戦前の中国での反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 19:32 UTC 版)
1913年、日本が「支那共和国」の表記を採用したことについて中華民国外交部は、馬廷亮駐日代理公使を通じ「中華民国」を用いるよう日本側に強く求めた。宜昌郵便局が日本からの郵便物の帯紙にある「支那」の文字を抹消し、抗議文を書いた事例や、日本に来た中国人留学生の手記をまとめた『東遊揮汗録』で批判された事例がある。一方で義和団の乱の前後に新聞記者として来日していたこともある狄葆賢(中国語版)は「支那という名称は恥じるに足らず、中華民国などの国号を用いるよりは広義ですぐれている」と主張していた。それによると仏典で支那の意味は「思慮深い」というものであり、交易国家としての賛美の意であったというものであった。 1920年代、国権回復運動期の楊煕績中華民国文書局長は「支那という呼称は、中華民国を清国以下であると形容したもの」「我が国が公文書に倭奴国(中国で用いられる日本人の蔑称)と書いたら、日本側は受け取りはしないだろう」と、「無礼な字句」であると非難している。胡漢民立法院長もまた、中国はすでに「支那」ではないと非難を行った。同時期の新聞においても日本側の対応を批判する記事が掲載されている。 1936年、千葉県市川に居を構えて長期滞日中だった郭沫若は雑誌に「日本人の中国人に対する態度について」という次のような一文を発表している。 日本人は中国を『支那』という。もとは悪い意味ではなく、『秦』の音が変わったということだ。ところで、これを日本人の口から聞くと、まるでヨーロッパ人のいう『ユダヤ』というものよりも悪い。そういう日本人の態度が、国際関係の文字にもよくあらわれている。英支、仏支、米支、露支、鮮支、満支。中国はいつも最劣等の地位になっている。すこしくかれらの新聞紙に注意すれば、かかる表現はすぐにわかる。 郭沫若は日本人の口から「支那」という言葉を聞きたくなかった、と記している。
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