、18万石のうち3万石を弟の松平清道分与し、再び姫路新田藩立藩する。しかし清道同年12月死去した上に嗣子がなかったため、1年足らず廃藩となったその後最後姫路藩主家として入った酒井家では、酒井忠恭の子酒井忠交明和7年1770年)閏6月23日、父から1万石を分与されて姫路新田藩立藩する。帝鑑間詰の定府大名であったが、第3藩主酒井忠全文化14年1817年11月3歳死去した嗣子がいるはずもなく、姫路新田藩は完全に廃藩となった

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美濃長谷川藩」の記事における「藩史」の解説

長谷川宗仁の子長谷川守知織田信長豊臣秀吉仕えた慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍与して石田三成居城である佐和山城に籠もっていたが、9月15日本戦西軍壊滅し東軍小早川秀秋主力とした軍勢佐和山城に迫ると、守知は秀秋内応して小早川軍城内招きいれ、石田一族滅亡追い込んだ大坂の陣でも徳川方として活躍した守知は、元和3年1617年)に美濃国内や摂津伊勢国内などにおいて1万石の所領与えられたことにより、諸侯列した。 守知の死後家督は子の正尚が継いだ。しかし正尚は弟の長谷川守勝に3110石ほどを分与したため、長谷川家は2家の旗本家に、美濃長谷川藩消滅して旗本になったちなみに長谷川家は正尚の死後に跡を継いだ守俊(守知の四男)の早世により断絶した

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茂木藩」の記事における「藩史」の解説

藩祖細川藤孝(幽斎)の二男で、細川忠興の弟である細川興元である。慶長15年1610年)の茂木氏秋田転封の後をうけ、271万54石で入部した元和2年1616年)、興元大坂夏の陣における軍功により常陸国筑波郡谷田部6200石を加増され、藩庁陣屋)を谷田部に移す。以後谷田部藩として存続した。 なお、藩庁谷田部移転して以降茂木藩主および藩主一族住したことがあり、『寛政重修諸家譜』の細川興徳記載に「茂木あるいは谷田部住し」とある。 明治4年1871年2月谷田部藩細川興貫藩庁茂木移したが、同年7月には廃藩置県廃藩となった。この時の茂木藩は、熊本藩支藩という位置付けであった

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岩村田藩」の記事における「藩史」の解説

元禄16年1703年8月武蔵国赤沼藩武蔵国上野国常陸国上総国下総国など各地1万5000石)から転じて内藤正友佐久郡のうち271万6000石を与えられ岩村田陣屋置かれたことに始まる。その後1万石分が摂津国河内国現在の大阪府内の地へ一時移封されたが、その次男である第2代藩主内藤正敬の代に再度佐久郡内の地へ移封された。また三男内藤正直1000石が分知された。このように所領の場所が頻繁に入れ替わることが多かったが、藩政で特に見るべきところはなく、そのまま代替わりした。財政はあまり良くなかったとみられる。 第6代藩主内藤正縄老中水野忠邦実弟であった関係で、伏見奉行となってその功績により城主格昇進された。最後藩主内藤正誠日光祭奉行奏者番寺社奉行などを歴任する戊辰戦争では新政府軍与して宇都宮城の戦い北越戦争出兵した。この頃岩村田では築城計画なされていたが、明治2年1869年)に版籍奉還が行なわれ、さらに廃藩置県が行なわれて藩が廃されたため、城は未完成のまま廃城となった。そして岩村田県長野県吸収された。 なお、建物として陣屋跡近く中嶋公園移築現存していたが現在は解体撤去され痕跡留めていない

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棚倉藩」の記事における「藩史」の解説

1590年天正18年以降棚倉支配していた石川昭光は、常陸佐竹氏支配下にあった拠点は、標高345mに山城やまじろ)の赤館1600年慶長5年関ヶ原の戦い石田三成懇意だった佐竹義宣西軍につくも東西中立態度示したため、戦後出羽国秋田藩へ減移。棚倉一帯天領となる。 1603年慶長8年立花宗茂棚倉1万石で入部棚倉藩立藩した。宗茂関ヶ原西軍与して大津城攻撃などで活躍したが、9月15日関ヶ原本戦に間に合わず大坂城撤退徳川家康との徹底抗戦主張したが、西軍総大将毛利輝元聞き入られず、本国である筑後国柳河戻ってなおも抵抗姿勢示したが、東軍黒田孝高(如)、加藤清正鍋島直茂攻められ降伏したあとは所領没収され浪人の身となっていた。宗茂その人となりから、その武勇本多忠勝劣らぬと言われたほどの武将で、浪人となったあとも清正前田利長をはじめ、多く大名から仕官誘われている。家康そのうち一人で、宗茂を再び大名として取り立てたといわれる宗茂江戸で将軍近侍したため家臣由布惟信が代わって藩内の行政担当した1604年慶長10年宗茂1万石から25500石に加増1610年慶長15年宗茂、25500石から35000石に加増1614年1615年慶長19-20年宗茂大坂の陣従軍1620年元和6年宗茂旧領筑後柳河藩国替えとなる。 1622年元和8年丹羽長重常陸古渡藩から5万石で入部1625年寛永2年長重は、平地をえらび棚倉城築城開始上方から商人招き入れ城下町の建設尽力また、輸送業などに力を注いで財政基盤を敷く。 1627年寛永4年平城棚倉城完成長重移封陸奥国白河藩加増移封)と同じ年である。長重の後には、譜代大名である内藤信照5万石で入り藩領検地おこない支配体制固めたその後継いだ内藤信良検地おこなったまた、弟の内藤信全常陸多賀郡の内で5000石を分与内藤弌信の頃から、藩財政窮乏化が始まる。弌信は松波勘十郎登用して藩政改革目指したが、あまりに領民から搾りあげる改革行なったため、領民から松波解任求める声があがり、改革挫折1705年宝永2年内藤弌信駿河国田中藩移封太田資晴5万石で入る。資晴は若年寄にまで栄進1728年享保13年太田資晴上野国館林藩移封。代わって松平武元5万石で入る。 1746年延享3年小笠原長恭遠江国掛川藩から6万石で入る。 1817年文化14年第3藩主小笠原長昌肥前国唐津藩移封となる。井上正甫遠江国浜松藩から5万石で入るが、その子井上正春の代に館林移封1836年天保7年松平康爵石見国浜田藩から6万石で入る。松平氏は康爵の後、松平康圭松平康泰松平康英続き、康英が老中昇進して2万石加増1865年慶応元年戸田忠恕下野国宇都宮藩より5万石で入ることが決まる。しかし、戸田家山陵修繕功労による朝廷とりなしによって実施延期事実上中止)となる。 1866年慶応2年阿部正静陸奥白河藩より10万石で入る。松平康英武蔵国川越藩移封戊辰戦争では、正静が藩兵を率い奥羽越列藩同盟参加白河口において新政府軍対峙1868年慶応4年6月24日 棚倉城落城、正静は降伏した維新後は4万石減封1871年明治4年阿部正功の代のときの廃藩置県により廃藩となる。城趾には現在、公園と町の公民館がある。水堀のまわりには桜の木が立ち並び毎年春に町民花見場所となっている。 棚倉藩はしばしば、中級下級譜代大名懲罰的目的での転封対象地になり、また藩主家長期定着がなく、藩の支配体制不完全なまま経てきた。石高は、表高より内高実際に藩の収入になる石高)が少ない藩であった

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美作勝山藩」の記事における「藩史」の解説

江戸時代中期明和元年1764年)、譜代大名三浦明次三河国西尾藩より転封してきた。真島郡内の96大庭郡内の1与えられ23千石立藩した。真島郡高田村高田城藩庁したため当初高田藩などとも称されるが、しばらくして高田城勝山城改称し、これを受けて勝山藩称されるうになる2代矩次は真島郡新庄村(現・真庭郡新庄村)にある鉄鉱山経営を奨励し財源確保努めた幕末には鉄鉱山は藩営となった明治2年1869年真島藩(ましまはん)と改称明治4年1871年廃藩置県により真島県となる。北条県経て岡山県編入された。 戦後岡山県により勝山町並み保存地区指定された。

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中津藩」の記事における「藩史」の解説

天正15年1587年)の豊臣秀吉による九州征伐後、播磨宍粟山崎から黒田孝高(如)が入部し123000石(一説には16万石)を領有したその後関ヶ原の戦い戦功のあった子の長政慶長5年1600年)、筑前福岡藩523100石で加増移封された。 代わって同年同じく関ヶ原の戦い東軍方に付いた細川忠興丹後宮津より399000石で入封し、江戸期中津藩成立した忠興慶長7年1602年)、藩庁小倉城移して小倉藩となる。中津城支城となり城代置かれた。寛永9年1632年)、第2代藩主・忠利は肥後熊本藩移封となった同年播磨明石藩より小笠原忠真小倉藩主として小倉城入り豊前北部15万石領した支城であった豊前中津城には忠真の甥・長次が播磨龍野藩より8万石で入封し、再び中津城藩庁となった元禄11年1698年)、第3藩主・長胤は失政日常不行跡咎められ藩領没収本家小倉藩小笠原家預かりとなった。しかし「祖先勤労」(『徳川実紀』)により弟の長円半減の4万石をもって跡を継いだ享保元年1716年)、第5代藩主・長邕が7歳夭逝したため、その弟・長興播磨安志藩1万石)に移封立藩となった享保2年1717年)、奥平昌成丹後宮津藩より10万石で入封した。以後明治4年1871年)の廃藩置県まで9代・155年支配するところとなった廃藩置県の後、中津県小倉県福岡県経て大分県編入された。1844年弘化元年)、藩校進脩館』に小幡篤次郎入門明治4年福沢諭吉弟子となり、校長就任。のちに『中津市学校』に改組され9代藩主奥平昌邁と共に藩士らは江戸藩邸慶應義塾移った。 奥平時代の同藩の出身者として、藩医であり『解体新書』を著した前野良沢下級藩士出身福澤諭吉がいる。また、福沢とは親戚にあたる増田宋太郎の2名をして、郷土英雄として位置付けられている。西南戦争時には中津藩士によって中津隊結成され西郷軍に参加した

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宇陀松山藩」の記事における「藩史」の解説

関ヶ原の戦い功績により福島高晴が3万石余で伊勢国長島から加増転封されて立藩した。高晴は1615年大坂夏の陣豊臣氏内通し嫌疑かけられ改易され、織田信雄大和国上野国両国内に合わせて5万石を与えられて入封した。その際天下人であった織田信長の子であるという所以から国主格も与えられた。 信雄は上野所領を四男の信良に与え自身隠居領として大和28000石を領した1630年に信雄が死去すると、大和所領は五男の高長が継いだその後、長頼・信武と続くが、藩内に混乱起こり信武は自殺した宇陀崩れ)。信長血統であるということ重んじられて、信武の子・信休への家督相続こそ認められたが、所領を2万石減らされ上で丹波柏原藩へ減移封国主格として扱われていた待遇も、このときに剥奪されてしまった。宇陀松山藩これをもって廃藩となった

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勝浦藩」の記事における「藩史」の解説

天和2年1682年4月21日上総安房近江丹波などに所領持っていた植村忠朝は、新たに2000石を加増されて1万1000石を領する大名となり、勝浦藩立藩した。植村氏本多忠勝寄子で、里見氏牽制などで功績挙げた譜代大名である。元禄10年1697年2月、忠朝の跡を植村正朝が継ぐ。このとき、正朝は弟の植村元に1000石を分与している。正朝の跡は植村恒朝継いだ。しかし寛延4年1751年8月24日分家植村千吉朝比奈義豊に殺害されるという事件が起こった。この事件連座により、恒朝は所領没収され改易となり、本家大和国高取藩植村家道預かりとなった。ただし、名跡のみは養嗣子植村寿朝が継ぐことを許された。 勝浦藩領は幕府代官吉田助達(源之助)による支配経て宝暦元年1751年12月徳川家重側近として活躍した大岡忠光5000加増1万石の大名として入った。忠光は宝暦4年1754年3月若年寄栄進したことから5000石を加増された。宝暦6年1756年5月にも側用人栄進したことから5000加増合計2万石となり、大岡家本拠武蔵国岩槻藩置いた勝浦領は房総分領として飛地となり陣屋番所拠点郡奉行常駐し代官支配及ぼした夷隅郡筒森村南方(大多喜町)には奥山御林存在し奥山番所において管轄し材木などの林産物産出した

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常陸府中藩」の記事における「藩史」の解説

1602年慶長7年)、出羽国豪族であった六郷政乗は、関ヶ原の戦い東軍与して武功挙げたため、常陸国府中に1万石を与えられ府中藩立藩した。1623年元和9年)、政乗は出羽本荘藩移されその後皆川広照が入る。広照は松平忠輝後見人務めていたことで有名であるが、広照は忠輝の家臣花井吉成対立し、さらに忠輝の不行状による責任なども取らされて、浪人となっていた。しかし幕府からやがて赦免され、再び所領1万与えられのである。広照の後は、その子皆川隆庸自分がすでに領していた5000石と父の遺領併せて1万5000石を領する。ただし、弟の皆川宗富に1070石を分与したため、1万3930石を領することとなった1633年寛永10年)、隆庸は近江国浅井郡4000石を加増され、約1万8000石を領する大名となる。隆庸の後は子の皆川成郷が継ぐ。このとき、成郷は弟の皆川秀隆5000石を分与している。しかし成郷は1645年正保2年6月死去嗣子無かったため、皆川氏断絶し改易となる。そしてしばらくの間府中藩廃藩となった1700年元禄13年)、徳川頼房の五男・松平頼隆(保内藩主)が幕府から新たに常陸陸奥国内において2万石加増されたため、府中陣屋置いて府中藩立藩する。この時、保内2万石水戸藩返還した。ただし藩の所領大半陸奥国のほうにあったため、陸奥長沼にも陣屋置いていた。しかし所領が分散していたこと、所領生産力低かったことから財政難起こり、藩財政早くから逼迫した。 1869年明治2年)の版籍奉還石岡藩改称する1871年明治4年)の廃藩置県石岡藩廃されて、石岡県となった

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柏原藩」の記事における「藩史」の解説

織田信長の弟・信包は慶長3年1598年6月伊勢国安濃津から柏原36000石に移封された。これが柏原藩立藩である。信包は慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍与したが、戦後改易されずに済み大坂城豊臣秀頼仕えた慶長19年1614年)、信包は大坂冬の陣直前死去したその後、信包の孫で第3藩主織田信勝時代治水工事新田開発などが行なわれて藩政基礎固められたが、信勝は慶安3年1650年5月17日嗣子無くして死去してしまい、ここに柏原藩廃藩となり、その所領幕府領となった元禄8年1695年4月14日信長次男織田信雄の五男・織田高長から始まる大和宇陀藩織田信休が、2万石柏原入部したことにより、柏原藩立藩された。これは大和宇陀藩29000石の藩主であった信休の父・織田信武元禄7年1694年)に発狂して家臣田中五郎兵衛らを殺して自らも自害するという「宇陀崩れ」を起こしたため、処罰としてその子である信休が減移封されることとなったのである。信休は藩財政窮乏の中で藩政基盤固めに努めたが、大洪水旱魃などが相次ぎ元禄9年1696年)には年貢軽減求め愁訴起こったその後柏原藩では藩財政窮乏化進み、藩内では要人はじめとする61人の解雇藩士俸禄削減藩札発行などの諸改革断行した効果はなく、文政7年1824年)には物価高騰反対する百姓一揆起こった。 第5代藩主織田信守このような中で奢侈に走って藩政関心を示さなかった上、その快楽のために百姓重税強いたため、領民は信守を恨んだ。しかも信守が愛妾保野寵愛して政務にまで関与させた結果藩主地位めぐって争い(秘命騒動)や保野騒動起こり藩政大い乱れることとなった。第6代藩主織田信古の代には先代の信守のツケ加えて藩札発行により藩経済大混乱し、天保4年1833年)には遂に百姓怒り爆発して打ち壊し騒動発生したこのような中で第8代藩主となった織田信敬は、小島省斎協力して倹約主とする藩政改革断行する。そして藩内で文武奨励し藩校として又新館を設立した第9代藩主織田信民信敬遺志受け継いで新たに藩校崇広館設立し小島省斎と共に藩政改革臨んだ幕末期、信民とその跡を継いだ織田信親は、尊王攘夷運動目指し行動するこのため早くから官軍側に与し明治2年1869年)の版籍奉還信親知藩事となる。明治4年1871年7月14日廃藩置県により柏原藩廃藩となり、柏原県となった。 なお、織田氏諸藩では、信雄の系統柏原藩の他に天童藩が、織田長益有楽斎)の系統柳本藩芝村藩戒重藩)が、明治維新まで存続した。有楽斎系統は他に味舌藩野村藩存在したが、これらは江戸時代初期除封、無嗣断絶している。

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栗原藩」の記事における「藩史」の解説

徳川家康古くから仕えた老臣成瀬正成小田原征伐後に下総国葛飾郡4000石を与えられ栗原郷に入ったことに由来する栗原郷の中心部であった推定されている本郷村現在の西船6丁目から本郷町付近)は元禄期の石高466石、同じく小栗原現在の本中山)が289石、二子村現在の東中山及び二子町)が360であったことから、栗原郷の中心部から周辺広がった現在の船橋市市川市にまたがるより広い地域所領としていたと考えられている。 慶長5年1600年)、関ヶ原の戦い戦功により甲斐国内に2万石三河国加茂郡内に1万石を加増されて34000石の大名となった。後に老中にも任じられている。慶長16年1611年)、甲斐国内の2万石尾張国内に移された。元和2年1616年)、正成は尾張藩主となった家康の九男・徳川義直付家老となったため陪臣扱いとされ、所領尾張国犬山移された。その際に、正成の次男成瀬之成が父の領知のうち下総三河国1万4000石を分与され、自身の持つ武蔵国幡羅郡1000石と合わせて栗原藩1万5000石の第2代藩主となる。之成は 徳川秀忠小姓として大坂の役参戦しており、藩主就任後も秀忠の命で根来足軽率いるなど信任厚かった元和9年1623年)にそれまで功績によって近江国内に1000石の加増受けて1万6000石の藩主となった。 ところが、寛永11年1634年)に徳川家光の上洛に従った之成が急逝し、跡を継いだ成瀬之虎寛永15年1638年)に早世したため栗原藩成瀬氏は無嗣断絶改易となった成瀬氏菩提寺である宝成寺には、初代正成含めて3代藩主の墓がある(ただし、正成の墓の場所は現在では不明となっている)。また、之成の墓には殉死した3名の家臣遺骨もともに納められている。

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坂戸藩」の記事における「藩史」の解説

慶長3年1598年)、堀秀治上杉氏に代わって越後入部したとき、堀直寄堀直政の子)が坂戸2万石入った。直寄は慶長11年1606年)の堀鶴千代死去により蔵王堂藩3万石加増され、5万石を領すようになった。しかし、慶長13年1608年)に父・直政死去すると直寄は幼主堀忠俊のもとでの主導権めぐって兄直清と争う。これに勝利はしたが、忠俊は内紛責任問われ改易とされ、直寄も坂戸5万石から信濃国飯山藩4万石に減移封された。坂戸藩廃藩となった

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青柳藩」の記事における「藩史」の解説

慶長19年1614年)、槍奉行であった近藤秀用は、相模内において新たに1万石を与えられ従来の上邑楽郡青柳5,000石と合わせて1万5,000石の大名として諸侯列し、ここに青柳藩立藩した。翌年、秀用は次男の用可に5,000石を分与した元和5年1619年)、領地遠江引佐・豊田長上などの五郡に移されたため、青柳藩廃藩となり、以後近藤氏井伊谷藩として存続した。

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足利藩」の記事における「藩史」の解説

戦国時代足利将軍家故地足利荘関東管領上杉氏代官として足利長尾氏治め上杉氏後北条氏追われた後には後北条氏支配下入っていたが、後北条氏仕えていた長尾顕長小田原征伐没落した江戸幕府の第5代将軍徳川綱吉生母桂昌院異父弟にあたる本庄宗資(はじめは公家家臣だった)が徳川将軍家との特別な関係のために加増繰り返され元禄元年1688年)には足利1万石を領するようになり、足利藩立藩した。宗資にはその後贔屓加増繰り返され元禄5年1692年)、本庄邸への2度目の“将軍お成り”の際に4万石加増されて常陸笠間藩移封された。 その後宝永2年1705年1月将軍世子である徳川家宣御側役務めていた戸田忠時甲斐国8000石から3000加増の上下野国足利郡河内郡都賀郡1万1000石を領することとなったため、大名列して再び足利藩立藩した。歴代藩主藩政改革行ない何人かが大坂定番奏者番などを務めた明治2年1869年6月版籍奉還最後藩主戸田忠行藩知事となる。明治4年1871年)の廃藩置県足利藩廃藩となって足利県となった。そして同年11月14日栃木県編入された。

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三条藩」の記事における「藩史」の解説

慶長3年1598年)、堀秀治越後入部したとき、三条にはその重臣堀直政入った。しかし慶長15年1610年)、直政嫡男堀直清の代、僧侶殺害したとして改易になる。その後慶長17年1612年)に松平忠輝家老として松平重勝が2万石で入る。しかし元和2年1616年7月に忠輝が改易されたため、重勝は関宿藩移り外様市橋長勝が41300石で三条入部した。長勝は三条城築城城下町の建設新田開発伝馬制度設立などに尽力したが、元和6年1620年3月17日死去した。長勝には嗣子がなく、甥の市橋長政が2万石に減知されることで跡目相続許された。長政同年5月近江国仁正寺藩移封となり、代わって越後国藤井藩より譜代稲垣重綱が23000石で入った。重綱は検地などを行なって藩政固めようとしたが、元和9年1623年)に大坂城番となって転出し、さらに1651年には三河国刈谷藩移されたため、三条藩廃され幕府領となった

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明石藩」の記事における「藩史」の解説

譜代御家門大名頻繁に入れ替わった

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沼田藩」の記事における「藩史」の解説

小田原征伐後、沼田領27000石は真田昌幸返還されるが、昌幸は信濃上田城居城として、地理的に離れた沼田領は嫡男真田信之任せる。この時期の信之は真田家当主(昌幸)の後継者であり、公的に沼田領も昌幸領の一部でしかなかったが、実質的に半独立的な体制築いており、これが後の沼田藩の基となる。 信之は領内検地早くから実施して領内支配体制固める。慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いで、信之は徳川家康養女本多忠勝の娘)を妻にしていたことから東軍与して徳川秀忠指揮下に入る。上田城の昌幸と次男信繁幸村)は西軍与して、信之が属す徳川軍相手上田城にて善戦したが、関ヶ原本戦西軍敗れたため、戦後紀州九度山蟄居となった。代わって信之に、沼田領を含む昌幸の旧領加え3万石加増され、95000石を領する大名となった上田藩成立)。 元和2年1616年)、信之は上田移り沼田領は信之の長男真田信吉継がれることとなった(この時点でも正式な立藩ではない)。信之は元和8年1622年)に信濃松代藩10万石に移された。このとき沼田領は分地されるが、まだ幕府公認された藩とはなっていない。 信吉寛永11年1634年11月28日、父に先立って死去した。跡を信吉の子の熊之助が継いだが、これも寛永15年1638年11月6日7歳夭折した翌年7月25日沼田領の大半を信之の次男信吉の弟の信政継ぎ信吉次男の信利に5000石が分知された。信政領内検地などを実施して基盤固めようとしたが、明暦2年1656年)に信之が隠居したため、松代真田宗家家督を継ぐこととなり、代わって沼田領の全てを信利が継ぐこととなった明暦4年1658年2月本家継いだ信政死去すると、信直(信利)と信政の六男で2歳信房(後の幸道)のどちらを立てるかで後継者争い勃発する結局信房真田宗家家督を継ぐことになったが、この騒動により沼田領(沼田藩)は正式に松代藩から独立することになった。 ところが信直は、寛文2年1662年)に沼田領の検地実施し実高3万石一説によると6万石)の所領144000石と幕府過大申告したこのため領民増税苦しめられることになる。この暴挙ともいえる所業に関しては、真田宗家家督継げなかったことが影響していると言われている。延宝8年1680年)、信直は幕命により江戸両国橋直しのために用材沼田藩から差し出すことを請け負ったが、すでに疲弊しきっていた領民協力得られず、翌年11月、信直は用材納期に間に合わなかった責任問われ改易となった沼田廃藩幕府領となったが、元禄16年1703年1月11日下総舟戸藩から2万石本多正永入り、再び沼田藩立藩する。正永はさらに2万石加増されて4万石大名となる。その後第3藩主本多正矩の代の享保15年1730年)、駿河田中藩移封される。享保17年1732年3月1日常陸下館藩から黒田直邦が3万石で入る。しかし第2代藩主黒田直純の代の寛保2年1742年7月28日上総久留里藩移封となった。代わって老中であった土岐頼稔駿河田中藩から35000石で入部する第3藩主土岐定経の代の天明元年1781年12月年貢増徴反対した領民によって見取騒動発生し、定経は領民要求受け入れることで解決した。 第11藩主となった土岐頼之は、寛政の改革有名な松平定信の孫であったが、幕府とはあまり関係を持たず慶応3年1867年4月16日家督土岐頼知譲って隠居し翌年戊辰戦争では桑名藩会津藩姻戚関係ありながら新政府軍沼田進駐を許して新政府恭順し、三国峠の戦い会津軍と戦った明治2年1869年6月20日、頼知は版籍奉還して藩知事となり、明治4年1871年7月廃藩置県沼田藩廃藩となり、沼田県次いで群馬県となった。そして、土岐氏明治17年1884年)の華族令により、子爵に列せられた。

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蔵王堂藩」の記事における「藩史」の解説

現在の長岡市域は、戦国時代には越後守護代長尾氏(のち上杉氏)の一族古志長尾家古志郡蔵王蔵王堂城拠って治めていた。その古志長尾家の景信が御館の乱により戦死した後は、上杉家直接支配を受けることとなる。 その後慶長3年1598年)に上杉氏陸奥会津移封すると、かわって越後に入封した堀秀治の弟堀親良が4万石与えられ蔵王堂城となった堀氏慶長5年1600年)の関ヶ原の戦い東軍所属し旧領安堵された。ここに蔵王堂藩成立した慶長7年1602年)親良は病気のため甥の鶴千代藩主の座を譲った(ただし、実際家中内紛よるもので、親良は後に出奔し下野国真岡藩主に取り立てられる)。しかし、慶長11年1606年鶴千代早世したため鶴千代後見行っていた堀直寄治め坂戸藩吸収編入され蔵王堂藩2代で一旦は断絶するその後慶長15年1610年宗家堀忠俊家老堀直寄兄弟内紛収められなかった罪で除封された。豊臣氏恩顧大名取り潰しに、騒動利用されたともいえる。かわって徳川家康の六男松平忠輝が高田藩に入封すると、蔵王堂城もその属領となった元和2年1616年今度は忠輝が大坂の陣における不始末から除封されると、6年前の騒動一方元凶であった堀直寄が8万石をもって蔵王堂に入封した。しかしながら、直寄は蔵王堂城信濃川面して洪水に弱いことから、その南にあって信濃川からやや離れた長岡(現長岡駅周辺)に長岡城築城城下町移して越後長岡藩立藩し、蔵王堂藩2度目廃藩事実上長岡藩への移行となった

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常陸北条藩」の記事における「藩史」の解説

豊臣秀吉の命により蒲生氏郷寄騎となっていた佐久間勝之は、氏郷の没後信濃国長沼城賜った秀吉の没後近江国山路3000石を与えられ慶長12年1607年)、江戸城内に移転した際に常陸国北条3000石を加増された。これにより知行高都合1万石となり、大名列して常陸北条藩成立した。ただし封地には下らず江戸城常駐する定府大名だった。その後大坂の陣武功挙げて信濃国長沼藩1万8000石に移封となり、常陸北条藩はいったん廃された。 下総国佐倉藩主・堀田正盛の四男・堀田正英は、父が殉死した後その遺領から5000石を分与された。その後徳川家綱仕えて御小姓組番頭書院番頭大番頭累進して3000石を加増された。そして天和元年1681年)には若年寄となり、翌年5000石を加増されたことで都合1万3000石の大名となり、常陸北条藩が再立藩した。正英はその後奏者番になり幕府役職歴任元禄元年1688年)に死去した。 正英には嫡男正親次男・正矩、三男正章がいたが、正英が生前幕府提出していた家督相続願いには、正矩と正章については記されていたにもかかわらず肝心正親についてはなぜか言及がなかったために世子として認められず、届出不備をもって改易とされてしまった。ここに常陸北条藩は再び廃藩となったのである旧領1万3000石のうち、8000石は収公されて公儀御料となったが、正矩が3000石、正章2000石の遺領相続認められそれぞれ旗本として家名存続許された。一方正親一族陸奥福島藩主・堀田正仲元にお預け憂き目遭っている。 公儀御料となった旧領元禄11年1698年土浦藩となった

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岩槻藩」の記事における「藩史」の解説

岩槻戦国時代には後北条氏領国で、本拠である相模国小田原城に次ぐ重要拠点のひとつと見なされていた。岩槻城長禄元年1457年)に扇谷上杉氏仕えていた太田道真太田道灌父子敵対関係にあった古河公方足利成氏備えて築城したのが始まり考えられてきたが、近年では古河公方方の成田正等による築城と見るのが主流となっている。 その後北条氏の台頭扇谷上杉氏滅び、その旧臣である太田資正北条氏に対して抵抗続けたものの、結局岩槻城北条氏支城となる。北条氏がこの岩槻重要な城と見なしていたことが窺える史料に『北条氏岩槻城奉行詰番掟書』がある。それによると、天正5年1577年岩槻城には、小旗120余本、600余本、鉄砲50余挺、弓40余張、歩兵250余人馬上500余騎などの1,580余名に、足軽含めておよそ5,000人の軍勢常駐していたことがわかる。 豊臣政権時代となり、天正18年1590年)の小田原征伐後北条氏降伏関東新たに入部した徳川家康岩槻関東支配拠点のひとつと見なし譜代中の譜代家臣家康三河時代三奉行一人である高力清長に2万石与えて入部させている。これが岩槻藩立藩である。清長嫡男高力正長父親先立って死去し清長慶長3年1608年)に死去した。その跡を嫡孫高力忠房継いだが、忠房は元和5年1619年9月遠江浜松藩移され岩槻藩廃藩となり幕府直轄領となった翌年10月20日下野国内から老中青山忠俊が45,000石で入ったが、元和9年1623年10月19日、忠俊は第3代将軍・徳川家光勘気を蒙って上総大多喜藩へ2万石に減知の上転封となったその後相模小田原藩から阿部正次5万5,000石で入る。正次は寛永3年1626年4月6日大坂定番転出し知行を86,000石に加増される。正次が大坂出た後、岩槻統治嫡男阿部政澄が3万石担当した。しかし政澄が寛永5年1628年8月早世したため、正次の次男三浦家継いでいた阿部重次復姓し、寛永15年1638年11月7日岩槻5万9,000石で入った(重次は同年老中になっている)。正保4年1647年11月14日に父の正次が大坂死去すると、重次は正式に家督相続し、父の遺領加えさらに1万石を加増されて都合99,000石の藩主となった慶安4年1651年)に徳川家光じると、4月20日に重次は殉死し、跡を子の阿部定高継いだ。しかし定高万治2年1659年1月23日25歳早世した。定高には一子阿部正邦がいたがまだ幼少だったため、代つなぎとして三浦家継いでいた定高の弟・阿部正春復姓して家督継いだ正春は父・重次の遺領のうち1万6,000石(上総大多喜新田藩)を相続していたので、これに兄の遺領併せて115,000石を知行することとなった。しかし藩内では正春後継に不満を持つ者も少なくなく、寛文3年1663年12月に汀騒動呼ばれる家臣殺害事件起こったこのようなこともあって寛文11年1671年12月19日正春は兄の遺領99,000石と家督を正邦に譲って自身上総大多喜藩移った天和元年1681年)、正邦は丹後宮津藩移封された。 代わって同年2月下野烏山藩から板倉重種が6万石入り間もなく老中就任したが、3か月後には失脚して翌年には信濃坂木藩移封された。その後には常陸下館藩から老中戸田忠昌5万1,000石で入る。忠昌は貞享元年1684年)に領内笹山村に幅七尺山城堀を建造したのち、貞享3年1686年1月1万加増の上下総佐倉藩移封となった続いて丹波亀山藩から松平忠周が48,000石で入る。忠周は元禄10年1697年)に但馬出石藩移封となったが、その理由には生類憐れみの令との関係が取りざたされた。すなわち、この前年に領内子供噛み殺すという事件が発生、忠周は事前に幕閣から許可得てこの撃ち殺したが、それでもこれで第5代将軍徳川綱吉心証損ない、これが辺鄙な出石への転封つながったというものであるが、真偽のほど定かではない。 その次に三河吉田藩から老中小笠原長重5万石で入る。長重安永2年1705年)に埼玉郡内で1万石を加増され、翌年には検地実施して藩政基盤固めようとしたが、病を得安永7年1710年5月18日隠居、跡を次男小笠原長煕継いだ翌年小笠原家遠江掛川藩移され、代わって信濃飯山藩から若年寄永井直敬が33,000石で入る。しかし直敬は同年6月3日死去し、跡を子の永井尚平継いだが、その尚平も正徳4年1714年8月29日18歳夭折した嗣子無かったため、尚平の弟の永井直陳家督継いだ。直陳は宝暦6年1756年)に、美濃加納藩移された。 このように藩主家めまぐるしく変わって藩の支配定着しなかったが、その後旗本から若年寄出世した大岡忠光藩主として入る。忠光は9代将軍・徳川家重御側御用人として幕政影響力持ち宝暦元年1751年4月には代官支配で旧植村家の上勝浦藩与えられていたが、宝暦6年1756年)には2万石加増され、本拠岩槻城移したこれに伴い勝浦領は房総分領として岩槻藩飛地となり、勝浦陣屋はじめとする役所番所を置くとともに郡奉行常駐して代官支配行い、重要検案江戸藩邸指示仰いだ夷隅郡南方には奥山御林があり、山林資源産出した岩槻藩大岡家時代にやっと藩政安定したものの、3代藩主大岡忠要時代起きた天明の大飢饉で藩内は甚大な被害を受け、その後天災相次いで藩政多難極め財政窮乏化進んだこのため要は有能な人材登用厳し倹約とした藩政改革実施する5代藩主大岡忠正時代には藩校勤学所と武芸稽古所設置された。6代藩主大岡忠固奏者番若年寄栄進したが、この頃起きた米価昂騰から領内大規模な百姓一揆起こったアヘン戦争で清が敗れたとの報が幕閣震撼させると、その余波海防強化命じられ岩槻藩大砲鋳造などで財政逼迫した。弘化2年1845年4月1日には前年炎上した江戸城本丸普請奉行務めた功により3,000石が加増されたが、それも文字どおり焼け石に水だった。忠固は嘉永5年1852年7月4日死去、跡を子の大岡忠恕継いだ忠恕時代には幕末の動乱天災重なりさらには岩槻城本丸焼失などの不幸が相次いで財政破綻寸前となったこのような中で忠恕慶応2年1866年3月29日隠居して家督長男大岡忠貫譲った慶応3年12月1868年1月)の江戸薩摩藩邸の焼討庄内藩上山藩鯖江藩と共に加わる。しかし翌慶応4年始まった戊辰戦争では一転して新政府帰順し幕府軍追討に功を挙げた翌年版籍奉還で忠貫は知藩事となり、明治4年1871年)の廃藩置県岩槻藩廃藩となる。大岡家その後子爵叙せられた。

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下総飯田藩」の記事における「藩史」の解説

[全画面表示] 関連地図香取市周辺天正18年1590年)、徳川家康関東入封に際して青山成重下総国香取郡3000石を領したその後慶長6年1601年)に下総国内で2000石、慶長8年1603年12月25日下総国内で5000石を加増されて1万石の大名列し、これにより飯田藩立藩した。陣屋下飯田西音寺付近に置かれていたとされる。 成重は慶長13年1608年)に老中となったが、大久保長安三男青山成国)を養子として迎えていたことから、慶長18年1613年8月大久保長安事件連座して加恩の地7000石を没収され下総国香取郡閉居となった。これにより、飯田藩廃藩となった元和元年1615年9月7日青山成重赦免受けないまま、采地飯田没した。 なお、下飯田852石)は幕末まで青山家所領であった

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下総三浦藩」の記事における「藩史」の解説

天正18年1590年8月徳川家康関東移封されると、家康の家臣である三浦重成上総国山辺郡下総国印旛郡などに1万石の所領与えられ大名となった当初本拠佐倉本佐倉)であるという。 文禄4年1595年)に重成は豊臣姓を下賜された。慶長7年1602年)には家康から3千石加増受けている(この際佐倉から近江国移封されたという)。 重成は男児恵まれず阿部正次の子・重次を娘婿迎えて後継者にしようとした。重次は大坂の陣では、重成の代理として参加している。 しかし老齢になって、重成に実子の重勝が生まれたため、重次は後継者地位辞退する。そのため重成は、重次に近江国浅井郡3千石所領分与し分家立てさせた。 重成の没年不詳であるが、元和元年1615年)の大坂の陣の際には病気かかっていたとされる慶長末年ないしは元和年間に重勝が後を継いだ見られ寛永元年1624年12月に父の遺領継いだ重勝が従五位下叙せられた記録がある。寛永4年1627年)には、大網にあった方墳寺が、禁教とされた日蓮宗不受不施派教義布教したとして重勝に焼き払われている。 しかし寛永8年1631年8月、重勝が継嗣のないまま死去し三浦家は無嗣改易となった大網蓮照寺には三浦監物家に関連する二基の供養塔がある。一基三浦監物重勝の供養塔で、もう一基は「三浦監物」(重勝あるいは重成)が一族日寛上人供養したものである。『千葉県教育振興財団研究紀要28号 房総における近世陣屋』は、大網城地示唆している。

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原市藩」の記事における「藩史」の解説

小田原征伐後に関東入部した徳川家康は、尾張国出身譜代家臣西尾吉次5000石を与えた慶長5年1600年)の関ヶ原の戦い戦功挙げた吉次は、慶長7年1602年)に美濃国内に7000石を加増され、合計1万2000石を領する大名となり、原市藩立藩した。菩提寺となる妙厳寺地蔵堂再興する吉次慶長11年1606年)に死去し、跡を子の西尾忠永継いだ。忠永は元和2年1616年)に上野国白井藩移封となったため、原市藩廃藩となり、その所領幕府領となった。現在でも、藩の陣屋構えた上尾市上尾下字名陣屋として残っている。また、同時に上村上尾市上)にも陣屋設けたという。

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揖斐藩」の記事における「藩史」の解説

西尾光教斎藤家織田家豊臣家仕えて曽根に2万石領していた。関ヶ原の戦い光教西軍大谷吉継制止振り切って徳川家康与したため、怒った吉継によって曽根焼き払われた。その後光教岐阜城大垣城攻撃などで戦功挙げたため、1万石を加増されて曽根城から揖斐移って3万石領する大名となり、揖斐藩成立した元和元年1615年)の大坂夏の陣においても徳川方与して戦功挙げたが、同年11月19日駿府にて73歳死去した光教には嗣子がなく、甥の西尾嘉教が跡を継いだ。このとき、嘉教は織田信長から拝領していた「唐絵茄子」の掛軸家康献上して家督相続認めてもらったとも言われている。なお、光教養子である西尾氏教大野加茂両郡において5000石を分与された。 しかし元和9年1623年4月2日、嘉教は嗣子なくして34歳死去した揖斐藩は無嗣断絶となり、廃藩となった

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岡部藩」の記事における「藩史」の解説

藩祖徳川家譜代家臣安部信盛である。信盛の祖父元真は元々今川家重臣であったが、武田信玄今川家滅ぼした際に多く重臣武田家に従う中で、元真徳川家康に従って武田家戦い続けた武将として知られている。信盛は慶長5年1600年)に父・信勝が死去したために家督継ぎ同年関ヶ原の戦い慶長19年1614年)からの大坂の陣などに軍功挙げ大番頭大坂定番などに出世し慶安2年1649年)に1万9250石の所領領して諸侯列し岡部藩立藩した。信盛は寛文2年1662年3月6日隠居して家督安部信之譲った。このとき、信之は2人の弟に1000石ずつを分与している。寛文8年1668年)、信之は大坂定番転身したため、3000石を三河国宝飯郡加増され、2250石を領することとなる。信之の跡を継いだ安部信友天和2年1682年4月には大番頭任じられ2000石を加増された。元禄14年1701年3月8日信友死去し、跡を子の信峯が継ぐはずであったが、同年忠臣蔵有名な浅野長矩による刃傷事件が起こると、信峯は長矩の従兄当たったことから連座出仕止められ家督相続保留となった。しかし、同年6月29日家督を継ぐことを許され、第4代藩主となった安部家歴代藩主多くは、大坂定番加番などを務めている。第7代藩主安部信允もやはり大坂定番務め藩校・就将館を設置している。幕末期である第12代藩主安部信宝罪人とされた兵学者高島秋帆身柄預かった。ただし秋帆は藩内で比較的自由であり、藩士らに洋式砲術歩兵術を教授し、これが岡部藩兵の近代化貢献した。 信宝もまた、幕末の動乱激動する大坂・京二条定番務め上げたが、心労が祟ったのか文久3年1863年7月6日死去した。その跡を継いだ最後藩主安部信発であったが、翌年水戸藩武田耕雲斎らによる天狗党の乱際し岡部周辺通過しようとした天狗党大砲2門を備えた岡部藩兵が交戦し天狗党敗退させる武功挙げている。信発は慶応4年1868年3月勅命により上洛し、新政府恭順誓った。この時、信発は新政府に対して本拠三河半原藩に移すことを嘆願し同年4月3日許された。このため以後安部家中は半原藩として存続する安部家武蔵国岡部本拠としていたが、三河半原摂津桜井谷・瓜生にも所領分散していた。2万石余りのうち、本国武蔵隣国上野には合わせても5千石程度所領しかなく、飛地であるはずの摂津に約8千石三河に約7千石といういびつな所領形態有していた。 関東における岡部藩領の豪農からは、幕末渋沢栄一渋沢成一郎尾高惇忠などが輩出している。渋沢家尾高家苗字帯刀許されてはいたものの、彼らは藩内では名主その子弟の身分であったが、渋沢栄一と成一郎一橋家時代徳川慶喜の下で士分取り立てられ慶喜将軍就任後は直参旗本となっている。

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麻生藩」の記事における「藩史」の解説

新庄直頼慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いのとき、西軍属したため、戦後摂津国高槻所領没収されていたが、後に許され徳川家康召し出され1604年常陸国行方河内新治真壁那珂下野国芳賀都賀河内8郡内に3万石300石余の所領賜った。ここに常陸国行方郡麻生居所麻生藩立藩された。 第2代藩主新庄直定は父の遺領27300石余を継ぎ、弟の新庄直房3000石を分与している。直定は元和2年から没するまで幕府奏者番つとめた第3藩主新庄直好の時、元和8年下野国内の領地1万石を常陸国新治郡移された。直好は継嗣無く養子新庄直時嗣子としていたが、万治3年1660年)に62歳という高齢になってから実子新庄直矩生まれた。しかし直好は寛文2年1662年)に死去してしまい、3歳幼児に跡を継がせるわけにもいかず、直時がそのまま跡を嗣いだ。延宝2年1674年)、直矩が15歳成長すると、直時から直矩に家督譲られた。このとき、隠居した時に藩領から鹿島郡7000石が分与され、麻生藩は2万石余となる。ところが2年後延宝4年1676年)、17歳急死した上に直矩には継嗣無く新庄家は江戸幕府無断後継者擁立しようとしたこともあって改易された。 しかし幕府は、7000石の旗本となっていた前藩主の直時に、その旗本領に3000石を加増して常陸国行方新治郡1万石の所領与えて再勤認め麻生藩再興許した以後新庄家の支配明治時代にまで至った

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玉取藩」の記事における「藩史」の解説

堀秀政の弟・堀利重は、関ヶ原の戦いでは徳川家とへ人質として差し出されていた。しかし徳川家臣として召しだされて8000石を与えられ関ヶ原でも武功挙げている。慶長19年1614年)、大久保忠隣失脚すると、利重は忠隣の縁者であることから奥平家昌預かりの身となって下野宇都宮藩蟄居となった。しかし大坂の陣武功挙げたことから罪を許され1622年新たに常陸新治郡1万石を与えられ玉取藩立藩した。 利重その後書院番頭大番頭寺社奉行など要職歴任したため4000石の加増を受け、寛永15年1638年)に死去した死後家督長男堀利長継いだ。このとき、弟の堀利直に2000石を分与している。しかし利長には男児がなかったため、養嗣子として堀通周迎えて万治元年1658年)閏12月家督を継がせた。 しかし通周は延宝7年1679年12月発狂して家臣殺害したため、幕命により改易され、玉取藩廃藩となったその後玉取堀家は堀利雄(通周の実弟養子)が3000石の交代寄合となって名跡存続許された。

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大久保藩」の記事における「藩史」の解説

天和2年1682年2月郡山藩起こった九・六騒動張本人一人本多政利幕府からその責を問われ、6万石のうち3万石返還した上で新たに3万石加えられるという形で播磨明石藩移封されたが、その地で過酷な政治行い、また巡検視への対応も粗雑だったことを咎められ、6万石から大久保1万石に減移封されて立藩することとなった。政利はここで藩政再建図ったが、年貢割付状によればその年貢率は幕領だった時代より高く賦課は倍に、その上夫金新たに取り立てられていた。 元禄6年1693年6月改易され、政利は庄内藩酒井忠真預かりの身となった改易の理由は『徳川実紀によれば平常言行不良なれば、さきにもいましめられしに、こたび罪なき婢を殺したるにより、所領一万収公せられ」とあり、統治能力性向不備咎められてのものだった。本多政長毒殺転封経緯何よりその統治より政利を嫌う者は大久保藩領にあり、庄内藩預かりの身となった正利須賀川市の日に通りかかったが、「誠に迷惑なる事どもと、皆々申され候」という声があがったと言われている。こうして大久保藩廃藩となり、その所領幕府直轄となった

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平福藩」の記事における「藩史」の解説

慶長6年1601年姫路藩池田輝政の甥・由之が2万2千石領内平福分与された。中世城郭利神城5年要して近代城郭へと大改修した。由之慶長14年1609年)に3万2千石加増され、備前国下津井城城番転出した元和元年1615年)に輝政の次男の忠継が死去し三男忠雄岡山藩主を継ぐと、六男池田輝興は母・良正院遺領分のうち佐用郡など25千石分与されて、平福藩立藩した。しかし、わずか5歳での藩主就任であったため、藩政家臣団によって取り仕切られた。寛永3年1626年)、輝興が元服し従五位下叙任してからは、藩主中心とした政治が行われ、民政に力が入れられた。寛永8年1631年)、赤穂藩主だった輝政の五男の政綱継嗣なく死去したため赤穂藩嗣ぐこととなり、平福藩廃藩となったその後平福には旗本松平康朗が5千石入り明治までこの地を治めた

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陸奥下村藩」の記事における「藩史」の解説

天明7年1787年10月老中田沼意次失脚して隠居謹慎処分となった後、田沼家家督は意次の孫(暗殺され田沼意知の子)の田沼意明継いだ。意次は遠州相良藩5万7000石を領していたが、処罰により1万石に減移封された上で下村藩立藩することとなった田沼家その後、意明から弟の意壱と意信、意次の弟の孫(別家旗本家として続いていた)の意定へと継がれ、第5代藩主には意知の弟の田沼意正が就く。意正はかつては水野忠徳名乗り老中水野忠友養子となっていたが、父の失脚伴ってその養子縁組解消されていた。しかし、文政元年1818年)に忠友の跡を継いだ水野忠成老中になると、意正も若年寄抜擢され幕政に参与した。 文政6年1823年)、忠成や将軍徳川家斉計らいもあって、意正は意次時代旧領相良へ再び移されることとなり、下村藩廃藩となった田沼家が再び相良へ戻ることには幕閣多く反対したが、家斉はかつて意次が自身将軍就任協力したこと、意正自身見所があったこと、さらに意次の名誉回復の意味もあって、反対押し切ったと言われている。

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八幡山藩」の記事における「藩史」の解説

小田原征伐後、徳川家康関東入り江戸城となると家康松平家清1万石で児玉郡八幡山に配領し立藩させた。こうして家清は父・清宗を伴って八幡山城居住した藩政は父清宗が専任し、家清は天正19年1591年)、九戸一揆九戸政実の乱)の鎮圧関ヶ原の戦い従軍し尾張国清洲城城番担当した(父に藩事を任せた形になる)。その後、家清は慶長6年1601年)に加恩3万石得て三河国吉田転封し、八幡山藩江戸時代迎え前に廃藩となり、約11年という短い藩史に幕をとじた。

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山川藩」の記事における「藩史」の解説

太田重正次男・資宗は、徳川家光仕えて5600石の大身旗本となった。さらに松平信綱阿部重次三浦正次阿部忠秋堀田正盛並んで家光側近六人衆一人にまで栄進したため寛永12年1635年)、下野国山川1万石の加増受けて1万5600石で大名列した。しかし3年後寛永15年1638年)、資宗は三河国西尾藩移封となったため、山川藩廃藩となった

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下野富田藩」の記事における「藩史」の解説

慶長18年1613年)、北条氏勝養嗣子の氏重が下総岩富藩から1万石で下野富田入ったことにより、富田藩立藩した。大坂の陣戦功挙げ、さらに江戸城普請役日光東照宮普請役、さらに伏見城城番などを務めた功績賞されて、元和5年1619年)、氏重は富田から遠江久野藩移封され、富田藩廃藩となった

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臼井藩」の記事における「藩史」の解説

戦国時代臼井千葉氏家臣原氏治めていた。小田原征伐原氏滅亡した後、徳川家康関東入部三河国吉田領していた酒井家次が3万石臼井入り臼井藩立藩した。家次は徳川四天王筆頭酒井忠次嫡子である。慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いで家次は徳川秀忠軍に属して上田城真田昌幸攻め参加した。 家次は慶長9年1604年12月上野国高崎藩加増移封となった臼井藩廃藩となり、その所領幕府領となった元禄14年1701年)からは佐倉藩領として組み込まれている。

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真岡藩」の記事における「藩史」の解説

戦国時代宇都宮家支配していた真岡は、江戸時代慶長6年1601年)、豊臣家五奉行務めていた浅野長政三男長重が2万石で入ることで真岡藩立藩した。長重町割り城下町の整備などに尽力した慶長16年1611年)、父が死去した時、父の隠居料であった常陸真壁藩5万石の所領を継ぐこととなった長重真壁移った。 代わって堀親良1万2000石で入った。親良は大坂の陣戦功挙げたため、元和4年1618年)に5000石を加増された。親良も城下町建設尽力した寛永4年1627年)、親良が下野烏山藩加増移封された後、稲葉正成が2万石入った。 正成は小早川秀秋家老だったが、秀秋没後徳川家の家臣となって福井藩主・松平忠昌付家老経て大名となった。しかし翌年に正成は58歳で死去し、跡を正成の子正勝自分領していた柿岡2万石と父の遺領である2万石合わせて4万石継いで藩主となった正勝その後徳川家光のもとで老中となり、加藤忠広改易のときの事後処理などを担当した功績から、寛永9年1632年)に相模小田原藩加増移封された。これにより真岡藩廃藩となり、その所領小田原藩飛び地領を経て天明3年1783年)からは幕府直轄となった

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小久保藩」の記事における「藩史」の解説

[全画面表示] 関連地図千葉県富津市付近慶応4年/明治元年1868年5月徳川宗家当主徳川家達新政府から駿府藩主として認められ70万石領主として駿河遠江に入ることとなった。これに伴って同年9月遠州相良藩主・田沼意尊1万石)が周准郡天羽郡内に移封されたことにより立藩した。 意尊は、第10代将軍徳川家治のもとで老中務めた田沼意次曾孫である。翌明治2年6月版籍奉還により意尊は小久保藩知事となるが、同年12月病死した。養嗣子田沼意斉実父大岡忠恕)が家督相続した明治2年、意斉は弁天山古墳南西麓に小久保陣屋建設着手したが、完成したかどうか不明である。藩庁県知事邸・役所用地などからなる小久保陣屋現在の富津市中央公民館周辺位置しており、記念碑が建つ。藩校「盈進館」は明治3年1870年)に開設され英語教育行われていた。 明治4年1871年)の廃藩置県により廃藩となった小久保藩存続期間4年間であり、小久保陣屋町として大きく発展したわけではなく明治町村制施行伴って大貫村含まれることとなった

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武蔵松山藩」の記事における「藩史」の解説

徳川家康関東入国すると、天正18年1590年)に松平家広松山城1万石を与えられ立藩した。のちに3万石加増された。しかし、家広は慶長6年1601年)、25歳病死する異父弟の忠頼が継ぐが、加増されて遠江国浜松城5万石にて移封し、松山藩廃藩となった

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騎西藩」の記事における「藩史」の解説

小田原征伐後、関東入った徳川家康は、松井松平家松平康重を2万石入れ騎西藩私市藩)が成立した慶長6年1601年11月、康重は常陸国笠間藩へ3万石加増移封となり、その後大久保忠隣嫡男大久保忠常が2万石入ったが、忠常は慶長16年1611年10月、父の忠隣に先立って早世する。死後家督は子の大久保忠職継いだ慶長19年1614年)、祖父・忠隣が改易されたとき、忠職は幼少であるということから改易免れたが、騎西城での蟄居余儀なくされた。寛永2年1625年)に忠職は罪を許され寛永9年1632年)に3万石加増の上美濃加納藩加増移封となった騎西城廃城騎西藩廃藩となったその後騎西川越藩領となる。

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皆川藩」の記事における「藩史」の解説

戦国時代皆川松平忠輝後見人になったことで知られる皆川広照治めていた。広照は小田原征伐のとき、北条家与した徳川家康降伏し所領1万3000石を安堵された。慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いで広照は常陸国佐竹義宣牽制し功績賞されて、35000石に加増された。慶長8年1603年)、広照は忠輝が川中島藩移ったのに伴って信濃飯山藩75000石に加増移封となり、皆川藩廃藩となった寛永17年1640年)、上総百首藩から松平重則1万500石で入り皆川藩が再立藩する。重則の跡は重正が継いだが、重正は寛文2年1662年9月2日死去した。跡を重利継いだが、重利寛文5年1665年3月24日7歳夭折した。当然、嗣子がいるはずも無く能見松平家は無嗣改易となり、皆川藩廃藩となった元禄12年1699年)、上野武蔵相模などに1万石を領していた若年寄米倉昌尹5000加増1万5000石で入る。昌尹は同年7月12日死去し、その跡を継いだ第2代藩主・昌明のとき、弟の昌仲に3000石を分与したため、1万2000となった。昌明は元禄15年1702年4月25日死去し、その跡を昌照が継いだ。昌照は正徳2年1712年5月23日死去し、跡を忠仰が継いだが、忠仰の代である享保7年1722年)、居館武蔵六浦藩移したため、皆川藩廃藩となった

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上総八幡藩」の記事における「藩史」の解説

上総苅谷藩であった譜代大名堀直良は、寛文8年1668年12月陣屋苅谷から市原郡八幡移し上総八幡藩立藩した。直良は元禄4年1691年2月49歳死去し、跡を子の堀直宥継いだ。直宥は元禄11年1698年3月越後椎谷藩移され八幡藩廃藩となった

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上総苅谷藩」の記事における「藩史」の解説

堀直景500石を領していたが、寛永19年1642年)閏9月に父・堀直之遺領である9500石を継いで合計1万石を領し譜代大名として上総苅谷藩立藩した。ちなみに直景は書院番務めたことから2000石を領していたため、本来なら父の遺領併せて1万1500石の大名となるはずであるが、相続同時に1500石を弟の堀直氏に分与したことから1万となった。直景は寛文8年1668年8月家督嫡男堀直良譲って隠居、まもなく出家して宗三と号した。直良は同年12月陣屋苅谷から上総国市原郡八幡移したため、上総苅谷藩廃藩となり、以後堀家上総八幡藩として存続した。

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舟戸藩」の記事における「藩史」の解説

元和2年1616年7月下総国相馬郡加増受けた本多正重1万石で大名列し舟戸藩立藩した。しかし翌元和3年1617年)、正重の跡を継いだ養子の正貫は所領減らされ8000石で相続することになり、1年足らず舟戸藩姿を消した元禄元年1688年)、正貫の孫の正永が寺社奉行にまでなったことから1万石に加増され、再び舟戸藩立藩した。正永は元禄14年1701年)に上総下総国内において5000石を加増され、翌年には上野沼田藩に移封となり、舟戸沼田藩飛び地となったその後本多家享保15年1730年)に駿河田中藩移されたが、舟戸田中藩飛び地領として廃藩置県まで続いた

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守谷藩」の記事における「藩史」の解説

徳川家康家臣として甲斐国巨摩郡切石1万石を領していた菅沼定政は、小田原征伐後に家康関東移されると、北条軍加わって改易された下総相馬氏旧領である相馬郡移されることとなった。これが守谷藩起源である。文禄2年1593年)、立藩同時に母方菅沼姓から本来の土岐への復姓認められた。慶長2年1597年3月定政死去し、跡を次男土岐定義継いだ。定義は元和3年1617年)に摂津国高槻藩加増移封となったため、守谷藩一時幕府直轄領となり、岡登甚右衛門浅井右衛門代官となった土岐定義高槻没しその子土岐頼行継いだが、12歳であったため減封となり、3年後に再び守谷城戻った。やがて土岐頼行元和4年1618年)に山城守受領名を受け、25千石加増されて寛永4年1627年)、出羽上山移された。再び守谷幕府直轄となり伊丹播磨守代官支配の後、寛永19年1642年)に堀田正盛信州松本から13万石佐倉城入った時に佐倉藩になった。正盛の三男正俊は1万3000給与守谷領を継いだが、守谷城には入城しなかった。天和元年1681年)、最後城主酒井忠挙転封になるまでの91年間、城下町としての繁栄をみたが、その後関宿藩久世家領地になり、城下町なくなってからは衰微して周辺農村と全く同じよう環境となった

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船形藩」の記事における「藩史」の解説

船形陣屋 関連地図 藩主となる平岡道弘は、旗本大番藤沢次和の子であるが、文政3年1820年)に西丸小納戸平岡道忠養子となり、文政5年1822年)に初め書院番になった12代将徳川家慶13代将徳川家定時代側衆南紀派であり、信濃上田藩松平忠固与して井伊直弼大老就任実現させるなど、多く役職務めた元治元年1864年10月、道弘は加増受けて1万石の大名列し船形藩立藩した。翌慶応元年1865年)には船形村陣屋建設開始している。 慶応4年/明治元年1868年2月、道弘は江戸城退去する徳川慶喜随身した。7月には領地安房上総監察知県柴山文平へと引き渡し版籍奉還先立って自ら廃藩とした。その後、道弘は徳川将軍家従い静岡藩大参事家老となっている。

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久喜藩」の記事における「藩史」の解説

譜代大名米津政武武蔵をはじめ、下総国河内国摂津国上総国などに1万2000石の所領領していた。だが、貞享元年1684年)に武蔵埼玉郡多摩郡下総国印旛郡はじめとする領地替え行なわれて、久喜陣屋置いたことから、久喜藩立藩された。政武は貞享4年1687年5月18日寺社奉行となり、元禄11年1698年11月11日隠居して家督長男米津政矩譲った。しかし政矩は元禄16年1703年1月15日に父に先立って早世する。このため、弟の米津政容第3藩主となった。政容は大坂定番にまでなっている。第4代藩主米津政崇大番頭大坂定番務めている。第5代藩主米津通政の代である寛政10年1798年7月6日武蔵国内の所領6400石を出羽国村山郡内に移されたとき、久喜陣屋廃して長瀞陣屋置いたため、以後米津家長瀞藩主として存続した。

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大網藩」の記事における「藩史」の解説

幕末期長瀞藩は、出羽国村山郡長瀞現在の山形県東根市大字長瀞)に陣屋構え1万1000石の小大名であったが、所領出羽国上総国下総国分散していた。米津政敏慶応元年1865年)に藩主となるが、定府大名であり、藩士多く江戸詰めていた。慶応4年/明治元年1868年)の戊辰戦争において、長瀞周辺庄内藩軍と新政府軍戦場となり長瀞陣屋焼失天童の戦い参照)、また関東飛び地領には旧幕府脱走兵入り込み金品食糧要求するなど、藩政混乱状態に陥った明治2年1869年)春、長瀞藩士は東京引き払い「一藩残らず」大網移転した大網米津氏所領として長い歴史大きな規模1000石余)を持つで、大網移転地とされたのもこうした事情よる。 同年6月版籍奉還経て知藩事任命された政敏は、8月太政官事務局でもある弁官に、政敏が大網に「暫時移住し長瀞へは執政の者を派遣することの願い出して許可された。次いで10月22日付で藩の本拠大網移転して大網藩知事」とするよう願い出し11月2日付で許可された。これにより大網藩立藩する(立藩日付について千葉県ウェブサイトでは明治2年1869年11月11日とする)。この際長瀞村を含む羽前国内の旧領4酒田県第1次)に編入され代地武蔵国内に与えられた。大網藩は仮藩庁大網日蓮宗寺院蓮照寺に置き、中世大網城南麓現在の大網白里市立大小学校敷地付近)で陣屋建設着手した明治4年1871年2月15日、政敏は常陸国河内郡龍ヶ崎現在の茨城県龍ケ崎市)に藩庁移した以後龍ヶ崎藩称する)。これにより「大網藩」は1年3か月消滅した大網はじめとする下総国上総国所在旧領宮谷県若森県葛飾県移管された。

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松尾藩」の記事における「藩史」の解説

[全画面表示] 関連地図千葉県山武市付近明治元年1868年5月駿河国遠江国三河国徳川家達入ったため、遠江国掛川藩であった太田資美上総国射・山郡内移封となった。資美は同年7月武射郡柴山観音教寺に仮藩庁設置し、これにより「柴山藩」が立藩した。所領5万3350石である。 翌明治2年1869年6月版籍奉還をうけて知藩事任命されると、それまで寺に間借りをしていた仮藩庁の地であった柴山から、新たに藩庁の地として武射郡大堤田越猿尾八田などの入会地山林原野同年9月より開拓して町割り縄張り行い松尾城」の築城開始した。この城は西洋風稜堡式要塞多角形要塞)の形状取り入れた城である。「松尾」とは資美の旧領であった遠江国掛川掛川城別称であり、これにちなん開拓地松尾命名した。翌明治3年1870年11月藩庁知事邸、および城下町が一応は完成明治4年1871年1月正式に松尾へと移り、「松尾藩」と改称した上総移転から廃藩まで、わずか4年足らず存続期間であったが、資美は藩の基礎固めるため、藩校である「教養館」や病院「好生所」などの創設尽力した。特にこの病院は、貧乏人には無料回診し、70歳から80歳以上の者には扶持与えるなど、資美は福祉政策に力を注いだ柴山時代には「仮好生所」として柴山大善寺内に開設していた)。さらに資美は財政政策のため、物産会所設置し養蚕奨励した明治4年1871年7月廃藩置県で、城すら未完成のまま、松尾藩廃藩となって松尾県となったその後しばらく松尾城県庁を置くが、同年11月木更津県合併された。

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龍ヶ崎藩」の記事における「藩史」の解説

明治4年1871年2月17日新暦4月6日)、上総国大網藩知事であった米津政敏藩庁常陸国河内郡龍ヶ崎移したことから、龍ヶ崎藩立藩した。こうして成立した龍ヶ崎藩だが、長瀞藩時代からの財政難引き継がれ財政破綻寸前となり、新政府5000両を嘆願したものの望み叶うことはなかった。同年7月15日新暦8月30日)の廃藩置県より政敏は藩知事免官龍ヶ崎藩廃藩となり、龍ヶ崎県に代わった。

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長瀞藩」の記事における「藩史」の解説

寛政10年1798年7月6日譜代大名米津通政武蔵国久喜藩より長瀞入ったことから立藩した。通政武蔵国下総国上総国常陸国それぞれ所領を持つ大名であった所領合計1万1000石)が、武蔵所領6400石を出羽村山郡に移されたことから、長瀞藩立藩することとなったのである。しかし1万少々がやっとの小藩だった上、所領が5ヶ国にも散在していたため、城持大名にはなれず、長瀞陣屋を置くだけであった初代藩主となった通政治績見るべきところもなく、寛政11年1799年12月家督を子の米津政懿譲って隠居し文政2年1819年6月13日死去した第2代藩主・政懿は日光山祭祀奉行大坂定番歴任し嘉永6年1853年12月死去したその後家督養嗣子米津政易酒井忠器の十男)が継いだが、政易には嗣子無く、弟の米津政明(忠器の十一男)を養嗣子として迎えて万延元年1860年5月9日隠居した。 跡を継いだ政明のとき、藩内で攘夷討幕を叫ぶ声が高まり始める。政明は農民30余名を兵として取り立てて農兵組織し軍事改革進めるなど、それなりの手腕見せていたが、藩内をまとめるだけの力が無く慶応元年1865年12月11日に子の米津政敏家督譲って隠居してしまった。 政敏が跡を継いだ翌年東根山内で兵騒動村山世直し騒動)と呼ばれる事件起こり、藩は混乱した戊辰戦争後、政敏は版籍奉還行なって長瀞藩知事となる。版籍奉還後、政敏は陣屋長瀞から上総大網移したため、大網藩改称され、政敏は翌1871年2月2日大網藩知事となった(更に同藩は常陸国龍ヶ崎移って龍ヶ崎藩となる)。そして同年5月9日長瀞領は山形県編入されることとなった

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大多喜藩」の記事における「藩史」の解説

天正18年1590年)の小田原征伐後、関東入部した徳川家康は、徳川四天王一人本多忠勝上総国10万石を与えた。忠勝は当初万喜城入城したが、遅くとも天正19年1591年)までに居城大多喜城移した。これが大多喜藩起源である。忠勝は武田信玄織田信長にもその武勇認められ、「家康過ぎたる者」とまで言われ武将である。忠勝は慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本隊属して本戦出陣し武功挙げたため、戦後伊勢国桑名藩移された。忠勝の本家長男の忠政が継ぐ予定だったため、大多喜には5万石で次男の忠朝が残った。忠朝は領内検地実施して藩政固めに専念したが、大坂夏の陣戦死した家督は甥の政朝が継いだが、元和3年1617年9月播磨国龍野藩移され、代わって武蔵国鳩ヶ谷藩から阿部正次が3万石入った元和5年1619年9月、正次は相模国小田原藩移されたため、大多喜藩一時的に廃藩となった元和9年1623年10月青山忠俊徳川家光勘気被って老中罷免され武蔵国岩槻藩から減移封となって2万石大多喜に入る。寛永2年1625年)、忠俊は改易され下総国網戸蟄居となったため、大多喜藩廃藩となった一方阿部正次小田原経て武蔵国岩槻藩転封する間も上総夷隅郡所領保持していたが、寛永15年1638年4月に孫の阿部正令正能)が1万石を分与され、大多喜藩を再立藩した。正次の死後岩槻その子の重次が継いでいたが、重次は慶安4年1651年)に将軍徳川家光死に際して殉死した。重次の死後正能は6千石分与されて1万6千石領する大名となる。翌年正能武蔵国忍藩阿部忠秋養子となったため、6千石阿部定高返還している。そして正能寛文11年1671年5月25日武蔵忍藩を継ぐこととなり、代わって大多喜には同年12月岩槻藩であった阿部正春1万6千石入った正春元禄15年1702年9月7日三河国刈谷藩移される。なお、阿部家時代大多喜藩岩槻藩支藩存在であったが、正春に代わって岩槻藩主を継いだ阿部正邦天和元年1681年)に丹後国宮津藩移封されたことで分離している。 入れ替わりで、徳川綱吉政権下で若年寄務めていた稲垣重富が25千石で入る。ところがわずか21日間で、城地が狭すぎるという理由から下野国烏山藩移った。代わって相模国玉縄藩から大河内長沢松平家松平正久が2万石入ったことにより、ようやく藩主家安定した最後藩主松平正質は、幕末期老中格若年寄奏者番などを歴任した明治元年1868年)の戊辰戦争緒戦である鳥羽・伏見の戦いでも幕府軍指揮任されたが、大敗喫して江戸へ逃れたその後、正質は戦犯として新政府から官位所領没収宣告され佐倉藩幽閉された。大多喜城領地当初佐倉藩、後に三河吉田藩管理下に置かれていたが、請西藩旧幕府部隊撤兵隊・遊撃隊)などの誘い応じなかったことが評価されて、同年8月宥免されて正質の所領官位は共に旧に復した翌年版籍奉還で正質は知藩事となり、明治4年1871年)の廃藩置県大多喜藩廃藩となって大多喜県となったその後木更津県経て千葉県編入された。

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江戸崎藩」の記事における「藩史」の解説

戦国時代江戸崎は土岐氏支配していたが、天正18年1590年)の小田原征伐によって滅ぼされた。その後江戸崎には、常陸国一国支配していた佐竹義宣の弟である蘆名盛重が45,000石で入った。しかし慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いで義宣は東西どちらにも付かず行動してしまい、盛重も兄の行動追従したため、戦後徳川家康によって佐竹氏出羽秋田藩に減移封処分となり、蘆名氏もそれに追従して出羽角館1万6,000石に減移封となった慶長8年1603年)、本多正信内藤清成らと並んで関東総奉行務めた徳川氏譜代家臣青山忠成1万石で入ったことにより江戸崎藩立藩する。なお、忠成の嫡子青山忠俊は父と別に5,000石を領していたが、徳川家光後見人となったため、慶長15年1610年)に下野国都賀郡鹿沼において5,000石を加増され、独立した1万石の大名となっている。慶長18年1613年)、忠成が死去したため、忠俊がその遺領相続して35000石を領することとなった元和2年1616年)には老中栄進し、元和6年1620年)には1万石を加増の上武蔵岩槻藩加増移封となったその後常陸古渡藩より丹羽長重が2万石で入るが、元和8年1622年)に3万石加増の上陸奥棚倉藩加増移封となり、江戸崎藩廃藩となった

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上有知藩」の記事における「藩史」の解説

有知は、豊臣政権時代佐藤秀方が25,000をもってこの地に封じられていたが、その子方政慶長5年1600年)の関ヶ原の戦い西軍加担して岐阜城の戦いにおいて戦線離脱したため、戦後になって改易された。 一方方政叔父飛騨一国支配する金森長近東軍与して戦功挙げたため、戦後所領として上有知1万8000石を加増された。これを機に家督養子の可重に継がせて自身鉈尾山城入った。後に小倉山新城築いて移り住み、上有知殖産興業化を目指し牧谷地域製紙業発展させ、城下町の建設にも尽力した慶長13年1608年8月、長近が死去すると、可重が高山城居城として飛騨高山藩統治し38000石、上有知藩次男長光が2万石統治した。だが、慶長16年1611年10月長光6歳夭折したため、上有知藩廃藩となった

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志筑藩」の記事における「藩史」の解説

本堂氏」も参照 本堂氏源頼朝末裔自称し戦国時代後期には出羽国本堂城秋田県美郷町)を中心に勢力有した小領主であった関ヶ原の戦いの際、本堂茂親出羽国抑え務め小野寺義道戦って功績挙げた関ヶ原の戦いの後、慶長7年1602年)に常陸国佐竹家出羽国秋田に減転封された。これと入れ替わる形で本堂茂親常陸国新治郡8500石の知行地与えられ移って来た。『寛政重修諸家譜によれば茂親は志筑住したとあるが、当初笠松城(かすみがうら市中佐谷)に拠点置いたともいう。寛永2年1625年)に領知朱印状が茂親に与えられている。 正保2年1645年)、茂親の子本堂栄親家督継承。弟の本堂親澄に500石を分知したため知行高8000石となる。志筑陣屋かすみがうら市中志筑)が築かれたのも正保2年1645年とされる寛文8年1668年)、本堂玄親のときに初め知行地赴く暇が与えられ参勤交代開始)、交代寄合となる。 7代本堂親房は板倉勝清宝暦2年当時若年寄、のち老中)の四男から本堂家養子となり、宝暦2年1752年)に養父死により19歳家督継いだ。親房は幕府大番頭西の丸徳川家基付)御側といった役職務めた。親房が領主であった安永7年1778年)には、助郷負担に耐えかねた志筑25村民強訴行い翌年首謀者として下佐谷村助六打ち首処せられる事件発生している(助六一揆)。 10代親久のとき明治維新迎え、その直後石直し新田2110石分が認められ都合1万110石で大名列した明治4年1871年)、廃藩置県により志筑県となり、同年中に新治県再編された。

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前橋藩」の記事における「藩史」の解説

豊臣政権下の天正18年1590年徳川家康関東入封に伴い家臣平岩親吉厩橋に33000をもって封ぜられた。 江戸幕府開府翌年慶長6年1601年)に平岩家は甲府藩転封となり、同じく譜代大名重鎮であり徳川家と同祖と伝えられる酒井家武蔵川越藩より33000をもって入封した。4代藩主・忠清は4代将軍徳川家綱期に大老として幕政において影響力持っており、忠清は国元藩政携わることはなかったが、このころに藩の政治経済確立され、特に絹取引栄えた。しかし元禄12年1699年)の風水害見舞われ以来前橋領内前橋城までもが利根川浸食によって年々損害を受け、これが藩財政圧迫した宝永3年1706年)には利根川氾濫により本丸三層倒壊した寛延2年1749年)、9代藩主・忠恭は老中首座となったのちに転封画策、同石高でも実入りが多いと考えられ播磨姫路藩転封となった入れ替わり姫路より越前松平家松平朝矩15万石をもって入封した。しかし城損害続き明和4年1767年)、前橋城本丸城地が完全に川に浸食されるに至った積年財政難で城の修築ままならないことから、藩主・朝矩は前橋城放棄決定前橋藩飛び地であった武蔵川越城居城移転することにしたため以降川越藩呼ばれる。これにより前橋城川越藩飛び地となった。城は全壊したあと長く廃城の状態が続き川越藩分領として前橋陣屋置かれ、その支配をおよそ1世紀の間受けることになった幕末になって時の川越藩主・松平直克念願前橋帰城許された。足掛け4年におよぶ大規模な築城経て慶応3年1867年)に新・前橋城が成り川越藩石高17万石そのまま居城前橋城移転したこの際領国再編され川越城には松平康英が84,000石で入封する)。これによって以降前橋藩呼ばれるが、間もなく大政奉還王政復古の大号令となる。戊辰戦争始まり徳川慶喜謹慎すると、前橋藩いち早く新政府恭順の意を示したが、飛び地の上富津では逆に富津陣屋旧幕府軍に囲まれ家老自刃した挙句後になって新政府からは内通疑われるという事件が起きている(詳細は「小河原左宮」の項を参照)。 明治4年1871年廃藩置県により前橋県となり、その後群馬県編入された。

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高滝藩」の記事における「藩史」の解説

[全画面表示] 関連地図千葉県市原市付近天和3年1683年)、信濃坂木藩5万石の藩主板倉重種の甥である板倉重宣が、重種から2万石分与されたことから高滝藩立藩した(3万石従弟板倉重寛相続した)。所領上総市原郡のほか、信濃伊那郡佐久郡の3郡にあった。重宣は貞享元年1684年)に21歳死去し、跡を養嗣子板倉重高小出英知三男)が継いだ。重高は元禄12年1699年)、備中庭瀬藩移封されたため、高滝藩板倉家支配最後に廃藩となった。 『寛政重修諸家譜によれば板倉重宣市原郡高滝住したとされる大和田には「高滝陣屋跡とされる場所があり、発掘調査行われたが、当該時期遺構発見されていない藩主入国は重高が2回行ったのみで、その際には大和田村光巌寺を宿陣としている。陣屋として新たな建物建設されず、光巌寺集落建物使用されたとする説がある。

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那須藩」の記事における「藩史」の解説

那須氏は弓の名手那須与一有名な名族であったが、戦国時代終焉天正18年1590年)、当主那須資晴豊臣秀吉小田原征伐に参陣しなかったため、那須氏改易となった。しかし那須氏重臣であった大田原晴清主家断絶惜しみ秀吉陳謝したため、特別な計らいで資晴の子・資景に5000石が与えられた。資晴もその後秀吉から罪を許され5000石を与えられた。福原館の詰の城であった要害城の一角に、陣屋構えた、とされている。これは地理的に、のちの交代寄合那須家構えた福原陣屋とは別の場所である。 慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いで、資景は家康に対して人質差し出すことで東軍与し結城秀康と共に上杉景勝南下備え江戸城守備した功績から、慶長7年1602年)までに3000余り加増され約8000石になり、一方で資晴も慶長7年1602年)に家康御伽衆取り立てられ1000石を加増され6000石を領した。資晴は慶長15年1610年)に死去し、跡を資景が継いだ。資景は父の遺領併せて1万4000石を領することとなり、大名列し那須藩立藩した。資景は大坂の陣日光祭奉行として功績挙げ寛永元年1624年)に子・資重に家督譲って隠居した。ところが、資重は寛永19年1642年)、父に先立って死去、しかも嗣子がなかったため、那須氏所領1万4000石は幕府没収となり那須藩廃藩となった。しかし、那須の家名が絶えることを惜しんだ幕府によって、隠居していた資景に5000石が与えられ旗本として存続した。 慶安元年1648年)、信濃国小諸藩45000石の松平憲良は無嗣断絶とされたが、弟康尚名跡継承許され1万石で入り那須藩が再立藩された。翌慶安2年1649年)、康尚伊勢国長島藩移封となり、那須藩は再び廃藩となった旗本となった那須氏家中では、資景の跡目めぐって50人組と20人組が争った結果50人組が擁する資祗(増山正利の弟)が跡を継ぐこととなった寛文4年1664年)、資祗は1万2000石で大名列し那須藩を再び立藩した。第4代将軍徳川家綱の母・宝樹院は資祗の姉であったこともあり、天和元年1681年)に8000石も加増された上で烏山藩への復帰許され那須藩廃藩となった

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小田原藩」の記事における「藩史」の解説

1590年天正18年)の小田原征伐小田原後北条氏豊臣秀吉滅ぼされると、徳川家康関東入部し東国押さえとして譜代大久保忠世小田原城主とした。領国足柄上郡下郡1474万石であった1594年文禄3年)、忠世が没すると、嫡子忠隣が後継となり、武蔵羽生に2万石加増された。忠隣はさらに老中として幕閣入ったが、1614年慶長19年)に改易となり、小田原城破却され、以後5年間は番城となった1619年元和5年)、上総大多喜城主・阿部正次5万石で小田原へ入封したが、4年後には岩槻藩転封となった小田原城は再び番城となる。 1632年寛永9年)、下野真岡藩から稲葉正勝が85千石で入封した。正勝第3代将軍・徳川家光乳母春日局の子で、正勝ののちは正則、正往と続いたいずれも幕府老中就任している。この稲葉家時代に藩の治世確立した稲葉氏1685年貞享2年)に越後高田藩転封する。 1686年貞享3年)に、下総佐倉藩主・大久保忠朝10万3千石で入封した。忠朝は小田原藩最初藩主大久保忠世から5代目にあたり当時幕府老中であった以後幕末・明治初頭まで大久保家支配10代続いた。なお、大久保家歴代藩主多く幕閣として活躍したが、そのために出費重なり財政難にあっている。 1707年宝永4年)に富士山宝永噴火領内の広い範囲農業困難になる翌年藩領のうち被害甚大な駿河国駿東郡相模国足柄上郡足柄下郡淘綾郡高座郡の約5万6384石・197幕府直轄領となり、々は復興するにしたがって小田原藩戻された。小田原藩その間別の地域領地として与えられた。

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生実藩」の記事における「藩史」の解説

[全画面表示] 関連地図千葉県千葉市付近) 「生実」は元々「小弓と書かれ、戦国時代初期古河公方後継者争い敗れた足利義明千葉氏重臣原氏居城だった小弓城奪って居城とし、「小弓公方」を名乗って房総一帯制圧したが、第一次国府台合戦北条氏綱討ち取られ滅亡している。後に原氏旧領復帰して地名を「生実」と改めたが、小田原の役没落した元和9年1623年)、将軍徳川家光寵臣であった酒井重澄生実に25000石を与えられ生実藩立藩した。病気療養称しながら、その間に子を儲けたことで家光勘気を蒙り、寛永10年1633年)に勤務怠慢との理由改易され、酒井家生実藩廃藩となった寛永4年1627年2月上総相模下総国内においてそれぞれ1万石を与えられ大名となった森川重俊は、酒井家とは別に生実藩立藩した。重俊は慶長19年1614年)の大久保忠隣失脚連座して改易されていたが、その後赦免され大名となった領地下総国葛飾匝瑳郡上総国武射郡長柄郡相模国大住郡鎌倉郡内(現鎌倉市二階堂)にそれぞれあった。重俊はその後老中西の丸老中)にまで栄進したが、寛永9年1632年1月25日徳川秀忠死後殉死した。代わって森川重政跡を継ぐが、年貢負担めぐって争論起きるなど藩が混乱した寛文3年1663年1月23日死去し、跡を森川重信が継ぐ。重信元禄5年1692年6月27日隠居して家督森川俊胤継いだ。俊胤は大番頭奏者番寺社奉行歴任し幕閣において活躍した人物である。第8代藩主森川俊知西の丸若年寄栄進し、藩政においては財政再建のために家臣団俸禄減少などを行なった効果無く逆に百姓の利八に直訴される有様であった第9代藩主森川俊民天保9年1838年8月9日に俊知が死去した後、家督継いだ。そして大番頭奏者番若年寄歴任している。 最後藩主となった森川俊方は、戊辰戦争では新政府側に与した翌年版籍奉還で俊方は知藩事となる。明治4年1871年)の廃藩置県生実藩廃藩となる。その後生実県経て同年11月印旛県編入され、のちに千葉県となった

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潤井戸藩」の記事における「藩史」の解説

元和5年1619年)、武蔵国近江国内に5000石を領していた永井尚政は、上総国市原郡潤井戸において1万石を加増されて合計1万5000石を領する大名として諸侯列したことから、潤井戸藩立藩した。尚政は元和8年1622年)に老中栄進したことから翌年遠州山名郡において5000石を加増された。さらに新墾田による所領合わせて24100石を領することとなる。 寛永3年1626年)、尚政の父である下総国古河藩永井直勝死去した。直勝の遺領72000石の所領のうち、1万石が尚政の弟たち分与され(3500石が尚政の弟・永井直清3500石)、永井直貞(3300石)、永井直重(3200石))、尚政自身残りの62000石と、もともとの所領である24100石、そして新墾田所領である1400石の合わせて89100石を領する大名として、父の跡を継いで下総国古河藩移ったため、潤井戸藩廃藩となった

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下総山川藩」の記事における「藩史」の解説

戦国時代山川結城氏一族である山川氏治めていた。山川氏は後に結城秀康家臣となり越前国転封し、その所領徳川直轄領となった慶長9年1604年)に松平定勝三男松平定綱山川5000石を与えられる慶長14年1609年)には1万石を加増され、1万5000石で大名列したことから、山川藩立藩した。定綱は元和2年1616年)、常陸国下妻藩移され、代わって水野忠元が3万石入った。忠元は翌年近江国蒲生郡5000石を加増された。忠元は城下町の建設尽力して藩政基礎固め元和6年1620年)に45歳死去した。跡を嫡男水野忠善継いだ。忠善は代官制度の確立検地などを行なって藩政安定化努めたが、寛永12年1635年)に1万加増の上駿河国田中藩加増移封され、山川藩廃藩となり、その所領幕府領旗本となった。 なお、水野家唐津浜松藩)では、初代忠元が大名になったことを記念して領地ではないが許可得て11代忠邦までの墓所同地つくられている。

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村岡藩」の記事における「藩史」の解説

山名氏応仁の乱以降急速に衰退し戦国末期には但馬国因幡国2系統分かれて領有するのみとなっていた。豊国の兄・豊数はかろうじて因幡国領有していたが、鳥取城主の武田高信攻撃によって拠点布勢天神山城から退却余儀なくされて以降因幡守護家は急速に衰退していった。豊国尼子氏残党力を借りて因幡支配権回復目論み、武田高信鳥取城から追放し、自ら城主となった。しかし、織田信長の命を受けた羽柴秀吉山陰地方侵攻してくると、豊国真っ先降伏したために家臣に見限られて城を追放された。 以後豊国秀吉仕えて御伽衆となり、秀吉死後徳川家康接近する関ヶ原の戦いでは東軍参加し戦功があり家康からの「但馬国で一郡を領し給え」の言葉により但馬国七美郡6700石を与えられると、兎束陣屋築いて地名福岡改めた知行1万石に達しなかったが、新田家分家という、徳川将軍家親戚にあたる出自により旗本でも別格とされ、後に交代寄合御礼衆の一つとされた。 豊国連歌名手教養人、かつ名門の出ということ家康から厚遇され零落した但馬山名氏旗本への取り立てを願うなど山名氏再興尽力したまた、自らを追放したかつての家臣たちが流浪しているのを聞き改め召抱えたという。ただ、変わり身早かったせいか、豊国に関する後世の評価は芳しくない1642年寛永19年)、第3代矩豊が黒野村陣屋移して地名村岡改めた。ただし、武鑑では寛延年間頃までは在所が「但州志津見」と表記されている。 第5代山名豊就寺社奉行となる。1806年文化3年)、第8代義方が陣屋尾白山に移し家格にふさわしい体裁整えた村岡は山がちで耕地少な土地だったため、歴代領主鉱山開発子牛市の開催など産業の振興つとめた。特に、第10代義問は新田開発教育振興に力を尽くした名君といわれる。 第11代山名義済は家老池田一郎進言により尊王となる。1868年新政府により1万1000石への高直しが認められ山名氏諸侯列して村岡藩成立した翌年版籍奉還村岡県となり、1871年廃藩置県豊岡県編入された。 最後知藩事・義路は1871年12歳家督相続し、後に陸軍少佐となった1884年華族制度発足伴って男爵叙せられ、後に貴族院議員にも選出されている。

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鳥取藩」の記事における「藩史」の解説

慶長5年1600年関ヶ原の戦いの後、池田恒興三男長吉(輝政の弟)が6万石で入封し立藩した。その跡を継いだ子の長幸は元和元年1615年)に備中松山藩転封し、代わって池田宗家光政(輝政の子利隆の嫡男)が幼少理由播磨姫路42万石から因幡・伯耆32万石国替となった光政は在封16年の間に鳥取城下町基盤整備した寛永9年1632年)、備前岡山藩主池田忠雄光政叔父)が死去すると、家督継いだ嫡男光仲の幼少理由鳥取光政封地取り替え(この忠雄死去国替前後鍵屋の辻の決闘関わり大きな注目集めた。)、宗家光政備前315,000石、分家筋の光仲が因幡・伯耆325,000石を治めることとなったいわゆる岡山との「お国替え」である。以降鳥取藩池田家分家筋ではあるが、輝政と徳川家康二女督姫の間に生まれた忠雄家系であるため、宗家岡山藩池田家から独立した国持大名とされ、松平姓称する上、外様大名ながら葵紋下賜され親藩準ずる家格与えられた。また、通常ならば大名江戸城登城する際は刀を玄関前で家来預けなくてはならなかったが、鳥取池田家玄関式台まで刀を持ち込むことが許された。これは鳥取池田家の他には御連枝会津松平家越前松平家一門といった徳川一門親藩加賀前田家のみに許され特権であった因幡・伯耆のうち因幡国内に藩庁置かれ伯耆国内では米子に城が置かれ荒尾家が城代家老として委任統治自分手政治)を行ったこの他倉吉八橋松崎浦富といった藩内の重要な町にも陣屋がおかれ家老職にある家が代々統治行った。これらの町は他の在郷とは違い城下鳥取と同じ扱いを受け町年寄などの役職置かれていた。 天保の大飢饉は、鳥取藩でも猛威振るった。その被害は、「申年がしん」と称されている。 幕末12藩主慶徳は、15代将軍となる徳川慶喜同年の兄であったため、敬幕・尊王という微妙な立場をとった。藩内でも、尊王派と親幕派の対立激しく文久3年1863年)には京都本圀寺尊王派藩士による親幕派重臣暗殺事件本圀寺事件)が発生した翌年禁門の変親しい関係にあった長州藩敗戦朝敵となると、これと距離を置くうになる明治元年1868年)の鳥羽・伏見の戦い戊辰戦争では官軍方につき、志願農兵山国隊などを率いて転戦した戦功賞典永世禄においては薩長土に次ぐ3万石賞されている。明治政府登用され鳥取藩士は、河田左久馬北垣晋太郎原六郎松田道之らがいる。

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美濃脇坂藩」の記事における「藩史」の解説

加藤清正福島正則と並ぶ賤ヶ岳の七本槍一人として知られる脇坂安治三男脇坂安信徳川氏仕えて大坂の陣では、酒井忠世協力して武功挙げた。このことから美濃国内に1万石を与えられ諸侯列した安信は娘を鳥取藩主池田長幸次男池田長純に嫁がせていた。寛永9年1632年4月、長幸が病に倒れた。このとき長幸は遺言として、長男池田長常次男の長純にそれぞれ領地半分ずつ相続させようとした。ところが安信はそれに不満を持って弟の脇坂安経とともに長幸の元に赴いて抗議した。しかし長幸の弟・池田長頼口論から刃傷事件及んで安経は殺され自身重傷負った。そしてこの不始末幕府にも聞こえて安信改易処分となった

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黒坂藩」の記事における「藩史」の解説

慶長14年1609年)に中村一忠死去して中村家改易されると、伯耆国には諸大名分散され配置されることとなる。その中で翌年伊勢亀山藩から関一政が2万石加増の上5万石で入り黒坂藩立藩された。 一政築城城下町建設尽力し藩政確立努め大坂の陣においても戦功挙げたが、元和4年1618年7月家中における内紛理由幕命により改易され、黒坂藩廃藩となったその後、その所領池田家属領となった

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唐津藩」の記事における「藩史」の解説

寺沢広高豊臣秀吉仕え1592年文禄の役では肥前名護屋城普請役後方兵站責任者務めて功績挙げたことにより、1593年秀吉から名護屋を含む上松浦郡一帯およそ83000石を与えられ長崎奉行任じられた。慶長の役には朝鮮渡海して活躍している。1600年関ヶ原の戦いでは東軍与して功績挙げたことから、戦後肥後国天草一郡およそ4万石加増され、都合123000石を領する大名となって栄華極めた。しかし広高死後、その跡を継いだ寺沢堅高のとき、島原の乱が起こるとその乱が天草にも飛び火し(堅高は松倉勝家ほどではないが、やはり領民厳し政治敷いていた)、戦後にそれを幕府から咎められ天草4万石没収される。堅高はほどなくして心労により自殺し、堅高には嗣子がなかったため寺沢家は改易となったその後播磨国明石藩より大久保忠隣の孫の大久保忠職が83000石で入る。その跡を継いだ大久保忠朝は、1674年庄屋領内転勤する転村庄屋制度」を創設以後この制度幕末まで続けられた。忠朝は下総国佐倉藩移封となった入れ替わり松平乗久が7万石入り、孫の松平乗邑のとき、志摩国鳥羽藩移封となる。入れ替わり土井利益が7万石入り利益から4代目土井利里のとき、下総国古河藩移封となる。代わって水野忠任三河国岡崎藩より移されて6万石入った1771年水野忠任科した農民への増税契機に、虹の松原一揆起こり農民無血で、増税撤回させるに至った。忠任から4代目水野忠邦のとき、遠江国浜松藩移封される。忠邦は、天保の改革行なったことで有名である。 代わって陸奥国棚倉藩より小笠原長昌が6万石入り以後小笠原家支配明治時代迎えることになる。唐津藩最後藩主となった小笠原長行幕末期老中外国事務総裁兼任して幕政担った。しかも1868年戊辰戦争では旧幕府軍に与して箱館まで転戦するなど、最後まで幕府忠義尽くした人物である。ただし、その養父である小笠原長国をもって最後藩主とし、長行はその世子とどまったとして歴代藩主数えない史料も多い。 唐津藩表向き石高は6万石から12万石であったが、実高20万石前後だったと言われている。その一方で長崎港警護する長崎見廻役という役目任されており、見廻役に専念するために唐津藩主は老中就任できないことになっていた。幕閣就任希望していた水野忠邦実高の低い他所への移封願い出たのも(これに憤った重臣二本松義廉が自害する騒動起きている)、小笠原長行唐津藩継承幕府承認されなかったのも(藩主就任すると、老中から更迭なければならないため)、長崎見廻役と関連していると言われている。 また、藩主家中途半端に変わることが多く長期間による藩主家一大支配がなかった土地柄であった

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出石藩」の記事における「藩史」の解説

慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いのとき、小出吉政は父の小出秀政と共に西軍与して丹後国田辺城攻撃したが、吉政の弟・小出秀家東軍属して関ヶ原本戦にて活躍した功績により戦後徳川家康から6万石所領安堵された。 慶長9年1604年)の秀政の死後小出吉政和泉国岸和田藩移封され、代わって出石領は吉政の嫡男・吉英が領したその後、吉英は吉政の跡を継いで岸和田領を継ぐことになり、出石は吉英の弟・吉親が継ぐこととなる。いわばこのとき、小出家岸和田出石両家分かれた見るべきである。 しかし元和5年1619年)、岸和田領を継いでいた吉英が、5万石にて出石移されることとなり、これに伴い弟の吉親は丹波国園部移封され、園部藩立藩する。結果、吉英は再び出石藩になったその後但馬出石小出家藩主早世が相次ぎ第9代藩主・英及が元禄9年1696年)に3歳死去すると無嗣断絶となったその後受けて松平忠周が48000石で入ったが、宝永3年1706年)に信濃国上田藩移封された。 入れ替わり信濃国上田藩より仙石政明入り仙石氏支配明治時代にまで至った明治4年1871年)、廃藩置県により出石県となる。その後豊岡県経て兵庫県編入された。

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藩史

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安中藩」の記事における「藩史」の解説

徳川四天王一人井伊直政慶長7年1602年)に死去した後、家督長男の直継が継いでいた。ところが直継は生来から病弱なため将器欠け人物で、どちらかというと弟の直孝のほうが父の才能濃く受け継いでいた良将であった大坂の陣においても直継は病弱出陣できず、直孝が井伊軍率いて出陣し武功挙げたため、元和元年1615年2月、直継は直勝と名を改め幕命により彦根藩主の座を廃され分知された安中藩3万石藩主任じられた。そして代わりに直孝が彦根藩家督を継ぐこととなった。これが安中藩立藩である。なお、直勝は彦根藩2代藩主であった履歴抹消された。 直勝は城下町建設尽力した寛永9年1632年12月15日、直勝は家督を子の直好に譲って隠居した。直好は正保2年1645年6月三河西尾藩移され、代わって三河新城藩から水野元綱が2万石入った元綱寛文3年1663年3月領内検地実施して藩政基礎固めた翌年10月26日元綱家督を子の元知に譲って隠居した。しかし元知はその妻(岡崎藩主水野忠善の娘)への傷害事件起したため、寛文7年1667年5月28日領地没収され信濃松本藩預かりの身となった同年6月8日相模国内から堀田正俊が2万石で入る。正俊は延宝7年1679年7月老中昇進したため2万石加増受けて4万石大名となる。その後徳川綱吉将軍擁立貢献した功績から、天和元年1681年2月、正俊は下総古河藩13万石加増移封となった同年5月21日下野内から板倉重形1万5000石で入った。重形は貞享3年1686年7月26日死去し、跡を重同が同年9月25日継いだ。重同は元禄15年1702年7月陸奥泉藩移され入れ替わり内藤政森が2万石入った。この政の代である享保12年1727年4月、潮藤左衛門による年貢減免運動起こった第3藩主・政の代である寛延2年1749年2月三河挙母藩移され、代わって遠江相良藩から板倉重同の子の勝清が2万石入った。 勝清は明和4年1767年7月西の丸老中となったため、1万石を加増された(明和6年1769年)には老中)。板倉家歴代藩主には学問秀でた人物多く、第4代藩主・勝尚の代である文化5年1808年3月藩校造士館創設された。第5代藩主・勝明は学者藩主称され、「西征起行」や「東還紀行」など多く著作残し、藩内の学問奨励にも尽力した。しかし安中藩では天明の大飢饉などから次第財政難領内荒廃深刻化した。幕末期には和宮降嫁のために中山道守備務めた。「偽官軍事件」として有名な赤報隊事件はこの安中起こっている。 明治4年1871年)の廃藩置県で、安中藩廃藩となって安中県同年10月群馬県編入され藩主板倉家子爵授かった。ただし廃藩後板倉家では、最後藩主であった板倉勝殷明治5年1872年)に一旦隠居するも翌明治6年1873年)に当主を再襲、しかしわずか2週間足らず死去しその後10年以上にわたって当主交代相次いだ華族令施行され明治17年1884年当時板倉家女戸主(勝殷の娘・花子であったため叙爵受けず最後川越藩であった松平康載先代実子家督譲って旧川藩主家離れていた)が花子の婿となって板倉勝観名乗り板倉家を継ぐことで明治19年1886年)に叙爵受けた専門家検証なされていないが、遺構として城の東に位置する熊野神社1箇所、および市内某家に都合2箇所城門移築され、また市内某家に武器庫払い下げられている。 安中藩出身の有名人としては、京都市同志社英学校現在の同志社大学)を創設した新島襄がいる。

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紀伊新宮藩」の記事における「藩史」の解説

新宮戦国時代豊臣家の家臣堀内氏善領していたが、慶長5年1600年)の関ヶ原の戦い西軍与したために没落するその後紀伊国封じられ浅野幸長のもとでは浅野忠長領していたが、浅野本家安芸広島藩移封されると忠長随伴した。その後安藤家と共に徳川頼宣附家老として入った水野重央が、新宮に35000石を領した水野家入部をもって紀伊新宮藩始まりともされるが、幕藩体制のもとでは、身分はあくまで紀州徳川家家臣であり、大名として扱われなかった。水野家代々家老として藩政重き成した第9代水野忠央は、後に紀州藩主から第14代将軍となった徳川家茂慶福)を補佐し幕末大老有名な井伊直弼協力して家茂第14代将軍にしようと奔走した徳川御三家紀州藩直轄から新宮城主・水野藩に知行替え交付された際、現三重県熊野市木本町周辺の住民猛反対し、当時藩士吉田庄太夫が奔走して知行替え中止させている。故人偲んで木本神社祀った

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菊間藩」の記事における「藩史」の解説

[全画面表示] 関連地図千葉県市原市付近明治元年1868年5月徳川家達駿府藩移ったことにより、それまで沼津藩であった水野忠敬所領5万石のうち23700石が上知となったため、その代わりとして上総国市原郡菊間において23700石が与えられたことから菊間藩立藩した。忠敬は新たな藩庁建設藩校創設尽力している。明治4年1871年)の廃藩置県廃藩となった

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出羽丸岡藩」の記事における「藩史」の解説

寛永9年1632年6月幕命により肥後熊本藩主加藤忠広改易となり、庄内藩主・酒井忠勝預かりの身となったが、このとき忠広には1万石が与えられ丸岡藩成立した。しかし藩としての支配機構支配権はほとんどなく、実質庄内藩藩政支配していた。しかし忠勝は忠広を哀れに想い毎年100俵を支給していたと言われている。正保3年1646年2月、忠広の居所および家臣屋敷全て全焼する火災があったが、京より建物取り寄せ再建されている。 忠広は承応2年1653年)閏6月8日死去し丸岡藩廃藩となったその後丸岡領は幕府領および庄内藩となった廃藩時家臣は、加藤頼母、加藤主水(僧となり主君墓守となるがのちに乱心)、谷崎采女杉村文太夫、永原左衛門永原清大夫、神戸小平太萱野三郎加藤左平太、永原左衛門松下庄兵衛平野右衛門九郎天野九十郎、水野長兵衛村尾之助、生熊九郎助16名。翌年正月丸岡引き払い鶴岡半年滞在庄内藩通行手形携帯し出羽国を後にした。また、加藤頼母、谷崎萱野杉村永原左衛門永原左衛門の6名は庄内藩召抱えられた。谷崎は暇請をし、寛文11年1671年)に肥後戻っているが、他の者の子孫は幕末まで存続している。

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朽木藩」の記事における「藩史」の解説

朽木氏朽木谷城を本拠として代々室町幕府奉公衆務めた朽木元綱足利義輝義昭仕え外祖父公卿飛鳥井雅綱を持つなど名門の血を継いだ織田信長浅井長政の裏切りで危機陥ったときに京都への脱出助けその後織田信長豊臣秀吉仕えて2万石有した元綱関ヶ原の戦いでは当初西軍につくが、主戦場小早川秀秋同調して東軍寝返る。だが、徳川家康はその挙動不信感抱き本領近江朽木安堵したものの、その総石高は9550石と減封され、大名家格ではなくなった。その後朽木氏交代寄合として遇されて、独自の陣屋を持つことを認められ大名準じる扱い受けた元綱没後長男宣綱が6470石を与えられ残りは弟2人分知された。 なお、交代寄合としての宗家朽木宣綱の子孫)のほかに、宣綱の末弟の稙綱の子孫が治めた土浦藩福知山藩などを指して朽木藩」と呼ぶ例もある。

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丸岡藩」の記事における「藩史」の解説

丸岡戦国時代織田信長配下勇将柴田勝家養子柴田勝豊治めていた。勝豊賤ヶ岳の戦い後に病死すると、青山宗勝青山忠元父子入った青山氏慶長5年1600年)の関ヶ原の戦い西軍与したため、戦後改易された。代わって越前福井藩入った結城秀康重臣今村盛次が25000石で入ったが、慶長16年1611年)の福井藩重臣による内紛巻き込まれ流罪とされた。その後慶長18年1613年5月徳川家康のもとで仕えて鬼作左」の異名をとったことで有名な本多重次の子本多成重が4万石与えられ入り、秀康の後を継いだ松平忠直本多富正と共に補佐した大坂の陣でも活躍し武功挙げている。寛永元年1624年)、忠直豊後国流罪とされると、成重は46300石に加増され、福井藩から独立した大名として取り立てられた。成重とその子本多重能、そして孫の本多重昭3代検地城下町の整備新江用水新設など、藩政確立尽力したが、重昭の子本多重益酒色溺れて無能の上家臣本多織部太田又八の間で内紛起こり元禄8年1695年)に幕命により改易された。 代わって戦国時代キリシタン大名有名な有馬晴信曾孫有馬清純越後糸魚川藩から5万石で入部する第2代藩主有馬一準時代である正徳元年1711年)に外様大名から譜代格格上げされた。第5代藩主有馬誉純若年寄第8代藩主有馬道純老中という幕府要職就任した。特に誉純の代は安永元年1772年)から約50年間という長期わたって藩主務め藩政改革行なって藩政安定させた上、藩校である平章館の設立や藩史・地誌編纂力を注ぐなど、文化面でも大い貢献した明治2年1869年6月、道純は版籍奉還により丸岡藩知事となり、明治4年1871年9月廃藩置県により、道純は東京移住して丸岡藩廃藩となったのである

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尾張黒田藩」の記事における「藩史」の解説

[全画面表示] 関連地図黒田城 (尾張国)」および「一柳直盛」も参照 小田原征伐後の天正18年1590年)、戦死した一柳直末の跡を継いだ弟の一柳直盛は、豊臣秀吉から3万石与えられ黒田城となった中世黒田には鎌倉街道宿駅があって「黒田宿」と呼ばれ同時に交通の要衝としてしばしば合戦場にもなった。 天正18年1590年)には織田信雄に代わって豊臣秀次清洲城入っているが、『一柳家記によれば直盛は豊臣秀次からも5000石を賜ったという。『寛政重修諸家譜』では5000加増時期文禄元年1593年)とするが、加増した主体記していない。 慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、一柳直盛徳川家康与した8月22日河田の渡し付近での木曽川渡河河田木曽川渡河の戦い)の際には、先陣主張して池田輝政争った。『一柳家記によれば、「居城よりわずか1,2里にある領知の川」を渡るのであるから先陣を譲ることはできない激怒し、輝政に詰め寄ったという。『寛政重修諸家譜』では、この辺所領近かったために川の状況知っており、前夜のうちに士卒に川の浅深を測らせていたために、木曽川先陣切って渡ることができたという。 木曽川渡河後も、岐阜城攻め長松城守備で功績挙げた。翌慶長6年1601年)、直盛は1万5000石の加増を受け、伊勢国神戸藩5万石で移された。この加増は、関ヶ原の戦い論功行賞と見なされている。 黒田は、62万石領主となって清洲城入った徳川家康の四男松忠吉所領清洲藩尾張藩参照)として組み込まれた。以後黒田中心とする藩は置かれていない黒田城主としての直盛は、黒田町割改め荒廃していた白山神社再建して祭礼復興させたという。黒田人々江戸時代になって廃城となった黒田城跡を「一柳御館跡」「一柳様御城跡」と呼び白山神社祭礼では直盛の鎧を中心に練り歩いたという。現代において白山神社は「一柳監物直盛公ゆかりの宮」を掲げている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/28 15:47 UTC 版)

大多喜新田藩」の記事における「藩史」の解説

慶安4年1651年)に岩槻藩阿部重次殉死した後、その遺領99千石家督長男阿部定高継いだ。このとき、次男三浦正春にも新田1万6千石分与され、大多喜新田藩立藩された。重次の阿部正次元和3年から同5年まで(1617年 - 1619年大多喜藩であったが、相模小田原藩経て岩槻へと転封する間も上総夷隅郡領地そのまま保持しその間青山忠俊大多喜藩となった改易された)、生前寛政15年1638年)に次男の重次と長男政澄の遺児正令(正能)に領地分与していた(正令はこれにより岩槻藩支藩として大多喜藩を再立藩した)。正令はまた、従弟にあたる定高家督相続時にも6千石分与されたが、翌慶安5年1652年)に武蔵忍藩阿部忠秋養嗣子となり、この6千石定高返還した。 『寛政重修諸家譜』の記録では、正春は「新墾田1万6千石をわかち賜ひ、大多喜居所をいとなむ」とされるが、正令の居城であった大多喜城仮住まい設けられたのか、別途大多喜陣屋設けたのかは明確でない定高万治2年1659年)に死去したが、実子の作十郎(正邦)はまだ幼少であったため、作十郎成人するまで繋ぎとして正春家督譲ったこのため正春阿部姓に復し、元の1万6千石加えて99千石合わせて115千石領することになり、岩槻に入封して大多喜新田藩廃藩となった。のちの寛文11年1671年)、正春岩槻藩主を正邦に譲り自身忍藩主を継いだ正能の後を受け、大多喜新田藩時代からの旧領1万6千石みをもって大多喜藩となった正能自身大多喜藩時代領地保持し続けた)。

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相良藩」の記事における「藩史」の解説

宝永7年1710年)、本多忠晴三河国伊保藩より1万5000石で入部したことから立藩した。延享3年1746年)、第3藩主本多忠如のときに陸奥国泉藩移封となったため、入れ替わり板倉勝清1万5000石で入る。寛延元年1748年11月、勝清は2万石加増されて城主格となる。しかしその翌年、勝清は上野国安中藩移された。代わって三河挙母藩より本多忠央1万石で入る。ところが宝暦8年1758年)、美濃国郡上藩金森氏騒動苛酷な統治理由改易となると、その縁戚関係にあった忠央も連座として改易された。 代わって第9代将軍徳川家重のもとで頭角現わし始めていた田沼意次1万石で入った。意次は第10代将軍徳川家治のもとで宝暦12年1762年2月15日5000石、明和4年1767年7月1日には側用人栄進して5000石を加増されて2万石大名となり、さらに城主格任じられ相良城築城許された。相良城安永7年1778年)に完成したちなみに田沼安永元年1772年1月老中出世し、「田沼時代」を現出し権勢並ぶ者なしの栄華極め所領最終的に5万7000石にまで加増された。順次加増されたため、5万7000石の内訳遠江国相良だけでなく駿河国下総国相模国三河国和泉国河内国の7か国14郡に跨った分散知行となった藩政において、築城とともに城下町改造行なって手腕見せた。意次は郡上一揆調査裁定行った経歴から、年貢増徴政策だけでは家を滅ぼすことを知っていたので、家訓年貢増徴戒めており、領内年貢が軽いことから百姓喜んだ逸話残されている。江戸定府であった意次は国元町方村方統治明確化し、城代・国家老などの藩政担当家臣国元配置した殖産興業政策にも取り組み農業では養蚕栽培奨励製塩業助成相良港の整備瓦焼きにも助成金出して火事対策進め食糧備蓄制度整備したまた、東海道藤枝宿から相良に至る分岐路を整備し、これは後に田沼街道相良街道)と呼ばれることとなった。 しかし天明6年1786年)、家治死去する松平定信粛清にあって意次は失脚して強制的に隠居させられ、意次の孫・田沼意明家督継いだが、陸奥下村藩1万石で移封された。定信はさらに、和泉国岸和田藩主の岡部長備をして相良城破却せしめ、相良藩廃藩となる。 その後文政6年1823年7月8日徳川家斉尽力もあって意次の四男・田沼意正旧領相良1万石で復帰許された。第3藩主田沼意尊の代である明治元年1868年)、上総国小久保藩移されたため、再度廃藩となった

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若桜藩」の記事における「藩史」の解説

豊臣政権時代木下重堅若桜城であったが、慶長5年1600年)の関ヶ原の戦い西軍属し敗戦とともに自害した慶長6年1601年)、摂津国三田藩より山崎家盛が3万石で入封して立藩した。2代家治元和3年1617年備中国成羽藩転封となった以後鳥取藩領となる。 元禄13年1700年)に鳥取藩支藩として同じ地に鳥取西館新田藩立藩した。以後鳥取藩の項目を参照明治元年1868年)、第10代藩主池田徳定若桜陣屋置いたため、鳥取西館新田藩若桜藩呼ばれるようになった明治3年1870年)、若桜藩鳥取藩合併され廃藩となった

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府内藩」の記事における「藩史」の解説

豊後府内大友氏居城であったが、大友吉統文禄の役卑怯な振る舞いをしたとされ、豊臣秀吉怒り買って改易された。慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いで、豊後高田領主竹中重利ははじめ西軍与して田辺城の戦い参加したが、後に東軍寝返ったため、戦後徳川家康から賞され高田1万石から府内2万石加増移封され、府内藩藩祖となった重利の跡は子の重義継いで徳川秀忠の寵を得たが、罪を得て改易された。 代わって下野国壬生藩より日根野吉明が2万石で入るが、明暦2年1656年)に無嗣改易された。その後、吉明の義理の甥(正妻兄弟の子)にあたる大給松平家豊後高松藩松平忠昭が22200石と徳川幕府天領管理を受け明暦4年1658年2月24日に入封。以後大給松平家10代わたって支配し明治維新迎えた明治4年1871年)、廃藩置県により府内県となり、後に大分県編入された。

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庭瀬藩」の記事における「藩史」の解説

慶長5年1600年)、関ヶ原の戦い西軍主力となった宇喜多秀家家臣であった戸川達安は、内紛により東軍方についた。その功により、達安は29200石を領し立藩庭瀬城居所とした。続く2代から4代藩主それぞれの兄弟領地分与したため、4代安風の代には2万石となった延宝7年1679年)に無嗣断絶し庭瀬一時幕府領となった4年後の天和3年1683年)、下総国関宿藩より久世重之5万石で入部し、再び庭瀬陣屋構えた貞享3年1686年)、重之は丹波国亀山藩移封となった7年の後、元禄6年1693年)に大和国興留藩より松平信通が3万石入部したが、元禄10年1697年)に信通は出羽国上山藩移封となった元禄12年1699年)、上総国高滝藩より板倉重高が2万石入部し廃藩置県まで板倉氏11172年間在封した。江戸後期文政元年1818年)、7代勝資は藩校誠意館を開いている。 明治4年1871年)、廃藩置県により庭瀬県となった。後、深津県小田県経て岡山県編入された。板倉家明治17年1884年)の華族令より子となった内閣総理大臣となり五・一五事件凶弾倒れた犬養毅は、庭瀬藩領地出身である。

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壬生藩」の記事における「藩史」の解説

戦国時代壬生氏支配下にあった壬生は、小田原征伐壬生氏滅亡した後は結城秀康結城藩支配下置かれた。関ヶ原の戦い後、秀康が越前国福井藩加増移封された後の慶長7年1602年)、信濃国高島藩から日根野吉明1万900石で入ることにより、壬生藩立藩された。吉明は日光東照宮造営奉行として功績挙げた後の寛永11年1634年7月豊後国府内藩移封となる。 翌年6月20日阿部忠秋が25000石で入部する。忠秋はまもなく徳川家光のもとで老中栄進したため武蔵国忍藩移封され、代わって寛永16年1639年1月、忠秋と同じく家光の「六人衆」である三浦正次が25000石で入る。三浦氏検地などを行って藩政基礎固めた第3藩主三浦明敬奏者番若年寄歴任している。元禄5年1692年2月23日、明敬は日向国延岡藩移封となった。 代わって徳川綱吉政権のもとで柳沢吉保と共に権勢振るった松平輝貞が32000石で入った。輝貞は元禄7年1694年8月27日1万石を加増された。藩政においては城下大改修尽力している。元禄8年1695年5月、輝貞は上野国高崎藩移封され、代わって若年寄であり近江国水口藩主である加藤明英が25000石で入った。明英は文武両道優れた名君で、特に水口では善政敷いたが、なぜかこの壬生では年貢増徴を特に厳しく悪政敷いたこのため七色掛物」と称される税に反対する百姓一揆発生し刑死者が出る騒ぎとなった結果として七色掛物」の賦課撤回された)。明英は正徳2年1712年1月2日死去。後を加藤嘉矩継いだが、同年2月26日加藤氏水口戻された。入れ替わり若年寄鳥居忠英が3万石で入る。 忠英は名君で、殖産興業政策奨励し近江から干瓢栽培伝え今日干瓢国内生産8割を誇る栃木県の礎を築き藩校である学習館創設するなどして藩政基礎固めた幕末壬生藩鳥居家尊王攘夷めぐって藩論二分して混乱陥ったが、戊辰戦争では新政府についた明治4年1871年)の廃藩置県壬生藩廃藩となる。その後壬生県経て栃木県編入された。

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