松江藩とは? わかりやすく解説

松江藩

読み方:マツエハン(matsuehan)

出雲島根郡松江藩名


松江藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/05 06:25 UTC 版)

松江藩(まつえはん)は、出雲または隠岐を加えた2か国を領有した。藩庁は松江城島根県松江市殿町)。藩主は外様大名の堀尾家、京極家と続き、親藩雲州松平家廃藩置県まで支配した。


  1. ^ a b 森家先代実録


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松江藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 15:27 UTC 版)

黒沢石斎」の記事における「松江藩」の解説

寛永18年1641年)松江藩主松平直政羅山世嗣松平綱隆世話役斡旋求めたところ、弘忠が推薦され3月16日江戸の松江藩邸に出仕し初代儒官となった寛永20年1643年徳川家綱生誕を祝うため第5次朝鮮通信使江戸来訪した際、製術官安期と交流した正保元年1644年6月2日綱隆部屋諸士番の支配命じられた。慶安元年1648年)定幸の命で母を江戸迎えるため伊勢赴いた承応2年1653年6月頃綱隆に従い出雲赴任し黒沢三左衛門(三右衛門)と称した万治元年1658年9月隠元隆琦後水尾上皇拝謁した際、中根正成に代わって賜答の書牘執筆した寛文元年1661年出雲大社寛文造営布告されると、松平直政神仏分離働きかけ寛文2年1662年仏閣撤廃方針打ち出された。 寛文3年1663年7月27日京都一乗寺羅山高弟石川丈山初対面し、性理学唐宋詩を論じた寛文6年1666年松平直政江戸藩邸死去すると、綱隆により江戸へ派遣された。寛文7年1667年7月1日扈従番改役となり、書方手習そのまま務め9月11日直政・綱隆年譜11月1日藩士由緒書編纂命じられた。寛文12年1672年9月15日御歌書用旧集御用命じられた。 延宝2年1674年9月1日御番改役から大名分(家老格)に転じ近習詰・書方そのまま務めた延宝3年1675年4月島根郡菅田村別荘を賜って巻石山号した延宝4年1676年7月28日隠居し、巻石山因み石斎の号を賜った延宝6年1678年1月16日出雲病没し、天倫寺山頂葬られた。諡号は石斎弘忠居士

※この「松江藩」の解説は、「黒沢石斎」の解説の一部です。
「松江藩」を含む「黒沢石斎」の記事については、「黒沢石斎」の概要を参照ください。

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