大正期 富田屋八千代との出会いと別れ
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「菅楯彦」の記事における「大正期 富田屋八千代との出会いと別れ」の解説
大正元年(1912年)大正美術会の設立に、上島鳳山らと参加。大正4年(1915年)の第1回大阪美術展の鑑査員となる。大正6年(1917年)、富田屋の芸妓・八千代(遠藤美紀子)と結婚する。八千代は当時、東京の萬龍、京都の千賀勇らと合わせて日本三名妓と評されるほど絶大な人気を誇る名妓で、日露戦争時に発売された絵はがきのスターとして大阪で知らぬ者はいなかった。馴れ初めは、明治天皇崩御に伴う休業時に、絵に親しんだ富田屋の主人が芸妓に絵を習わせようと、親しくしていた楯彦を呼んだのがきっかけだという。そのうち熱心に教えを乞うのは八千代ひとりとなり、知人の染織家・龍村平蔵などを介して結婚に至った。八千代は慣れない家事のかたわら、楯彦に付いて有職故実や書画、和歌を学んだ。絶大な人気を誇った名妓と、未だ大坂の中堅画家に過ぎなかった楯彦との結婚は大きな話題となり、楯彦の絵も売れるようになったという。しかし、生来体が弱い八千代は大正13年(1924年)、腎炎により37歳で亡くなってしまう。楯彦の悲しみは大きかったが、妻の死が楯彦をの画業を飛躍させる契機になったとも言われる。後年、北野恒富が夫人に先立たれたとき、お通夜の席で泣いている恒富に、楯彦は「親を亡くして泣けば孝行者。子を失って涙すれば慈父とたたえられるが、女房が死んだと泣いているとあほうと笑われる。そやが、わしもあほうやった…」と慰めの言葉をかけている。
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