戦前の三木の生活について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)
「三木武夫」の記事における「戦前の三木の生活について」の解説
妻の睦子の回想によれば、結婚して驚いたこととして三木の金銭感覚の欠如があった。結婚前、三木は代々木に住んでいたが、結婚後は、政治家なので来客も多いだろうということで、舅の森矗昶の手によって建て増しを行った目白の家に住むことになった。新婚の三木の家の玄関先に毎朝9時になると高級自動車が横付けされた。三木は朝寝坊であり起きるのは昼頃、そしてなんだかんだで高級自動車に乗車して家を出るのは午後3時から4時頃になってしまい、高級自動車はその間玄関先でずっと三木の乗車を待っていた。睦子は「どうして車が待っているの?」と三木に尋ねると「いつ僕が出発するかわからないので待たせてある」という返事が返ってきた。費用面の心配をぶつけてみたら「ちゃんと払っている」との返事であったが、実際には三木は小切手で支払いを行っており、睦子はほどなく銀行からもう支払いが出来ない旨の連絡を受ける羽目になった。森コンツェルン総帥の娘である睦子は小切手が不渡りになる怖さを知っていたため、即座に夫の小切手帳を破り捨てた。 三木の家には結婚前から故郷徳島からの学生を中心に、多くの学生が居候をしていた。また第二次世界大戦が始まると、アメリカに帰れなくなり言葉も不自由で行く場所が無くなった日系二世の学生も二、三人、三木の家に居候することになった。なお三木家に居候していた日系二世アメリカ人で、明治大学在学中に日米開戦によりアメリカに帰れなくなった人物が、戦後川北対合衆国事件の被告となって国家反逆罪で死刑を求刑されるという事態が発生した。三木を始めとする日本側は助命嘆願、そして死刑から減刑後も更なる減刑嘆願を行うことになる。三木家に学生が居候する状況は戦後も続き、居候をした学生のうち何人かは徳島県議となり、また三木が首相となった当時、秘書を務め、鳴門市の市長を務めた吉田忠志も三木宅で居候をした経験があった。 1945年(昭和20年)5月、目白の自宅は空襲により焼失する。三木の一家は秩父の影森村に疎開することとなった。三木の妻子は疎開先の影森村で暮らしたが、当時軍需省の参与官を務めていた三木も、軍需省に出勤するために早朝影森村を出発し、深夜に戻る生活となった。そして戦況がますます悪化する中、長女の紀世子だけでも生き永らえさせたいと考えた三木夫婦は、紀世子を徳島の三木の実家に預けることを決め、7月になって家族で徳島へ向かった。また三木の所有する重要書類も徳島在住の支援者のもとへと送った。紀世子を三木の母タカノに預けて東京へと戻る前夜、父武夫は娘との別れを惜しんで涙を流しながらお風呂に入れたという。結局三木の家族は全員無事に終戦を迎えることが出来たが、徳島に送った重要書類は徳島空襲に遭い、全て焼失してしまった。
※この「戦前の三木の生活について」の解説は、「三木武夫」の解説の一部です。
「戦前の三木の生活について」を含む「三木武夫」の記事については、「三木武夫」の概要を参照ください。
- 戦前の三木の生活についてのページへのリンク