大正期の町営七夕とは? わかりやすく解説

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大正期の町営七夕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/06 18:15 UTC 版)

能代役七夕」の記事における「大正期の町営七夕」の解説

従来七夕を一旦廃して町営七夕開始されたのは、1916年大正5年)のことである。やはりきっかけとして寄附強要背景にあり、当時能代港町小林天風著した能代港町史』にもそのこと記されている。この時は当時消防団員のほか、役場職員総動員して世話役とし、町の予算から391円を支出して初の町営七夕実行した。続く1917年大正6年)も同様に町営七夕行ったが、結局のところ町民支持得られず、町営七夕熾烈な反対論鋒向けられる至った。そこで翌1918年大正7年)には形式改め日吉神社八幡神社境内隔年七夕灯籠安置して飾ることとしたが、動かない灯籠では見栄えもせず、酔っ払いによる投石頻発したため、結局1926年大正15年をもって町営七夕廃止し、元の町組による催行復することとなった。この10年間で町が拠出した金額累計は2,190円に及び、町営七夕試み挫折は、五町組の町々から行政への不信生まれ端緒となった一方、この時期七夕は、度々皇族による台覧栄誉浴している。1908年明治41年)に皇太子時代大正天皇能代行啓した折、秋田木材会社に御立寄所を設営し、高さ15mの七夕灯籠飾って歓迎している。また、1911年大正10年8月5日秩父宮高松宮殿下が来能した折も秋木偕楽社の前で曳き七夕灯籠台覧1915年大正14年10月16日には当時皇太子にして摂政宮であった後の昭和天皇陸軍演習のため能代行啓した際も、七夕灯籠台覧している。

※この「大正期の町営七夕」の解説は、「能代役七夕」の解説の一部です。
「大正期の町営七夕」を含む「能代役七夕」の記事については、「能代役七夕」の概要を参照ください。

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