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さくらだもん-がいのへん ―ぐわい― 【桜田門外の変】
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桜田門外の変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/06 13:58 UTC 版)
桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(東京都千代田区)において水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士が彦根藩の行列を襲撃して、大老・井伊直弼を暗殺した事件。
目次 |
経緯
安政5年(1858年)に南紀派に擁立されて大老に就任した井伊直弼は、将軍継嗣問題と通商条約案の勅許拒否という問題に直面していたが、南紀派と一橋派の争いについては、血縁を重視する慣例と将軍徳川家定の内意に沿い、溜間を拠点とした南紀派の推す徳川慶福(将軍就任時に家茂と改名)を将軍の世子として決着させた。もう一つの懸案である条約勅許獲得問題は、ハリスの恫喝と幕府内の開国派に押される形で、孝明天皇の勅許がないまま安政の五ヶ国条約に調印した。(しかし、そもそも「鎖国」は朝廷とは無関係に始められたものである。)大広間や大廊下の大名を中心にした一橋派の徳川斉昭や松平春嶽は、それに対抗すべく規則外の不時登城を行って違勅と非難したが、「大政関東御委任」の立場を固めた井伊大老に処罰され、発言は封じられた。
朝廷の権威により回復を図ろうとする一橋派は京都で運動を行い、条約調印と斉昭・春嶽の排斥に激怒した孝明天皇は、幕政の刷新と大名の結束を説く「戊午の密勅」を水戸藩に伝え、さらに幕府寄りの関白九条尚忠を内覧から外して遠ざけた。水戸藩は写しを雄藩に送り賛同を求めたが、幕府権威がいまだに強かった当時、各藩は関わりを恐れ相手にしなかった。しかし、朝廷が大名に直接指令するというのは、江戸開府以来前代未聞の出来事で、幕閣は狼狽した。井伊大老は、密勅は叡慮ではなく水戸の陰謀とする側近の長野主膳の注進に基づいて、徹底弾圧を決心した。まず、老中に再任させた間部詮勝を京都に送り、新たに京都所司代に任命した酒井忠義にこれを補佐させた。「天下分け目の御奉公」と井伊に表明した間部老中は、入洛早々に参内して条約勅許の獲得に失敗した老中堀田正睦の失策を受け、着京後は態度不鮮明のまま「病臥」と称して参内を延期し、一方で長野や九条家家士の島田左近と連日協議した。そしてあいまいな弁疏を繰り返しつつ、一方で公卿の家人たちを捕縛断罪、また全国でも民間の志士を手始めに、政治運動に関わった諸藩の武士を捕らえていった。孝明天皇は、いずれは鎖国に復帰するという条件のもとで、条約調印が切羽詰まった措置であったという井伊大老の弁明に一通りの理解を内々に示したが、「公武一和」のために朝廷が井伊政権に屈したことで、安政の大獄はさらに加速する。
水戸藩では、密勅への対応をめぐって藩論が分裂したが、前藩主である徳川斉昭が永蟄居の処分を受け、更に幕府より「戊午の密勅」の朝廷返還を求められていた。主君の処分解除には幕府へ恭順しなければならず、同時に返還を認めない過激派の抵抗もあり、藩内の膠着状態は続いた。さらに幕府自らが返還の勅命の草案を作って孝明天皇に認めさせるという荒業に出て、寸刻の猶予もなくなった。
返還阻止の運動は激化し、有志たちは藩境の長岡で街道を封鎖した。この長岡屯集は藩上層の工作により懐柔されて失敗し、過激派の藩士たちは活動の中心を江戸に移した。以前より攘夷派の高橋多一郎や金子孫二郎などの水戸藩士と、薩摩藩の在府組である有村次左衛門は、双方の藩に仕えた日下部伊三治(大獄により獄死)を介した結合を維持していたが、薩摩の率兵上京による義軍及び孝明天皇の勅書をもっての京都における挙義を断行し、幕政を是正しようとする。
しかし、薩摩藩は島津斉彬急死後に実権を握った弟の島津久光が、江戸での「挙義」を黙認しつつも自藩の直接関与を抑制する方策をとった。そして、息子である藩主島津茂久が直書で志士の「精忠」を賞賛するとともに後日を期して脱藩突出を思いとどまるように説諭するという異例の対応で、攘夷激派を強引に沈静化させた。ここに率兵上京は不可能となり、京都における攘夷派の蜂起は破綻する。しかし「斬奸趣意書」にあるように、幕政是正のためには井伊直弼の排除が必要不可欠とする水戸浪士たちは、関東における挙義を単独でも実行する方針を固めていた。薩摩との合流のため、高橋多一郎、金子孫二郎らは京へ上り、関東では関鉄之介率いる実行部隊が大老襲撃を断行するとして分かれ、関東組へは薩摩在府組のうち有村次左衛門が一人加勢した。
当日の早朝、一行は決行前に訣別の宴を催して一晩過ごした東海道品川宿(東京都品川区)の旅籠を出発し、東海道(現在の国道15号)に沿って進み、大木戸を経て札ノ辻を曲がり、網坂(東京都港区、慶應義塾大学付近)、神明坂、中之橋(現在の首都高速都心環状線を過ぎる)を過ぎて桜田通りへ抜け、愛宕神社(港区)で待ち合わせたうえで、外桜田門へ向かう。藩には届捨てで脱藩を願い出ていた。そして、藩邸上屋敷(現在憲政記念館の地)から内堀通り沿いに登城途中の直弼を江戸城外桜田門外(現在の桜田門交差点)で襲撃した(関係者一覧は下記)。井伊家には以前より警告が届いていたが、直弼は護衛の強化は失政の誹りに動揺したとの批判を招くと判断し、あえて護衛を強化しなかった。
襲撃
当日は季節外れの大雪で視界は悪く、護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄に袋をかけていたので、襲撃側には有利な状況だった。江戸幕府が開かれて以来、江戸市中で大名駕籠を襲うなどという発想そのものがなく、彦根藩側の油断を誘った。襲撃者たちは「武鑑」を手にして大名駕籠見物を装い、直弼の駕籠を待っていた。
駕籠が近づくと、まず前衛を任された森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に近づき、取り押さえにきた日下部三郎右衛門をやにわに斬り捨てた。こうして護衛の注意を前方に引きつけておいた上で、黒澤忠三郎(関鉄之介という異説もある)が合図のピストル[1]を駕籠にめがけて発射し、本隊による駕籠への襲撃が開始された。
発射された弾丸によって直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、独自に修錬した居合を発揮すべくもなく、動けなくなってしまった。襲撃に驚いた丸腰の駕籠かきはもちろん、太平の世に慣れ文弱の徒となっていた藩士の多くが算を乱して遁走した。それでも意地と廉恥を知る数名の供侍たちが駕籠を動かそうと試みたものの、銃撃で怪我を負った者が多い上に襲撃側に斬りつけられ、駕籠は雪の上に放置される。護衛の任にある彦根藩士たちは、ベタ雪の水分が柄を濡らし刀身が湿るのを避けるため、両刀に柄袋をかけており、銃創と鞘袋が邪魔して咄嗟に抜刀できなかった。このため、鞘のままで抵抗したり、素手で刀を掴んで指や耳を切り落とされるなどした。
こうした不利な形勢の中、二刀流の使い手として藩外にも知られていた彦根藩一の剣豪・河西忠左衛門は、冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜き、駕籠脇を守って稲田重蔵を倒すなど、襲撃者たちをてこずらせた。同じく駕籠脇の若手剣豪・永田太郎兵衛も二刀流で大奮戦し、襲撃者に重症を負わせたが、銃創が酷く闘死した。その時の永田太郎兵衛の刀が、子孫の永田茂(鈴木貫太郎の末弟)によって彦根城博物館に、赤備え甲冑等と共に寄贈されている。斬りこみ傷が多数あり、激しい戦闘の生々しさを物語っている。河西忠左衛門の刃こぼれした刀も同博物館に保存されている。
もはや護る者のいなくなった駕籠に、次々に刀が突き立てられた。さらに有村次左衛門が荒々しく扉を開け放ち、虫の息となっていた直弼の髷を掴んで駕籠から引きずり出した。直弼は無意識に地面を這おうとしたが、有村が発した薬丸自顕流の「猿叫」(「キエーッ」という気合い)とともに、振り下ろされた薩摩刀によって胴体から切断された首は、あたかも鞠のように雪の上を飛んだという。襲撃開始から直弼殺害まで、わずか数分の出来事だったという。一連の事件の経過と克明な様子は、伝狩野芳崖作『桜田事変絵巻』(彦根城博物館蔵)に鮮やかに描かれている。
有村らは勝鬨を上げ、刀の切先に直弼の首級を突き立てて引き揚げようとしたが、斬られて昏倒していた小河原秀之丞が鬨の声を聞いて蘇生し、主君の首を奪い返そうと有村に追いすがって後頭部に斬りつけた。小河原は広岡子之次郎らによって膾のように斬り倒されたが、門の内側から目撃した人物の表現によると、朦朧と一人で立ち向かい、数名の浪士に斬られ尽くした有様は目を覆うほど壮絶無残だったという。一方、有村も重傷を負って歩行困難となり、若年寄遠藤胤統邸の門前で自決する。小河原は即日絶命するが、ほかに数名でも自分と同じような決死の士がいれば決して主君の首を奪われることはなかった、と無念の言葉を遺している。
襲撃を聞いた彦根藩邸からはただちに人数が送られたが後の祭りで、やむなく死傷者や駕籠、さらには鮮血にまみれ多くの指や耳たぶが落ちた雪まで徹底的に回収した。直弼の首は遠藤邸に置かれていたが、所在をつきとめた彦根藩側が、闘死した藩士のうち年齢と体格が直弼に似た加田九郎太の首と偽ってもらい受け、藩邸で典医により胴体と縫い合わされた。
- ^ この時使用されたピストルは、ペリー艦隊が1854年、再度来航した際に幕府に贈呈した最新型コルトM1851を、徳川斉昭が入手して藩内で模倣して製造させていた物。水戸浪士の多くが襲撃の際にこのピストルを携帯していた。2010年1月16日の報道によると、このピストルは現物が出現し、そこには高度な旋条線が刻まれていたという。当該項を参照
- ^ 生麦事件がこの時の久光の帰途に起こっている。
- ^ 「井伊大老警護の武士逃げ散った」…桜田門外の変 奉公人証言録‐読売新聞関西版2010年7月11日付(同日閲覧)
- ^ 秋の企画展「幕末の動乱と瀬戸内海」‐広島県立歴史博物館に於ける『骨董録』公開を告げる広島県「ブンカッキーネットひろしま(ひろしま文化・芸術情報ネット)」記事(2010年7月11日閲覧)
- 1 桜田門外の変の概要
- 2 死傷者とその後の処分等
- 3 和解
- 4 関連作品
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