神戸明石組
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 06:48 UTC 版)
神戸市を本拠地とする日本最大の暴力団。関東の博徒といがみ合うことが多い。 渕上 重正(ふちがみ しげまさ) 三代目神戸明石組若頭補佐→若頭・渕上組組長。現在は関東と関西の極道の共存共栄を唱えるなど穏健派の印象が強いが、昔は愚連隊を率いて明石組相手に暴れていたなど生粋の武闘派であった。その後明石組に捕まり殺されそうになるが、当時明石組に客人として訪れていた山崎の仲裁で助命された事がきっかけで山崎を尊敬している。 府中刑務所で土橋や特少ブラザーズに制裁を加えていたところを丈二に仲裁される。本来なら土橋らが先に手を出した事もあり、問答無用の状況だったが、丈二が山崎の組の若い衆だと知った事、嘆願のために土下座をする姿がかつて自分のために山崎がした姿と重なったため、本来無いはずの仲裁を受け入れる。仲裁の条件として出した「土産を持ってくること」と言う条件を丈二が想像を遥かに超える形で成したため、それがきっかけで丈二に一目置くようになり、出所後も何かと目をかけ親交を深めている。 丈二が白浜組八代目を継承する手筈を整え、また海江田組三代目を引退する時には丈二を舎弟に迎えている。三代目組長の田村の死去に伴って明石組四代目を襲名、組を割った大森との間で抗争を繰り広げる。その後、大森率いる三栄会との抗争では嘗ての武闘派時代を彷彿とさせる攻撃ぶりを発揮し、壊滅に追い込む。 田村 芳雄(たむら よしお) 三代目神戸明石組組長。「彼の下では一癖も二癖もある極道達が結束する」と評されるほどのカリスマ性を持つ。府中刑務所での服役中に持病が悪化したが、国から獄死を望まれており、入院治療の許可が下りず苦しんでいた。「前の人生」では治療を受ける事なく死亡しが、「後の人生」では丈二の手で八王子医療刑務所への移送が認められ、治療に専念する事が出来た。以来丈二を明石組の直若に取り立てようとするなど、何かと気にかけていた。出所後、渕上らに見守られながら71歳で天寿を全うした。 大森 丈博(おおもり たけひろ) 三代目神戸明石組若頭補佐・大森組組長。渕上と仲が悪く、渕上組の若頭を利用し罠に陥れたり、折に触れていがみ合っている。大阪で浮浪者生活を送っていた江原を拾い上げた後に、渕上の四代目継承に異を唱えて組を割り、約半数の直系組長達と共に「三栄会」を立ち上げるも、渕上率いる四代目明石組の猛攻で壊滅。江原にもあらゆる弱みを握られ、引きこもりとなる結末を迎えた。 倉田 通利(くらた みちとし) 大森組倉田会組長。大森の側近で、府中刑務所では渕上と行動を共にしていた。大森を心から慕っている一方、大森とは不仲の渕上に可愛がられ、また渕上と同じく丈二を可愛がっており、リーダーとして当たった明石組の木更津侵攻では板挟みで苦悩する場面もあった。しかし、大森のことは最後まで親として尊敬しており、彼が追い詰められた際には指を詰め、汚名を着てまで庇おうとした。 伯野 浩二(はくの こうじ) 倉田会舎弟頭・伯野組組長。アキラの博多時代の兄貴分で、組が解散した後、梅鉢一家の再興を夢見て明石組の一員となった。白浜組の柳下を殺害したことでアキラと決闘になり、アキラの放った銃弾を腹に受けて命を落とした。 中田健次郎(なかた けんじろう) 三代目神戸明石組本家若頭・中健組組長。明石組のナンバー2で四代目候補筆頭であったが、持病と服役中であったため候補から外れた。「前の人生」では田村の死後は後を追うように病死し、明石組分裂へつながるが、「後の人生」では丈二により田村が入院治療を受ける事が出来たため、田村より先に病死した。 桐島 大輔(きりしま だいすけ) 中健組若頭・健誠会会長。明石組若頭の中田が組長を務める中健組の若頭で丈二曰く「未来の明石組のリーダーになる予定」だが、詳細は不明。
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