戦前の創価教育学会で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 07:00 UTC 版)
1940年(昭和15年)、妻の和泉ミヨとともに東京・九段下の軍人会館で行われた創価教育学会第2回総会に出席、入会する。この総会では、後に和泉の前任者となる原島宏治や、学会理事長を経て東京都議会公明党の重鎮となる小泉隆ら、戦後の戸田城聖体制の下で創価学会を担う最高幹部が多数入会し、和泉もその一人となった。1943年7月、創価教育学会会長牧口常三郎の秘書役となっていたミヨが牧口とともに下田の実家に帰り、親戚らとともに座談会を開こうとしたところ、東京から尾行してきた警視庁特別高等部の係官が牧口を不敬罪と治安維持法違反の疑いで逮捕する。しかし、ミヨは難を逃れる。この時のみならずミヨが生涯にわたって付け続けた日記は、和泉がミヨの死後も大切に保存し、創価教育学会の歴史を紐解く上で貴重な資料となった。
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