大正期の動きとは? わかりやすく解説

大正期の動き

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:58 UTC 版)

宮川電気」の記事における「大正期の動き」の解説

電灯数は1912年度上期には1万灯に達したその後大正時代電灯普及は急速であり、1917年度下期2万灯に到達1920年度下期末(1921年3月末)時点では32382灯を数えた。その一方で電力供給小規模同時点では169.5馬力(約126キロワットに過ぎない軌道事業では、路線1914年大正3年11月内宮前まで延伸された。しかし明治末期から宇治山田市内では伊勢神宮参拝輸送目的乗合自動車路線バス)が出現し伊勢電気鉄道電車との間で乗客争奪戦生じるようになるこの中で伊勢電気鉄道乗合自動車事業への参入表明。これを受けて参宮自動車株会社1911年開業)が競合回避のため事業譲渡踏み切ったため、1918年大正7年)に自動車事業への進出果たした経営面では1916年大正5年)に太田小三郎が死去し代わって大阪実業家梅原亀七社長に就任次いで1918年4月梅原に代わって小三郎の養子太田光熈が社長(のち会長)となり、梅原から株式買収した川北電気企業社の川北栄夫も取締役加わった1919年大正8年12月260万円増資決議し資本金400万円とした。 1921年大正10年)、電気事業再編実施され伊勢電気鉄道4月浜島電気株会社から事業譲り受け南勢地方南部へと進出した同社1915年大正4年1月14日志摩郡浜島町大字浜島(現・志摩市)に資本金2万円で設立浜島町漁業組合関係者により起業されたものであり、同年7月より浜島町大字浜島翌年より同町大字南張および度会郡宿田曽村(現・南伊勢町)にてそれぞれ供給開始していた。 次いで当時三重県知事山脇春樹主唱による県内事業統合計画津電灯松阪電気伊勢電気鉄道3社の合併という形でまとまり1921年11月27日株主総会での合併議決、翌1922年2月2日逓信省合併認可手続き進行。そして1922年5月1日、3社の新設合併による新会社三重合同電気株式会社(後の合同電気)が発足し同日付で伊勢電気鉄道を含む旧会社3社は解散したこの間1921年12月伊勢電気鉄道櫛田川上流飯南郡宮前村(現・松阪市)にて建設していた水力発電所宮前発電所竣工し、翌1922年2月より出力832キロワットで運転を開始している。

※この「大正期の動き」の解説は、「宮川電気」の解説の一部です。
「大正期の動き」を含む「宮川電気」の記事については、「宮川電気」の概要を参照ください。

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