水戸徳川家
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水戸徳川家(みととくがわけ)もしくは水府徳川家(すいふとくがわけ)は、徳川将軍家の分家である御三家の一つ。単に水戸家、水府家ともいう。江戸時代には水戸藩主、維新後には華族の侯爵家に列し、のちに公爵家に陞爵した[1]。御三家の中で公爵に列したのはこの家のみである[2]。
- ^ 小田部雄次 2006, p. 58.
- ^ a b 小田部雄次 2006, p. 323.
- ^ a b c d e 日本大百科全書(ニッポニカ)『水戸藩』 - コトバンク
- ^ a b 精選版 日本国語大辞典『水戸家』 - コトバンク
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『高松藩』 - コトバンク
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『守山藩』 - コトバンク
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『府中藩』 - コトバンク
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『宍戸藩』 - コトバンク
- ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 7.
- ^ 烈公(斉昭)尊王の志厚く、毎年正月元旦には、登城に先立ち庭上に下り立ちて遥かに京都の方を拝し給いしは、今なお知る人多かるべし。予(慶喜)が二十歳ばかりの時なりけん。烈公一日予を招きて宣えり。おおやけに言い出すべきことにはあらねども、御身ももはや二十歳なれば心得のために内々申し聞かするなり。我等は三家・三卿の一として、幕府を輔翼すべきは今さらいうにも及ばざることながら、もし一朝事起こりて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府に反くとも、朝廷に向いて弓引くことあるべからず。これ義公(光圀)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ。|徳川慶喜|「烈公(斉昭)の御教訓の事」『昔夢会・徳川慶喜公回想談』
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『徳川斉昭』 - コトバンク
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『徳川慶喜』 - コトバンク
- ^ 打越孝明 2012, p. 81.
- ^ a b 小田部雄次 2006, p. 31.
- ^ 打越孝明 2012, p. 80.
- ^ 渡辺幾治郎下巻 1958, p. 401.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 326.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 337.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 345.
- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 8.
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『大日本史』 - コトバンク
- ^ 小田部雄次 2006, p. 225.
- ^ 平成新修旧華族家系大成下p172
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