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あべ-まさひろ 【阿部正弘】

(1819-1857) 幕末老中備後(びんご)福山藩主。1854年ペリーとの間に日米和親条約を結ぶなど、開国政策推進洋学所海軍伝習所創設


江戸人物事典

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阿部 正弘 (あべ まさひろ)

1819〜1857 (文政2年安政4年)
老中日米和親条約締結勝海舟見出した、開明派の老中
幕末老中備後福山藩主。22歳寺社奉行1843年25歳にして老中抜擢徳川斉昭島津斉彬など有力大名巧みに連携、困難な海防政策に対応した。ペリー来航に際しては、日米和親条約締結日本開国へ導く。品川台場構築・軍艦発注講武所調所長崎海軍伝習所などを設置し、洋式軍制改革を進めた。また、勝海舟多くの優秀な人材登用した。

 年(和暦)
1825年 (文政8年) 異国船打払令 6才
1828年 (文政11年) シーボルト事件 9才
1829年 (文政12年) 江戸大火 10
1830年 (天保元年) 伊勢御蔭参り大流行 11
1837年 (天保8年) 大塩平八郎の乱 18
1839年 (天保10年) 蛮社の獄 20才
1853年 (嘉永6年) 黒船来航 34
1855年 (安政2年) 安政江戸地震 36


 人物
井伊 直弼 1815年1860年 (文化12年万延元年) +4
Hepburn J. 1815年1911年 (文化12年明治44年) +4
河竹 黙阿弥 1816年1893年 (文化13年明治26年) +3
安藤 信正 1819年1871年 (文政2年明治4年) 0
勝 海舟 1823年1899年 (文政6年明治32年) -4
Boissonade G. E. 1825年1910年 (文政8年明治43年) -6


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阿部正弘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/06 05:20 UTC 版)

阿部 正弘
Masahiro Abe.jpg
「阿部正弘公肖像画」の白黒写真
二世五姓田芳柳筆 福山誠之館
時代 江戸時代末期(幕末
生誕 文政2年10月16日1819年12月3日
死没 安政4年6月17日1857年8月6日
改名 剛蔵、正弘、祐軒、学聚軒
別名 四郎五郎、主計頭、正一、叔道、叔卿
戒名 良徳院殿高誉信義節道大居士
墓所 東京都台東区谷中霊園
官位 従五位下伊勢守従四位下侍従
従三位
幕府 江戸幕府奏者番寺社奉行加役→寺社奉行→老中勝手掛老中
主君 徳川家慶徳川家定
備後福山藩
氏族 阿部氏
父母 父:阿部正精
母:高野貝美子
養父:阿部正寧
兄弟 阿部正粹、正寧、正弘
正室:松平治好の娘・謹子
継室:松平慶永の養女(松平直春の娘)
篤之助、哲次郎、鋼蔵
娘(阿部正桓正室)
養子:阿部正教

阿部 正弘(あべ まさひろ)は、江戸時代末期の備後福山藩第7代藩主。江戸幕府老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した。阿部家宗家11代。

目次

生涯

出生

文政2年10月16日(1819年12月3日)、第5代藩主・阿部正精の五男として江戸西の丸屋敷で生まれた。

文政9年6月20日(1826年7月24日)に父・正精が死去して兄の正寧が家督を継ぐと、正弘は本郷文京区)の中屋敷へ移った(現在でも中屋敷のあった文京区西片には文京区立誠之小学校、阿部公園(西片公園)など、由来する施設が残っている)。しかし正寧は病弱だったため、10年後の天保7年(1836年)12月25日、正弘に家督を譲って隠居した。

天保8年(1837年)、正弘は福山へのお国入りを行った(正弘が国元へ帰ったのはこの1度のみである)。

天保9年(1838年)9月1日、奏者番に任じられる。天保11年(1840年)5月19日には寺社奉行見習に、11月には寺社奉行に任じられ、感応寺の破却などを行なっている。大奥と僧侶が徳川家斉時代に乱交を極めていた事件が、家斉没後に寺社奉行となった阿部の時代に露見すると、阿部は家斉の非を表面化させることを恐れて僧侶の日啓や日尚らを処断し、大奥の処分はほとんど一部だけに限定した。この裁断により、第12代将軍徳川家慶より目をかけられるようになったといわれる。

老中就任

天保14年(1843年9月11日、25歳で老中となり、辰の口(千代田区大手町)の屋敷へ移った。天保15年(1844年)5月に江戸城本丸焼失事件が起こり、さらに外国問題の紛糾などから水野忠邦が老中首座に復帰する。しかし阿部は一度罷免された水野が復帰するのに反対し、家慶に対して将軍の権威と沽券を傷つけるものだと諫言したという。水野が復帰すると、天保改革時代に不正などを行っていた江戸南町奉行鳥居耀蔵後藤三右衛門渋川敬直らを処分し(後任の南町奉行には元北町奉行遠山景元が就任)、さらに弘化2年(1845年)9月には老中首座であった水野忠邦をも天保の改革の際の不正を理由に罷免させ、後任の老中首座となる。

正弘は家慶、家定の2代の将軍の時代に幕政を統括した。嘉永5年(1852年)には、江戸城西の丸造営を指揮した功により1万石が加増される。老中在任中には、度重なる外国船の来航や中国でのアヘン戦争勃発など対外的脅威が深刻化したため、その対応に追われた。

幕政においては、弘化2年(1845年)から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。また、薩摩藩島津斉彬水戸藩徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、筒井政憲戸田氏栄松平近直川路聖謨井上清直水野忠徳江川英龍ジョン万次郎岩瀬忠震など大胆な人材登用を行った。

さらに人材育成のため、嘉永6年(1853年)には自らが治める備後福山藩の藩校「弘道館」(当時は新学館)を「誠之館」に改め、身分にかかわらず教育を行った。ただ、藩政を顧みることはほとんどなく、藩財政は火の車であった。嘉永5年(1852年)から加増された1万石も、ほとんどを誠之館に注ぎ込んだといわれる。

嘉永5年(1852年)、アメリカ東インド艦隊相模国浦賀神奈川県)へ来航して通商を求めると、正弘は鎖国を理由に拒絶したが、翌嘉永6年(1853年)に再びマシュー・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。同年7月には長崎ロシアプチャーチン率いる艦隊も来航して通商を求めた。

この国難を乗り切るため、正弘は朝廷を始め、外様大名を含む諸大名や市井からも意見を募ったが、結局有効な対策を打ち出せず、時間だけが経過した。また、松平慶永や島津斉彬らの意見により、徳川斉昭を海防掛参与に任命したことなどが諸大名の幕政への介入の原因となり、結果的に幕府の権威を弱めることにもなった。

なお、正弘自身は異国船打払令の復活をたびたび諮問しているが、いずれも海防掛の反対により断念している。ただし、これは正弘の真意ではなく斉昭ら攘夷派の不満を逸らす目的であったとの見方もある。

安政の改革、晩年

こうして正弘は積極的な政策を見出せないまま、事態を穏便にまとめる形で、嘉永7年1月16日1854年2月13日)、ペリーの再来により同年3月3日(3月31日)、日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げる。しかし、条約締結に反対した徳川斉昭は、締結後に海防掛参与を辞任することになる。

安政2年(1855年)、攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の老中松平乗全松平忠優の2名を8月4日9月14日)に罷免したことが、開国派であった井伊直弼らの怒りを買い(ただし、その原因を阿部の人事・政策に対する親藩・譜代大名の反発と見る考えもある)、孤立を恐れた正弘は10月9日、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。

こうした中、正弘は江川英龍、勝海舟大久保忠寛永井尚志高島秋帆らを登用して海防の強化に努め、講武所や洋学所、長崎海軍伝習所などを創設した。また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など幕政改革(安政の改革)に取り組んだ。

安政4年6月17日(1857年8月6日)、老中在任のまま江戸で急死した。享年39。跡を甥(兄・正寧の子)で養子の正教が継いだ。

なお、正弘は将軍継嗣問題(家定の後継者問題)では一橋慶喜を推していた。

人物・逸話

  • 幕末維新の歴史を詳細に綴った徳富蘇峰の『近世日本国民史』では、阿部正弘に対し優柔不断あるいは八方美人の表現を使っている。『国民史』では歴史の登場人物の肉声としての様々な手紙を仮名読みに変換しているため、阿部の肉声を現代の読者が直接読むことができる構成から出発している。
  • 『国民史』に所収の書簡からは、攘夷論の阿部が国政を担当する立場から、極論や暴論を繰り返す攘夷派を抑えるために、本心を隠して意図的に協調路線を選択した点がうかがえている。教育研究機関を設置するなど実利的に洋学を導入しながらも、自らは蘭方医の治療を最後まで拒んだとされ、祖法の鎖国体制を破った点も心に傷として残っていたとされる。
  • 若すぎる死因に関しては肝臓ガンによる病死、外交問題による激務からの過労死など諸説があり、飛躍した説では島津氏など、外様の雄藩を幕政に参加させることに不満を抱いた譜代大名(溜間詰)による暗殺説まである。
  • 外様などの雄藩、非門閥の開明派幕吏を幕政に参加させる姿勢は、譜代などからは弱気な政治姿勢に見られ、「瓢箪鯰」とあだ名されたという(小西四郎『日本の歴史16 開国と攘夷』、中公文庫)。
  • 西洋の学問に理解を示し、勝海舟の紹介で阿部の邸宅に呼ばれた杉純道が、ドイツ版の世界地理書を用い詳しく説明した。阿部は「我が国は狭いな」と感銘し、杉のため原書を何でもを買ってやろうと約束した。
  • 正弘は人の話を良く聞くが、自分の意見を述べることがほとんど無かった。ある人がそれを不審に思って尋ねると、「自分の意見を述べてもし失言だったら、それを言質に取られて職務上の失策となる。だから人の言うことを良く聞いて、善きを用い、悪しきを捨てようと心がけている」と笑いながら答えたという(松平春嶽の「雨窓閑話稿」)。
  • 正弘は肥満体であり、長時間の正座が苦痛だった。しかし、相手の話を聞くときは常に長時間で正座をしていた。正弘の退出後、茶坊主が正弘の座っていた跡を見ると、汗で畳が湿っていたという(木村芥舟の著より)。





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