せい‐し【世子/世嗣】
よ‐つぎ【世継(ぎ)/世▽嗣】
世嗣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 22:46 UTC 版)
「佐竹義宣 (右京大夫)」の記事における「世嗣」の解説
義宣の妻は、正室が正洞院(那須資胤の娘)、後室が大寿院(多賀谷重経の娘)、また側室が岩瀬御台(蘆名盛興の娘)など数人いたが、大寿院に男子が2人生まれたもののいずれも夭逝したため、世嗣たるべき実子はなかった。弟・蘆名義広の長男である盛泰を養子に取ることになっていたが、盛泰は元和2年7月17日(1616年8月29日)に22歳で父に先立ち没した。そこで元和7年7月7日(1621年8月24日)、佐竹北家当主となっていた申若丸(佐竹義直、秋田転封後に生まれた義宣の末弟)を宗家へ引き上げて嫡子とした。これによって北家は一旦断絶したが、後に高倉永慶へ嫁いだ妹の第2子(佐竹義隣)を継嗣として入れ再興させた。 しかし寛永3年3月21日(1626年4月17日)、義宣は義直を廃嫡した。江戸城で行われた猿楽の見物中に義直が居眠りをし、義宣が伊達政宗から注意されるという失態を演じたためであるという。義直は出家し、佐竹家から離縁された。 義直廃嫡1ヶ月後の4月25日、大御所・徳川秀忠から、亀田藩主の岩城吉隆(義宣の弟・岩城貞隆の子)を新たな継嗣にする許可を得た。親族とはいえ他藩の藩主を継嗣にするというのは大事であるが、義宣が秀忠から全幅の信頼を得ていたために可能となったものである。
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