戦前の全盛期(昭和初め - )
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 07:47 UTC 版)
「吉本興業ホールディングス」の記事における「戦前の全盛期(昭和初め - )」の解説
またこの時期吉本興業は、スポーツや映画といった演芸以外の分野にも積極的に進出している。1934年には、正力松太郎の音頭の下、京成電鉄や東芝などと共同出資して、プロ野球球団の「大日本東京野球倶楽部」(のちの東京巨人軍、現・読売ジャイアンツ)を設立。林正之助を球団の役員に送り込んでいる。また1933年には、吉本の社内に映画部を設立。1935年には、映画会社東宝の前身のひとつであるピー・シー・エル映画製作所(PCL)と、さらに翌年東宝映画配給と提携し、1936年には林正之助が東宝映画配給の取締役に就任している。こうして横山エンタツ・花菱アチャコ、柳家金語楼ら吉本所属の喜劇人の映画が、続々と東宝から封切られることになった。また、本業の演芸部門でも東宝との合弁企業・東宝演芸を東京に設立し、東京での演芸興行にも一層注力することになった。その一方で当時三大興行資本と言われた松竹・東宝・吉本のうち、東宝と吉本が急接近したことは、松竹を刺激し、松竹傘下の新興キネマによる、後述の吉本芸人の引き抜き騒動を引き起こすことにもなった。 この1935年前後が、戦前の吉本興業のもっとも華やかな時期だったと言えよう。東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸の6大都市に47館の直営劇場・寄席・映画館を所有し、所属の芸人数は約1,300人に上った。プロ野球の球団経営(巨人軍)や映画製作を手がけ、1938年には大阪名物と謳われた新世界の通天閣を買収した。一方、寄席の舞台や映画のスクリーンでは、横山エンタツ・花菱アチャコ・柳家金語楼・柳家三亀松・川田義雄の吉本の5大スターが人気を競った。ちなみに戦前の吉本でもっとも高給を取っていたのは、金語楼と言われている。 しかし1939年には、吉本を揺るがす大事件が起きる。いわゆる「新興引き抜き騒動」である。松竹が傍系の映画会社新興キネマに演芸部を設立させ、吉本の人気芸人を引き抜きにかかったのである。その背景には、前述のように当時の三大興行資本のうち、東宝と吉本が急接近したことに松竹が反発したことがあった。当時引き抜きに応じて吉本から新興キネマに移籍した芸人は、大阪吉本では、漫才コンビのミスワカナ・玉松一郎、松葉家奴・松葉家喜久奴、西川ヒノデ・サクラなど、東京吉本では、川田義雄を除く「あきれたぼういず」、東京漫才の若手・香島ラッキー・御園セブンなどであった。川田が吉本に残留したのは、当時「吉本ショウ」の踊り子・桜文子と結婚したばかりであり、その媒酌人を林弘高・東京支社長に引き受けてもらったために、吉本に恩義を感じていたからと言われる。結局川田は、新たに音楽ショウ「川田義雄とミルク・ブラザース」を結成し、「地球の上に朝が来る」のテーマ・ソングで人気の巻き返しを図った。またミスワカナの抜けた穴を埋めるために、1942年(昭和17年)、旅回り一座からのちのミヤコ蝶々がスカウトされ、吉本入りしている。
※この「戦前の全盛期(昭和初め - )」の解説は、「吉本興業ホールディングス」の解説の一部です。
「戦前の全盛期(昭和初め - )」を含む「吉本興業ホールディングス」の記事については、「吉本興業ホールディングス」の概要を参照ください。
- 戦前の全盛期のページへのリンク