戦前のモンゴルとムスリム国家との対立
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「マージ・アル・サファーの戦い (1303年)」の記事における「戦前のモンゴルとムスリム国家との対立」の解説
モンゴル軍団の勝利の連鎖は、彼らがホラズムに侵入した1218年から始まり、瞬く間に大部分のペルシアならびに小アジアのルーム・セルジューク朝をモンゴル人に統制下に治めた。統治下の属国 (例えばキリキア・アルメニア王国やジョージア王国)の軍も編入し、1258年にバクダードを攻略すると、続く1260年にはアレッポとダマスカスを占領した。同年後半、モンゴル軍はアイン・ジャールートの戦いで彼らにとって最初の大きな敗北を経験した。その結果、モンゴル軍はダマスカスとアレッポから追い出され、ユーフラテス川流域まで後退する事となった。 約40年後、イルハン国のガザンはシリアを再侵略し、1299年にアレッポを取り戻した。ガザンは同年、第三次ホムスの戦いでマムルーク軍を破り、ダマスカスは速やかに降伏した。ガザの近辺まで襲撃部隊を南下させた後、ガザンはシリアから撤退した。
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