徳川斉彊とは? わかりやすく解説

徳川斉彊

読み方とくがわ なりかつ

江戸後期紀伊和歌山藩主。徳川家斉の子幼名は恒之丞。斉順の養子となり、十二代藩主となる。従二位大納言に至る。嘉永2年(1849)歿、30才。

徳川斉彊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/28 00:18 UTC 版)

 
徳川 斉彊
時代 江戸時代後期
生誕 文政3年4月28日1820年6月8日
死没 嘉永2年3月1日1849年3月24日
改名 恒之丞、斉彊
戒名 憲章院殿二品前亜相至徳道光大居士
墓所 長保寺
官位 従三位左近衛権中将宮内卿参議従二位権大納言
幕府 江戸幕府
主君 徳川家慶
紀伊和歌山藩
氏族 徳川氏将軍家清水家紀伊家
父母 父:徳川家斉、母:本性院
兄弟 家慶敦之助斉順斉明斉荘池田斉衆松平斉民斉温松平斉良斉彊松平斉善蜂須賀斉裕松平斉宣、他多数
正室:近衛忠熙の娘・近衛豊子
側室:斎藤平九郎の娘、南条権之丞の娘
龍千代、辰次郎、延姫、玽姫、鎤姫、秋姫、
養子:慶福、養女:利姫浅野慶熾室)
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徳川 斉彊(とくがわ なりかつ)は、江戸時代後期の大名清水徳川家第5代当主を経て紀州徳川家を継ぎ、紀伊和歌山藩の第12代藩主となる。

11代将軍・徳川家斉の二十一男。母は吉江左門の娘・本性院。12代将軍・徳川家慶は異母兄であり、13代将軍・徳川家定は甥にあたる。

生涯

当初、水戸藩徳川斉脩の養子になる話もあったが、水戸藩士の猛反対にあって実現しなかった。文政10年(1827年)、異母兄にあたる清水家当主徳川斉明が死去したので、清水家を継いだ。

弘化3年(1846年)、異母兄で清水家先々代当主でもある和歌山藩主の徳川斉順が死去する。隠居として健在であった前藩主治宝西条藩松平頼学の和歌山藩主擁立を幕府に要請するが、これを治宝への中傷を交えて附家老水野忠央が潰した。

忠央が甥(妹・お琴の所生)でもある家慶の十二男・田鶴若を藩主に擁立することを懸念した和歌山藩士の働きかけもあって、斉彊が斉順の養嗣子として家督を継いだ。

落雷で和歌山城天守閣が焼失するなど、治世は多難を極めた。嘉永2年(1849年)3月1日(同年3月27日とも言われている)に30歳で死去した。養嗣子としていた斉順の子・慶福が跡を継いだ。

和歌山藩主としての治世は2年10か月であり、この間の江戸参府はなく、和歌山帰国1回、和歌山在国の通算は10か月であった[1]

年譜

※日付=旧暦

脚注

  1. ^ 小山誉城「紀州徳川家の参勤交代」2011年(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版)



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