大正期の動き
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電灯数は1912年度上期には1万灯に達した。その後の大正時代の電灯普及は急速であり、1917年度下期2万灯に到達、1920年度下期末(1921年3月末)時点では3万2382灯を数えた。その一方で電力供給は小規模で同時点では169.5馬力(約126キロワット)に過ぎない。 軌道事業では、路線が1914年(大正3年)11月に内宮前まで延伸された。しかし明治末期から宇治山田市内では伊勢神宮の参拝客輸送を目的に乗合自動車(路線バス)が出現し、伊勢電気鉄道の電車との間で乗客の争奪戦が生じるようになる。この中で伊勢電気鉄道は乗合自動車事業への参入を表明。これを受けて参宮自動車株式会社(1911年開業)が競合回避のため事業譲渡に踏み切ったため、1918年(大正7年)に自動車事業への進出を果たした。 経営面では1916年(大正5年)に太田小三郎が死去し代わって大阪の実業家梅原亀七が社長に就任、次いで1918年4月に梅原に代わって小三郎の養子太田光熈が社長(のち会長)となり、梅原から株式を買収した川北電気企業社の川北栄夫も取締役に加わった。1919年(大正8年)12月、260万円の増資を決議し、資本金を400万円とした。 1921年(大正10年)、電気事業の再編が実施され、伊勢電気鉄道は4月に浜島電気株式会社から事業を譲り受けて南勢地方南部へと進出した。同社は1915年(大正4年)1月14日、志摩郡浜島町大字浜島(現・志摩市)に資本金2万円で設立。浜島町の漁業組合関係者により起業されたものであり、同年7月より浜島町大字浜島、翌年より同町大字南張および度会郡宿田曽村(現・南伊勢町)にてそれぞれ供給を開始していた。 次いで当時の三重県知事山脇春樹の主唱による県内事業の統合計画が津電灯・松阪電気・伊勢電気鉄道3社の合併という形でまとまり、1921年11月27日株主総会での合併議決、翌1922年2月2日逓信省の合併認可と手続きが進行。そして1922年5月1日、3社の新設合併による新会社・三重合同電気株式会社(後の合同電気)が発足し、同日付で伊勢電気鉄道を含む旧会社3社は解散した。この間の1921年12月、伊勢電気鉄道が櫛田川上流、飯南郡宮前村(現・松阪市)にて建設していた水力発電所の宮前発電所が竣工し、翌1922年2月より出力832キロワットで運転を開始している。
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