大正期以前
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伊達政宗から水戸徳川家に贈られたとされ、『端亭漫録』巻五十三竹甫雑記の小石川御屋敷御道具之内書抜に「一、光忠 長二尺二寸正宗殿より来る」(原文ママ)と記されているのがこれに相当すると思われる。江戸後期に編纂された水戸徳川家の刀剣帳『武庫刀纂』では政宗が刀を愛しんで与えなかったが徳川光圀が強いて持ち去ったとされ、幕末に出版された青山延光の『刀剣録』では徳川頼房が乞い受けたとされた。『刀剣録』の方が広く読まれ、明治以降の文献ではこちらに則った記載が多い。一方、伊達家には政宗が人を切る時に燭台も切った記録や、政宗から水戸徳川家に光忠の刀を進呈した記録は見つかっていない。 その後は水戸徳川家に伝来し、江戸時代は小石川の上屋敷(後の小石川後楽園)に、明治に入り版籍奉還で上屋敷が新政府に返上されて以降は本所の小梅邸(現・隅田公園)にあったと思われる。1921年(大正10年)11月28日に同家の刀剣の大部分が競売にかけられた際も、燭台切光忠は特に由緒ありとして他の宝刀と共に残された。
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大正期以前
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大正時代頃までの酒蔵の暮らしは、いわゆる朝・昼・晩の時間感覚とは異なっていた。ある酒蔵の1日を例に挙げると、次の通りである。 0時30分 起床し、それぞれの持ち場で作業開始。全員での蒸し米取りまで行う。 5時00分 朝食。食後直ちに蒸米取り後の整理を行い、約2時間の就寝時間をとる。この就寝時間は「ズル」と呼んだ。 7時30分 起床し、仕込み作業を開始。30分の作業後、15分の小休みの間に頭領から当日の作業日程について指示を受ける。 10時00分 30分休憩。この休憩時間は「四ツタバコ」と呼んだ。元気づけとして酒を飲むこともあった。休憩後、作業を再開。 11時30分 – 12時 昼食後、14時までの約2時間の就寝時間をとる。 14時から90分作業し30分休む、を、繰り返す。 17時30分頃に作業を終えたものから風呂に入る。 18時30分 夕食。酒は1人1合、1日2合が配給された。 20時 就寝 22時 起床。室作業と身辺の整理整頓を終えたら、自由時間となる。 なお、酒蔵によって起床時間は午前2時などの些細な差異はあるが、昼も夜もない暮らしのサイクルに酒造りがあった長時間労働の実態に大差はない。1日の終わりから翌日の作業開始までの間の夜間、およそ2時間おきに起きて30分ほどの作業をすることは「あい起き」と呼ばれた。 「あい起き」は生酛を育成するための約30日間、こまめに酛に櫂を入れ、発酵中の酒母の温度を調整するために必要な作業だった。また、醪づくりの工程においても、アルコール生成に伴う炭酸ガスで酒が樽から溢れないようにする泡消しのため、昼夜問わず2~3時間起きの作業があった。 ウィキソースに丹後流酒造り唄の原文があります。 こうした過酷な労働環境のなかで、故郷に思いを馳せ自らを慰める唄は、各地で郷土の民謡をベースに自然発生的に生まれ、伝統や地方の風土、往時の人々の心情を情緒的に表している。酒蔵の作業はすべて唄に支配され、作業や時刻ごとに歌詞や歌曲も異なり、総じて「酒造り唄」と呼ばれる。
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