加藤明利とは? わかりやすく解説

加藤明利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/21 00:26 UTC 版)

 
加藤明利
時代 江戸時代前期
生誕 慶長4年(1599年
死没 寛永18年3月25日1641年5月4日
戒名 雲心夢月寶樹院
墓所 福島県二本松市の顕法寺
官位 従五位下民部少輔、民部大輔
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光
陸奥三春藩主→陸奥二本松藩
氏族 加藤氏
父母 加藤嘉明、堀部市右衛門娘
兄弟 星覚院、日野光慶室、明成、明信、明利
朝倉宣正
明勝、明正、嘉遐、明重、佐々木高重室、南部重直正室
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加藤 明利(かとう あきとし)は、江戸時代前期の大名陸奥三春藩主、のち陸奥二本松藩主。官位従五位下民部大輔

略歴

慶長4年(1599年)、加藤嘉明の三男として松山にて誕生。母は堀部氏。

元和2年(1616年)1月19日に従五位下・民部少輔に叙任[1]。始め父の会津移封に従い、寛永4年(1627年)3月14日に陸奥三春に3万石の所領を与えられ、民部大輔となる[2]。翌寛永5年(1628年)10月5日に同二本松に移封された。寛永8年(1631年)に父が死去すると、兄・明成に従うようになる。兄が家老を殺した事件に連座した直後、寛永18年(1641年)3月25日に病没したが、死因に不審な点があったことから幕府にその死を疑われ、死後にその所領は改易とされた。号は雲心夢月寶樹院。

長男・明勝は父に連座して謹慎となった後、3,000石を与えられたが、正保2年(1645年)に13歳で死去し、無嗣断絶となった[1]。三男・嘉遐に1,300石、四男・明重に1,500石が与えられ、旗本として家名は存続した。墓所は二本松市の顕法寺にある。

系譜

  • 父:加藤嘉明(1563-1631)
  • 母:堀部氏
  • 正室:朝倉宣正の娘
  • 生母不明の子女
    • 長男:加藤明勝(1633-1645)
    • 次男:加藤明正
    • 三男:加藤嘉遐
    • 四男:加藤明重
    • 女子:佐々木高重室

脚注

  1. ^ a b 須田茂『徳川大名改易録』(崙書房出版、1998年)172頁
  2. ^ 寛政重修諸家譜』巻第七百七十三




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