松江藩
松江藩
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寛永18年(1641年)松江藩主松平直政が羅山に世嗣松平綱隆世話役の斡旋を求めたところ、弘忠が推薦され、3月16日江戸の松江藩邸に出仕し、初代儒官となった。寛永20年(1643年)徳川家綱生誕を祝うため第5次朝鮮通信使が江戸に来訪した際、製術官朴安期と交流した。正保元年(1644年)6月2日綱隆部屋諸士番の支配を命じられた。慶安元年(1648年)定幸の命で母を江戸に迎えるため伊勢に赴いた。 承応2年(1653年)6月頃綱隆に従い出雲に赴任し、黒沢三左衛門(三右衛門)と称した。万治元年(1658年)9月隠元隆琦が後水尾上皇に拝謁した際、中根正成に代わって賜答の書牘を執筆した。寛文元年(1661年)出雲大社の寛文度造営が布告されると、松平直政に神仏分離を働きかけ、寛文2年(1662年)仏閣撤廃の方針が打ち出された。 寛文3年(1663年)7月27日京都一乗寺で羅山の高弟石川丈山と初対面し、性理学・唐宋詩を論じた。寛文6年(1666年)松平直政が江戸藩邸で死去すると、綱隆により江戸へ派遣された。寛文7年(1667年)7月1日扈従番改役となり、書方・手習もそのまま務め、9月11日直政・綱隆年譜、11月1日藩士由緒書の編纂を命じられた。寛文12年(1672年)9月15日御歌書用旧集御用を命じられた。 延宝2年(1674年)9月1日御番改役から大名分(家老格)に転じ、近習詰・書方もそのまま務めた。延宝3年(1675年)4月島根郡菅田村に別荘を賜って巻石山と号した。延宝4年(1676年)7月28日隠居し、巻石山に因み石斎の号を賜った。延宝6年(1678年)1月16日出雲で病没し、天倫寺山頂に葬られた。諡号は石斎弘忠居士。
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