みととくがわ‐け〔みとトクがは‐〕【水戸徳川家】
読み方:みととくがわけ
⇒水戸家
水戸徳川家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/29 21:55 UTC 版)
水戸徳川家(みととくがわけ)もしくは水府徳川家(すいふとくがわけ)は、徳川将軍家の分家である御三家の一つ。単に水戸家、水府家ともいう。江戸時代には水戸藩主、維新後には華族の侯爵家に列し、のちに公爵家に陞爵した[1]。御三家の中で公爵に列したのはこの家のみである[2]。
- ^ 小田部雄次 2006, p. 58.
- ^ a b 小田部雄次 2006, p. 323.
- ^ a b c d e 日本大百科全書(ニッポニカ)『水戸藩』 - コトバンク
- ^ a b 精選版 日本国語大辞典『水戸家』 - コトバンク
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『高松藩』 - コトバンク
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『守山藩』 - コトバンク
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『府中藩』 - コトバンク
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『宍戸藩』 - コトバンク
- ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 7.
- ^ 烈公(斉昭)尊王の志厚く、毎年正月元旦には、登城に先立ち庭上に下り立ちて遥かに京都の方を拝し給いしは、今なお知る人多かるべし。予(慶喜)が二十歳ばかりの時なりけん。烈公一日予を招きて宣えり。おおやけに言い出すべきことにはあらねども、御身ももはや二十歳なれば心得のために内々申し聞かするなり。我等は三家・三卿の一として、幕府を輔翼すべきは今さらいうにも及ばざることながら、もし一朝事起こりて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府に反くとも、朝廷に向いて弓引くことあるべからず。これ義公(光圀)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ。|徳川慶喜|「烈公(斉昭)の御教訓の事」『昔夢会・徳川慶喜公回想談』
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『徳川斉昭』 - コトバンク
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『徳川慶喜』 - コトバンク
- ^ 打越孝明 2012, p. 81.
- ^ a b 小田部雄次 2006, p. 31.
- ^ 打越孝明 2012, p. 80.
- ^ 渡辺幾治郎下巻 1958, p. 401.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 326.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 337.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 345.
- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 8.
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『大日本史』 - コトバンク
- ^ 小田部雄次 2006, p. 225.
- ^ 平成新修旧華族家系大成下p172
- 1 水戸徳川家とは
- 2 水戸徳川家の概要
- 3 系譜
- 4 水戸徳川家臣団
- 5 外部リンク
水戸徳川家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/11/03 03:28 UTC 版)
徳川頼房(とくがわ よりふさ) (鶴千代→徳川頼房) 演:大柴邦彦(幼・少年期:上坂巧→岡田祥世→福田勇介) 家康の十一男。頼宣の同母弟。実母は、お万の方であるが、養母は、お梶の方。少年時代の家光(竹千代)と親しく、共に侍女の行水を覗いたりしていた。竹千代に正室は不要、側室に子供を産ませれば良いと吹き込んだことから秀忠の怒りを買い、竹千代から遠ざけられる。しかし2人の交わりはその後も相変わらずであった。 水戸光圀(みと みつくに) (千代松→水戸光圀) 演:中村梅雀(幼年期:タモト清嵐) 頼房の次男。後述のとおり、本作の狂言回しである。「彰往考来」をモットーに、正しい歴史を記すべく、歴史書の編纂に勤しむ。そのためには徳川家にとって不都合な点を挙げることも辞さず、当初は家臣の介三郎や覚兵衛と衝突した。 久(ひさ) 演:石川葉子 頼房側室、頼重、光圀の生母。
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水戸徳川家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:20 UTC 版)
徳川光圀(とくがわ みつくに) 演:長門裕之 第二代水戸藩主。将軍にもずけずけと物を言う、江戸城きっての論客にして御意見番。その直言には綱吉も閉口してしまう。六代将軍に早くから綱豊(家宣)を推していた。 徳川綱條(とくがわ つなえだ) 演:山本圭 光圀の甥で、養子となって水戸家を継ぐ。吉宗の将軍擁立に協力。 徳川宗堯(とくがわ むねたか) 演:西村和彦 綱條の実父・松平頼重の孫で高松藩主・松平頼豊の長男。綱條の養子となって水戸家を継ぐ。老中・水野忠之の圧力に耐え切れず、江戸の藩邸で割腹自殺する。 徳川宗翰(とくがわ むねもと) 演:小栗旬(幼少期:長瀬優秀) 第五代水戸藩主。
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水戸徳川家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:17 UTC 版)
徳川斉昭(とくがわ なりあき) 演:竹中直人 第9代水戸藩主。慶喜の父。家督を譲った後は「水戸の御老公」、没後は烈公(れっこう)と称される。 水戸学に基づいた尊王攘夷を唱え、諸国の志士たちから絶大な人気を誇る。息子の慶喜に期待しており、御三卿の一橋家に養子入りさせる。 大規模な軍事訓練を行ったことで幕府から隠居・謹慎を命じられるも、ペリーが来航すると海防参与として幕政に復帰する。老中首座・阿部正弘に対し強硬な攘夷論を唱え、安政東海地震の際も被災したロシア人を皆殺しにするよう主張するが、その度諫めていた側近・藤田東湖を安政江戸地震で失うと啼泣する。 阿部の死後は幕政から遠ざけられ、朝廷に攘夷を勧める手紙を送るなどして日米修好通商条約の調印に反対する。勅許を得ぬまま幕府が条約を調印すると、息子・徳川慶篤や尾張藩主・徳川慶恕とともに登城し、大老・井伊直弼を面詰するも退けられてしまい謹慎を命じられる。その後、安政の大獄において水戸での永蟄居を命じられる。 貞芳院(ていほういん) (吉子 → 貞芳院) 演:原日出子 斉昭の正室。慶喜や慶篤の母。実名は吉子(よしこ)。京の皇族の有栖川宮家の出で、幼称は登美宮(とみのみや)。斉昭没後は落飾して貞芳院と名乗る。 徳川慶篤(とくがわ よしあつ) 演:中島歩 慶喜の同母兄。第10代水戸藩主。 日米修好通商条約調印後、井伊の面詰のため父とともに不時登城する。 茂姫(しげひめ) 演:吉澤梨里花 慶喜の異母妹。
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水戸徳川家
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徳川頼房(とくがわ よりふさ) (鶴千代→徳川頼房) 演:大柴邦彦(幼・少年期:上坂巧→岡田祥世→福田勇介) 家康の十一男。頼宣の同母弟。実母はお万の方であるが、養母はお梶の方。少年時代の家光(竹千代)と親しく、共に侍女の行水を覗いたりしていた。竹千代に正室は不要、側室に子供を産ませれば良いと吹き込んだことから秀忠の怒りを買い、竹千代から遠ざけられる。しかし2人の交わりはその後も相変わらずであった。 水戸光圀(みと みつくに) (千代松→水戸光圀) 演:中村梅雀(幼年期:タモト清嵐) 頼房の次男。後述のとおり、本作の狂言回しである。「彰往考来」をモットーに、正しい歴史を記すべく、歴史書の編纂に勤しむ。そのためには徳川家にとって不都合な点を挙げることも辞さず、家臣の介三郎や覚兵衛とも衝突した。 久(ひさ) 演:石川葉子 頼房側室、頼重、光圀の生母。
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