大正期以後とは? わかりやすく解説

大正期以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 08:34 UTC 版)

岡田撫琴」の記事における「大正期以後」の解説

1915年大正4年4月16日から「家康忠勝両公三百年祭」が開催される徳川家康没後300年記念し本多忠勝の霊を祀るこの催しは、岡崎の地においては史上空前大祭であったことが伝えられている。岡田その実行面を担当した1918年大正7年7月12日文学友達であった初代市長千賀又市急死後任選考の際、当時北海道庁働いていた本多敏樹強引に口説いて第2代市長にすえたのも岡田であったと言われている。 地方文化の上に彼が残した功績大きく1921年大正10年)から始まる柴田顕正の『岡崎市史編纂事業においては編集刊行強力に推進した。また翌1922年大正11年)、近藤孝太郎から岡崎美術展を開くアイデア聞かされると、岡田本多敏樹市長進言同年11月全国でも珍しい公募による市民美術展である第1回岡崎美術展開催実現した以後戦前戦後一時期除き毎年開催され、今日までその歴史伝統受け継がれている。 それからまた、友人野口雨情、そして情とコンビ組んでいた作曲家中山晋平新し岡崎民謡依頼する地元近藤孝太郎歌詞作ってもらい、それに情が歌詞おぎない中山が曲をつけて完成された「岡崎小唄」は1926年大正15年)、岡崎劇場での発表会公開された。1928年昭和3年)には銀座山野楽器店から『中山晋平新民謡』の一冊として出版された。 1924年大正13年8月25日日刊紙三河日報』を発刊岡田社長主筆となった昭和初期には、政友会系の『岡崎朝報』、中立系の『新三河』とならび民政党支持論陣をはり、三紙鼎立時代をきずいた。 さらに、1925年大正14年2月若山牧水岡崎招き、「若山牧水揮毫頒布会」を開催したのも、近藤孝太郎岡田撫琴コンビであった。「趣意書」の発行など実務高商時代から牧師事していた近藤孝太郎が行った。会は予想上の成果をあげ、揮毫料は「80口、800円ほどあった」ようである。(牧水書簡)一方歓迎会宴席では、撫琴自身作歌巡ってとの意見があわず、二人の間で激し論争があったと伝えられる1926年大正15年1月、旧籠田町にあった総持寺檀家岡崎市との間で寺の敷地岡崎郵便局移転する旨の合意なされると、率先して反対運動起こした岡崎電灯杉浦銀蔵や前岡崎商工会議所会頭千賀千太郎引き入れて立ち向かうも、硬骨をもって鳴らした小瀧喜七郎助役強硬に移転推進したため、結局総持寺中町移り1937年昭和12年)には郵便局も寺の跡地移った

※この「大正期以後」の解説は、「岡田撫琴」の解説の一部です。
「大正期以後」を含む「岡田撫琴」の記事については、「岡田撫琴」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「大正期以後」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大正期以後」の関連用語

大正期以後のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大正期以後のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの岡田撫琴 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS