修文館
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修文館(しゅうぶんかん)は、明治時代初期に現在の神奈川県横浜市にあった英学校。
- ^ a b c d e f g h 『横浜開港五十年史 下巻』201-203頁。
- ^ a b c d e 小玉敏子「横浜の英学(一)私塾について」2-3頁。
- ^ a b c d 草間俊郎「横浜の英語教育機関−幕末維新期・明治期における公認諸学校」1-(1)より。
- ^ 1873年にブラウンが辞任するに伴い、彼に師事した松平定敬や駒井重格、井深梶之助を含めた10数名により、ブラウンの自宅(山手211番地)でブラウン塾が開かれた。のちに、藍謝堂教師となり、ヘボン塾を継承したJ・C・バラの塾から押川方義、熊野雄七、植村正久、藤生金六、ヘンリー・ルーミスの門下より山本秀煌、T・A・パーム門下より雨森信成が入塾し、島田三郎や白石直治も合流した。
- ^ 神奈川県『神奈川県史 通史編4 近代・現代(1)政治・行政1』1980年、第1編の第2章第3節(「学制」改革)及び、刊行書『啓行堂入社之則』参照。
- ^ 石崎泰子「資料よもやま話:高島嘉右衛門と横浜町学校」『開港のひろば』第71号、横浜開港資料館、2001年。
- ^ 柳谷謙太郎はもと長崎唐通事。明治以降は主に外務官僚(許海華「幕末明治期における長崎唐通事の史的研究」関西大学、2012年)。
- ^ 『信用名鑑』信用名鑑発行所、1901年、298頁。
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