水野忠之とは? わかりやすく解説

水野忠之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/07 08:58 UTC 版)

水野 忠之(みずの ただゆき)は、江戸時代中期の譜代大名で、江戸幕府老中三河岡崎藩の第4代藩主(5万石、後6万石)。忠元系水野家5代。


  1. ^ 当時の水野家の厚遇を詠う狂歌「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」が残る。(「アル書ニ載ス。此時御預リ四家ノ優劣ヲ詠ゼシ歌」『浅野一乱記』)
  2. ^ 赤穂市発行「忠臣蔵第1巻」
  3. ^ 赤穂浪士切腹当時の水野屋敷は、現在の「水野監物邸跡」より北へ50メートルほど離れた場所にあった。(東京都教育委員会)
  4. ^ 久松松平家は浪士を罪人として扱い(『波賀清太夫覚書』では「警備には鎖を着込み具足も用意、沙汰がある前から自身を主税の介錯人に定む」)、切腹でも失礼(主税が腹に当てる以前に斬首)、毛利家は部屋をくぎ付けした以外に、自害や反乱を警戒し火気(火鉢・煙草・風呂)厳禁とも伝わる。(『府中侯留書』)
  5. ^ 「水野家文書」(東京都立大学付属図書館)
  6. ^ 旗本家
  7. ^ 岡崎藩


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水野忠之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)

赤穂事件」の記事における「水野忠之」の解説

水野は、お預かり義士について何の感想感情示していない。岡崎藩記録では「九人のやから、差し置き候庭のうちへも、竹垣これをつむ」「寒気強く候につき臥具増やす冪あり申せども、その儀及ばず初め儘に罷りあり」と薄情な記述がある。

※この「水野忠之」の解説は、「赤穂事件」の解説の一部です。
「水野忠之」を含む「赤穂事件」の記事については、「赤穂事件」の概要を参照ください。

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