大正期以後
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1915年(大正4年)4月16日から「家康忠勝両公三百年祭」が開催される。徳川家康没後300年を記念し本多忠勝の霊を祀るこの催しは、岡崎の地においては史上空前の大祭であったことが伝えられている。岡田はその実行面を担当した。 1918年(大正7年)7月12日、文学友達であった初代市長・千賀又市が急死。後任選考の際、当時北海道庁で働いていた本多敏樹を強引に口説いて第2代市長にすえたのも岡田であったと言われている。 地方の文化の上に彼が残した功績は大きく、1921年(大正10年)から始まる柴田顕正の『岡崎市史』編纂事業においては編集・刊行を強力に推進した。また翌1922年(大正11年)、近藤孝太郎から岡崎で美術展を開くアイデアを聞かされると、岡田は本多敏樹市長に進言。同年11月に全国でも珍しい公募による市民美術展である第1回「岡崎美術展」開催が実現した。以後、戦前戦後の一時期を除き毎年開催され、今日までその歴史と伝統が受け継がれている。 それからまた、友人の野口雨情、そして雨情とコンビを組んでいた作曲家の中山晋平に新しい岡崎の民謡を依頼する。地元の近藤孝太郎に歌詞を作ってもらい、それに雨情が歌詞をおぎない、中山が曲をつけて完成された「岡崎小唄」は1926年(大正15年)、岡崎劇場での発表会で公開された。1928年(昭和3年)には銀座山野楽器店から『中山晋平新民謡』の一冊として出版された。 1924年(大正13年)8月25日、日刊紙『三河日報』を発刊。岡田は社長兼主筆となった。昭和初期には、政友会系の『岡崎朝報』、中立系の『新三河』とならび民政党支持の論陣をはり、三紙鼎立時代をきずいた。 さらに、1925年(大正14年)2月、若山牧水を岡崎に招き、「若山牧水揮毫頒布会」を開催したのも、近藤孝太郎・岡田撫琴のコンビであった。「趣意書」の発行など実務は高商時代から牧水に師事していた近藤孝太郎が行った。会は予想以上の成果をあげ、揮毫料は「80口、800円ほどあった」ようである。(牧水書簡)一方歓迎会の宴席では、撫琴自身の作歌を巡って牧水との意見があわず、二人の間で激しい論争があったと伝えられる。 1926年(大正15年)1月、旧籠田町にあった総持寺の檀家と岡崎市との間で寺の敷地に岡崎郵便局を移転する旨の合意がなされると、率先して反対運動を起こした。岡崎電灯の杉浦銀蔵や前岡崎商工会議所会頭の千賀千太郎も引き入れて立ち向かうも、硬骨をもって鳴らした小瀧喜七郎助役が強硬に移転を推進したため、結局総持寺は中町へ移り、1937年(昭和12年)には郵便局も寺の跡地に移った。
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