大正期の電源開発
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女子畑発電所に続いて開発されたのは、1916年(大正5年)に合併した豊後電気鉄道・大分水力電気より水利権を引き継いだ大分川水系(大分県)の水力発電所である。大戦景気による電力需要増加に対処すべく開発が急がれ、まず1917年(大正6年)9月に大竜発電所(出力2,000kW)が運転を開始。翌1918年(大正7年)には柿原 (4,000kW)・下川 (1,200kW)・畑 (950kW)・鮎川 (1,000kW) の4水力発電所も相次いで運転を開始した。これらに先立つ1916年12月に女子力発電所と旧大分水力電気の篠原発電所(出力2,000kW)を結ぶ66キロボルト (kV) 送電線(大分連絡線)が完成しており、5か所の新発電所と旧豊後電気鉄道の幸野発電所(出力1,600kW)はいずれもこの大分連絡線に接続して連系運転を行った。 大分川水系の開発が完了した後は、さらなる需要増加のため筑後川水系玖珠川・野上川や豊後電気鉄道から引き継いだ大野川の開発を進めた。1920年(大正9年)から1923年(大正12年)にかけて、筑後川水系では野上 (1,400kW)・右田 (1,450kW)・湯山 (8,317kW)・町田第一 (1,574kW)・町田第二 (6,000kW) の4発電所、大野川では軸丸 (6,600kW)・新沈堕 (6,000kW) の2発電所が完成している。1924年(大正13年)には大分川水系で今畑発電所 (2,200kW) が運転を開始し、1925年(大正14年)7月には旧日田水電の石井発電所増設(390kWから1,000kWへ)も竣工した。 これらの発電所の特徴として、その多くが芝浦製作所製をはじめとする日本製の機械類を採用していた点が挙げられる。これは第一次世界大戦で欧米からの機器輸入が困難になったことと、設立の経緯から九州水力電気が芝浦製作所と深い関係を有していたことによる。下川・軸丸・今畑の3発電所は日立製作所製の水車・発電機を採用したが、それ以外はすべて芝浦製作所製の発電機と同社と関係のある電業社製の水車を採用していた。 なお自社開発以外に、1922年8月に合併した福岡県の筑後水力電気から洗玉発電所(水力200kW)と羽犬塚発電所(火力1,000kW)を引き継いでいる。また同年12月に、大分県の成清鉱業との間で同社の飯田発電所(水力280kW)と広瀬発電所(水力320kW)を買収する契約を締結した。 以上のように当初から水力発電に集中して電源開発を行った九州水力電気であるが、そのために天候の変化の影響を受けやすかった。例えば1921年には、日田地方の洪水災害で発電所が被災し、湯山発電所が28日間、女子畑発電所が47日間、石井発電所では164日間の発電停止に追い込まれた。翌1922年には一転して大渇水が発生し、当時5万kW以上あった発電力は3分の1に激減、供給に支障を来して電灯の深夜消灯や工場・炭鉱への供給削減といった措置を余儀なくされた。こうして水力発電一辺倒の電源開発の問題点が明らかになったため、水力発電を補う火力発電所の建設を決定、1923年1月に鯰田発電所、1926年(大正15年)1月に宇島発電所を完成させた(いずれも福岡県、出力10,000kW)。この結果、1926年における総発電力は8万4,841kW(水力6万3,841kW・火力2万1,000kW)となった。
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