神戸最大の中心商店街へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/19 16:04 UTC 版)
明治38年(1905年)、十合呉服店(そごう)が相生町から五丁目に、明治41年(1908年)には四丁目に大丸屋呉服店(大丸神戸店)も移転してきた。これらに加え、大正14年(1925年)に六丁目に元町デパートが開業し、翌大正15年(1926年)には買収されて三越神戸支店となった。 大正6年(1917年)、四丁目に神戸市立女子商業学校が開校、大正12年(1923年)に楠町六丁目へと移転した。同校は神戸市立神港高等学校の前身の一つである。 大丸神戸店は昭和2年(1927年)に明石町へ、十合呉服店は昭和8年(1933年)に三宮へ移転していった。昭和11年(1936年)、阪神電鉄が地下線で延長され三宮 - 元町間が開通した。 自動車の乗り入れを禁じ、東に大丸、西に三越と入り口にそれぞれ百貨店が立地、その間約1kmの神戸最大の中心商店街として、元町商店街は来街者をもっとも多く吸収した戦前の元町は東京の銀座、大阪の心斎橋筋と併称された異国情緒たっぷりの商店街として有名であった。おしゃれな町並みやハイカラな店のそろった元町を闊歩することを、銀座の「銀ブラ」に対し、「元ブラ」と言った。 大正2年(1913年)には万国道路会議への日本の初参加に際し、道路が舗装されていないのは一等国に沽券に関わるということで、国内ではじめて十合呉服店前が試験的にアスファルト舗装されて「試験道路」と呼ばれた。 大正15年には名物の鈴蘭灯も作られた。 元町商店街には昭和12年(1937年)時点で約300の事業所が軒を連ねていた。昭和モダニズムのさなか、モボ・モガが闊歩する元町通は戦前の全盛期を迎えた。 元町商店街は昭和13年(1938年)の阪神大水害では各店舗が水浸しとなり完全復旧には一か月半を要した。更に昭和17年(1942年)には鈴蘭灯も戦力増強のため撤去され弾丸となり、元町通商店街は「大政翼賛街」と改称された。昭和20年(1945年)の神戸大空襲では3月に元町通の東半分・南京町が壊滅し、6月に西半分が壊滅し走水神社が焼失した。大正から昭和初めにかけて最盛期を迎えていた南京町も、戦火により中国人が相次いで帰国した。
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