藤堂高猷とは? わかりやすく解説

藤堂高猷

読み方とうどう たかゆき

幕末・明治大名伊勢国津藩主。高兌の子幼名は寿千代、字は道郷、号に観月・絢堯斎等。従四位下左近少将和泉守となる。郷校修文館開設し読書習字算術庶民教授させた。明治28年(1895)歿、83才。

藤堂高猷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/23 05:03 UTC 版)

 
藤堂高猷
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文化10年2月9日1813年3月11日
死没 明治28年(1895年2月9日
改名 寿千代(幼名)→高猷→観月楼
官位 正二位和泉守、侍従
主君 徳川家斉家慶家定家茂慶喜明治天皇
伊勢津藩
氏族 藤堂氏
父母 父:藤堂高兌
母:愛川氏
養母:永井直進の娘
兄弟 高猷中川久昭高美、娘(稲葉正守正室)
正室:藤堂高允の娘
高潔黒田長知脇坂安斐松平定昭
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藤堂 高猷(とうどう たかゆき)は、伊勢津藩の第11代藩主。藤堂家宗家11代。

生涯

文化10年(1813年)2月9日生まれ。文政7年12月(1825年)に父・高兌が死去し、翌年2月29日 (旧暦)に跡を継ぐ。文政8年(1825年)3月15日、将軍徳川家斉御目見する。文政9年12月16日(1827年)、従四位下・侍従・和泉守に叙任する。天保11年(1840年)11月16日、左少将に任官する。万延元年12月16日(1861年)、左中将に任官する。明治元年(1868年)3月晦日、従四位上に昇進する。

天保13年(1842年)、幕命により伊勢神宮警備を務め、砲台を築いている。このことから有造館校長の斎藤拙堂とともに西洋式軍制を取り入れるなどの兵制改革に努め、文久3年(1863年)には天誅組の変を鎮圧し、元治元年(1864年)も京都守衛のため兵を送った。

幕末期、高猷は佐幕派公武合体を推進していたが、あまり幕政には関わらなかった。慶応4年(1868年)の戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いでは、当初は旧幕府軍に与していた。しかし橋本を守備していた津藩兵が新政府軍に転じ、幕軍を攻撃。新政府軍勝利の一因となった。さらに戊辰戦争箱館戦争にも派兵した。

明治2年、津八幡宮境内に三重県護国神社の前身となる表忠社を創建し、津藩士の御霊を祀った。

明治4年(1871年6月28日、家督を次男の高潔に譲って隠居する。明治28年(1895年)2月9日、83歳の長寿で死去した。

新撰組の八番隊組長・藤堂平助は高猷の落胤というが、真相は定かではない。

栄典

系譜

脚注

  1. ^ 『官報』第1351号、「叙任及辞令」1887年12月28日。
  2. ^ a b 『官報』第3483号「叙任及辞令」1895年2月12日



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