水戸徳川家時代
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「水戸徳川家」も参照 頼宣のあとに、頼宣の同母弟である家康の十一男で当時6歳の鶴千代(徳川頼房)が下総下妻藩より25万石で入った。頼房以降の藩主家を水戸徳川家と呼ぶ。頼房も頼宣と同様に、幼少年時は水戸に赴かず駿府・江戸にあり、1619年に初めて水戸に入る。1622年、3万石を加増され28万石となる。のち3代藩主綱條時代の1701年、新田開発の分を含めるとして表高を35万石に改めたが、この高直しはかなり無理があったようである。 水戸藩は徳川御三家の中でも唯一参勤交代を行わない江戸定府の藩であり、万が一の変事に備えて将軍目代の役目を受け持っていたともいわれている。そのため、水戸藩主は領地に不在のまま統治を行わねばならず、物価の高い江戸生活、江戸と領地の家臣の二重化などを強いられた上、格式を優先して実態の伴わない石直し(表高改訂)を行ったため、内高が表高を恒常的に下回っていた。幕府に対する軍役は表高を基礎に計算され、何事も35万石の格式を持って行う必要性があったため、財政難に喘ぐこととなった。 頼房は事情により三男の光圀を継嗣とし、長男の松平頼重は讃岐高松藩12万石を与えられた。光圀は学問を好み、『大日本史』の編纂を開始し、水戸藩に尊王の気風を植え付けた。水戸藩で生まれた水戸学は幕末の尊皇攘夷運動に強い影響を与えた。 3代藩主綱條は、宝永2年に浪人の松波勘十郎を登用して財政改革を実施したが、宝永6年(1709年)の百姓一揆で3000人もの百姓が江戸へ出て様々な集団的示威行動を取ったため、やむなく年貢増徴の撤回や松波の罷免を行い、改革は挫折した。宝永の改革に失敗し、4代藩主宗堯が短い期間の統治で没し、5代藩主宗翰が幼少で水戸藩を継承したおりには、8代将軍徳川吉宗により付家老中山信昌ほかの水戸家の重臣が呼び出され、幼君の輔育と一和忠勤を直接命じられた。さらに、吉宗以降に御三家の幕府による統制が強化される中、寛延2年には、御連枝(支藩の藩主)の松平頼寛(陸奥守山藩)と松平頼済(常陸府中藩)が老中堀田正亮の役邸に呼び出され、財政改革の実施を命じられた。このため宗翰は宝暦の改革と呼ばれる藩政改革を実施し、太田資胤に命じて財政再建を進めたが、宝暦6年に資胤が致仕すると頓挫した。安永7年には、幕府が再び水戸藩の家老に直接細かい指示を与えて財政再建を命じた。6代藩主治保は幕命に従って倹約に努め、藩主就任以来24年ぶりにお国入りを果たして寛政の改革に乗り出したが、天明の大飢饉によって財政はさらに悪化した。 尾張藩、紀州藩が藩主の血統断絶、幕府からの財政援助、独立志向の附家老による幕府統制への迎合などにより、御三卿や将軍家から藩主を迎えたのに対し、水戸藩では支藩からの養子により藩祖の血統を守った。継嗣なく死去した8代藩主斉脩の後継問題では、清水家から恒之丞(徳川斉彊)を養子に迎えようとする派閥と、藤田幽谷の門人らを中心とした藩祖血統の維持派が対立し、斉脩の三弟である斉昭が家督を継いだ。 9代藩主斉昭は藩政の改革と幕政への参加を志し、藤田派を中心に人材登用を行うとともに、藩内の保守派の中心となり幕府との連携を果たそうとする付家老の勢力を削ぐため、一般家臣と同じ知行制に組み込んだ。財政を圧迫した藩主と付家老の江戸定府制度についても、1年ごとの交代制に改めた。教育改革についても弘道館を建設して整備を行い、水戸学が藩論に強い影響を与えることになった。しかし、強い尊王攘夷傾向のため幕府に疎まれ、長男の慶篤に家督を譲って隠居を余儀なくされた。また斉昭は、財政難の中で新規召し抱えを行ったため、藩財政は窮乏を極めた。斉昭の隠居後には改革派の藤田東湖らも免職・蟄居となった。 10代藩主となった慶篤は、3連枝(高松藩主松平頼胤、守山藩主松平頼誠、府中藩主松平頼縄)の後見のもとで藩政を行った。なお、15代将軍徳川慶喜は慶篤の実弟であるが、御三卿の一つ一橋家を継いでから将軍になった。斉昭には他にも多くの男子があり、親藩・外様を問わず多くの藩に養子に出されている。 水戸藩は幕末には斉昭が存在感を示したものの、藩内では保守派(諸生党)と改革派(天狗党)の抗争から統制を失い、藩士による桜田門外の変、天狗党の乱、弘道館戦争を招くとともに、藩論統一と財政難を克服することができず、幕末政局で主導権を握ることができなかった。 水戸藩領は廃藩置県により、水戸県を経て、茨城県に編入された。
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