藩主就任とは? わかりやすく解説

藩主就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 03:12 UTC 版)

山内容堂」の記事における「藩主就任」の解説

嘉永元年1848年)の7月江戸で13藩主山内豊熈死去する。豊熈には嗣子がなかったため、実弟山内豊惇跡を継ぐが、9月18日藩主在職わずか10日余り急死し山内家御家断絶お取り潰し)の危機瀕した。豊惇の後継としてまず候補挙げられたのは長男寛三郎であったが、病気のため擁立見送られることとなった次に候補挙げられた豊惇の実弟豊範(後の16藩主山内豊範)も、まだ3歳幼少であったため擁立見送られ最終的に南屋敷部屋住の生活を送っていたころから英名が噂されていた豊信が、後継者として指名された。豊信の家督相続において土佐藩は豊惇の死を隠蔽し、まず豊惇が豊信を養嗣に迎える形をとり、そののちに豊惇の隠居と、豊信の相続幕府申し出た。この工作の際には、薩摩藩島津斉彬筑前福岡藩黒田斉溥伊勢津藩藤堂高猷伊予宇和島藩伊達宗城周旋があった。とくに豊熈の妻・智鏡院(候姫)の実兄薩摩藩島津斉彬当時幕府実権握っていた老中首座阿部正弘親交があり、幕府裏工作黙認した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}候姫格別推挙幕閣働きかけをした上での藩主就任が、その後の容堂の倒幕行動制限したとも言われる。[独自研究?]嘉永元年1848年12月27日、豊信は高知出発し翌月21日江戸到着、同26日家督相続幕府から許可された。翌年1月8日には豊範を豊信の養子とし、嘉永3年9月11日右大臣三条実万養女正姫(なおひめ)と結婚した同年12月16日に豊信は従四位下土佐守に任じられ翌年12月16日には侍従昇任した

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藩主就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/31 22:12 UTC 版)

小笠原忠固」の記事における「藩主就任」の解説

明和7年1770年9月4日播磨国安志藩主・小笠原長為長男として誕生生母側室であったため、長為の正室男児生まれると、忠固は次男とされた。しかし寛政6年1794年)、本家藩主である小笠原忠苗養嗣子となり、文化元年1804年7月20日養父隠居により家督継いだ文化4年1807年)には朝鮮通信使正使接待、さらに小倉城火災焼失などによる再建費用などで出費が相次ぎ、藩財政悪化する

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