戦前のスキーブーム
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レルヒの伝えたスキーは俗に一本杖スキーと称されるMathias_Zdarsky(英語版)に連なる急斜面・山岳地帯向きなオウストリ式のリリエンフェルト・スキーであった。 一方でストックを2本持つ形式は競技に向き、ノルウェー式などと呼称された。 遠藤吉三郎が1916年(大正5年)に帰国すると、北海道ではノルウェー式が一般的となった。 1923年(大正12年)に第1回全日本スキー選手権大会が開かれると、ノルウェー式の北海道勢が上位を占めたことなどもあり、試行錯誤の時代を経て2本式が定着していった。 1925年(大正14年)に全日本スキー連盟(SAJ)誕生。 1928年(昭和3年)にはサンモリッツの第2回冬季オリンピックに初めて日本人選手団が参加。日本代表は早大生が多くを占めた。 同年、全日本学生スキー選手権大会が開催。こちらは北大が初代総合優勝を飾った。 1930年(昭和5年)に玉川学園の招聘によってハンネス・シュナイダーが来日する。ハンネスの上梓した「アールベルグ・バイブル」によってほぼ現代のスキーの滑り方が確立する。 昭和に入り、鉄道網の発達などもあってスキーが大衆化したことで、スピードやテクニックを競う「競技スキー」の他に「一般スキー」という概念が生まれる。 1936年(昭和11年)、鉄道省(国鉄)が大穴スキー場でスキー講習会を開く。翌年にはスキー道場と名を変え岩原で開催。 1939年(昭和14年)、SAJは「一般スキー術要領」を発行し、一般スキーの普及と発展を目指すようになる。スキー技術章検定(現在のスキーバッジテスト)が開始され、指導員の検定制度も始まった。 戦前のスキーブームにおいては、概ね近代登山における登山好適地に近い他、宿泊施設としての旅館等が既に存在していた降雪地帯にある山間の温泉地が主に発展した(越後湯沢温泉、草津温泉、野沢温泉、蔵王温泉など)。 例として川端康成の小説『雪国』には主人公の島村が温泉旅館からゲレンデのスキー客の様子を見る記述が存在する(上越線の全通は1931年〈昭和6年〉、雪国の発表が始まったのが1935年〈昭和10年〉)。 国防上でのスキーの重要性は依然としてあったが、戦時下において観光の自粛が叫ばれ、1942年(昭和17年)から1945年(昭和20年)までSAJが一時解散するなど、ひとまず一般スキーは下火となる。
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