大正期の低迷と戦前・昭和期の繁栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 23:27 UTC 版)
「チンドン屋」の記事における「大正期の低迷と戦前・昭和期の繁栄」の解説
株の暴落や広告取締法の施行などで、大規模な広告楽隊・広告行列は明治40年代に入って低迷し、かわって新聞・雑誌などの広告が盛んとなり、大正期には飛行機を使った宣伝やネオンサインも登場した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}この事から、明治末から大正期にかけてを「暗黒期」とする意見もある。[誰?] 代表的な娯楽となった活動写真では、映画館が楽士を抱えてオーケストラや和洋合奏団を結成し、呼び込みのための楽隊を雇った。活動写真や芝居、サーカスの巡業では、楽隊が先頭を切って登場し、また宣伝のために街を廻った。 大正初め頃に囃子隊を結成して、寄席などで演奏しつつ、宣伝業を手掛ける者が現れ、1917年には「一人で太鼓と鐘を叩いて背に広告の旗を立てて囃し立てて居る広告や」があったという記録がある。ひとりで複数の打楽器を演奏するためにチンドン太鼓が考案されたのは大正中期だとされる。遅くとも1925年には鉦・太鼓・銅鑼を組み合わせ、花柄の衣装を纏った「東西屋」が存在したことが写真によって明らかとなっている。チンドン太鼓は、1937年頃に大阪にも登場した。 大正期のチンドン屋は口上を主体とし、寄席の芸人からの流入、また、その周辺に位置した三味線弾きによって形成され、関東大震災後には物売業からの流入があったと推察される。 この時期には、旗持が独特の踊りをしながら歩くこともあった。[要出典]やや遅れて、衰退に向かったジンタの管楽器奏者を加えた形態が大正末頃から増え始め、トーキーの登場を機に失職した映画館楽士が流入し、管楽器入り編成が定着する。この他、紙芝居や村芝居などからの流入があり、前者はゴロス、後者は鬘などの導入に繋がったと思われる。こうした転身者、とりわけ役者や芸人からの転身者はチンドン屋として生計を立てることに執着せず、他に条件のよい職業があれば廃業しても構わないと考えており、芸への執着が希薄であった。したがってこの時期のチンドン屋がみせたパフォーマンスは素人芸の水準にとどまる場合も多かったとされる。 文明開化の時代においては、東京の商店主が西洋音楽と軍楽隊退役者を結び付け、小さなブラスバンド「市中音楽隊」を作り(「楽隊」、「ジンタ」とも呼ばれた)、運動会など祭事の宣伝を行いはじめた。当時は芸術としての音楽に重きを置いたものであったが、これに目を付けた秋田柳吉が、本格的な宣伝業者に高めていった。 戦前の全盛期は1933年から38年頃とされる。1936年、鳩山一郎(戦後、内閣総理大臣)とテキ屋出身の市議会議員倉持忠助が選挙における票の取りまとめに利用しようとチンドン屋の組合(帝都音楽囃子広告業組合)を作ったが、その会員数は3000人に及んだという。 1941年になると、チンドン屋および各種大道芸は禁止された。
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