藤堂高虎とは?

辞典・百科事典の検索サービス - Weblio辞書

初めての方へ

参加元一覧


用語解説|プロフィール|文献|全文検索|用例

三省堂 大辞林

三省堂三省堂

とうどう-たかとら とうだう― 【藤堂高虎】

(1556-1630) 安土桃山江戸初期武将津藩藩祖近江の人。浅井長政羽柴秀長豊臣秀吉仕えた。関ヶ原大坂の陣では徳川家康に属し、その謀議あずかり伊勢伊賀など三二万石に封ぜられた。


戦国武将覚書

戦国武将覚書戦国武将覚書

藤堂高虎(とうどう たかとら) 1556~1630

与吉 与右衛門 佐渡守 和泉守
◇父:藤堂虎高 室:一色修理大夫女、長越前守連久(高連)女 子藤堂高次、高重 養子藤堂(丹羽)高吉
 北近江浅井氏仕え軍功をあげる。浅井氏滅亡後は阿閉貞秀磯野員昌織田信澄仕えた後、羽柴秀長、秀保に仕え各地転戦活躍する。武略秀でる一方で築城算術外交などにもその才を見せた。秀保死後は、豊臣秀吉直臣となり、朝鮮出征参加秀吉死後徳川方に属して、関ヶ原の戦い大坂の陣にも参加して所領を増やした。


江戸人物事典

江戸net江戸net

藤堂 高虎 (とうどう たかとら)

1556〜1630 (弘治2年寛永7年)
武将・大名】 城作り名手江戸都市計画基本設計携わる
織豊期江戸初期武将・大名最初浅井長政に属したが、浅井氏滅亡の後豊臣秀長仕えた。関が原の戦では徳川方に属した。築城名手として知られ、伏見城丹波亀山城をはじめ、多くの城の築城修築に携わった。家康から家光までの徳川三代仕えて、江戸都市開発支えた。丸ノ内武家屋敷町屋寺町配すなど、政治中心同時に城郭都市である大都市江戸基礎を作った。

 年(和暦)
1560年 (永禄3年) 桶狭間の戦い 4才
1563年 (永禄6年) 三河一向一揆 7才
1573年 (天正元年) 室町幕府滅亡 17才
1575年 (天正3年) 長篠の戦い 19才
1580年 (天正8年) イギリス商船平戸来航 24
1582年 (天正10年) 本能寺の変 26
1584年 (天正12年) 小牧・長久手の戦い 28
1587年 (天正15年) バテレン追放令 31
1588年 (天正16年) 刀狩令 32
1590年 (天正18年) 家康江戸城に入る 34
1592年 (文禄元年) 文禄の役(〜1596) 36
1597年 (慶長2年) 慶長の役 41
1600年 (慶長5年) 関が原の戦い 44
1603年 (慶長8年) 江戸幕府開府 47
1604年 (慶長9年) 朱印船貿易始まる 48
1607年 (慶長12年) ■第1回朝鮮通信使来る 51
1609年 (慶長14年) オランダ人通商許可 53
1612年 (慶長17年) 幕府直轄領禁教令 56
1612年 (慶長17年) 駿府銀座江戸に移す 56
1614年 (慶長19年) 大阪冬の陣 58
1615年 (元和元年) 大阪夏の陣 59
1617年 (元和3年) 日光東照宮社殿竣工 61
1617年 (元和3年) 吉原遊郭開設許可 61
1624年 (寛永元年) スペイン船の来航禁止 68
1629年 (寛永6年) 女舞女歌舞伎禁止 73


 人物
Jan Joosten Van Londensteyn 1556年1623年 (弘治2年元和9年) 0
大久保 (彦左衛門)忠教 1560年1639年 (永禄3年寛永16年) -4


ウィキペディア

ウィキペディアウィキペディア

藤堂高虎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/29 05:17 UTC 版)

津城址にある藤堂高虎像

藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名伊予国今治藩主。後に伊勢国津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。

何度も主君を変えた戦国武将として知られる。それは彼自身の「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という発言に表れている。

築城技術に長け、宇和島城今治城篠山城津城伊賀上野城膳所城などを築城した。高虎の築城は石垣を高く積み上げる事との設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。




  1. ^ 寒松院は公園隣接地に移転したが、墓所は動物園内に残る(関係者のみ立ち入り可能)。
  2. ^ 新人物往来社編『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社、1996年) ISBN 4404023340 P168
  3. ^ 『豊臣秀長のすべて』P169-170
  4. ^ 藤田達生『江戸時代の設計者―異能の武将・藤堂高虎―』(講談社現代新書、2006年)P28
  5. ^ a b c d 朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、P664
  6. ^ 茶の湯は秀長に仕えていた時に千利休との交流があったとされる(藤田(2006)P17)
  7. ^ 数々の築城は大坂城豊臣秀頼と西国の豊臣恩顧大名に対する包囲網を築くためとしている。また、高虎の伊勢転封と筒井定次の改易、脇坂安治の淡路洲本藩から伊予大洲藩への転封もこの政策の一環としている(藤田(2006)P86 - P102)。


「藤堂高虎」の続きの解説一覧




固有名詞の分類





藤堂高虎のページへのリンク
「藤堂高虎」の関連用語
藤堂高虎のお隣キーワード
モバイル
モバイル版のWeblioは、下記のURLからアクセスしてください。
http://m.weblio.jp/
» モバイルで「藤堂高虎」を見る
_ _   


藤堂高虎のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
三省堂三省堂
Copyright (C) 2001-2012 Sanseido Co.,Ltd. All rights reserved.
株式会社 三省堂三省堂 Web Dictionary
戦国武将覚書戦国武将覚書
Copyright (C) 2012 戦国武将覚書 All Rights Reserved.
江戸net江戸net
Copyright (C) 2012 財団法人まちみらい千代田 All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの藤堂高虎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2012 Weblio RSS