事跡とは? わかりやすく解説

こと‐と【事跡】

読み方:ことと

成し遂げた成果業績

「君が—を負ひてし行かむ」〈・四二五一


じ‐せき【事跡/事×蹟】

読み方:じせき

物事が行われたあと。事件のあと。事実痕跡(こんせき)。


事跡

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高柔」の記事における「事跡」の解説

初め郷里守っていたが、袁紹仕えていた族伯父高幹招き応じ一族率いて彼を頼った。そこで父が任地益州死去したとの知らせ受けたため、高柔3年がかりで益州に赴き、父の遺体引き取っている。 曹操袁氏平定すると、高柔県長任命され治績挙げた高幹曹操再度叛逆すると、高柔従わず曹操降った曹操は彼をいつか罪に問い処刑しようと考え高柔を刺姦令史任命したが、その職務優良であったため、丞相倉曹属に引き立てた曹操後漢帝国内の藩国として魏を建てると、高柔尚書郎任命されその後丞相理曹属・潁川太守丞相法曹掾を歴任した曹丕文帝)が正式に魏を建国即位すると、治書侍御史任命され関内侯封じられた。その後、治書執法の官に転任し黄初4年223年)に廷尉昇進して司法担当した。この地位には、以後23年渡り在任している。黄初7年226年)、鮑勛部下失態見過ごした罪で逮捕されると、曹丕法律曲げて鮑勛死刑にするように命じた高柔従わず法律従い懲役5年判決下した曹丕怒り高柔をいったん解任して別の者を廷尉任命し鮑勛殺してしまった。鮑勛刑死後、高柔廷尉復職した曹叡明帝)が即位すると、延寿亭侯に封じられた。正始7年246年)、太常転任し、その10日後には司空昇進したその後司徒転任している。 「高平陵の変」も参照 嘉平元年249年)に司馬懿曹爽粛清した際には、皇太后詔勅により召し出されて、仮節・行大将軍事に任命され曹爽陣営占拠するという功績立てた。これにより歳郷侯に封じられた。曹髦高貴郷公)が即位すると、安国侯に封じられ、さらに太尉任された。曹奐元帝)が即位すると、邑を加増されて4千戸となった景元4年263年死去した享年90。孫が後継した。

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倪嗣沖」の記事における「事跡」の解説

清で秀才となったが、まもなく李鴻章淮軍参加した1895年光緒21年)、袁世凱配下となって新建陸軍に加わる。1907年光緒33年)、政府金銭献納し知府候補となる。東三省総督徐世昌により、奉天提法使、黒竜江民政使兼巡防軍翼長任命された。しかし、1909年宣統元年)に徐の後任として錫良就任すると、倪は汚職理由罷免されてしまった。1911年宣統3年10月河南布政使・幇弁河南軍務となり、まもなく安徽布政使異動した1912年民国元年)、武衛右軍翼長・督弁皖四省交界事宜任命された。翌年安徽清郷督弁、皖北鎮守使、安徽護軍使、安徽都督民政長と歴任した1914年民国3年)、安武上将軍の位を授与され、督理安徽軍務となった1915年民国4年)、袁世凱皇帝即位準備開始すると、倪嗣沖は他の14人の北洋軍人とともに袁を推戴する。同年12月、袁の皇帝即位に伴い一等公に封じられた。1916年民国5年4月長江巡閲副使兼署安徽省長に異動したまた、この間護国戦争第三革命に際しては、袁を最後まで支持し、袁が皇帝即位取り消そうとしたときも、これに反対したほどであった同年6月6日袁世凱死去すると、倪嗣沖は、段祺瑞指導する安徽派中心的人物となり、7月安徽省長に就任した府院の争いでは、段を支持して黎元洪追い落とし図り9月には倪が指導的立場となって安徽派督軍による「十三連合会」(いわゆる督軍団」)を組織した1917年民国6年)の張勲による復辟では、これを密かに支援する。しかし段が張勲討伐開始すると、倪は態度豹変させ、南路討逆軍総司令として張勲討伐参加した復辟失敗後、倪は長江巡閲使兼安徽督軍として、依然として安徽派中心にあった。しかし、1920年民国9年7月安直戦争で段が敗北すると、倪も9月罷免され失脚した1924年民国13年7月12日天津病死享年57

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蕭同茲」の記事における「事跡」の解説

1908年光緒34年)に衡陽衡群聯合中学入学し1911年宣統3年)に卒業した1914年民国3年)に長沙甲種工業学校機械科入学しこの間中華革命党入党した1917年民国6年)に卒業し湖南電燈公司就職した翌年天津に赴き、フランス資本永和機械廠で設計士担当する。まもなく再び湖南にもどり、湖南兵工廠・華実紡紗廠・湖南元局などで電機技師などとして働き1922年民国11年秋には、湖南省乙種工業学校数学教員務めた1923年民国12年9月湖南省実力者である譚延闓により湖南討賊群総司令部行政委員として起用されここから蕭同茲政治家としての経歴開始する1924年民国13年)、中国国民党加入した1925年民国14年春に上海に赴き、上海南洋煙草公司職工同志会書記となる。1927年民国16年6月南京移り党中央工部組織科科長に任命された。1928年民国17年2月には、中央宣伝部徴集科科長に転じ同年下半期には東北張学良易幟させるための工作参与した1929年民国18年)冬には同党秘書となる。 1932年民国21年5月蕭同茲中央通訊社社長に任ぜられ、国民党宣伝任務責任を負うことになった1935年民国24年11月、党第5期中央執行委員選出されている(第6期も同様)1943年民国32年)、三民主義青年団第1期中央団部評議員として招聘された。1946年民国35年11月制憲国民大会代表に選出されている。 国共内戦末期1949年民国38年10月蕭同茲香港逃れ1950年民国39年春に台湾へ赴いた同年9月中央通訊社改組に伴い管理委員会主任委員となる。1957年民国46年10月より国民党中央評議委員選出された(第9期、第10期も同様)1960年民国49年)、私立復興戯劇学校董事長になった1964年民国53年12月中央通訊社再度改組に伴い同社から引退している。その後総統府国策顧問となった1969年民国58年)には文星書店経営乗り出している。 1973年民国62年11月11日台北市にて病没享年79(満78歳)。

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胡毓坤」の記事における「事跡」の解説

奉天派軍人として経歴重ねる。1925年民国14年)、李景林率いる第1師で第4混成旅旅長となった翌年が反張作霖動き見せたために武装解除され、失脚する部隊安国第16軍第17軍再編され胡毓坤第17軍軍長任命された。 1928年民国17年)、張学良が父を後継すると、胡毓坤東北辺防司令長官公署参議官に転じる翌年張学良による中東鉄路接収強行端を発して奉天派ソ連との紛争発生した。このとき、胡は防俄軍第2軍軍長としてソ連軍応戦している。1930年民国19年)、中原大戦勃発すると、胡は討逆軍第3軍軍長任命され張学良に従って関内入り蒋介石軍と交戦している。 1933年民国22年5月国民政府軍委員会北平分会委員に任ぜられる。1935年民国24年4月陸軍中将銜を授与された。同年12月冀察政務委員会委員に任ぜられている。1936年民国25年12月西安事変勃発した際には、胡毓坤張学良による蒋介石捕縛支持した。そのため、事変解決後に張が逮捕されると、胡はこれに不満を抱くようになる。 そして1938年民国27年)、鮑文樾誘い受けた胡毓坤は、以後汪兆銘の反蒋介石活動与するうになる1940年民国29年3月汪兆銘政権樹立されると、胡は軍事委員委員任命される翌月辺区綏靖司令となった1943年民国32年10月軍事委員会駐華北委員となり、さらに陸軍上将授与されている。翌年3月、駐華北軍務長官に任ぜられた。1945年民国34年4月軍事委員参謀総長に任ぜられた。翌月軍令部部長にもなっている。 日本敗北後に、胡毓坤蒋介石国民政府逮捕され1946年民国35年5月24日漢奸の罪により南京銃殺刑処された。享年62

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雷緒」の記事における「事跡」の解説

姓名雷緒 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳本貫出身地揚州廬江郡 職官不詳爵位・号等- 陣営所属等独立勢力〕→曹操劉備 家族・一族不詳後漢末期に廬江中心に活動した独立勢力指導者である。 建安5年200年)、雷緒陳蘭梅乾梅成のことか、あるいは梅成縁者か)と共に廬江太守李術(または述)が揚州刺史厳象殺して管轄地域混乱した隙に、数万人の兵を集めて長江淮河一帯暴れ周った。その後曹操派遣した新任揚州刺史として劉馥赴任すると、雷緒梅乾は一旦これに降っている。 建安13年208年)、廬江駐屯していた雷緒数万軍勢率い荊州南部4郡を制圧したばかりの劉備帰順した。この同時期に雷緒曹操軍夏侯淵から攻撃受けて敗北したが、これが劉備への帰順前か後かのどちらの時点での事なのか不詳である。 以後雷緒の名は史書見当たらないまた、雷薄同一人物で無いならば雷緒小説『三国志演義』には登場しない

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顧澄」の記事における「事跡」の解説

清末に格致書院数学科卒業する1909年宣統元年)に、顧澄四元数に関する文献翻訳して『四原原理』という題名出版し中国初め四元数紹介したその後顧澄北京大学清華大学教鞭執り、後には北平女子文理学院院長東北大学数学主任となった1934年民国23年2月より上海交通大学数学教授となり、ここで中国初の全国規模数学学術団体である中国数学会創設している。さらに数学会から発行した雑誌1つ数学雑誌』や、上海交通大学科学学院発行する科学通訊』の総編輯務めた1938年民国27年3月中華民国維新政府成立すると、その翌月顧澄教育部次長任じられた。同年7月内政部陳群教育部長署理兼任から外れたため、顧澄暫時代理地位に就く。翌年4月顧澄次長職から外れ、署理教育総長専任となったそのまま1940年民国29年3月汪兆銘汪精衛)の南京国民政府合流まで、その地位にあった以後顧澄行方不明であるが、1947年民国36年)頃に死去したという。

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呉鶴齢」の記事における「事跡」の解説

熱河承徳師範経て1917年民国6年)、北京政法大学卒業した。その翌年には北京大学入学した。その一方で北京政府内務部に勤務しホルチン科爾沁)右旗王グンサンノルブ貢桑諾爾布)の蒙事務処での職務補佐した。さらに、北京高等師範学校でも勤務し北京基督教青年会副総幹事つとめている。1926年民国15年)、北京大学卒業し、まもなく中国国民党加入した1929年民国18年4月、蒙旗駐北平弁事主任兼国民政蒙蔵委員会参事となる。翌年1月蒙蔵委員会蒙事処処長に異動した1932年6月より参事に戻る)。1934年民国23年3月蒙古地方自治政務委員会委員蒙蔵委員会委員任命される9月蒙古地方自治政務委員会参事参事長に任ぜられた。 1936年民国25年5月ユンデン・ワンチュク雲王)、デムチュクドンロブ徳王)らが蒙古軍政府樹立すると、呉鶴齢もこれに参加する参議部長総裁幇弁に任命され総裁デムチュクドンロブ補佐したまた、蒙古生計会長にも任ぜられている。翌年10月蒙古聯盟自治政府参議会議長任命された。 1939年民国28年9月蒙古聯合自治政府蒙疆聯合自治政府参議会参議となる。翌年李守信後任として議長昇格した1941年民国30年春には、蒙古自治邦政府政務院院長に任ぜられている。その後蒙古留日予備学校校長つとめた日本敗北後は、国民政府復帰し軍事委員蒙古宣動団主任任命されている。1949年民国38年)、西モンゴル自治運動参加したが、後に台湾へ逃れた1980年死去享年85

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程希賢」の記事における「事跡」の解説

早くから馮玉祥兵営入隊し軍歴重ねていく。1927年民国16年5月、馮が国民革命軍第2集団軍を率いて潼関から出撃した際に、程希賢鹿鍾麟率い第18軍で第66師長に任ぜられた。北伐終了後翌年秋、軍縮に伴い26師長に任ぜられたが、まもなく馮により罷免されている。 1929年民国18年3月、第29師長に任ぜられたが、同年山東省政府高等顧問転じる1931年民国20年)、北平軍事整理委員会委員に任ぜられた。1936年民国25年)、天津市保安隊長冀察政務委員会委員(兼外交委員)となる。翌年日中戦争抗日戦争)が勃発すると、石友三率いる第181師で副市長に任ぜられた。 後に汪兆銘政権南京国民政府)に降り開封綏靖委員会機要組組長軍事参議院中将参議の他、1945年民国34年2月より江蘇省8区行政督察専員兼江蘇1区清郷督察専員と歴任した汪兆銘政権崩壊後消息不明である。

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唐恵民」の記事における「事跡」の解説

1923年民国12年)、江蘇省第一師範学校卒業1928年民国17年)、淞滬警備司令部少校参謀任命され1932年民国21年)、上海で『社会新聞』の編集者となった。このとき、李士群丁黙邨同僚になっている1938年民国27年)、上海潜入し汪兆銘汪精衛)の配下となる。以後、特工総部副主任、特工総部南京区区長を歴任した。しかし、後に蒋介石派の中国国民党中央執行委員会調査統計局(中統)の特務連絡取り合っていたことが発覚したため、上海の新亜酒店軟禁された。その後消息不明である。

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邵文凱」の記事における「事跡」の解説

1919年民国8年)、東三省講武堂第5期歩兵科卒業する1927年民国16年)、第8軍少将参謀長任命された。翌年東北陸軍27旅旅長代理昇進し少将銜を授与された。1931年民国20年)、東北憲兵副司令兼北平戒厳司令に任ぜられる。1936年民国25年10月中将銜を授与された。 その後汪兆銘政権参加し1944年民国33年5月河南省省長に任命された。翌年5月軍事委員委員異動している。 日本敗北後邵文凱蒋介石国民政府逮捕され軍事法廷死刑判決受けたが、実際執行状況不明である。

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陸洪濤」の記事における「事跡」の解説

天津北洋武備学堂卒業陝甘総督随従して新疆省から甘粛省入り、同省で軍歴重ねた1913年民国2年5月涼州鎮総兵に就任する1915年民国4年3月、隴東鎮守使に異動した1921年民国10年5月甘粛督軍蔡成勲陸軍総長就任したため、陸洪濤が護理甘粛督軍となる。 1922年民国11年)、正式に甘粛督軍昇進しあわせて甘粛陸軍第1師師長任命された。1924年民国13年3月、同省省長を兼任する民国14年1925年1月甘粛督弁に任命された。しかし同年8月馮玉祥率い国民軍甘粛省入りし、陸は抗し切れず下野した以後天津寓居する。 1927年民国16年8月31日死去享年62

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張文生」の記事における「事跡」の解説

清末には、長江江防営統領徐州鎮総兵などを歴任した1912年民国元年)、定武軍において統領任命され徐州鎮守使、皖豫四省剿匪督弁などをつとめた1917年民国6年)、張勲復辟従った復辟失敗後、張文生安徽派倪嗣沖接近し定武総統領官に任命された。1920年民国9年)、安徽督軍任命された。1922年民国11年)、直隷派馬聯甲駆逐され、下野した1937年民国26年)、死去享年71

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倪道烺」の記事における「事跡」の解説

1913年民国2年)、安徽督軍となった倪嗣沖の下で、倪道烺は長総局総弁となる。1918年民国7年)、鳳陽監督に任ぜられた。1921年民国10年6月2日倪道烺学生デモ武力鎮圧したため(安徽六・二惨案)、非難浴びて失脚し一時天津蟄居している。 1924年民国13年11月段祺瑞臨時執政として復権すると、安徽軍事善後特派員任命された。1927年民国16年初頭に、張宗昌安国軍副総司令兼直聯軍総司令になると、倪道烺は直聯軍予備軍軍長となった。しかし、直聯軍が中国国民党北伐軍敗北すると、倪は再び天津逃げ込んで蟄居した。 1937年民国26年)、日中戦争抗日戦争)が勃発すると、倪道烺梁鴻志殷汝耕江朝宗王揖唐らと密かに連絡取り合い親日政権樹立画策する翌年7月安徽省地方維持会長となる。11月中華民国維新政府参加して安徽省省長に任ぜられた。 1940年民国29年3月倪道烺そのまま汪兆銘汪精衛)の南京国民政府参加し9月安徽省政府主席改めて任ぜられている。1943年民国32年1月安徽省政府主席から安徽省長に改めて任ぜられたが、同月中に辞任した。なお、1942年民国31年)からは、国民政府委員つとめている。 日本敗北後倪道烺蔣介石国民政府により、漢奸として逮捕された。中華人民共和国成立後1952年3月身柄蚌埠市移送されている。5月10日蚌埠市軍事管制委員会軍法処により、改めて「叛国投敵」の罪に問われ処刑された。享年74(満73歳)。

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馮徳麟」の記事における「事跡」の解説

若い頃は民軍ないしは馬賊首領で、張作霖よりも先輩格にあたった1900年光緒26年)、ロシア軍東北侵攻してくると、馮徳麟はこれと戦ったが、一時ロシア軍捕らえられた。そしてシベリア監獄収監されそうになったが、辛うじて脱出している。 1902年光緒28年)、馮徳麟は金寿山組織した満洲義勇軍参加した1904年光緒30年)には、日本募集した東亜忠義軍」に参加し日露戦争遼陽会戦(首山戦役)でロシア軍相手軍功をあげた。戦後、清の正規軍加わり趙爾巽配下となる。しばらく後に奉天巡防営左路統領昇進した中華民国成立後馮徳麟は第28師長任命され陸軍中将の位を授与された。これにより、扎北鎮に駐屯したが、次第勢力拡大する27師長張作霖に対して警戒感を抱くようになる。ただ、奉天将軍となった段芝貴相手には、馮・張は協力して対抗し1916年民国5年)に段を将軍から追い落とした。しかし、これにより奉天権力を掌握した張に対して馮は更なる反感抱き次第本格的な対立へと進んでいく。 1917年民国6年)、馮徳麟張勲復辟呼応して張作霖兵を挙げた。しかし失敗終わり一時天津収監された。同年10月、張の寛大な処置により三陵督統、東三省巡閲使署軍事顧問に任ぜられている。しかし、第28師に対する馮の軍指揮権失われ、これ以降、もはや軍事政治の舞台では大きな力を持てなかった。 1920年民国9年10月盛京副都統兼金州副都統に任命された。1924年民国13年)、引退し以後遼西北鎮に寓居した。 1926年民国15年8月11日死去享年60

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李長泰」の記事における「事跡」の解説

天津武備学堂卒業し1895年光緒21年)に、新建陸軍加入する以後工程営管帯、工兵参領を経て北洋第6鎮協統となる。 中華民国成立後1912年民国元年)、署理直隷省大名鎮総兵に任命される翌年、冀南鎮守使に転じた1914年民国3年9月、第8師師長となり、袁世凱皇帝即位した翌年12月に、二等男爵授与された。 1917年民国6年7月張勲復辟に際しては、段祺瑞により討逆軍東路副司令に任じられ張勲討伐した。翌月、歩軍統衙門統領任命された。1919年民国8年5月辞職し以後天津寓居した。 1922年民国11年)、死去享年61

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彭漢章」の記事における「事跡」の解説

雲南陸軍講武堂卒業し最初雲南派唐継尭の下で軍職就いた。しかし、後に黔軍の王文華袁祖銘頼って移籍したその後は、袁の下で昇進重ね1922年民国11年8月、黔軍第1旅旅長となった1925年民国14年1月袁祖銘貴州督弁に復帰するとともに彭漢章は、貴州陸軍第2師師長任じられた。翌2月四川省での活動継続を望む袁祖銘により、その部下である王天培貴州督弁、周西成貴州会弁、彭が貴州省長に、それぞれ任じられた。そして彭が貴陽において省政を掌握することになる。 ところが、王天培天柱県など省東南部で、周西成赤水県現在の赤水市)など省北部で、それぞれ独自の勢力圏築き彭漢章手出ししようがなかった。加えて、彭は外省人であり、しかも政治手腕欠けていたため、王・周以外の黔軍軍人も彭の命令に服さなかった。結局、彭は省政の混乱招いてしまう。1926年民国15年6月、彭は貴州会弁に異動し、周が後任貴州省長(王の後任として督弁も兼務となった同年8月彭漢章中国国民党呼応し国民革命軍第9軍軍長任命された。そして、第10軍軍長任命され王天培とともに湖南省西部での作戦出撃した(なお、第9軍第1師師長は、賀竜である)。ところが、彭、王と袁祖銘(彭、王よりも遅れて国民革命軍呼応し第12軍軍長となる)は、湘軍湖南軍)で国民革命軍第8軍軍長唐生智から、湖南省統治権を脅かす存在と見なされてしまう。唐は先手打って蒋介石から秘密裏承諾を得ると、素早く袁・彭粛清行動出た。 まず、1927年民国16年1月31日袁祖銘常徳唐生智軍により急襲され、処刑されてしまう。次いで2月7日漢口まで進軍していた彭漢章は、唐により突然逮捕拘禁されてしまった。同年8月12日、彭は、軍事行動の際に殺人略奪の罪を犯した軍事法廷認定され武漢処刑された。享年38

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李厚基」の記事における「事跡」の解説

少年時代は、父に随従して軍営勉学励んだ1889年光緒15年)、李鴻章の衛隊隊官に任命される。翌光緒16年1890年)、天津北洋武備学堂軍事学び同年中に卒業したこの後直隷総督署衛隊営管帯に任命され、再び李鴻章配下となる。 1909年宣統元年)、新建陸軍第4鎮第7協第14標標統に昇進し、第4鎮統制呉鳳嶺に随従して、小站で軍事訓練取組む1911年宣統3年)に武昌起義勃発した直後に、第4鎮第7協協統に昇進した中華民国成立後軍隊改組に伴い李厚基そのまま陸軍第4師第7旅旅長に就任した1913年民国2年7月二次革命第二革命)では、部隊率いて上海向かい呉淞地区での戦い参加した第二革命鎮圧後呉淞要塞司令任命されている。 同年11月部隊率いて福建省入り12月福建鎮守使に任命された。なお、同時期に福建都督廃止されたため、福建鎮守使のそのまま都督職務担った1914年民国3年7月福建護軍使に改め任命され事実上将軍地位それまでの督弁と同格地位)を担っている1915年民国4年12月袁世凱皇帝即位した際には、一等子爵封じられた。1916年民国5年3月福建将軍任命され4月には福建巡按使も兼任した。袁死後の同年7月そのまま福建督軍兼省長に移行する1918年民国7年4月段祺瑞の命により、李厚基は援粤軍正総司令任命され、副総司令任命された浙軍師長童葆暄とともに広東軍政府攻撃したが、敗北終わったその後福建省統治続けたが、1922年民国11年11月南方政府側の許崇智駆逐されてしまう。こうして9年に渡る福建統治遂に終結したであった正式な罷免1923年民国12年1月)。 1924年民国13年11月北京政府から山西援軍副司令に任命されたが、まもなく引退する天津日本租界移り住んで材木業を営み生計立てた1942年民国31年9月死去享年74

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猶国才」の記事における「事跡」の解説

貴州講武第1期卒業する。後に貴州陸軍加入し1921年民国10年)から同郷周西成配下となる。以後、周の下で貴州四川を主に転戦した1923年民国12年)、周が靖黔軍を結成した頃に、桐梓内部で「群(毛光翔)、紹(王家烈)、佩(黄道彬)、用(猶国才)」の後継序列定まる。後に、猶は黔軍第10混成旅旅長に昇進した1926年民国15年6月周西成貴州省省長となり、冬には国民政府から国民革命軍第25軍軍長に任ぜられる。このときに、猶国才第25軍第3師長任命された。翌年夏、猶は周の命令を受け、中国共産党討伐のために湖南省西部出兵した。秋に、周は毛光翔総司令として、雲南省攻略軍を派遣し猶も左路軍を率いる。しかし、雲南軍の迎撃総司令たる毛の大失態もあり、貴州軍は大敗喫した1929年民国18年)春、雲南省竜雲が、周西成対立する貴州軍人李燊支援して貴州進攻仕掛けてくる。周は毛光翔猶国才らを率いてこれを迎撃したが、5月22日敗死してしまった。その後貴陽占領したが、まもなく雲南軍が撤退して孤立してしまう。毛・猶らは反撃転じ7月貴陽捨てて逃走した10月、毛が新たに国民政府から第25軍軍長貴州省政府主席に任ぜられ、猶は第25軍第2師師長となった1932年民国21年)、桐梓第2位第25軍軍長王家烈が、毛光翔からその地位奪おう企み蒋介石支援受けてクーデター起こす。毛は抵抗しきれず、3月下野した。しかし、猶国才は王のこの行動に不満を抱き、毛やその他の貴州指揮官密かに連携する。そして同年11月に猶らは蜂起し翌月、王を下野追い込んだ。こうして猶は、国民政府から貴州省政府主席代理任命される。 しかし、猶国才毛光翔ら他の指揮官たちとの連携に難を抱え内部対立調整できなかった。王家烈はこの機を捉えて反撃転じる翌年1月には、猶・毛は貴陽から駆逐されてしまった。4月には、王が貴州省政府主席返り咲いている。猶は、雲南省竜雲頼って逃れ翌年4月、その支援受けて貴州省西部駐屯した。 その後紅軍長征のため貴州通過しようとすると、王家烈猶国才和解してこれを共同迎撃することになる。1934年民国23年8月貴州省政府民政庁長に任ぜられ、12月には貴州全省剿匪総指揮兼ねた。しかし、王・猶らは紅軍前に大敗喫してしまう。翌年4月、王は蒋介石により貴州省政府主席から罷免され猶も民政庁長辞職した。王・猶は軍奪われ指揮下の軍は国民政府中央により直接改組された。ここに貴州軍閥は完全に消滅したのであるその後猶国才陸軍大学学習するどしたが、軍指揮官政治家として復帰することはなかった。1946年民国35年12月引退して帰郷したが、まもなく脳溢血倒れる。 1950年10月病没した。享年54

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姚震」の記事における「事跡」の解説

清末日本留学し早稲田大学卒業して法学士称号取得した帰国後は、清朝において法科進士となり、法部員外郎大理院推事を歴任した中華民国成立後1912年民国元年)、新法編纂調査員として法典編纂作業参加したまた、大理院第一庭庭長にも任じられている。同年冬には司法会議会員となった翌年夏、総統府軍事法律顧問、甄抜司法人員審議員も兼ねた1915年民国4年11月司法官懲戒委員会委員となる。 袁世凱死後姚震安徽派属し1918年民国7年)夏、高等捕獲審検庁首席評事兼任した同年秋に大理院院長高等捕獲審検庁庁長昇進している。しかし1920年民国9年)に安直戦争安徽派敗北すると、姚は直隷派から安徽派巨頭1人として逮捕令を発せられてしまい、徐樹錚と共に日本公使館逃げ込んだ1922年民国11年)、姚震段祺瑞秘書長となり、段が復権した1924年民国13年12月には臨時法制院院長任命された。1927年民国16年6月潘復内閣司法総長任じられ、翌1928年民国17年2月には大理院長に転じた。なお、姚震北京政府最後大理院長である。同年6月北京政府崩壊すると、国民政府が姚の逮捕令を発したため、姚は天津日本租界逃げ込んだその後政界への復帰を果たすことなく1935年民国24年8月27日死去享年52

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郭宗熙」の記事における「事跡」の解説

清の進士日本留学し法政大学卒業した帰国後に翰林院庶吉士となる。さらに長沙府中学監督奉天森林学監督琿春副都統署理、吉林東南兵備道、同西北兵備道、浜江道監督歴任した中華民国成立後1913年民国2年1月吉林提学使に任命され、まもなく同省教育司司長に改めて任ぜられた。翌年7月吉長道尹に異動する1916年民国5年4月、護理吉林巡按使となる。翌年11月正式に巡按使に任ぜられた。1919年民国8年10月罷免され、いったん天津隠居する1925年民国14年)、江蘇督弁楊宇霆秘書長として復帰する。楊が江蘇省追われると、郭宗熙山東督弁張宗昌の下で参賛に任ぜられた。1927年民国16年8月から翌1928年民国17年5月まで京師図書館(現・中国国家図書館館長務め、さらに中東鉄路督弁にも任ぜられている。張が国民革命軍北伐敗北して下野すると、郭もまた天津に引きこもった1934年康徳元年3月満州国で愛新覚羅溥儀皇帝即位し満州帝国となる。このとき、初代尚書府大臣に郭宗熙任命された。同年12月29日在任中のまま郭宗熙肝癌のため死去した享年57

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鄭謙」の記事における「事跡」の解説

日本留学し法政大学卒業したその後雲貴総督参事憲政籌備処参事安徽国税庁籌備処坐弁、皖北税務局長歴任した1917年民国6年6月黒竜江督署秘書長就任する同年11月、同省政務庁庁長異動した1920年民国9年)、北京政府陸軍部参事任命される1922年民国11年)、奉天派張作霖の下で東三省保安司令部秘書長となった1925年民国14年2月江蘇省省長に任命され8月一時的に江蘇督弁を兼任した。まもなく、楊宇霆江蘇督弁となり、鄭謙は省長専任となっている。直隷派孫伝芳に楊が敗北すると、同年12月に鄭も辞任追い込まれた。 1926年民国15年)、顔恵慶内閣内務総長任命されたが、実際に就任しなかった。まもなく、安国軍司令部秘書長任命されている。張作霖爆殺後に張学良後継した後も、1928年民国17年7月東北保安司令部秘書長引き続きつとめている。 1929年民国18年1月28日瀋陽病没享年54

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張百麟」の記事における「事跡」の解説

15歳貴陽府諸生となる。1902年光緒28年)、日本留学して早稲田大学法政速成科入り翌年帰国した1907年光緒33年)、公立貴州法政学堂入学し同年12月に、貴陽革命派組織である自治学社を結成した1909年宣統元年)、張百麟自治学社社長となり、『自治雑誌』・『西南日報』などの機関紙発行している。翌年貴州省咨議局議員選出された。 1911年宣統3年10月辛亥革命勃発すると、11月張百麟新軍率い楊藎誠趙徳全とともに蜂起し貴州軍政府樹立した。楊が都督となり、張は枢密院院長任じられている。しかし軍政府内では、張らの革命派、趙らの新軍グループと、任可澄らの立憲派劉顕世らの旧軍グループとの間で激しい対立生じていた。そして任・劉らは、翌1912年民国元年3月唐継尭率い滇軍雲南軍)を貴陽招きいれ、張・趙らのグループ粛清してしまったのである。張自身九死に一生得て上海へ脱出した同年5月張百麟上海西南協会政治促進会を結成した8月には、国民党加入している。翌年二次革命第二革命に際しては、黄興の下で秘書長つとめた1916年民国5年7月北京政府内務参事高等警官学校副校長となっている。その翌年には辞職して南下し孫文孫中山)の護法運動に加わる。護法軍政府においては当初司法部長に任ぜられたが、病のため就任できなかった。 1919年民国8年10月上海にて病没享年42

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羅良鑑」の記事における「事跡」の解説

1928年民国17年)、国民政府安徽省政府樹立すると、羅良鑑は同省政府委員に任ぜられる。翌年5月までつとめた1930年民国19年3月江蘇省政府委員改めて任ぜられ、1937年民国26年11月まで在任している。1944年民国33年12月呉忠信後任として蒙蔵委員会委員長に任ぜられた。1947年民国36年4月までその地位にあった

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饒漢祥」の記事における「事跡」の解説

1903年光緒29年)、癸卯科挙人となる。後に日本留学して法政大学卒業した武昌起義辛亥革命)が勃発する武昌向かい武昌都督府書記となる。後に黎元洪から抜擢され秘書秘書長昇進した中華民国成立後1912年民国元年11月夏寿康後任として湖北省内務司司長に任ぜられる。翌年湖北省民政長署理となった1914年民国3年)、副総統黎元洪秘書長となり、政治会議委員務めた同年5月参政院参政となる。1916年民国5年)、黎元洪大総統昇進したが、饒漢祥一度政界から引退し天津隠居している。 1922年民国11年6月黎元洪大総統返り咲くと、饒漢祥黎元洪から招聘され総統府秘書長兼僑務局総裁に任ぜられた。翌年6月黎元洪大総統辞任と共に饒漢祥秘書長退き天津に再び隠居している。1925年民国14年)に饒漢祥奉天派郭松齢秘書長として招聘され、反張作霖クーデター参加した郭松齢敗死すると、張学良によって饒漢祥指名手配されている。 1927年民国16年6月17日死去享年44

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呉光新」の記事における「事跡」の解説

1903年光緒29年6月日本留学する陸軍士官学校砲兵科第3期学び翌年卒業した帰国後は、北洋陸軍第3鎮砲3標管帯、奉天混成協標統、第13混成協砲標標統、第2軍参議官と歴任した1914年民国3年)、陸軍20師長就任したが、同年、病のため辞任した袁世凱死後段祺瑞率い安徽派の有力幹部目される1917年民国6年)、長江上游司令部司令任命された。同年夏には四川査弁使を兼任した1920年民国9年6月湖南督軍兼ねた。しかし翌月安直戦争の際に、呉は直隷派湖北督軍王占元拘禁され、軍も武装解除された。 1921年民国10年)に釈放されると、呉光新奉天派与する1924年民国13年9月第2次奉直戦争では、奉軍第6方面軍副司令として参戦した段祺瑞による執政政府成立すると、陸軍総長陸軍訓練総監任命された。1925年民国14年12月辞職し、段とともに上海移住した1939年民国28年)、香港病没享年59

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湯寿潜」の記事における「事跡」の解説

1890年に『危言』を著し科挙改革鉱山開発鉄道建設海防強化などの改革論を説いた1892年進士となり、安徽省青陽県知県となったがすぐに辞職した1905年浙江鉄路公司創設される総理選ばれ、保路運動尽力した1906年には張謇とともに予備立憲公会副会長務め清朝憲法制定迫った辛亥革命後浙江首任都督となった南京臨時政府交通総長にも選ばれたが就任していない。 この項目は、中国の歴史関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ歴史)。

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傅筱庵」の記事における「事跡」の解説

1892年光緒18年)、上海浦東の船工場働きながら、夜間学校で英語を学んだ1909年宣統元年)、招商局所保険公司勤め副経理総経理歴任している。1911年宣統3年10月辛亥革命勃発すると、滬軍都督府財政部参議・滬関清理処処長となる。あわせて、招商局、漢冶萍公司中国通商銀行の股権代表(株主代表)となった1914年民国3年)、傅筱庵盛宣懐により招商局経理各地租に任命された。さらに中国通商銀行董事理事)と上海商会第1期議董もつとめている。1916年民国5年4月、盛が病没すると、傅は招商局董事同局積余産業経理・内河輪船公司経理兼主船課長となった以後上海商会中国銀行漢冶萍公司など様々な業種国内有力企業要職歴任する1926年民国15年)、上海商会会長となった。しかし、中国国民党北伐軍上海入城すると、傅は北京政府孫伝芳支援した罪により指名手配されてしまい、大連逃亡した1931年民国20年)に傅筱庵はようやく指名手配解除され上海へ戻って中国通商銀行総経理董事長などをつとめた1938年民国27年10月中華民国維新政府の下で上海特別市市長任命されている(南京国民政府成立後留任)。同年蒋介石重慶国民政府軍統特務派遣し上海逗留中の汪兆銘汪精衛暗殺図った。傅は、当初軍統協力していたが、実行直前にこれを汪に告げ特務暗殺部隊取り押さえている。これに怒った蒋は、軍統指導者である戴笠に傅暗殺厳命した。 1940年民国29年10月10日傅筱庵就寝中のところを軍統買収され使用人殺害された。享年69(満67歳)。

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趙惟煕」の記事における「事跡」の解説

1889年光緒15年)、己丑進士翰林院編修となり、陝西省貴州省学政(省級における教育部門の長)となった1900年代に入ると、甘粛省寧夏知府巡警道を歴任1912年民国元年3月初代甘粛都督任命され民政長を兼任民国3年1914年3月参政院参政として北京異動し、約法会議員にもなった。 1917年民国6年12月30日死去

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太虚」の記事における「事跡」の解説

南京の毘盧寺の僧である。 1912年民国元年)、師である天童寺敬安が、湖広総督張之洞らを中心とした、「中体西用思想基づいた廟産興学運動により、各地仏教寺院没収し学校教育のための施設費用充てるという施策進行反対し、憤死した。これに発奮し太虚は、仏教界の革新粛正企図して『覚社叢書』を発刊自身の『整理僧伽制度論』を収載したまた、武昌仏学院を設立して人材育成のための青年僧教育機関経営乗り出した。そこからは、印順らの優秀な後継者出た。 更に、世界仏教徒協力必要性説き世界仏教連合会組織月刊海潮音』を創刊した。

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ユンデン・ワンチュク」の記事における「事跡」の解説

1890年光緒16年)、ハルハ喀爾喀右翼ジャサク(扎薩克)・ダルハン・ベイレ(貝勒)を継承する1912年民国元年)、親王として北京政府から認められウランチャブ盟長とダルハン旗旗長を務めた1932年民国21年10月綏遠省ウランチャブ盟保安長官任命された。 1933年民国22年7月ユンデン・ワンチュクは、デムチュクドンロブ徳王とともに内蒙古自治会議を開催し内蒙古の「高度な自治」を要求する運動を開始した。9月内蒙古自治政府(後の内モンゴル自治政府とは別物)の委員長に、翌年3月には、蒙古地方自治政務委員会委員長に選出された。1935年民国24年2月国民政府委員任命されている。 1936年民国25年5月日本軍援助介入により蒙古軍政府成立すると、ユンデン・ワンチュク主席に、デムチュクドンロブ総裁に、それぞれ選出された。次いで翌年10月蒙古聯盟自治政府成立すると、引き続きユンデン・ワンチュク主席となっている。 1938年3月24日68歳病没

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ソンジン・ワンチュク」の記事における「事跡」の解説

1916年民国5年)、ホチト左旗の扎薩克(執政官の意)となる。また、同旗の多羅郡王封じられた。1936年民国25年)、察哈爾省政府委員に任ぜられた。 1937年民国26年10月蒙古聯盟自治政府成立とともにソンジン・ワンチュクはこれに参加して参議会参議任命された。翌年3月シリンゴル盟副盟長となる。1939年民国28年9月蒙古聯合自治政府成立とともに民政部部長就任した1941年民国30年6月民政部廃止されたため、新設された興蒙委員会委員長転じた蒙古自治邦蒙古聯合自治政府改組したもの)が崩壊した後の1946年民国35年)、ウランフ烏蘭夫率い内モンゴル自治区運動聯合会により、ソンジン・ワンチュクシリンゴル盟盟長に任命された。翌1947年民国36年5月内モンゴル自治政府成立すると共にソンジン・ワンチュクは同政府参事庁長任命されている。 1948年民国37年2月19日ウランホト市にて在職のまま病没享年64

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楊文ガイ」の記事における「事跡」の解説

清末秀才で、後に日本留学する陸軍士官学校第6期歩兵科卒業したその後禁衛軍一等参謀直隷都督府軍務課長湖北督軍公署軍務課長漢陽兵工総弁歴任した。この経歴から、直隷派属す王占元幕僚となっている。 1921年民国10年)、やはり直隷派である孫伝芳配下転じる翌年、孫に随従して福建省入り福建省督軍参議任命された。1924年民国13年)、越威将軍の位を授与される。その翌年には、東南五省聯軍総司令部参議となった1926年民国15年5月顔恵慶内閣で農商総長任じられた。続く杜錫珪代理内閣顧維鈞代理内閣でもその地位にあった楊文愷は、潘復内閣成立した1927年民国16年6月辞任している。この内閣では農商部が改組され、農工部と実業部に分離された。 以後楊文愷天津寓居した。中華人民共和国成立後同地留まり天津文史館員となっている。 1965年6月病没享年83

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張樹元」の記事における「事跡」の解説

新建陸軍文学堂を卒業日本留学して陸軍士官学校第3期砲兵科学んだ帰国後は、北洋第5鎮砲兵第5標統、第10協協統を歴任した辛亥革命の際には、山東革命派鎮圧従事した1914年民国3年7月陸軍第5師師長昇進し山東軍務幇弁に任命される1918年民国7年8月、護理山東督軍署長となり、同年11月、署理山東督軍兼省長に昇進した1919年民国8年3月正式に山東督軍任命された。同年12月北京政府将軍府謙威将軍任命され北京召還された(後任山東督軍田中玉)。1925年民国13年)、臨時執政府軍務庁長任命された。 1934年民国23年)、死去享年56

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垣内淡斎」の記事における「事跡」の解説

明和3年1766年本家第8代垣内義同次男三男)として生まれた幼名孫三郎。義同は垣内恂斎の養子入っていたが、本家戻り代わりに淡斎が恂斎の跡を継いだ幼くして兄垣内忠質江戸出て茅場町本店勤務し干鰯を商った。 不漁続き安房国不入支店業績悪化すると、漁業将来性見限り芝居小屋芸妓屋・博徒職人の集まる新和泉町砂糖販売することを提案し天明2年1782年3月25日博施堂河内屋左衛門店が開店されると、これを監督した。㊂の家紋用いたことから、丸三とも呼ばれた開業資金本店から資金借用し利子支払った天明5年1785年火事類焼し本店から援助受けた創業時には江戸砂糖市場未発達で、同年組織され江戸砂糖問屋仲間一時衰退したが、大坂砂糖商射庭半兵衛提携して流通ルート確保し奉公人服部吉兵衛財務任せて業績拡大し寛政7年1795年江戸砂糖問屋仲間再興される頃には戻り銀高仲間中の筆頭位置している。 寛政6年1794年本店支店南家歩方制を定め共同積立金運用した同年薬種問屋免許出願し却下されるも、文化元年1804年再出願して大伝馬町組に加入し、また絵具染草問屋保有した文化5年1808年)と文化10年1813年火事類焼した文化11年1814年支配人等に経営分担させて栖原帰郷し譲り制度の下で定期的に利益分配した文政5年1822年7月3日病没し、補陀洛施無畏寺葬られ垣内己山朝川善庵撰・大窪詩仏書の墓碑建立された。

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畢桂芳」の記事における「事跡」の解説

北京同文館卒業後にロシア留学した帰国後は、駐ロシア公使随員直隷知州北洋洋務局随弁、東三省議約随員、駐ウラジオストク浦塩弁理交渉商務員、ホブド科布多)弁事大臣歴任した1912年民国元年5月、駐タルバガタイ(塔爾巴哈台)参賛に任命された。1913年民国2年7月、護理黒竜江都督民政長に任命されている。同年10月総統府高等外交顧問として召還された。1915年民国4年9月正藍旗蒙古都統1916年民国5年5月、署鎮安右将軍となる。翌月黒竜江将軍兼巡按使(翌月将軍督軍改称)に任命された。しかし1917年民国6年7月奉天派軍人許蘭洲から軍事的圧力受けて下野追い込まれた。 1918年民国7年9月安福国会で参議院議員任じられる。後に、大総統高等軍事顧問任命された。1927年民国16年)、顧維鈞潘復の両内閣で賑務督弁を務めた以後畢桂芳行方不詳である。

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張允 (荊州)」の記事における「事跡」の解説

蔡瑁と共に劉表から信任受けた。また後継者問題では、蔡瑁の姪婿にあたる劉琮後継支持し、兄の劉琦退けようと謀った劉表の病が重くなると、江夏守備していた劉琦見舞い戻ってきた。張允蔡瑁は、これを劉表会わせる後継考え直す可能性があると勘ぐり理由をつけて追い返した。やはり劉表死後劉琮後継したが、まもなく曹操荊州進攻始まったため、劉琮戦わずして降伏した張允についても、これ以上記述史書見当たらない

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劉尚清」の記事における「事跡」の解説

20歳で附生(府・州・県で採用され生員)となり、塾で学生教えた1911年宣統3年)、東三省督署度支部で任用される。その後東三省官銀総弁昇進した以後張作霖奉天派において文官として出世していく。 1919年民国8年)、黒竜江省財政庁長署理となる。翌年6月正式に財政庁長任命され、さらに永済官銀号総弁兼ねた1925年民国14年9月中東鉄路東清鉄道)督弁に異動する1926年民国15年)秋、奉天省省長兼財政庁長昇進し11月には省立東北大学校長兼ねた1927年民国16年6月張作霖北京政府農工総長として起用された。 張学良による易幟経た1929年民国18年1月劉尚清東北政務委員会委員任じられた。翌1930年民国19年12月国民政府中央内政部部長抜擢された。その後中央政治会議委員国民政府委員救済水災委員会委員全国経済委員会委員歴任兼任している。1932年民国21年)からは、北平政務委員会委員軍事委員北平分会委員歴任した1937年民国26年4月に、安徽省政府主席任じられたが、同年11月までに辞任している。1941年民国30年)、監察院副院長任じられた。 1947年民国36年2月20日療養先のニューヨークで病没享年80

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棗祗」の記事における「事跡」の解説

天性忠義才能有する評された。董卓討伐従事し各所征討した。その後冀州袁紹からも招聘があったが、棗祗兗州曹操頼り東阿県令に任命された。 興平元年194年)、張邈陳宮らが曹操叛逆し、兗州のほとんどを制圧したが、鄄城・范・東阿の3城は反乱軍に対して抵抗続けた。この時、棗祗東阿官民統率して守備固めていた。陳宮は自ら兵を率いて東阿攻撃しようとしたが、程昱が倉亭津の渡し断ち切ったので行軍が遅れ、結局は東阿攻撃失敗した建安元年196年)、羽林となっていた棗祗は、曹操対し韓浩と共に屯田制実行進言した。最初曹操採用ためらったが、棗祗があくまでその採用主張したため、棗祗屯田都尉任命して実行させた。その結果顕著な成果挙げたため、屯田制は後に任峻により大々的展開され曹操陣営軍事力強化大きく貢献した。 しかしその後棗祗は早死してしまった。死後曹操彼に太守地位追贈した。また、侯に採り立てられるべきであったのに、それが叶わなかったとして、彼の子棗祗爵位領地与え父を祭らせた。 小説『三国志演義』には登場しない

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湯爾和」の記事における「事跡」の解説

1900年光緒26年)、杭州養正書院で学ぶ。1902年光緒28年)、日本留学して成城学校学んだ1904年光緒30年)に帰国し浙江高等学堂音楽教員をつとめる。1907年光緒33年)に再び日本留学し金沢医学専門学校で学ぶ。卒業後はドイツベルリン大学医学院で学んだ1910年宣統2年)に帰国し、咨議局議員選出された。その傍ら浙江病院副院長内科医師などもつとめている。 1911年宣統3年12月湯爾和浙江軍政府代表して各省都督代表会議出席した。さらに南京開催され各省代表者会議臨時議長推戴されている。1912年民国元年10月国立北京医学専門学校設立準備携わり創設後は校長任じられた。1915年民国4年)、中華民国医薬学会発足するとともに、その会長となった1920年民国9年)、欧州視察赴いている。 1922年民国11年7月北京政府で署理教育部次長任じられる9月から11月まで署理教育総長つとめた1923年民国12年9月関東大震災発生すると、中国紅十字会と共に日本へ赴き、華僑救済従事した1926年民国15年10月、署理内務総長となる。翌年12月には財政総長となった北京政府崩壊後1929年民国18年3月日本遊学し医学博士取得している。翌年帰国し東北辺防軍司長官公署参議となった1933年民国22年)、駐北平政務整理委員会委員として、塘沽協定締結関与した1936年民国25年7月冀察政務委員会委員任命される1937年民国26年12月王克敏らの中華民国臨時政府参加し議政委員会委員長兼教育総長任命された。1939年民国28年)には、北京大学総監督東亜文化協議会会長兼任している。同年末に呉佩孚死去すると、その葬式弔辞ささげた1940年民国29年3月汪兆銘汪精衛)の南京国民政府成立し臨時政府もこれに合流する湯爾和華北政務委員会常務委員教育総署督弁、東亜文化協会会長となった6月には、憲政実施委員会常務委員つとめている。 湯爾和王克敏後継者目されていたが、同年11月8日北京特別市病没した。享年63。湯の妻は日本人で、湯自身日本語流暢であった

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梁敦彦」の記事における「事跡」の解説

香港中央書院卒業1872年同治11年)に初のアメリカ公費留学生となる。1878年光緒4年)、イェール大学入学した1881年光緒7年)、米中間に中国人労働者使用問題発生したため、これに憤った清朝命令により、梁敦彦帰国した当初福州船政学堂派遣されたが、まもなく天津北洋電報学堂英文教習教官)に転じた1884年光緒10年)、張之洞招聘応じ、両広、湖広督署の文案知州候補道をつとめた1904年光緒30年4月、駐米兼駐日、秘、古欽差大臣任命された。しかし、署外務侍郎として留まり任地には赴かなかった。9月外務部右侍郎に任ぜられる。また同年中にイェール大学から学士位と卒業認定授与された。 1909年宣統元年1月、署外務部会大臣尚書昇格し翌月には正式に同職に任ぜられた。翌年3月、会弁税務大臣兼任し7月には弼徳院顧問大臣兼ねた。しかし、まもなく病気のため一時辞職している。1911年宣統3年5月外務大臣となる。7月には再び弼徳院顧問大臣兼ねた10月袁世凱内閣外務大臣任命され、ドイツ・アメリカの両国派遣されている。なお、この際に、イェール大学から名誉博士号授与された。 中華民国成立後1913年民国2年)、北京政府総統府から政治会議議員任じられた。翌年5月徐世昌内閣交通総長起用され交通系要人みなされる1916年民国5年4月段祺瑞内閣途中で交通総長辞任した1917年民国6年7月張勲復辟に際して梁敦彦内閣議政大臣外交部尚書任命された。しかし、復辟短期間失敗に終わる。もその主犯1人として指名手配されてしまい、天津逃げ込んだ翌年指名手配解除されたものの、政界には復帰せず天津寓居続けている。 1924年民国13年5月10日天津にて死去享年68

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潘毓桂」の記事における「事跡」の解説

清末挙人となる。日本留学し早稲田大学卒業している。帰国後は民政部五品警官首席秘書内外城警庁検事国務院法制局参事江蘇省督軍署政学参議を歴任する1917年民国6年)、直隷派江西督軍陳光遠配下となる。督軍公署秘書長、同軍法処処長、景徳鎮統税局局長歴任した1923年民国12年)からは、蒙副総裁国務院参議、津浦鉄路局副局長などに就いている。1935年民国24年)、宋哲元平津衛戍司令任命されると、潘毓桂はその高等顧問となる。同年12月国民政府行政院冀察政務委員会設立すると、政務処処長兼交通委員会委員となった1937年民国26年7月潘毓桂北平治安維持会常務委員北平警察局局長任命された。中華民国臨時政府成立後1938年民国27年1月天津特別市市長に任ぜられた。しかし潘は、天津市地元人士からの声望乏しく日本軍天津特務機関からも意中の人物とされていなかった。そのため、次第日本側の信任得て台頭してきた天津海関監督温世珍に潘は市長地位脅かされるようになり、これと政争繰り広げている。 翌年天津特務機関長・柴山兼四郎大佐)の説得を受け、潘毓桂天津市長辞任し温世珍譲ったその後、潘は日本一時訪問している。1940年民国29年3月汪兆銘汪精衛)が南京国民政府樹立すると、その翌月華北政務委員会委員任命された。 日本敗北後潘毓桂漢奸として逮捕収監された。中華人民共和国成立後1961年11月12日78)、上海獄中死去した

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張錫鑾」の記事における「事跡」の解説

幼い頃は父に従って武を学びその後国子監となった同治2年1863年)から武昌軍務に就く。光緒元年1875年)からは地方官となり、通化県知県錦州知県などを歴任した光緒20年1894年)、奉天前後三営統領鴨緑江団練などの職に就く。日清戦争終結後直隷海防営務処総弁興化知府福建省)、北洋営務処兼発審処総弁などを歴任した光緒27年1901年)、奉天省戻り東辺道中江税務監督中軍各営統領巡警総弁、全営翼長安東開埠局総弁などをつとめた光緒33年1907年)、奉天営務処総弁任命され、さらに奉天度支副都統に転じた光緒34年1908年)、淮軍全軍翼長就任した宣統3年1911年)、会弁奉天防務、東三省辺務大臣任命された。 中華民国成立すると、民国元年1912年3月初代直隷都督(ただし署理、すなわち事務取扱い)に任命された。同年11月奉天都督奉天民政長(民国3年1914年6月奉天将軍となる)に異動した。翌民国2年1913年6月には、吉林都督兼任している。民国4年1915年8月湖北将軍転任したが、同省の実力者である王占元抵抗遭い結局北京政府中央に留まった。この際に、袁世凱皇帝即位支援し12月一等伯に封じられている。 民国11年1922年)、病没享年80

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周嵒」の記事における「事跡」の解説

浙江中学浙江陸軍小学浙江第二予備学校それぞれ卒業した1914年民国3年8月保定陸軍軍官学校第3期砲兵科入学し1916年民国5年8月卒業したその後浙江陸軍編入され1924年民国13年)には陸軍大学正則第7期として学んだ1927年民国16年)に卒業している。 その直後周嵒国民革命軍転じ1928年民国17年春に26軍第5団団長に昇進した以後着実に昇進し1933年民国22年3月、第6師師長となり、第4次第5次中国共産党紅軍掃討作戦従事した1935年民国24年4月陸軍中将の位を授与されている。西安事変後に第6師を率いて陝西省入りした。1937年民国26年1月、討逆軍第4集団軍第4縦隊指揮官務めている。 同年日中戦争勃発すると、周嵒は第75軍長昇進し第2次上海事変(淞滬抗戦)で日本軍交戦している。翌年春に台児荘の戦いにも参戦した6月江南区指揮官兼任し武漢防衛戦日本呼称武漢作戦)に参戦している。1939年民国28年1月第31集団軍総司令昇進し、翌1940年民国29年5月会戦参戦した同年7月第26集団軍総司令昇進し1943年民国32年11月常徳会戦参戦している。1945年民国34年5月中国国民党第6期中央監察委員当選した戦後同年8月周嵒は第6戦区副司長官就任し、翌1946年民国35年2月、同戦区再編した第6綏靖司令官となった1948年民国37年9月、第1綏靖司令官異動する1949年民国38年1月、京滬警備総司令浙江警備司令となり、翌月浙江省政府主席に任ぜられた(共産党への内通図り解任逮捕され陳儀後任)。国共内戦敗北に伴い台湾逃れ総統府戦略顧問となる。1952年民国41年10月退役した1953年民国42年7月22日台北市にて病没享年59(満57歳)。

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繆澄流」の記事における「事跡」の解説

1923年民国12年)冬、東三省陸軍講武堂歩兵科第5期入学し1925年民国14年)に卒業した以後張作霖率い奉天派軍歴重ね、張爆殺直前には旅長に昇進している。 張学良易幟行った後の1929年民国18年8月に、東北陸軍16旅旅長に任ぜられた。1933年民国22年)、国民革命軍116師長となる。1935年民国24年4月陸軍少将銜を授与され翌年10月陸軍中将銜を授与された。同年12月、張が西安事変引き起こすと、繆澄流も張の公電連署している。 事変解決後、張学良東北軍解体され繆澄流も軍指揮権喪失してしまう。1938年民国27年7月江蘇省政府委員に任ぜられた。1940年民国29年5月熱河省政府主席任命されている。しかし熱河省政府実態としては存在しておらず、正式に政府組織されることなく繆は異動している。1941年民国30年)、胡宗南の下で西北遊撃幹部訓練教育長に任ぜられた。後に、中央訓練団団となっている。 国共内戦中国国民党敗北すると、繆澄流もこれに従って台湾逃れた台湾では、仏教信仰の生活に入っている。 1990年民国79年12月11日台北市にて病没享年90

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涼茂」の記事における「事跡」の解説

姓名涼茂 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号伯方(字) 本貫出身地兗州山陽郡昌邑県 職官司空掾→侍御史泰山太守楽浪太守魏郡太守甘陵国相→五官中郎将長史左軍師→尚書僕射中尉奉常太子太傅 爵位・号等- 陣営所属等曹操 家族・一族不詳曹操招聘され司空掾となり、優秀な実績をあげて侍御史任命された。その後泰山太守任命され当時泰山郡盗賊多かったが、涼茂太守になると、多くの民がその統治慕ってきたという。 その後涼茂楽浪太守任命されたが、任地へ向かう途中で遼東公孫度引き止められている。しかし、涼茂はその部下になることを承知しなかった。その後曹操留守にしている鄴を公孫度攻撃しようとすると、涼茂は、そのようなことをすれば必ず曹操公孫度懲罰するであろう告げ、それを取りやめさせている。 その後も、魏郡太守甘陵国相を歴任し、いずれにおいても治績をあげた。曹丕五官中郎将になると、涼茂はその長史となり、さらに左軍となった建安18年213年)、涼茂曹操魏公推戴連名書に名を列ね同年11月尚書僕射昇進しその後中尉奉常となった曹丕太子となると、太子太傅任命された。 在職中亡くなったとあり、没年不明だが、『三国志』魏書文帝紀の裴松之注によれば曹丕が魏の文帝として即位する黄初1年220年)の前に、すでに涼茂亡くなっている。 なお涼茂は、小説『三国志演義』には登場しない

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夏侯徽」の記事における「事跡」の解説

教養深く見識ある婦人であった司馬師は事を諮る時、常に夏侯徽先んじて相談していたという。曹叡明帝)の時代司馬懿には大将軍として威勢があり、子の司馬師司馬昭雄才大略誉れ高かった。彼女は司馬師との間に娘5人を産んだが、男子を授かれなかった。やがて彼女は、司馬師が魏に忠誠を尽くす人物ではないと気づくようになった。また司馬師の方も、宗室出身夏侯徽忌み遠ざけはじめていたため、夫婦間の仲は不和となっていった。青龍2年234年)、司馬師夏侯徽毒殺し平に葬らせた。 このような経緯があったため、晋の成立後に司馬氏とその関係者故人対し追号があった後も、前妻夏侯徽外されていた。しかし、司馬師後妻である羊太后司馬炎武帝)を説得したため、泰始2年266年)に皇后位が追贈され懐皇后と諡された。

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田村左右」の記事における「事跡」の解説

文化5年1808年平戸藩田村相馬の子として生まれた幼名竜助幼少より関口流扱心流柔術学んで師範役となったほか、山鹿流兵学学んで高弟となり、漢学にも通じた文化13年1816年中老嫡子格として松浦熈出仕した文政7年1824年家督相続して近習となり、文政8年1825年以降参勤交代従い江戸平戸往復した天保6年1835年物頭並、小納戸頭、天保11年1840年御用人天保12年1841年松浦曜代替わりすると、天保14年1843年側用人となり、嘉永4年1851年小姓組預に転じた安政5年1858年松浦詮代替わりすると、安政6年1859年郡奉行命じられ勘定奉行兼務した。 慶応3年1867年2月京都留守居として上京し非常時備えて1,2斗俵・軍用金備蓄し京都御所警衛のため藩兵を上京させて自己の指揮下に置くことを求めた10月大政奉還により藩主の上京を命じ勅書を受けると、同僚浅山純尹と共に西行して藩主のもとに届けた12月7日諸藩重臣召集に応じて純尹と参内し長州藩処遇条約締結のため上京訴え諸外国応対について伝奏議奏下問回答した8日御所不穏な動きがあると、純尹と藩兵を率いて台所門から中山忠能邸に駆け付け、純尹は台所門、自身御所内で警衛に当たり、13日引き揚げた。 慶応4年1868年3月3日明治天皇二条城行幸4月7日大坂からの還幸藩主供奉し、同月藩主帰郷した明治2年1869年1月参政となったが、12月依願退職し、11月62歳で病死した。

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唐蟒」の記事における「事跡」の解説

1900年光緒26年)、父が蜂起図って逮捕、処刑されると、唐蟒日本逃れたその後陸軍士官学校第6期砲兵科卒業している。辛亥革命直前中国同盟会加入し湖南省活動した中華民国成立後は、岳州鎮守使、湖南都督府参謀長湖南陸軍第1混成旅旅長などを歴任した1913年民国2年)、二次革命第二革命)に革命派として参加したが、敗北し日本亡命している。1915年民国4年12月からの護国戦争では、両広を往来して袁世凱活動従事したまた、湖南省戻って湖南都督湯薌銘工作仕掛け、これを反袁独立させることに貢献している。 その後湖南の軍指揮官である程潜属した1927年民国16年)には、程が率い国民革命軍第6軍参謀長となっている。1932年民国20年6月軍事参議院参議となった翌年行政院北平政務整理委員会顧問任命されている。 1940年民国29年3月汪兆銘南京国民政府樹立すると、唐蟒はこれに参加する国民政府参軍参軍長兼軍事委員委員任命された。同年5月和平建国第3集団軍総司令となる。参軍長には1945年民国34年2月まで在任した軍事委員委員には、汪兆銘政権崩壊時まで在任していたと見られる日本敗北後漢奸として逮捕収監されたが、まもなく釈放されている。後に香港逃れ以後ここに定住した1968年死去享年83

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劉鋭恒」の記事における「事跡」の解説

1915年民国4年4月張毅後任として川辺鎮守使に任命された。1916年民国5年8月辞任した後任殷承瓛)。

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閻伝紱」の記事における「事跡」の解説

金州南金書院卒業1913年民国2年)、日本留学する県立仙台中学校などを経て1923年民国12年)、東京帝国大学経済学部入学した帰国後は、大連中華青年会副会長となる。さらに南満州鉄道株式会社嘱託にもなった。1924年民国13年)、関東庁勤務する1928年民国17年)、大連市会議員となった満州事変九・一八事変勃発後、閻伝紱は奉天省諮議に任ぜられる。満州国建国後の1932年大同元年4月8日立法院長に転じた趙欣伯後任として奉天市市長起用された。この他協和審査処処長、日満文化協会理事にも就任している。1935年康徳2年5月浜江省省長兼北満特別区公署長官となる(翌年1月北満特別区廃止)。1937年康徳4年7月1日吉林省省長に異動した1942年康徳9年9月28日司法大臣に任ぜられ、満州国滅亡まで在任した満州国滅亡後、閻伝紱はソ連軍逮捕連行されハバロフスク45収容所収監された。1950年8月中華人民共和国引き渡され撫順戦犯管理所収監されている。1962年4月獄中病没享年67

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沈金鑑」の記事における「事跡」の解説

光緒年間に武挙に及第し以後直隷海運局会弁、天津河防同知天津保甲総弁北洋巡警学堂総弁奉天新民府知府京師審判庭推事、安徽高等審判庁長歴任した1909年宣統元年)、安徽提法使となる。 中華民国成立後京師地方行政講習所所長任命された。1914年民国3年3月順天府尹に昇格し同年10月順天府京兆府改められると、そのまま沈金鑑京兆尹となる。翌年9月湖南巡按使に異動し湖南都督湯薌銘につく。12月袁世凱皇帝即位する一等男に封じられた。 しかし、護国戦争で反袁独立遅かった湯薌銘は省内の反発蜂起招き1916年民国5年)に下野追い込まれた。沈金鑑もまたやはり下野させられている。1920年民国9年6月浙江省省長に任ぜられ、1922年民国11年10月まで在任した1924年民国13年)、病没享年50

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安子島氏」の記事における「事跡」の解説

安子島氏源頼朝随身陸奥国安積郡所領賜った工藤祐経流れ汲み安積伊東氏の祖となった安積祐長後胤伝える。代々陸奥国南部栄えた安積伊東氏一門・家臣として安子島城主の地位にあった応永11年1404年)、南陸奥諸将室町幕府方と鎌倉府方に分かれて争った際、鎌倉府方の篠原御所足利満直忠誠誓った国人衆30名の中に安子島祐義名があるという。戦国時代以降安子右衛門大夫の代まで奥州管領二本松氏随身していたが、二本松義継伊達政宗討たれた後は二本松氏離れ会津黒川城蘆名義広従った。しかし、政宗蘆名討伐乗り出すと、安積安達諸勢力ことごとく伊達氏寝返る中、安子治部大輔祐高一人、義を重んじ安子島城籠城一戦交えんと伊達勢に立ち向かった。しかし、戦況理なしとみた祐高は城兵助命条件開城し、自らは同城より退いた蘆名勢は摺上原の戦い伊達勢に敗れ安積郡一帯伊達家支配下入った

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程武」の記事における「事跡」の解説

正史』での記述は、父の死後にこれを継いで曹丕仕えた、とあるのみで、それ以上記述は無い。 小説『三国志演義』では夏侯楙参軍として第92回登場する蜀漢第一次北伐を受け、韓徳蜀将趙雲討たれるなど苦戦する夏侯楙対し伏兵趙雲包囲して生け捕る策を進言する夏侯楙はこれを容れ、一時趙雲生け捕り寸前にまで追い詰める。しかし趙雲援軍として関興張苞現れると、伏兵率いていた部将の薛則・董禧らは討ち取られてしまい、夏侯楙程武大敗して南安逃れている。以後登場しない

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楊兆泰」の記事における「事跡」の解説

公立山西大学堂卒業1915年民国4年12月中大夫の位を授与された。山西高等農林学堂教務長、河東道第一中学監督山西都督府秘書長などを歴任する1919年民国8年)、山西省政務庁庁長となった同年8月山西医学伝習所現在の山西医科大学)の初代校長となる。1922年民国11年)、山西省財政庁長任命された。 閻錫山国民政府側に転じた後の1928年民国17年3月山西省政府委員民政庁長任命される翌年9月国民政府中央の内政部部長抜擢される(ただし、1930年3月からは鈕永建代理)。1930年民国19年12月山西省戻り太原寓居している。 1936年民国25年)、死去享年57

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趙尊嶽」の記事における「事跡」の解説

交通部工業専門学校卒業するその後上海申報経理秘書行政院平政整理委員会参議国民政府鉄道部参事歴任した1932年民国21年4月辞職している。 1940年民国29年3月汪兆銘汪精衛)の南京国民政府参加する鉄道部政務次長中央政治委員会委員中央政治委員は、以後4期つとめる)に任ぜられた。翌年8月行政院政務委員となる。1942年民国31年2月上海市政府秘書長に任ぜられた。同年、清郷委員会委員新国運動促進委員会委員つとめている。 1944年民国33年1月上海財務委員会委員長となる。3月中央政治委員会秘書長に任ぜられる。12月中央政治委員会秘書長、最高国会議秘書長宣伝部部長兼任した翌年2月、敵産管理委員会委員となる。 日本敗北直後8月17日周仏海配下である税警局隊長・周鎬率い南京国民政府税警団一部が、南京中央儲備銀行総部の建物占拠し南京国民政府軍の武装解除政府要員逮捕開始した(周鎬事件)。このとき、趙尊嶽税警団逮捕されてしまったが、支那派遣軍総参謀副長今井武夫が周鎬を説得したことにより、釈放された。 同年9月27日趙尊嶽上海蒋介石国民政府逮捕された。1947年民国36年1月24日無期懲役の判決言い渡されている。しかし後に釈放され1950年香港移住している。1958年シンガポール国立大学招聘され国学教授つとめた1965年シンガポール病没享年68趙尊嶽は、詞学者として知られ、『明詞匯刊』など多く研究実績残している。後年息女である趙文漪は、趙尊嶽直筆原稿中国国家図書館寄贈した

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余晋龢」の記事における「事跡」の解説

日本留学し1906年光緒32年)、東京憲兵練習所を、1911年宣統3年)、陸軍士官学校それぞれ卒業した帰国後は、陸軍部参事憲兵学校教官歴任している。1922年民国11年)、青島政局局長に任ぜられた。 1931年民国20年2月、余晋龢は青島市政府参事公安局局長務めた1933年民国22年12月北京特別市公安局局長参議外交主任となる。1935年民国24年12月廈門市市長となった。しかし短期間辞任し翌年国民政府外交部特派員に任ぜられた。 日中戦争抗日戦争勃発後、余晋龢は中華民国臨時政府に加わる。1938年民国27年1月北京特別市市長任命された。 1940年民国29年3月汪兆銘汪精衛)が汪兆銘政権南京国民政府)を樹立しても、余晋龢はそのまま北京特別市市長として留任した。さらに、華北政務委員会委員にも任命されている。1943年民国32年1月華北政務委員会常務委員昇格し、同委員会建設総署督弁に任命された。2月全国籌堵黄河中牟決口委員会主任委員に、3月全国経済委員会常務委員に、それぞれ任命された。 日本敗北後、余晋龢は天津蒋介石国民政府逮捕された。その後収監され時期不明だ獄死した。

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ジョアン2世 (ポルトガル王)」の記事における「事跡」の解説

父王の時代から摂政地位にあり、1481年即位する即位後は強力な中央集権化目指しコルテス(身分制議会)援助得て貴族階級弾圧した1483年には、国土3分の1支配してポルトガル権力ほしいままにしていた上、カスティーリャ王国内通していた又従兄ブラガンサ公フェルナンド2世滅ぼした1471年結婚した王妃レオノール・デ・ヴィゼウの兄で、ジョアン従兄に当たるヴィゼウ公ディオゴも、謀反加わっていたため同年殺された。 エンリケ航海王子アフリカ西海岸開拓事業継承して1484年コンゴ河口、1488年には喜望峰到達するクリストファー・コロンブス航海事業には協力しなかったため、大西洋開拓ではスペインカスティーリャ=アラゴン連合王国)に遅れをとった。 従妹でもある王妃レオノールとの間の2男のうち、次男ジョアン夭逝した。長男アフォンソ王太子1490年カスティーリャアラゴン王イサベルカトリック両王の娘)とエヴォラ結婚したが、翌1491年王太子落馬事故死去し王太子妃イサベル故国戻った。 王の血を引くのは庶出男子ジョルジェ(1481年 - 1550年)しかいなかったが、王妃レオノール嫌われており、後継者指名できなかった。結局王妃勧め従い、彼女の弟で従弟に当たるベージャ公マヌエル王太子指名した1495年41歳死去した精力的覇気溢れた名君として高く評価されている。

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石星川」の記事における「事跡」の解説

黄州府興国州(中国語版)墈頭石高(現:陽新県七峰郷)出身、のち興国州城(現:陽新県興国鎮(中国語版))。幼少期より文武両道科挙受けた落第したため、湖北新軍工程営に入隊成績優秀だったため、武昌湖北武普通中学堂にて領班兼助教として派遣される1903年光緒29年)秋、日本留学して東京振武学校入学陸軍士官学校第4期歩兵科進学同時期に中国同盟会入っている。を卒業した近衛歩兵第4連隊士官候補生として勤務1908年帰国後は、湖北陸軍小学堂副監督陸軍部推薦陳宧統制官師団長)を務め東北新軍20鎮にて第79標(錦州駐屯)標統、第80標標統を歴任している。 辛亥革命勃発すると、石星川帰郷して湖北軍政府参加し湖北陸軍第一混成旅旅長、中華民国成立後は、武昌の第1師師長に任ぜられた。1913年民国2年)、中将1915年民国4年12月袁世凱皇帝即位すると、石星川二等男爵の位を授けられている。 1917年民国6年11月石星川護法運動呼応し、黎天才率い湖北靖国軍で副総司令第1軍軍長となった。しかし翌年1月湖北督軍王占元敗北して四川省との境に逃れ、しばらくここに割拠する。1921年民国10年)、四川軍の攻撃敗れ地盤追われた。1923年民国12年2月北京政府から平威将軍地位授与されている。同じく名ばかり将軍7人と「将軍団」を結成し以降実業家として漢口日本租界寓居した。 1938年民国27年10月武漢日本により陥落する日本支持受けた石星川は、中華民国維新政府において武漢市参議副議長に任ぜられた。年末には議長昇進した1939年4月、兼政務訓練院長汪兆銘汪精衛)の南京国民政府成立した後の1940年民国29年5月石星川中江実業銀行董事長総裁となる。また同月、何佩瑢が結成した共和党加入し副総裁任命されている。しかし同年12月共和党解散された。翌年、石は中国国民党中央執行委員全国経済委員会委員、豫鄂贛三省財政整理委員会主任委員に任ぜられた。1943年民国32年10月漢口特別市市長に任ぜられている。何佩瑢張仁蠡寿栄と湖北省四大漢奸”と称された。 日本敗北後蒋介石国民政府により漢奸として逮捕された。1946年民国35年4月7日湖北省高等法院より死刑判決下される商震によって1948年民国37年)に無期懲役減刑されたが、精神に異常をきたし錯乱状態のまま同年7月22日獄死した。享年69

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傅嶽棻」の記事における「事跡」の解説

光緒年間挙人となる。山西巡撫文案任じられた。1904年光緒30年以降山西大学堂教務長、同代理総監督京師学部総務司司長、同普通司司長などを歴任した中華民国成立後1912年民国元年)、傅嶽棻は北京政府国務院銓叙局検事任命される1919年民国8年6月、署理教育部次長(正式就任同年12月となったあわせて銭能訓内閣代理教育総長となる。続く、龔心湛臨時内閣靳雲鵬内閣薩鎮氷臨時内閣でも同じ地位にあった1920年民国9年8月辞任したその後は、中国学教授河北大学教授兼系主任北京大学教授北京師範大学教授歴任したまた、雑誌湖北文徴』の編修にも関わり詩人として詩文集も遺している。 1951年死去享年74

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傅式説」の記事における「事跡」の解説

1903年光緒29年)、中山学堂入学する1905年光緒31年)、日本留学して東京帝国大学工学士称号取得した1911年宣統3年)、帰国し辛亥革命革命派義勇軍参加したその後再び日本へ留学し東京帝国大学工学部研究生となった。このとき、同級生たちと『丙辰学社』、『中華学芸社』を創立している。 1918年民国7年)に帰国し、通易鉱務公司、漢冶煤鉱公司などに所属した1922年民国11年)、私立廈門大学教授をつとめる。1924年民国13年)には、大夏大学創設従事し、その首脳となる。1927年民国16年以降国民政府交通部財政部任用された。一方で中華学芸社長大夏大学臨時校長なども、つとめている。 1940年民国29年3月汪兆銘汪精衛)の南京国民政府参加し鉄道部部長中央政治委員会指定委員以後4期務める)となった8月中日文化協会常務理事兼総幹事となる。12月全国経済委員会委員つとめた8月行政院政務委員となり、さらに浙江省政府主席民政庁長となったその後、清郷委員会委員新国運動促進委員会委員なども歴任している。 1943年民国32年3月杭州日本専管租界接収委員任じられた。1944年民国33年9月建設部長任命される11月全国経済委員会常務委員となった翌年2月、敵産管理委員会委員にもなっている。 日本敗北後1945年民国34年9月27日傅式説蔣介石国民政府上海逮捕された。翌1946年民国35年9月28日漢奸の罪で死刑判決を受け、1947年民国36年6月19日上海市執行された。享年57著書に『化学概論』がある。

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丁黙邨」の記事における「事跡」の解説

1921年秋に中国共産党の施存統と知り合い社会主義青年団(後の中国共産主義青年団)に入る。1924年中国国民党入党CC団属し上海文化界で活動し、『社会新聞』の主編となった。このとき、李士群唐恵民同僚になっている私立江南学院学長国民政府秘書歴任した後、1934年民国23年)に、軍事委員会調査統計局第3処(郵伝検査処)処長に任ぜられた。この頃には、丁黙邨戴笠・康沢(中国語版)と並び称される特務リーダーになっていたとされる1938年民国27年)、軍事委員少将参議転任し武漢特別市政府参事、同政府秘書長などを歴任した同年冬、丁黙邨は、李士群ともに日本軍占領する上海へ赴き、土肥機関接触親日特工隊を組織した翌年5月汪兆銘汪精衛)派の国民党中央執行委員常務委員任命された。さらに中央社会部部長中央特務委員会副主任委員、特工総部主任も兼ねている。しかし、汪腹心立場利用するが「公館派」の一員として次第台頭し、丁を凌駕する権勢有するうになる。丁は羅君強とともに周仏海率いる「CC派」の幹部であったため、周は次第に対して不満を抱いたとされる1940年民国29年3月南京国民政府正式に成立すると、中央政治委員会委員軍事委員委員行政院社会部部長任命された。翌年8月交通部部長転じる1943年民国32年)、社会福利部長となる。1945年民国34年5月浙江省省長、省保安司令、省党部主委員、駐杭州綏靖公署主任の各職を兼任した日本敗北後、いったんは蔣介石国民政府再任用され、浙江地区軍事専員となった。しかし9月に、結局は漢奸として逮捕されてしまう。 1947年民国36年2月丁黙邨死刑判決を受け、同年7月5日南京処刑された。享年45

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項致荘」の記事における「事跡」の解説

1914年民国3年)、保定陸軍軍官学校第2期砲兵科入学する1916年民国5年5月卒業した国民革命軍では、第26軍司令部少将参謀処処長、教導第1師砲兵第1旅旅長、国民政府警衛砲兵少将旅長を歴任する1932年民国21年6月軍政陸軍砲兵学校教育長に任ぜられた。翌年7月訓練総監部参事となる。11月江蘇省保安処処長、禁煙委員会常務委員地方団警政治訓練委員会委員鎮江警備司令第3戦区砲兵総指揮兼任した1936年民国25年11月陸軍少将位を授与されている。 1942年民国31年11月項致荘浙江省砲兵視察に向かうと称して重慶国民政府から離脱し、南京汪兆銘政権の下に投降した1943年民国32年2月軍事委員委員となる。4月軍事委員参謀次長総務庁庁長に任ぜられた。12月第5集団軍総司令兼任している。なお同年7月に、重慶国民政府から陸軍少将の位を剥奪されている。 1944年民国33年2月北屯墾総署署長に任ぜられた。6月第12軍軍長となる。9月浙江省省長兼保安司令杭州綏靖主任公署主任に任ぜられる。翌年3月新国運動促進委員会委員となる。5月国民政府委員任命されあわせて江蘇省省長に異動した日本敗北後項致荘上海隠れていたが、9月27日軍統により逮捕された。1946年民国35年11月26日漢奸の罪により上海処刑された。享年53

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陳遐齢」の記事における「事跡」の解説

1894年光緒20年)、甲午武挙に合格する。後に日本留学して陸軍士官学校卒業した1907年光緒33年)、標統として四川省赴任した1917年民国6年10月、護理川辺鎮守使に任ぜられ、西康地域割拠した翌年2月熊克武後任として正式に川辺鎮守使に任命された。4月チベット軍が西康攻撃してくると、陳はこれを迎撃した。しかし、北京政府中央の支援望めなかったため、8月和議結んでいる。以後7年渡り陳は川辺鎮守使の地位にあり、1922年民国11年)、北京政府から康威将軍の位も授与された。 しかし1924年民国13年5月劉湘川辺(川康)防務督弁に任じられると、川辺鎮守使の陳遐齢鼎立関係になったその後、陳は川軍指揮官である劉成勲攻勢押され劉成勲同年12月劉湘後任として川辺防務督弁に任じられている。1925年民国14年2月川辺防務督弁は西康屯墾使に改組され、引き続き劉成勲がその地位就いた一方の陳は、大勢決した見て下野し同時に川辺鎮守使も廃止されている。 下野後の陳遐齢はしばらく北京隠居していた。1937年民国26年)に帰郷するその後は、湖南省参議会参議員などの職をつとめ、地方名士として様々な社会事業取り組んだ中華人民共和国成立後も、そのまま故郷に留まっている。 しかし1950年12月陳遐齢反革命罪問われ中国共産党により殺害された。享年781984年5月共産党冤罪による処刑であったことを認めて陳の名誉を回復しあわせて愛国人士」との認定行っている。

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楊揆一」の記事における「事跡」の解説

清末に、湖北軍管帯をつとめた1912年民国元年)、日本留学し陸軍士官学校歩兵科学んだ1932年民国21年)、国民政府で駐鄂特派綏靖主任公署参謀長に任ぜられる。1936年民国25年)、陸軍中将昇進した翌年1月湖北省政府委員任命され当時の省政府主席黄紹竑)、11月に同政府秘書長就任した1938年民国27年9月軍事参議院参議異動している。 1939年民国28年8月汪兆銘汪精衛)に合流して、汪派の中国国民党中央執行委員任命された。翌年3月正式に南京国民政府成立すると、参謀本部政務次長に任ぜられ、代理部長をつとめたあわせて中央政治委員会指定委員以後4期務める)、軍事委員常務委員兼任している。1941年民国30年3月正式に参謀本部部長昇格しあわせて清郷委員会委員となる。12月軍事委員会弁公庁主任兼任した翌年6月湖北省政府主席任命される翌月軍事委員長駐武漢行営参謀長兼ねた1943年民国32年1月湖北省省長(省政府主席改組)となる。8月全国商業統制総会武漢分会委員長となった12月湖北省新国運動促進委員会主任委員つとめた翌年4月武漢綏靖主任公署主任となる。1945年民国34年3月軍事参議院院長異動した日本敗北後楊揆一国民政府逮捕される。そして、漢奸の罪に問われ同年中に処刑された。享年61

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凌霄」の記事における「事跡」の解説

日本留学し東京商船学校海軍大学校卒業した帰国後は、北京政府参謀本部科長、奉天省航警学校校長東北第2艦隊司令渤海艦隊副司令を歴任する1929年民国18年)、沈鴻烈配下東北第1艦隊司令として青島入った。しかし沈と対立して東北海軍駐青弁公処処長に転じている。 1940年民国29年3月汪兆銘南京国民政府樹立すると、凌霄軍事委員委員兼海軍部政務次長となった同年5月政務次長離れ委員専任となる。1944年民国33年11月海軍部長任援道代理して部長となり、翌1945年民国34年1月正式に海軍部長昇進した日本敗北後9月26日凌霄蔣介石国民政府により南京逮捕された。凌は軍事法廷漢奸の罪を問われ死刑判決言い渡され時期不明だが、南京銃殺刑処された。

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劉培緒」の記事における「事跡」の解説

初め学問志し順徳中学学んでいたが、家庭窮状により、21歳軍人に転じた北京模範第2期選抜され1917年民国6年)、保定陸軍軍官学校第6期歩兵科入学した1919年民国8年春に卒業し、後に靳雲鶚率いる第14師に配属昇進していく。 1926年民国15年3月、第14師第27少将旅長となる。翌年河南保衛軍第1師師長となったが、同年4月奉天派との戦い敗れ捕虜とされるその後釈放され張宗昌率いる直聯軍第15師長中将参議などを歴任した1928年民国17年)、陸軍大学別班第1期送られ学習している。 中国国民党国民政府)の北伐完了すると、劉培緒国民政府転じ唐生智配下となる。1929年民国18年)春、唐の下で第5路総指揮前方参謀処処長として蔣介石戦った敗北する12月、やはり唐が率いる護党救国軍の第4路第26師長となったが、ここでも唐は敗北下野したその後、劉は蔣配下転じ1930年民国19年1月国民革命軍新編第2旅旅長となった1932年民国21年)、改編に伴い独立37旅旅長となる。同年夏、豫鄂皖剿匪総司令部左路軍第4縦隊総司令転じた1935年民国24年)、陸軍少将位を授与される同年秋、第4師師長昇進した1937年民国26年8月第二次上海事変勃発すると、劉培緒もこれに参戦し蘇州駐留した。しかし劉は日本軍あっけなく敗北失陥してしまう。これにより蔣介石懲戒を受け、翌年4月軍事委員中将高参の閑職左遷されてしまう。その後、劉は母の看病理由香港逃れた。そこで劉は、葉蓬紹介により、汪兆銘汪精衛)の和平運動参加することになる。また、汪の指示により、華北軍組織のための活動開始した1939年民国28年12月上海中央陸軍軍官訓練団が発足すると、劉培緒は副教育長任命された。また、汪兆銘指揮下の国民党候補中央監察委員にもなっている。翌年3月正式に汪兆銘政権南京国民政府)が成立すると、劉は軍事委員参謀本部常務次長に任ぜられ、1941年民国30年9月中央陸軍軍官学校教育長となった。ところが、後に汪兆銘暗殺計画謀ったとの嫌疑により、各職を罷免されてしまう。1943年民国32年)、引退して北平手工業を営む生活に入った中華人民共和国成立後1951年劉培緒当局逮捕され1954年北京処刑された。享年61

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陸建章」の記事における「事跡」の解説

1881年光緒7年)に淮軍参加した1885年光緒11年)、天津武備学堂入学する1887年光緒13年)、同学堂の教官となった1895年光緒21年)に袁世凱新建陸軍に加わる。順調に昇進重ね1905年光緒31年)、第6鎮第11統領官に就任した。さらに山東曹州鎮総兵、広東高州鎮総兵、広東北海鎮総兵を歴任している。 1911年宣統3年)の武昌起義に際しては、職務放棄の咎で罷免されてしまう。まもなく北京召還され、京防営務処総弁就任したまた、このときに、灤州起義で逮捕され馮玉祥釈放助力している。1912年民国元年)、北京総統府警衛参謀官、左路備補軍統領をつとめる。さらに警衛軍統領兼北京軍警執法処処長昇進した1914年民国3年)、所属部隊陸軍第7師に改組され、陸建章は同師師長兼豫陝剿匪督弁に任命される陝西省などで活動する白朗討伐従事した同年6月張鳳翽後任として陝西都督就任し、まもなく威武将軍督理陝西軍務陝西将軍)に任命された。1915年民国4年12月袁世凱皇帝即位でも、陸建章はこれを支持し一等伯爵封じられた。 しかし、護国戦争第三革命)が発生し袁世凱皇帝即位取り消すと、陸建章陝西省における権威崩壊していく。1916年民国5年5月9日配下の陝北鎮守使陳樹藩独立宣言しまた、子の陸承武も革命派鎮圧向かって逆に兵変で捕虜とされた。陸建章は、陸承武の身柄引渡しなどを条件に、陳樹藩陝西省統治権譲渡し北京逃げ帰った北京戻ってからは、陸建章直隷派属し、第16混成旅を率い馮玉祥利用して北京政府内で台頭目指す1917年民国6年)、炳威将軍任命され、さらに総統府高等軍事顧問就任した安徽派直隷派南方政府をめぐる路線対立では、直隷派の重要幹部として、さまざまな謀略駆使した。しかし、段祺瑞安徽派陸建章対す反感強まっていく。 1918年民国7年6月14日陸建章天津安徽派徐樹錚急襲受けて暗殺されてしまった。享年57。後に馮玉祥は、陸建章復仇として、徐樹錚暗殺している。

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葉挺」の記事における「事跡」の解説

初め恵陽県中等蚕業学校養蚕業専門学校)で学んでいた。しかし、転じて広州陸軍小学入学した1914年民国3年12月湖北陸軍第二予備学校入学する1916年民国5年)より保定陸軍軍官学校工兵科学んだ民国7年1918年)、南方向かって粤軍(広東軍)に加入する1919年民国8年)、中国国民党入党した以後順調に昇進し1923年民国12年3月憲兵司令部参謀長兼第1営営長に就任した1924年民国13年秋にソ連訪れる。東方大学入学しあわせて中国共産党入党した1925年民国14年秋に帰国し国民革命軍第4軍参謀処長就任したその後第4軍12師第34団団長に就任する。さらに同団は独立団に改組され、引き続き団長務めた1926年民国15年5月葉挺独立団は北伐先遣隊任務を受け、同年8月湖北省での呉佩孚軍との戦いで軍功をあげた。これにより、第4軍が「軍」と呼ばれる栄誉を受ける上で貢献した1927年民国16年)に武漢国民政府成立してからは、第4軍24師長第11軍軍長武漢衛戍司令などを歴任した。しかし同年8月1日南昌起義主導して共産党として蜂起し国民革命軍から離脱した12月共産党広州起義にも参加したが、失敗終わり欧州へ逃れた。これにより、葉挺共産党との関係は、しばらく途切れてしまう。 1937年民国26年)、日中戦争全面勃発すると、葉挺帰国し抗戦参加した同年10月葉挺新編第4軍いわゆる新四軍軍長任命され華中転戦する。しかし、新四軍紅軍主体軍勢であったため、蔣介石から猜疑を受けるようになってしまう。そして1941年民国29年1月14日安徽省南部で、新四軍国民党大軍包囲攻撃されてほぼ殲滅される。葉挺捕虜となり、副軍長項英戦死した皖南事変)。 以後葉挺各地拘禁され続け1946年民国35年3月4日に、重慶でようやく釈放された。その3日後に葉挺共産党に再入党している。しかし同年4月8日葉挺は、王若飛、博古、鄧発らとともに空路延安に戻る途中乗っていた飛行機山西省興県黒茶附近墜落して死亡した享年51(満49歳)。

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張鳳カイ」の記事における「事跡」の解説

年少時秀才となった。しかし軍人の道に転じ1902年光緒28年)、陝西陸軍武備学堂入学する1904年光緒30年)に卒業し官費日本留学した日本では東京振武学校経て陸軍士官学校で学ぶ。日本留学中、一度中国同盟会加入したが、すぐに会員証焼き払い保守派政治姿勢保った1909年宣統元年帰国し1910年宣統2年春に陝西新軍督練公所委員任命された。同年冬、新軍39混成司令部参軍異動し、さらに参謀兼第2標第1営管帯に任命された。この頃になると、張鳳翽中国同盟会中心とする革命派士官との間で交流進み革命傾倒していく。 1911年宣統3年10月22日張鳳翽陝西省革命派は、武昌起義呼応した西安起義を発動する張鳳翽は「秦隴復漢軍」大統領推挙され、まもなく陝西軍政府樹立した同年12月9日張鳳翽中華民国秦軍政分府大都督就任した1912年民国元年8月張鳳翽袁世凱から陝西都督任命された。張鳳翽袁世凱積極的に支持する姿勢をとり、二次革命第二革命)では革命派鎮圧した。ところが1914年民国3年)に、白朗率いる軍が陝西省進攻してくると、袁世凱はそれを口実側近陸建章率いる軍を白朗追討名目陝西省送り込む張鳳翽はこれにより、都督地位陸に奪われてしまった。 張鳳翽北京召還され、揚威将軍任命されたが、実際に閑職であった以後何度陝西省での復権謀るも、それを果たせずに終わる。日中戦争抗日戦争)の時期には、陝西省名士1人として社会各階層に抗戦呼びかけた。 1949年中華人民共和国建国後も、張鳳翽大陸に留まった。以後西北軍委員会委員西北行政委員会委員陝西省人民政府副主席陝西省副省長、第1期全国人民代表大会代表などを歴任した1958年7月29日西安死去享年78(満77歳)。

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劉多荃」の記事における「事跡」の解説

1921年民国10年)秋、保定陸軍軍官学校第9期砲兵科入学する1923年民国12年)に卒業すると、張作霖率い東三省陸軍加入し以後順調に昇進した1933年民国22年3月国民革命軍105師長となる。1935年民国24年4月陸軍少将の位を授与された。翌年12月張学良西安事変起こすと、劉多荃は臨潼部隊指揮している。 1937年民国26年)、劉多荃は第49軍長陸軍中将昇進した日中戦争抗日戦争勃発後、津浦路上海方面日本軍交戦した1941年民国29年10月、第10集団軍総司令昇進し第3戦区属した12月熱河省政府主席兼任している。1943年民国32年4月、第25集団軍総司令となった1945年民国34年5月中国国民党第6期中央候補執行委員選出されている。 国共内戦最中では、劉多荃は1947年民国36年)冬に行憲国民大会代表選出され翌年1月華北剿匪総司令部総司令に任ぜられた。しかし翌月熱河省政府主席を突然罷免されてしまう。その後香港移って蒋介石派のグループ加わった1949年民国38年8月黄紹竑とともに中国共産党への起義を宣言している。 中華人民共和国では、劉多荃は中国人民政治協商会議全国委員会委員第2期から第5期までつとめている。1980年1月には、政治協商会議遼寧省委員会第4期副主席選出された。また中国国民党革命委員会(民革)に所属し中央委員会委員遼寧省委員会主任委員歴任している。 1985年7月22日北京病没享年89

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伍廷颺」の記事における「事跡」の解説

広西武備学堂卒業し国民革命軍第15軍第1師師長にまで昇進している。 1927年民国16年7月伍廷颺広西省政府委員転じ8月には同省建設庁長つとめた1929年民国18年5月黄紹竑後任として暫時ながら広西省政府主席任じられた。7月には中国国民党広西省党部執行委員となったが、まもなく黄紹竑とともに広西省退出した1931年民国20年2月に、黄紹竑一時的に広西善後督弁に返り咲いた際にも、伍廷颺広西善後会弁に任じられている。 1934年民国23年12月黄紹竑浙江省政府主席任じられる伍廷颺は、その翌年12月に同省政府委員建設庁長任じられ黄紹竑を再び補佐した1936年民国25年12月黄紹竑湖北省政府主席転出すると、伍廷颺一時的に討逆軍第8路軍第4師師長任じられ指揮官復帰した。しかしまもなく、湖北省政府委員建設庁長として黄紹竑の下につく。 翌年12月黄紹竑浙江省政府主席復帰すると、伍廷颺もやはり浙江省政府委員建設庁長となる。伍廷颺1946年民国35年5月までその地位にあった1948年民国37年)、行憲国民大会代表選出されている。 以後伍廷颺行方不明である。

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呂煥炎」の記事における「事跡」の解説

広西陸軍小学陸軍第2予備学校卒業1915年民国4年)夏、保定陸軍軍官学校第3期砲兵科入学する。このとき、黄紹竑白崇禧夏威同期となった翌年冬に卒業し以後広西軍桂軍)で経歴重ねていった。 1924年民国13年)、呂煥炎は、李宗仁率いる討賊聯軍(後の広西陸軍第2軍)に加わり、第5縦隊司令任命された。翌年からによる広西統一戦に参加する。呂は沈鴻英、鄧本殷らの撃破貢献して広西辺防対汛督弁に任じられた。 1926年民国15年)春、李宗仁部隊国民革命軍第7軍改組されると、呂煥炎第7軍第9旅旅長に任じられている。7月らが北伐出撃すると、呂は広西留守担当した1927年民国16年)、第7軍第7師師長昇進する同年11月広東省蒋介石李済深反旗を翻した張発奎黄琪翔討伐加わった1928年民国17年6月国民革命軍再編に伴い第15軍45師長任じられ翌年3月新広西派軍縮に伴い、第8路第4師旅となった同年夏、呂煥炎李宗仁らの反蒋戦争一端として広東省出撃したが、粤軍(広東軍)に敗北して広西省退却したその頃兪作柏李宗仁らを駆逐し広西省政府主席就任している。呂は兪と交渉して警備軍副司令兼第1師師長(後に、国民革命軍新編16師長)に任じられた。9月、兪が汪兆銘汪精衛)らと結んで蒋介石宣言すると、呂は蒋からの篭絡買収受けたためこれに追随せず、他の親蒋派将領とともに兪を追放した10月呂煥炎兪作柏後任として広西省政府主席兼討逆軍第8路副総指揮任じられた。しかし、呂は資歴が浅かったために省内の各軍統率できなかった。結局11月に、香港逃れていた李宗仁白崇禧黄紹竑指導者として改め迎え入れざるを得なかった。復権したは、反蒋介石のための護党救国総司令称し、呂は第8路軍第1縦隊指揮官に任ぜられた。1930年民国19年1月、呂は再び親蒋を宣言してらに反旗を翻したが、黄の迅速な反撃敗北逃走した同年6月15日呂煥炎逃亡先の広州において、部下衛兵暗殺された。享年39

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魯滌平」の記事における「事跡」の解説

22歳湖南兵目学堂入学し卒業後は湖南新軍加入した辛亥革命時には革命派として参加している。中華民国成立直後湖南陸軍第6団団となった1916年民国5年)には独立第3旅旅長になる。 1921年民国10年6月20日、両湖巡閲使・王占元支配に不満を持っていた湖北省蒋作賓要請を受け、趙恒惕が援鄂自治軍を成立させる第2軍司令就任し湖北省進出(湘鄂戦争)。8月6日王占元下野追い込んだものの、王を見捨てて介入した呉佩孚との戦いとなる。湖南省岳州まで攻め込まれ9月1日岳州休戦条約により戦争終結した1922年民国11年)には湖南軍第2師師長へと昇格した湖南省での譚延闓趙恒惕との抗争では、魯滌平当初中立保っていた。しかし、部下同士抗争から次第に趙との対立深め、譚に接近していく。1923年民国12年11月には、譚から湖南賊軍第2軍軍長湘軍総指揮任命された。しかし、趙との戦いに利無く、譚とともに広州孫文孫中山)を頼った1924年民国13年3月魯滌平大元帥孫文から禁煙督弁に任命された。同年10月湖南建国軍(湖南賊軍改組第2軍軍長大本営禁煙督弁となる。1925年民国14年)、湖南建国軍が国民革命軍改組され、魯滌平第2軍軍長となった1926年民国15年7月北伐においては第2軍軍長代理右翼指揮任じられる翌年5月正式に第2軍軍長となった1928年民国17年5月魯滌平武漢国民政府から湖南省政府主席任命され中国共産党掃討工作(「清郷剿共」)を推進した翌年1月、第8師師長兼任し、さらに討逆軍第5軍軍長昇進した3月中国国民党第3期候補中央執行委員選出され4月には武漢衛戍司令となった同年8月江西省政府主席兼第9路軍総指揮任命された。この際は、紅軍対策として行政督察専員制度初め導入し、後に楊永泰により国民政府において大々的採用されている。1931年民国20年12月浙江省政府主席任じられ3年間その地位にあった1934年民国23年12月軍事参議院副院長就任する1935年民国24年1月24日南京において病没享年49(満47歳)。死後陸軍上将の位を追贈された。

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岳維峻」の記事における「事跡」の解説

16歳のとき、武学貢生となる。陝西省革命派指導者である胡景翼部下となり、また、中国同盟会にも加入した辛亥革命後一貫して胡に随従し、第4混成軍官教導営で学びその後歩兵遊撃営営長に昇進二次革命第二革命)や護国戦争第三革命)にも参加した陝西第1師の旅長、1918年1月、胡が陝西靖国軍右翼軍を組織する第3遊撃支隊司令や前敵総指揮として陳樹藩劉鎮華対峙した。1924年民国13年9月、勝威将軍の位を授与された。同年第2次奉直戦争北京政変首都革命)を経て、胡が馮玉祥率い国民軍参加し副司令兼第2軍軍長就任すると、岳は国民軍第2師師長任命された。 同年12月胡景翼河南督軍として同省に入ると、岳維峻もこれに従った。まもなく、陝西督軍劉鎮華配下である憨玉琨(中国語版)と胡との間で地盤争い勃発すると(「胡憨之戦」)、岳はこれに参戦し、劉・憨を撃破する上で功があった。しかし、勝利直後1925年民国14年4月10日、胡は病に倒れて急逝してしまう。岳は胡の地位後継して、国民軍第2軍軍長兼署理河南督弁となった第2軍河南全省で25万人擁していたが、うち国民軍出身者は4万人ほどしかおらず、他は土着軍閥の毅軍や豫軍出身者呉佩孚軍や劉鎮華軍からの投降者などの寄せ集めであった1926年民国15年1月直隷派呉佩孚支援受けた劉は反撃転じ靳雲鶚第1軍寇英傑の第2路軍とともに河南省進攻開始。岳は、国民軍嫡系の田生春の第2師第4旅、楊瑞軒の第10混成旅を南部、蒋士傑の第11師を南東部信陽軍と対峙していた紀才の第9師を東部配備し、その他軍主力開封鄭州洛陽配備した。特に、蒋の第11師は第2路軍を1ヵ月以上押し留めるなど健闘見せたが、国民軍出身ではなかった第11師第16旅長兼豫東鎮守使・郭振才が無抵抗のまま靳雲鶚東部の帰徳を明け渡し、更に26日、毅軍の米振標開封で靳を迎え入れ28日には鄭州への進軍動き見せていた。岳は3月1日鄭州で緊急会議開いたところ、撤退多数占めたため、2日鄭州放棄大部分洛陽に、一部直隷向かった同日鄭州は元部下直隷派寝返っていた田維勤の第20師が制圧した6日李雲竜とともに汽車洛陽到着したが、劉鎮華味方した地元紅槍会弾薬積載した貨車襲撃され、更に西に逃れた劉鎮華はそれを追い潼関占領した1926年民国15年9月馮玉祥による五原誓師を経て、岳も国民革命軍加わった以後第2集団軍第5方面軍総指揮第3軍軍長などを歴任し北伐にも貢献した北伐終了後湖北省襄樊駐屯していたが、1928年民国17年)に済南事件が起こると、下野し上海寓居していた田玉潔より挙兵抗日建議を受ける。岳は田と対談するため襄樊呼び寄せたが、田はその道中で棗陽紅軍捕虜となり、翌年殺害されてしまった。 1929年民国18年)に陝西招撫使、豫西警備司令を、その翌年国民革命軍34師長歴任し、主に紅軍との戦い担当した。しかし、1931年民国20年3月、鄂豫皖ソビエト区紅軍との戦闘敗北して捕虜とされてしまう。翌年8月11日国民革命軍への内応図ったとして、張国燾の命により河南省光山県銃殺刑処された。享年50国民政府から陸軍上将の位を追贈されている。

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李雲竜」の記事における「事跡」の解説

1911年宣統3年10月西安起義に参加するその後革命派の秦隴復漢軍が成立すると、陝西省革命派人士である同軍兵大都督・張雲山配下となった李雲竜護国戦争第三革命)にも参加する。さらに1918年民国7年1月胡景翼らが三原陝西督軍陳樹藩との戦い開始すると、これにも参加した。胡が組織した陝西靖国軍は第2支隊司令となり、同年8月には第4路第4支隊司令となった1924年民国13年)の北京政変首都革命)では豊台通州展開し天津直隷撃破貢献した胡景翼馮玉祥率い国民軍加わり李雲竜国民軍第2軍10旅旅長に就任河南省進軍した1925年民国14年)には、河南省をめぐる胡と憨玉琨(中国語版)との戦い(胡憨之戦)に参加している。密県確保し滎陽から向かった胡景翼率い第2軍主力(第1師及び楊瑞軒・翥の2個旅)とともに東の洛陽目指した。また南東から郟県展開する樊鍾秀と、禹県の鄧瑜、蒋世杰の2個旅が北進しており、いずれも洛陽東隣の偃師にて合流し、憨の退路を断つ作戦であった3月4日、憨玉琨と黒石関にて交戦その戦いぶりから「常勝将軍」と称された。胡急逝後の民国14年1925年7月西安8月陝西軍務善後事宜河南国民軍第2混成旅旅長に任命された。 馮玉祥西北国民軍総司令甘粛督弁に任命されると、1926年民国15年1月孫岳後任として署理陝西督弁に任命される。しかし同月呉佩孚の討賊聯軍は河南省進攻決意鄂豫戦争)、東から靳雲鶚第1軍西から劉鎮華の陝甘軍、南から寇英傑の第2路軍がそれぞれ侵攻開始した岳維峻要請河南省進出2月国民軍第2軍10師長任命された。3月1日第2軍鄭州放棄6日、岳とともに汽車洛陽到着したが、地元紅槍会弾薬積載した貨車襲撃され、更に西へ逃れ4月西安辿り着いた。それを追って来た劉鎮華は鎮嵩軍を復活させ、7の兵を以て西安城を取り囲んだ当初城内残兵と第12混成残部の2個団、計5000人に過ぎなかったが、のち要請第3軍から三原楊虎城らも合流したは、指揮系統円滑にするため部隊名を「陝軍」に統一し司令官、楊と田玉潔が副司令に就任李雲竜虎臣)と楊虎城両者とも名前に「虎」が付くことから、「二虎守西安」と称された。以降、8か月にわたり籠城戦持ちこたえたその間、外の情勢大きく変わっていた。7月には国民革命軍武漢陥落させて呉佩孚河南省追いやり、9月には五原誓師を経て馮が国民革命軍加入し国民聯軍を称すると、籠城中のもこれに従った10月国民聯軍本隊援軍得て鎮嵩軍は瓦解し11月16日にようやく西安解放された。しかし城内の犠牲は凄まじく、軍民合わせて5万人以上の戦死者餓死者を出し西安墓穴溢れかえったという。 1927年民国16年1月6日、胡景詮とともに河南省入りし、宝豊県魯山県臨汝県に進出した6月国民革命軍西北軍第2集団軍南路軍)第8路総司令任命され10月国民革命軍東路指揮となった1928年民国17年)、北伐参加し国民革命軍第2集団第16軍軍長兼国民政軍事委員委員任命された。北伐後、新編第3師長任命されるその後軍縮に伴い1930年民国19年)に第34師副師長任命され1931年民国20年)、新編第3師長に再び返り咲いた。しかしは、中国共産党討伐従事することを望まず、まもなく辞任帰郷した以後李雲竜地元名士として、学校建設実業振興取り組みまた、陝西省臨時参議会参議員もつとめた1946年民国35年)、陸軍中将銜を授与されている。中華人民共和国建国後大陸留まり陝西省政治協商会議委員任命された。 1954年病没享年65

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米振標」の記事における「事跡」の解説

清澗県田庄郷米家溝村(現:楡林市綏徳県田庄鎮)出身幼くして父母亡くし極貧少年時代送った10歳にて放浪の旅に出るが清軍に捕らえられ、米氏の養子となって武官への道を歩む最初淮軍加入し同治年間宋慶率いる毅軍に転じて、馬夫、伙夫、兵丁と昇進翼長まで昇進した1902年光緒28年7月1日千総用把総、また守備補される光緒末期には左路歩軍統領として通州駐屯武昌蜂起後の1911年10月山西省大同奪還戦に1個営からなる先遣隊統帯として派遣され、省北部雁門関にて孤軍奮闘強いられるが、陳希率い増援との合流成功した。この働きにより、毅軍での地位高める。合流後10月19日大同包囲戦参加激戦により双方損害大きく11月29日スウェーデン人宣教師仲介革命軍との和議成立した同年末、熱河省に展開。

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牛金」の記事における「事跡」の解説

魏志曹仁においては曹仁に従って各地転戦した将として記述がある。赤壁の戦い後に、周瑜率い孫権軍6千人江陵攻め込んで来た時、牛金は僅か300人でこれを迎撃した。奮戦したが、所詮多勢に無勢で、後一歩危うく討たれるところであった。しかし、牛金の身を案じた曹仁救援駆け付けたため、危機乗り越えた。これが南郡樊城をも含む荊州北部江陵攻防戦である。後に魏の後将軍出世している。 また、『晋書』宣帝本紀」(宣帝とは司馬懿の事)においては235年に魏に攻めて来た蜀漢馬岱勅命迎え撃ち馬岱に千余人犠牲者を出させ撤退追い込んでいる。また239年には、司馬懿公孫淵征討従軍するなど、司馬懿に従って転戦する将軍として記述されている。 後に司馬懿によって毒殺されといわれるが、真偽の程定かではない。「玄石図」という石碑表面に「馬の後を継ぐのは牛である」という言葉浮かび上がっていた。そのため司馬懿は牛氏(牛金のこと)を深く恨み、毒が入った酒を牛金飲ませて殺害した、と述べているとする。また、司馬懿曾孫司馬覲の妃の夏侯光姫(字は環)は、小役人の牛氏(牛金とは別人孫盛晋陽秋』によれば、名は牛欽とする)と密通して、東晋初代皇帝になる司馬睿生んだ、という話が『晋書』元帝本紀」にある。 なお、この『晋書』より先に、『魏書』(北魏書)の司馬叡伝(司馬睿のこと。)に、「僭晋の司馬叡、字は景文,晋の将、牛金の子也。(司馬覲の妃の)譙国夏侯氏,字は環,金と姦通し、遂に叡を生む因って司馬姓を冒す」と記録されているが、牛金276年生まれ司馬睿父親であるとは考えにくく、また『魏書』は南朝敵対していた北斉編纂したものであり真偽の程不明である。上記通り牛金司馬懿毒殺されたことも、東晋元帝が牛氏の血筋引いていることも確証はない。

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舒邵」の記事における「事跡」の解説

姓名舒邵 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号仲膺または仲応(字) 本貫出身地兗州陳留郡 職官阜陵県長沛国爵位・号等- 陣営所属等袁術 家族・一族兄:舒伯膺 子:舒燮 袁術配下『三国志』呉志孫賁によれば、兄の舒伯膺の親友殺された際に、舒邵がその仇を討ったその後兄弟で罪を庇い合ったため2人とも赦された。これにより、天下にその名声響き渡ったという。舒邵は、袁術の下で阜陵県長任命された。 『後漢書』袁術伝では、「舒仲応」として登場する可能性としては舒邵別人ということあり得るが、本記事では舒邵同一人物として扱う。舒邵は、袁術から沛国相に任命されている。袁術穀物10万斗を兵糧としていたが、舒邵はそれを尽く飢えた民衆分け与えた。それを知った袁術は、舒邵処刑しようとしたが、舒邵は「死は覚悟していました。私一人の命で、民衆塗炭の苦しみ救われるならそれでも良いと言い放った。それを聞いた袁術は「なぜお前一人で、天下名声独り占めしようとするのか」と返したという。結局この後舒邵が赦されたか、処刑されたかは不明である。 その子である舒燮は、呉において零陵郡重安県長となっている。潘濬法に照らし合わせて処刑されかけた事があったが、孫鄰舒邵・舒伯膺兄弟の事を持ち出して諭した為、処刑取り止めとなり命を長らえている。 小説『三国志演義』には登場しない

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事跡

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丁綝」の記事における「事跡」の解説

姓名丁綝 時代新代 - 後漢時代 生没年不詳〕 字・別号幼春(字) 本貫出身地豫州潁川郡定陵職官潁陽県尉〔新〕→偏将軍更始〕→河南太守後漢爵位・号等新安郷侯〔後漢〕→陵陽侯〔後漢陣営所属等王莽更始帝劉秀光武帝家族・一族子:丁鴻盛 新王莽時代には、丁綝潁陽潁川郡)の尉を勤めていた。劉秀(後の光武帝)が潁陽攻撃してくると、潁陽新軍守備固めて降らなかった。しかし丁綝潁陽県宰を説得して劉秀降らせた。 劉秀はこれに喜び丁綝厚く賞して将軍任命し征伐随従させた。次に潁川郡掾を務めていた馮異劉秀に捕えられると、丁綝は馮孝(馮異従兄)・呂晏と共に馮異登用するよう劉秀推薦し、容れられた。 劉秀河北渡り更始帝と袂を分つ頃、丁綝は郡国に発しまた、先んじて敵地攻略し河南陳留潁川21県を降した建武1年25年)、光武帝即位すると、丁綝河南太守任命された。この時に光武帝は、功臣たちに望む封土言わせたところ、誰もが豊穣な県を望んだのに対し丁綝出身地の郷に封じられることを願った。ある人がなぜかを問うと、丁綝孫叔敖故事引いた上で「私の功は微々たるもので、郷亭を得るだけでも手厚いです」と答えた。これにより、丁綝定陵県の新安郷侯に封じられ食邑5千石与えられ、後に陵陽侯に転封された。

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于毒」の記事における「事跡」の解説

姓名于毒 時代後漢時代 生没年生年不詳 - 193年初平4年) 字・別号不詳出身地不詳職官黒山軍部将〕 爵位・号等- 陣営所属等独立勢力家族・一族不詳黒山軍(黒山賊)の部将一人。ただし、常山郡張燕指揮にあったとは言い難い初平2年191年)、眭固白繞とともに10大軍率いて挙兵し東郡太守王肱を撃破した。しかし、白繞援軍として出兵した曹操濮陽撃破されたため、曹操新たに東郡太守となった。 翌3年192年)春、于毒曹操頓丘出陣した隙を狙い曹操本拠地であった東武陽攻撃した。ところが曹操は、さらにその裏をかいて于毒根拠地急襲した慌てて于毒引き返したが、途中で曹操軍伏兵遭い眭固友軍於夫羅撃破されるという敗北喫している。 翌4年193年3月袁紹軍所属する魏郡駐屯中の一部部隊反乱起こしたため、于毒はこれと連合した于毒反乱軍は鄴城を陥落させ、魏郡太守栗成殺害したまた、董卓任命した冀州牧の壺寿とも同盟している。 しかし袁紹反撃に出ると、反乱軍一員であった陶升袁紹内応したため于毒らは劣勢となった同年6月于毒朝歌県の鹿場山(鹿腸山とも)の蒼巌谷追い込まれてしまい、5日間の包囲受けた後に敗北し壺寿とともに斬られた。 なお、小説『三国志演義』には登場しない

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孫軽」の記事における「事跡」の解説

姓名孫軽 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳本貫出身地等〔不詳職官黒山軍部将〕→〔不詳爵位- 主君張燕曹操 家族・一族不詳黒山賊の張燕が、常山趙郡中山・上党・河内諸山谷の独立勢力連携した際、その中の一勢力指導者だった孫軽は、王当と共に張燕配下となり、黒山軍の結成加わった以後黒山軍は河北一大勢力形成するようになったその後張燕公孫瓚連合し配下将軍である長を派遣するなどして袁紹対抗した。しかし敗北により、黒山軍は追い詰められるようになっていった。建安9年204年)、曹操軍張遼趙国常山攻略すると、孫軽にも招請がきたため、孫軽は他の黒山軍や独立勢力と共に張遼降伏した。これ以降史書記述見当たらない。 なお孫軽は、張燕配下黒山軍の中では、名前が史書残されている数少ない人物の1人であり、王当・と共に張燕有力な腹心だったことが窺える黒山軍の有力部将としては、他に眭固于毒がいるが、彼らは張燕指揮にあったとは言い難い)。 小説『三国志演義』には登場しない

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金旋」の記事における「事跡」の解説

姓名金旋 時代後漢時代 生没年? - 建安14年209年) 字・別号元機 出身地司隸京兆尹 職官黄門侍郎漢陽太守→議郎→中郎将武陵太守 爵位・号等- 陣営所属等曹操 家族・一族祖先:金日磾子:金禕 『三国志』によると、赤壁の戦い曹操敗れた後、209年劉備荊州南部侵攻し武陵太守だった金旋は、劉度韓玄趙範とともに降伏した一方『三国志』裴松之注引用している『三輔決録注』の「金旋伝」によると、金旋の字は元機、京兆尹出身で、黄門侍郎から漢陽太守となった後に、改め徴召され議郎を経て中郎将となり、武陵太守兼任した。このときに劉備攻め込まれるのは『三国志』同じだが、こちらでは死に追いやられたと書かれているまた、金旋の子金禕である。 『三輔決録注』の「金禕伝」で今日まで残っている部分金旋への言及はないが、文中金禕金日磾の子孫とされているので、金禕の父である金旋も同様ということになる。金禕218年曹操対す反乱失敗し、この時に彼を始めとする一族皆殺しとなって滅亡している。 なお、『三輔決録注』は趙岐の『三輔決録』を西晋の摯虞(中国語版)が補完したものであるが、趙岐201年死んでいるので、『三輔決録』の原文金旋金禕顛末までは書かれていなかったはずである。

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黄射」の記事における「事跡」の解説

劉表配下建安4年199年当時黄射章陵太守地位にあった。そのため黄祖黄射父子同時期に荊州内2郡の太守務めていたことになる。 同年廬江劉勲孫策攻められ西塞山中の流沂城に逃げ込むと、黄祖救援求めてきた。父は、黄射水軍5千人率いさせて援軍差し向けた。しかし、到着前に劉勲孫策撃破され、曹操頼って逃亡したため、黄射退却した孫策そのまま夏口まで攻め寄せて黄祖軍を破り黄祖妻子ある男女7人を捕虜とした。ただ、その後黄射活動しているため、捕虜とされた男女中に黄射含まれていた可能性は低い。 建安6年201年以降になると、黄射数千軍勢率いて柴桑県を攻撃したが、孫権軍徐盛に僅か200人の兵で迎撃された。黄射はこの戦いで大敗二度と柴桑攻め寄せることは無かった建安13年208年)、ついに黄祖孫権攻め滅ぼされた。しかし黄射生死行方不明である。 一方で黄射禰衡友人であり、禰衡を父に紹介している。当初は父も禰衡高く評価していたが、その不遜な言動に耐えられなくなり、ついにこれを処刑した。この時、黄射処刑止めさせようとしたが、その場居合わせていなかったため間に合わなかった。黄祖後悔し禰衡手厚く葬ったという。 なお、小説『三国志演義』には登場しない

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高沛」の記事における「事跡」の解説

劉璋配下高沛楊懐と共に劉璋配下名将であり、強力な軍勢擁し白水関を守備していた(蜀書龐統伝)。また劉璋文書送り劉備荊州撤退させるよう諌めていた。その一方で劉備の英名には服していたという。 建安17年212年)、劉璋要請による張魯討伐のため、すでに招聘されていた劉備葭萌駐屯した。劉備張魯討伐するよりも住民たちの人心収攬勤め益州平定向けて準備整えた龐統劉備に「(劉備が)荊州へ戻るとの知らせ受けた高沛は、楊懐と共に喜んで自分から会いに来るだろうから、そこで2人を捕えればよい」との趣旨の策を進言した。荊州帰還知らせ聞いた高沛は、楊懐とともに拝礼のため訪れたが、捕えられて斬られ、その軍勢奪われてしまった。劉備これを機に成都へ向け進軍開始した蜀書龐統伝)。

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高祚」の記事における「事跡」の解説

姓名高祚 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官不詳爵位・号等- 陣営所属等曹操 家族・一族不詳曹操配下建安20年215年)の漢中征伐張魯討伐)で活躍した同年7月張魯の弟張衛配下楊昂楊任が、陽安関に立て篭って曹操軍迎撃したため曹操当初はこれを陥落させることが出来なかった。そこで軍を引き揚げさせると、張衛らが守備緩めたため、曹操高祚と解𢢼(かい ひょう)に険しい山越えて夜襲させた。高祚らは楊任を斬り、張魯巴中敗走させた。 張衛退却しながらも抵抗続けたが、野生の鹿数千頭が張衛陣営叩き壊す事故曹操軍計略よるものかどうか不明)に見舞われていた。一方高祚張魯攻撃しよう進軍していたが、当初目論見違える形で、張衛軍と夜間遭遇してしまった。しかし、高祚軍鼓打ち鳴らして味方呼び集めると、張衛がこの音を敵襲合図勘違いし戦意喪失したため、高祚は戦うことなく張衛降伏させた。 以後高祚に関する記述史書見当たらないまた、小説『三国志演義』には登場しない

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王方」の記事における「事跡」の解説

姓名王方 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官不詳爵位・号等- 陣営所属等董卓李傕 家族・一族不詳董卓配下『三国志』魏書董卓伝に記述がある。董卓呂布王允らに謀殺された後、董卓残党である李傕郭汜賈詡献策により挙兵した。王方は元董卓軍部曲仲間樊稠李蒙とともに合力し、長安急襲し占拠した以降王方史書見当たらない

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楊定 (後漢)」の記事における「事跡」の解説

当初董卓配下で、董卓暗殺後は王允従った。しかし、王允傲慢な態度怒り胡軫と共に李傕寝返って長安攻め落としている。李傕の下では安西将軍となった興平2年195年)、李傕郭汜対立すると、楊定郭汜側につき、自陣献帝迎え入れようと画策した。しかし、先手打った李傕献帝奪われてしまった。その後張済調停もあって李傕郭汜らは和解した楊定郭汜董承楊奉と共に献帝護衛して洛陽へ向かうことになった同年7月後将軍任命されている。 同年10月洛陽へ向かう途中新豊で、郭汜献帝独占しようと企んだが、楊定楊奉と共に郭汜破り追い出した。さらに華陰まで進むと、その地に駐屯していた段煨献帝物資献上し自分本営招き入れようとした(なお、段煨には献帝政治利用する意図はなかったという)。しかし、段煨不仲だった楊定は、これを阻止するため段煨謀反企んでいるとして攻撃したが、10日経って勝負決しなかった。その後李傕らは段煨支援し郭汜楊定進路遮ってしまったため、楊定進退窮まって荊州逃走した。これ以降史書記述見当たらない小説『三国志演義』には登場しない

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徐栄」の記事における「事跡」の解説

董卓仕えて中郎将となった冀州刺史追われ友人公孫度遼東太守推挙して、後に公孫度自立するきっかけ作っている。 初平元年190年)に袁紹らの反董卓諸侯挙兵すると、徐栄李蒙と共に董卓の命で豫州出撃した。徐栄滎陽県曹操鮑信軍と遭遇したため、これを撃破し衛茲鮑韜鮑信の弟)を討ち取った。ただ、曹操軍懸命に抗戦したのを見ると、徐栄容易に滅ぼせないと見て最終的な決着はつけずに軍を返している。また初平2年191年)、県で反董卓側の孫堅軍遭遇するとこれを撃ち破り潁川太守李旻張安生け捕って、これを煮殺した初平3年192年)、董卓王允謀殺されると、徐栄そのまま王允従ったその後長安攻め上ってきた李傕郭汜の軍を胡軫楊定らと新豊迎撃するが、胡軫楊定の裏切りもあり敗れて戦死した

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宋果」の記事における「事跡」の解説

姓名宋果 時代後漢時代 生没年不詳職官軍官 爵位・号等- 陣営所属等李傕 李傕配下軍官興平2年195年)、同僚である楊奉と共に李傕暗殺謀ったが、事が露顕したため挙兵追い込まれた。この反乱きっかけとなり、李傕勢力衰退していくことになる。以降宋果の名は史書見当たらない小説『三国志演義』にも登場する謀反の原因は、李傕巫女ばかりを褒賞することへの不満であることに設定されその際李傕により処刑されたことになっている。ただし李傕巫女重用したのは史実合致するが、『演義』の内容通り理由楊奉宋果謀反したかは不明である。

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蔡培」の記事における「事跡」の解説

日本留学し早稲田大学法科卒業し法学士称号取得した帰国後は、亜子らが組織した南社所属し衆議院議員にもなった。1928年民国17年1月国民政府交通部秘書となる。6月参事となった1930年民国19年1月交通部政司司長となる。1935年民国24年8月内政部民政司司長に異動した1940年民国29年3月汪兆銘汪精衛)が南京国民政府組織すると、蔡培工商政務次長任命された。6月南京特別市市長任命される翌年12月糧食管理委員会委員長異動した以後行政院政務委員国民政府政務参賛を歴任する1943年民国32年3月駐日大使となった1945年民国34年5月大使から退き帰国して国民政府委員となった日本敗北後9月蔡培漢奸として逮捕され上海監獄収監された。1946年民国35年7月上海高等法院蔡培は「中日親善」を推進したなどの罪により死刑言い渡される上告後の翌年11月に、最高法院無期懲役減刑された。中華人民共和国建国後引き続き上海収監されている。1956年8月医療付される1960年病没享年77

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張範」の記事における「事跡」の解説

姓名張範 時代後漢時代 生没年生年不詳 - 212年建安17年) 字・別号公儀(字) 出身地司隷河内郡修武県 職官議郎兼参丞相軍事 爵位- 主君曹操 家族・一族祖父:張歆 父:張延弟:張承張昭子:張陵 甥:張戩(張承の子董卓専横起きると、張範は弟らと共に揚州逃れた。すると当時揚州支配していた袁術が、礼を尽くして張範招聘ようとしたため、張範病気称して応じず、代わりに張承を赴かせた。しかし張承は、袁術野心諌める発言したため結局不興を買いその下を去っている。 曹操冀州平定すると、使者派遣して張範迎えさせた。しかし張範当時病気だったため、代わりに張承派遣した。まもなく山陽賊軍が、張範の子と甥を捕えてしまったため、張範は自ら賊軍の下に赴いて返還交渉行ない、子を返してもらった。しかし張範自分の子交換で、むしろ幼い甥の方を返して欲しいと願い出たため、賊軍感心して2人とも返している。 曹操荊州平定して帰還する途上張範対面し、彼を議郎兼参丞相軍事任命した以降曹操遠征する時に張範邴原都に留め置き曹丕と共に留守任せている。また曹丕曹操からの指示もあって、張範邴原対し子や孫としての礼をとった。 建安17年212年)、死去した小説『三国志演義』には登場しない

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張裕」の記事における「事跡」の解説

図讖の術に長けており、才能では周羣上回っていた。ある時、当時無名だった鄧芝人相見て70歳過ぎて大将軍となり侯に封ぜられる」と予言したという。歳月流れ鄧芝予言通り70歳越え高齢車騎将軍となった劉璋仕えていた時、劉璋従事として劉備との会談同席した劉備張裕の髭が豊かであったのを見てからかった。それに対し張裕は髭のない劉備あてつける形で「潞涿君」(ひげの薄い人物の意)と言い返した。これにより、劉備張裕恨み覚えることとなった劉備益州占領すると、その家臣になった漢中占領しようとする劉備対し敗北予言した。しかし、劉備曹操軍撤退させ漢中手に入れたので、張裕予言外れたのだと理解した建安の末に、張裕はある人に漢朝滅亡劉備の死を予言したその人密かに訴え出ると、劉備以前からの不遜な態度もあったため激怒し漢中についての発言誤り明らかにさせ張裕処刑しようとした諸葛亮張裕助命嘆願したが、劉備は「美しでも門に咲いていれば刈り取らなければならないと言い結局張裕処刑された。 後に、張裕予言した通り魏が成立して漢は滅び劉備病死した。

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趙累」の記事における「事跡」の解説

劉備配下荊州を守る関羽付いた都督建安24年219年)、関羽孫権軍呂蒙陸遜荊州各地攻め落とされ、麦城に追い込まれた。関羽は、城壁に旗や人形立てて敵軍欺きつつ脱出したものの、兵が四散関羽についてきたのは、子の関平趙累のほか僅か10数騎だった。結局臨沮県章郷(南郡)で孫権軍潘璋朱然退路断たれ、そこで潘璋部下馬忠に、関羽父子と共に捕らえられた。関羽父子その場斬首されたものの、趙累どのように処遇されたか不明である。

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趙浮」の記事における「事跡」の解説

姓名趙浮 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官冀州都督従事 爵位・号等- 陣営所属等韓馥 家族・一族不詳韓馥配下都督従事韓馥命令により、同僚程奐と共に数百艘の船と石弓一万擁して河陽孟津駐屯していた。 初平2年191年)、韓馥袁紹冀州譲ろうとしていると聞いたため、趙浮程奐急遽韓馥の下へ引き返した。その途中朝歌県の清水口袁紹とその軍が駐屯していたため、趙浮程奐夜間軍鼓打ち鳴らしながらその側を通過し袁紹軍威嚇した。趙浮らは韓馥の下に戻ると、袁紹と戦うことを願い出たという。しかし結局韓馥はこれを聞き入れず袁紹冀州譲渡してしまった。 その後史書記述見当たらないまた、小説『三国志演義』には登場しない

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劉馥」の記事における「事跡」の解説

戦乱避け揚州避難していたが、建安年間初めに袁術部将である戚寄・秦翊を説き伏せ軍勢率いて共に曹操帰順した曹操大い喜び劉馥司徒掾とした。 建安5年200年)、曹操置いた揚州刺史厳象が、孫策置いた廬江太守李術殺害される事件起きた。更に廬江袁術残党梅乾雷緒陳蘭らが数万軍勢集め、江・淮の間で郡県を破壊した曹操袁紹対峙していたため、自ら討伐向かえなかったが、劉馥なら東南の事を任せられるとし、厳象後任揚州刺史として派遣した劉馥単身空城合肥乗り込んで政庁設置し雷緒らを懐柔して帰服させた。 数年のうちに恩恵教化大い行なわれ民衆劉馥政治慕い流民江山越えてくるほどで、帰順者は単位のぼった。更に学校立て屯田灌漑事業推進し官吏民衆蓄え得た建安13年208年)、劉馥死去した劉馥築いた堤防蓄積した物資は、孫権合肥攻撃の際に、これを撃退する上で大い貢献した揚州人々は、ますます劉馥追慕したという。 劉馥死後雷緒らは曹操反逆したが、夏侯淵張遼于禁張郃臧覇らに討伐された。 劉馥の子劉靖は、高官歴任して仮節・鎮北将軍都督河北諸軍事に至り死去すると征北将軍・建成郷侯を追贈され景侯と諡された。子の劉熙が後を継いだ

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蔣幹」の記事における「事跡」の解説

『三国志』周瑜伝」注に引く『江表伝』(既に散逸)によると、揚州九江郡現在の江西省九江市)の出身で、立ち居振る舞い優れ優れた弁舌を以て知られていた。そのために、曹操招聘受けて仕官したまた、故郷が近いこともあって孫権に仕える周瑜とは顔見知りであり、その縁から周瑜高く評価する曹操により彼を密かに引き抜くように命ぜられた。蔣幹は供も連れず庶民衣服のまま揚州に赴き、周瑜面会した。しかし、周瑜蔣幹訪問目的を既に察知しており、厚くもてなすと共に自らの孫権への忠誠強調した蔣幹はそれを素直に認めて、何も申し出ることなく去った

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李豊 (蜀漢)」の記事における「事跡」の解説

章武8年230年)、江州駐屯していた李厳は、魏将曹真迎撃するために漢中向かった李豊諸葛亮の上表によって江州都督督軍任命され、父の職務そのまま司った諸葛亮によればこの人事は李厳膨大な権力欲を満たすための止むを得ないものであったとしている。 翌章武9年231年)、李平李厳前年改名)は兵糧輸送失敗した責任諸葛亮転嫁しようとした咎で罷免され李豊従事中郎となった諸葛亮は「李平心から反省し、あなたが長史蔣琬とともに職務専念すれば、復職の道もあるだろう」という趣旨書簡李豊送っている。その後李豊朱提太守まで昇進した小説『三国志演義』にも登場し、魏に寝返っていた孟達が、再び蜀漢帰参ようとしていることを諸葛亮告げた李厳罷免経緯史実通りであるが、この際李豊長史任命されている。 字は不明だが、2010年の中国ドラマ三国志 Three Kingdoms』では「安国」と設定されている。

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公孫範」の記事における「事跡」の解説

姓名公孫範 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳本貫出身地幽州遼西郡令支県 職官勃海太守 爵位・号等- 陣営所属等公孫瓚 家族・一族一族公孫瓚従兄公孫越兄弟?,従兄弟?)公孫続公孫瓚の子初平2年191年)、袁紹陣営周昂『後漢書』公孫瓚によれば周昕)との戦いで公孫越戦死したため、公孫瓚は磐河に出兵して袁紹との対決姿勢強めた袁紹衝突回避しようと、自身有していた勃海太守印綬公孫範授ける。公孫範勃海郡の軍を率いて公孫瓚助け青州徐州黄巾賊撃破し公孫瓚勢力拡大大きく貢献した初平3年192年)、公孫範公孫瓚に従って袁紹軍との界戦い参加した。しかし袁紹軍麴義活躍前に公孫瓚厳綱討ち取られるという大敗喫する公孫範公孫瓚と共に敗軍率い退却したその後史書に名が見当たらず建安4年199年)の公孫瓚滅亡時まで健在であったかどうか不明である。 なお、小説『三国志演義』には登場しない

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事跡

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楊懐」の記事における「事跡」の解説

劉璋配下楊懐高沛と共に名将であり、白水軍督として強力な軍勢擁し白水関を守備していたという(蜀書龐統伝)。また劉璋文書送り劉備荊州撤退させるよう諌めていた。その一方で劉備の英名には服していたという。 建安17年212年)、劉璋要請による張魯討伐のため、既に招聘されていた劉備葭萌駐屯した。劉備張魯討伐するよりも住民たちの人心収攬勤め益州平定向けて準備整えた。まもなく劉備通じていた張松劉璋誅殺される事件起き劉璋益州関所を守る武将たちに文書発して二度と劉備関わり持ってならない通達した。これに激怒した劉備楊懐召し寄せ、その無礼糾弾した上で斬った(蜀書先主伝)。 ただし龐統は「(劉備が)荊州へ戻るとの知らせ受けた楊懐は、高沛と共に喜んで自分から会いに来るに違いないから、そこで2人を捕えればよい」との趣旨の策を進言しており、劉備もそれを容れていることから(蜀書龐統伝)、その誅殺過程記述間で若干整合性欠けるように思われるいずれにしても劉備楊懐高沛軍勢奪い成都向けて進軍したとなっている。 『零陵先賢伝』によれば劉備酒宴楊懐対し帯びていた匕首見せてほしいと頼んだが、楊懐匕首渡される顔色変え楊懐はこの匕首で私を暗殺するつもりだった。」と呼ばわり周り伏せていた手勢楊懐らを縛り上げさせた。楊懐は死ぬ寸前まで劉備罵り続けたという。

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何宗」の記事における「事跡」の解説

広漢郡任安師事して図讖究めた同門杜瓊がいたが、名声何宗の方が勝っていたという。劉璋仕え犍為太守となった劉備益州平定しその牧になると、何宗招聘され従事祭酒任命された。後に図讖引用し劉備皇帝即位促している。劉備即位すると、何宗大鴻臚に任ぜられた。 劉備死後引き続き劉禅仕え建興年間死去した後世史料散逸したため、陳寿『三国志』では立伝されなかった。 楊戯の『季漢輔臣賛においては「明真」(聡明にして誠実)と評価されている。 子の何双は滑稽な話術知られ淳于髠東方朔気風があった。双柏県になったが、若くして死去した小説『三国志演義』では劉備即位の際に名前が挙がるのみである。

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楊善徳」の記事における「事跡」の解説

北洋武備学堂第11期卒業し以後新建陸軍軍歴重ねた1904年光緒30年)に第2鎮第5標標統、1906年光緒32年)に第4鎮第7協協統、1908年光緒34年)に浙江新軍混成協協統、1910年宣統2年)に浙江41協協統、1911年宣統3年)に第4鎮第7協協統と歴任している。 中華民国成立後軍制改組に伴い、第4鎮は第4師に改組され、楊善徳が同師長昇進した1913年民国2年9月江蘇松江鎮守使に就任する1915年民国4年11月上海鎮守使を暫行兼任署理する。まもなく淞滬護軍使兼江蘇軍務会弁に転じた。その翌月袁世凱皇帝即位すると、一等伯に封じられている。 袁世凱死後楊善徳段祺瑞率い安徽派属した1917年民国6年1月浙江督軍任命される。段が大総統黎元洪により国務総理罷免されると、段を擁護するために楊は浙江省独立宣言した同年7月、段の復権と共にそのまま独立取り消している。 1919年民国8年8月13日在任中に病没享年47翌日北京政府から陸軍上将追贈された。

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夏侯令女」の記事における「事跡」の解説

父は魏の皇室と縁の深い夏侯氏出身だが、他の夏侯姓の名を知られ人物との系譜上の連枝関係が不明である。曹爽誅殺された頃には、父は梁国の相となっていたことのみが伝わる。令女の事跡は、『三国志』諸夏侯曹伝」に引用される皇甫謐の『列女伝』に残されている。 令女は曹爽従弟である曹文叔(曹邵の孫、曹真の甥)に嫁いだが、早くに曹文叔を亡くしたその後、彼女に再婚の話が上がると髪を切り下ろし続いて両耳切り落として亡夫のために貞節守ったという。曹爽頼りとしてその下にいたが、後に曹爽誅殺されると、叔父曹氏との縁を断ち切らせたため、令女は実家引き取られた。 父は、令女が若いのに貞操守り続けることを哀れみ、再び再婚話をもちかけた。すると、令女がそれに同意するのような素振り見せたので、家族の者が安心し警戒緩めたが、今度は鼻を削ぎ落とし寝室に籠もってしまった。令女は母に血まみれの状態で発見された。家族説得対し、令女は曹家に対す仁義を貫くことをあくまで主張した。 令女の振る舞い感動した司馬懿は、令女に養子取らせ曹氏継がせることを了承した。これらのことで令女は名声博すことになった。 この項目は、中国の歴史関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者求めています(P:中国/P:歴史/P:歴史学/PJ中国史)。

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李歴」の記事における「事跡」の解説

姓名李歴 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官冀州治中 爵位・号等- 陣営所属等韓馥 家族・一族不詳冀州韓馥配下の治中従事初平2年191年)、韓馥袁紹冀州入り打診されると、李歴長史耿武別駕閔純騎都尉沮授と共にそれを拒否するよう諌めたが、韓馥聞かず袁紹迎え入れてしまう。その後李歴史書登場しないが、少なくとも耿武閔純行動を共にしたとは書かれておらず、沮授のように袁紹仕官した記録も無い。 なお、李歴小説『三国志演義』登場しない

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夏侯蘭」の記事における「事跡」の解説

『三国志』本文には記述がない。蜀志趙雲伝」において裴松之注釈引用した趙雲別伝』にのみ記述がある人物である。 それによると夏侯蘭は、曹操軍夏侯惇部下であったとされる同姓だが、連枝関係等は不明)。夏侯惇荊州劉表頼っていた劉備攻撃することになると、夏侯蘭もこれに従軍した。しかし夏侯惇軍が劉備軍博望敗北したため、夏侯蘭趙雲生け捕りにされた(博望坡の戦い)。 しかし夏侯蘭趙雲同郷で、若い頃からの知り合いであったといわれる。そのため趙雲は、夏侯蘭法律明るいことを活かして用いるよう、劉備進言した。以後夏侯蘭は軍正として任用されることになった。しかし趙雲夏侯蘭降将であるということ考えその後自分から夏侯蘭に近づこうとはしなかったという。 小説『三国志演義』でも、夏侯蘭夏侯惇副将として博望向かっている。諸葛亮の策にはまって夏侯惇大敗した際、夏侯蘭韓浩と共に糧秣守ろうとする。しかしその途中で張飛と出くわしてしまい、夏侯蘭は数合もしないうちにその一撃を受け、馬上から突き落とされている。

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公孫続」の記事における「事跡」の解説

姓名公孫続 時代後漢時代 生没年生年不詳 - 199年建安4年) 字・別号不詳本貫出身地幽州遼西郡令支県 職官不詳爵位- 主君公孫瓚 家族・一族父:公孫瓚一族公孫越公孫瓚従弟公孫範公孫瓚従弟建安3年198年)、父が袁紹戦っていたとき、その命により公孫続張燕のもとに送られ盟約結んだ。翌建安4年199年)、張燕公孫続10万の兵を率いて易京城外救援戻り公孫瓚指示袁紹に対して挟撃策を採ろうとしていた。しかし袁紹挟撃策を見抜き伏兵設けて公孫瓚張燕撃破した同年易京陥落し公孫瓚自害し公孫続も屠各(南匈奴各種支系?)によって殺害されてしまった。 なお、小説『三国志演義』には登場しない

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蕭建」の記事における「事跡」の解説

姓名蕭建 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳本貫出身地徐州東海郡 職官琅邪国爵位・号等- 陣営所属等独立勢力〕→呂布 家族・一族不詳琅邪国相として莒城を統治していた独立勢力指導者である。建安2年197年)、徐州侵攻してきた袁術呂布破った後も自立維持していたが、呂布から降伏勧告の手紙を受け取り服従する。ところが間もなく開陽独立勢力指導者臧覇攻撃を受け、蕭建は莒城を喪失した配下加わった蕭建攻められ怒った呂布は、臧覇懲罰加えようと莒攻撃目論む腹心高順は、「座して畏服させるべきで、戦え負けた時に名を損なう」と進言して諌めたが、呂布は聞かなかった。結局臧覇は莒で善戦して呂布撃退し、後に両者和解している。 その後蕭建行方不明である。なお、蕭建小説『三国志演義』登場しない

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鄧方」の記事における「事跡」の解説

鄧方に関する史料は、陳寿『三国志』編纂した頃には散逸してしまっていたため、同蜀書では立伝されていない楊戯の『季漢輔臣賛』に取り上げられている。 荊州従事として劉備の入蜀随従し、益州平定後は犍為属国都尉任命された。犍為属国朱提郡となるのに伴い朱提太守となったその後安遠将軍庲降都督任命され南昌県駐屯した。章武2年222年)、死去庲降都督後任には李恢就いた李恢伝)。 『季漢輔臣賛』では、鄧方人物像について「強い意志持ち真に立派で節操堅く、財を軽んじて果断にして勇ましく艱難惑わず少数をもって多数防ぎ異域において職務全うした」と記述している。 小説『三国志演義』には登場しない

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国淵」の記事における「事跡」の解説

姓名国淵 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号子尼(字) 本貫出身地青州楽安国益県 職官司空掾属→居府長史魏郡太守太僕 爵位- 陣営所属等曹操 家族・一族子:国泰 最初鄭玄師事していたが、動乱起きると邴原管寧と共に遼東逃れている。後に故郷へ戻ると、曹操から司空掾属として招聘された。曹操国淵屯田事務担当させたところ、5年糧食備蓄について好成績をあげ、民衆競って労働勤しむようになったという。 建安16年211年)、曹操関中征伐に向かうと、国淵は居府長史任命され留守事務統括した。後に、河間郡で田銀・伯の反乱鎮圧されると、国淵は「首謀者以外の残党赦すべきだ」と進言した。曹操もこれを容れている。また、田銀の反乱領域内の反乱であり、他者に誇るものではないとして討ち取った首級実数通り報告している(当時は、公文書実数10倍を記すのが慣習であった)。曹操はこれを誉め国淵魏郡太守任命している。 その後国淵太僕昇進し在職中死去した没年不明だが、曹丕即位した黄初元年220年)までには世を去っている。 なお、小説『三国志演義』には登場しない

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凌陞」の記事における「事跡」の解説

フルンボイル副都となっていた父の貴福の下で活動し副都公署左右両庁会弁、左庁庁長歴任するまた、奉天派一員として東三省保安総司令部蒙古宣撫使顧問務めた1931年民国20年10月には、立法院立法委員選出されている。 満州事変勃発すると、貴福満蒙独立軍西路総司令として満州国建国支援した1932年民国21年/大同元年2月16日凌陞建国準備のための東北行政委員会委員に任ぜられている。3月9日正式に満州国成立し貴福元勲1人として参議参議任命された。同月29日凌陞興安北分省省長(1934年10月興安北省改組)に任命され凌陞息子溥儀の妹の婚約まで成立した。しかし、凌陞次第関東軍専横に不満を抱くようになっていく。 1935年康徳2年)に、満州国モンゴル人民共和国国境問題を扱う満州里会議開かれると、満州国代表団首席代表を務めた。後の軍法会議判決によれば、この満州里会議契機モンゴル要人接触しオラホドガ事件などに際して満州国軍日本軍軍事機密伝達する内通行為開始した。さらに、モンゴル側から密かに武器の提供を受けた田中克彦によればモンゴル発表された研究でも裏付けがとれることから、内通冤罪ではなく事実であった思われる1936年康徳3年3月凌陞ハイラル関東軍憲兵隊逮捕された。弟で興安省第1警備軍参謀長の福齢や、義弟で省警務庁長の春徳ら11人も、内通行為共犯者として逮捕された。凌陞らは激し拷問による取調べの末に軍法会議かけられる満州国軍政部は4月21日凌陞ら4人の死刑判決発表し24日午後2時 に新京郊外南嶺刑場で4人の死刑執行した享年51。翌25日貴福事件の責任をとって参議辞任した

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秦宜禄」の記事における「事跡」の解説

呂布配下建安3年198年)、曹操下邳城に立て籠もる呂布包囲すると、秦宜禄呂布使者として袁術の下へ救援要請赴いたが、その先袁術によって滅ぼされた陳愍王の劉寵明帝後裔)の娘と結婚させられた。なお、秦宜禄には杜氏という妻がおり下邳に留まっていたが、呂布滅亡後曹操側室となった秦宜禄呂布滅亡する曹操降り沛郡県長任命された。建安4年199年)に劉備が小沛で曹操反旗を翻すと、その腹心張飛秦宜禄の下にやってきて「妻を奪い取った男に仕えるのは愚かなことだ。私について来い」と勧誘した秦宜禄最初受諾したが、すぐに後悔して張飛に「帰りたい」と願い出たため、怒った張飛殺害されてしまった。 子の秦朗生母曹操側室となり、その養子となった。後に魏の権臣となった。 なお、小説『三国志演義』には登場しない

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蔡陽」の記事における「事跡」の解説

曹操配下建安6年201年)、袁紹の命により、劉備汝南攻めると、賊の龔都がこれに呼応して数千軍勢率いた蔡陽曹操の命により汝南進軍し劉備らと戦った敗北し殺されてしまった。このため曹操が自ら征討ようとすると、それを聞いた劉備劉表頼って逃走し、龔都の軍勢離散してしまった。

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秦朗」の記事における「事跡」の解説

母は、曹操呂布滅ぼした際にその側室として迎え入れられた。父も張飛殺害されたため、秦朗母について曹操養子として養育され、同じ養子何晏とともに寵愛された。 秦朗諸侯の間を遊び歩いたが、曹操曹丕文帝)の両時代において罰せられることは無かった曹叡明帝)が即位してからは驃騎将軍給事中となり、曹叡外出する度に随従した。曹叡犯罪摘発好み些細な罪でも死刑処すことが多かった秦朗はこれを諌めることがなく、また有為な人材推薦することもしなかった。しかし、かえって曹叡秦朗信愛し、幼名呼んで何度相談した。また褒美幾度か与え秦朗のために大邸宅を建てた当時の人々誰もが秦朗無能者であることを知っていたが、曹叡親しかったために賄賂を送る者が多く秦朗の富は公侯匹敵するのだったという。このため魏略』では、秦朗孔桂と共に「佞倖伝」に収録されている。 青龍元年233年)、鮮卑大人軻比能歩度根が魏の将軍であった尚・董弼を楼煩戦死させたため、秦朗中軍率いてこれを討伐したところ、鮮卑軍は砂漠北へ逃れた。冬10月歩度根配下部族大人である戴胡阿泥らが并州訪れて降伏したため、秦朗帰還した。 翌2年234年)、蜀漢諸葛亮涼州攻め寄せると、秦朗曹叡の命で征蜀護軍として2の兵を与えられ司馬懿援軍として派遣された(五丈原の戦い)。 秦朗は、曹宇夏侯献曹爽曹肇らと並んで政治主導した。しかし景初2年237年12月逝去間際曹叡対し劉放孫資秦朗態度悪さについて進言讒言したため秦朗曹宇夏侯献曹肇と共に罷免されてしまった。この時、秦朗ら4人は互いに涙を流し合って帰途についたという。 以後秦朗の名は史書見当たらない晋の時代、子が家督継いだ

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孫越崎」の記事における「事跡」の解説

紹興簡易師範学校上海復旦公学中学部経て1916年民国5年)に天津北洋大学采鉱科に入学した1919年民国8年)の五四運動に際しては、天津学生聯合会の発起加わり学生代表の1人として北京政府交渉している。このため大学から除籍されてしまい、北京大学采鉱冶金系に転入した。後にアメリカ留学しスタンフォード大学コロンビア大学で、やはり冶金学んでいる。 1932年民国21年)、孫越崎翁文灝推薦により国民政府国防設計委員会配属された。以後陝西省油鉱(日本語では「油井」の意)探勘処処長、河南省焦作中福煤鉱(日本語では「炭鉱」の意)公司工程師・総経理湘潭煤鉱公司総経理などを歴任した日中戦争抗日戦争)が勃発する中福煤鉱の大部分設備四川省移送している。四川では天府嘉陽威遠石燕の各煤鉱公司総経理務める。1940年民国29年1月経済部資源委員会甘粛玉門油鉱総経理となり、「煤油大王」の異名をとることになった1945年民国34年5月には、中国国民党第6期中央委員候補選出されている。 戦後1946年民国35年)、孫越崎経済部東北特派員任命され、旧満州国支配地域工業・鉱業会社接収した同年資源委員会副委員長兼(資源委員会直属の)業務委員会主任委員に任ぜられた。1948年民国37年)、資源委員会委員長、行政院政務委員昇進している。翌1949年民国38年3月経済部部長任命されたが、6月早くも辞任して香港に移る。11月には北京向かい中華人民共和国への参加意思示した1950年中国国民党革命委員会(民革)に加入している。 中華人民共和国では、孫越崎政務院財経委員会計画局副局長唐山開灤煤鉱総管理処副主任国務院中外合資進出口(日本語で「輸出入」の意)管理委員会対外経済貿易部特邀顧問煤炭工業顧問中国統配煤鉱総公司顧問民生実業公司董事長、中美国工程公司咨詢委員会名誉主任中国和平統一促進会長などを務めた。民革では、河北省主任委員中央常務委員第6期中央副主席第7期中央監察委員会主席歴任している。また、中国人民政治協商会議全国委員会委員(第2~4期)、同常務委員(第5~7期)も務めた1995年12月9日北京市にて病没享年103(満102歳)。

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种輯」の記事における「事跡」の解説

朝廷仕え侍中となった董卓による長安遷都後に、种輯荀攸と共に董卓暗殺計画謀ったが、事前に発覚して失敗終わった興平2年195年)、种輯献帝洛陽帰還行に随行した。その途中華陰統治していた段煨一行出迎えた。この時、段煨献帝自陣迎え入れようと考えた。しかし段煨と元々仲が悪かった楊定反対したため种輯友人である楊定反対論支持した。なお段煨には、献帝独占する野心無かったといわれている。 建安5年200年)、長水校尉に遷っていた种輯は、董承劉備と共に曹操誅殺クーデター参加した。しかし事前に発覚し种輯董承とともに処刑されてしまった。 小説『三国志演義』でもほぼ同様の内容だが、董卓暗殺未遂事件段煨との出来事に関して触れられていない

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段煨」の記事における「事跡」の解説

はじめ董卓仕えた初平2年191年)、反董卓連合孫堅胡軫呂布らが敗れ華雄戦死した孫堅進攻備えるため、段煨董卓の命により中郎将として華陰駐屯した。段煨による華陰統治は、農業勤し略奪行わないなど堅実なものであった董卓死後数年渡り華陰に留まっていと見られる興平2年195年)冬、李傕郭汜の乱を避けて献帝長安より華陰避難してくると、寧輯将軍となっていた段煨衣服などを提供して供応し、自陣迎えようとした。しかし、献帝護衛していた楊定とは不仲であり、その攻撃受けたため果たせなかった。ただこの間も、段煨は自らに私心はないことを示すために、献帝百官への奉仕を怠らなかった。その後李傕郭汜段煨救援して楊定挟撃したため楊定荊州へと敗走した。 またこの頃李傕配下であった賈詡は、同郡出身縁故から段煨頼ってきている。段煨賈詡の才を恐れながら優遇したが、賈詡その内心を見抜いて、まもなく張繡の下へと去った。しかし、残され賈詡家族段煨丁重に扱っている。 建安3年198年)、謁者僕射裴茂李傕討伐に向かうと、段煨はその指揮下に入り李傕誅滅した。その後は、入朝して大鴻臚光禄大夫となり、建安14年209年)に死去した

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楊秋」の記事における「事跡」の解説

馬超韓遂曹操敵対したとき、共に蜂起した軍閥一人として名前が見える。建安年間初め頃から、何度部下孔桂曹操の下へ派遣した形跡がある。 211年10月夏侯淵張郃降伏し以前と同じ爵位与えられた。 その後反乱の鎮圧などで功績挙げ、討寇将軍特進昇進し臨涇侯に封じられた。曹丕献帝より禅譲を受け魏の時代になり、郭淮曹真長史として征羌護軍兼ねると、楊秋張郃と共にその監督下に入ったという。 小説『三国志演義』では韓遂の「手下八部」の武将一人として登場する馬超韓遂仲違いした際には、韓遂降参使者として曹操の下に参じ列侯に採り立てられている。なお、演義登場する手下八部」(他の7名は侯選張横程銀成宜李堪馬玩梁興)は、正史にその名が登場する涼州独立した軍閥の者達である。 典拠管理 VIAF: 263386009 WorldCat Identities: lccn-n82252804

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孔桂」の記事における「事跡」の解説

人に媚びへつらう人柄だった。建安年間初め頃から、将軍楊秋部下として曹操の下へ派遣されており、曹操からは騎都尉任命された。 曹操に非常に愛されており、孔桂はいつもそのそばに付き従っていた。曹操機嫌窺い適切なときを見計らい小事について多く進言したので、そのうち多く用いられ褒美を度々もらっていた。 曹操寵愛ののちも曹丕諸侯孔桂親交結んだ曹操の後継問題曹丕旗色悪くなる曹植について、曹丕おろそかにした。曹丕即位したのち、黄初年間220年 - 226年)には附馬都尉任命されたが、西域から賄賂受け取り人配置有利なようにした。このことで罪を問われ拷問のすえ死んだ

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蔡邕」の記事における「事跡」の解説

若い頃から博学で、太傅胡広師事した。辞章・算術天文好み音律精通した孝心篤い人柄で、母が病を患ってから3年間、寒暑関わり無く自ら看病し、母が死ぬと庵を塚の側に立てた彼の動静は礼に適っていたため、兎が室の傍に群れ馴染み、木が繁茂した遠近の者達はこれを不思議に思い多くの者が往来しながら見入った。また叔父従弟同居し3世代で財産分けて暮らしたため、郷党同胞達)からの義を高めることとなった桓帝時代蔡邕の鼓琴の腕前聞いた中常侍らが、桓帝報告して召し寄せよとした事があったが、蔡邕旅程途中で病と称して引き返し交際絶って古文研究して暮らした建寧3年170年)、橋玄から司徒府へ招聘された。蔡邕橋玄から甚だ敬待をうけ、やがて河平県長となった後、召されて郎中任命され、議郎へ昇進した当時儒学経典成立から長い年月経っていたために正し文章失われ俗世間には誤りの多い文章流布していると見なされていた。熹平4年175年)、蔡邕五官中郎将の堂谿典・楊賜馬日磾、議郎の張馴・韓説太史令の単颺らと共に六経文字校訂するよう奏上した。結果的に霊帝から詔許が下され、この作業蔡邕自書によって、洛陽太学門外46、総字20万字に及ぶ石碑として立てられた。これは熹平石経として現在でも残石が保管されている。 熹平6年177年)、霊帝書画辞賦良くする者たちを高位就けようとすると、蔡邕政治を執らせる事に反対して、時宜合わせ経学通じた文武の才を用いるように上表した(陳政要七事疏)。しかしこれは省みられず、光和元年178年)に都門学が置かれるになった同年宦官専横厳しく直諌する封事奉ったが、これが曹節漏洩したため宦官恨み買ってしまい、程璜の誣告によって叔父の蔡質ととも獄に下されて棄市となった蔡邕無実憐れんで霊帝訴え出た中常侍呂強おかげで一等減じられて家属共々朔方郡徒刑となった翌年大赦受けたが、郷里で再び宦官親族揉め事起こしたため、揚州亡命した滞在12年にも及んだ中平6年189年)、霊帝崩御に伴い朝廷実権掌握した董卓は、蔡邕高名聞いて招聘した。一度は病と称して断ったものの、激怒した董卓逆らえ洛陽へ入り祭酒任じられた。まもなく高第推挙され侍御史・持書御史・尚書と僅か3日の間に累進した。その後巴郡太守転任しようとしたところを留められて侍中となり、初平元年190年)には左中郎将任され董卓王匡討伐従軍して軍の指揮執り功績挙げた献帝長安遷都に従って高陽郷侯に封じられた。董卓蔡邕才学重んじて厚く待遇したものの、独り善がりであったため彼の進言に従う事は少なかった蔡邕はこれを恨めしく思い、また董卓終わり良くないことを予感兗州逃れようとも考えた従弟相談したところ「君の容貌常人異なり、道を行くたびに観る者が集まって来ます。これでどうして己を隠し、難を避けられましょうか」と諌められたため、計画中止したという。 初平3年192年)、董卓王允によって誅殺されると、不意の事に蔡邕慨嘆し、その顔色変わった。それを見た王允は、蔡邕対し董卓は国の大賊である。君は王臣となり、憤り同じくすべきところだ。それなのに私遇を懐かし大節忘れたのか。今、天が罪を誅したというのに、かえってこれを痛ましく思うとは、まさか君も董卓同じく逆賊ではあるまいな」と叱りつけて、即刻廷尉収監させた。蔡邕謝罪した上で黥首(額にいれずみ入れる)・刖足(あしきり)の刑によって死罪代替し、漢史の編纂続けさせて欲しいと頼んだ太尉馬日磾はじめとして士大夫多く王允諌めたが、王允は「昔、武帝司馬遷を殺さなかったばかりに、誹謗の書が世に流れ事となった。幼主左右佞臣に筆を執らせるべきではない。聖徳に益無く、また私がその誹謗を被る元となるだろう」と答えたその後王允悔いて容疑取り下げようとしたが間に合わず蔡邕獄死することになった享年61紳士諸儒は涙を流さない者が無く、また北海国鄭玄はこの報を聞き「漢世の事、誰と共に正せばよいのだ」と慨嘆した。兗州陳留県では、皆画像描いて蔡邕讃頌した。 その文芸は、詩・賦・碑・誄・銘・贊・連珠・箴・弔・論議に及び、『独断』・『勧学』・『釈誨』・『叙楽』・『女訓』・『篆芸』といった著作知られる。他に祝文・章表・書記など、およそ104篇が世に伝えられたと『後漢書』蔡邕伝は記す。蔡邕収集した漢史の史料は、李傕の乱によって多く失われた。元々は東観において、盧植馬日磾と共に行われていたこの『漢記』の撰補は、このような戦乱関係者死去などのために中断されたが、建安年間入って楊彪の手により最後編纂が行われ、『東観漢記』として知られるになった後漢末文化人として有名な阮瑀王粲路粋などは彼の門下生である。

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葉蓬」の記事における「事跡」の解説

1917年民国6年)、保定陸軍軍官学校入学する1919年民国8年)、砲兵科第6期卒業した1930年民国19年)、武漢警備司令部少将参謀長昇進している。1932年民国21年)、湖北警備旅長兼武漢警備司令就任した1934年民国23年4月武漢市公安局局長兼任している。翌年10月南京異動して中華民族復興社加入し国民政府鉄道部鉄道隊警察総局局長任命された。しかし、張群暗殺謀ったとして、まもなく罷免された。1936年民国25年3月陸軍中将昇進した1939年民国28年8月汪兆銘汪精衛)に合流して、その下で中国国民党中央委員任命された。上海中央陸軍訓練教育長に任ぜられ、年末には武漢綏靖公署上将主任となる。翌年3月正式に南京国民政府成立すると、中央政治委員会委員軍事委員委員兼任した8月中央陸軍軍官学校武漢分校教育長任命されている。1941年民国29年11月陸軍29師長兼任した翌年6月軍事委員参謀本部参謀総長に任ぜられ、8月には陸軍編練監督にもなる。1943年民国32年1月、最高国会議委員となる。4月陸軍部部長に任ぜられた。1945年民国34年3月湖北省省長と武漢綏靖主任公署主任兼ねる。さらに新国運動促進委員会委員となった日本敗北後8月、一旦は蒋介石再任用され、国民政府軍委員会第7路軍総指揮となっている。しかし10月に、結局は漢奸として逮捕されてしまった。 1947年民国36年9月18日葉蓬は、南京処刑された。享年51

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潘昌煦」の記事における「事跡」の解説

1898年光緒24年)、戊戌進士となる。日本留学後翰林院編修国史館協修、編査処協修、武英殿協修を歴任した中華民国成立後には、法制局参事となった1915年民国4年11月司法官懲戒委員会委員となり、翌月大理院推事兼庭長に異動している。1922年民国11年5月代理大理院長を兼ねたその後大総統顧問異動し、さらに私立燕京大学法律教授となる。 1929年民国18年)、国立清華大学政治講師となった1933年民国22年)、帰郷している。日中戦争抗日戦争勃発後は、張一麐とともに難民救済会を組織している。 中華人民共和国成立後大陸に留まっている。蘇州市人民代表会議代表を経て1953年第1期全国人民代表大会代表に当選した1958年1月13日蘇州市現在の姑蘇区)にて病没享年82

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劉義遜」の記事における「事跡」の解説

姓名劉義時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳〕※ただし本文参照 出身地不詳職官太守顧問 爵位・号等- 陣営所属等孔融 家族・一族不詳北海太守孔融配下『三国志』魏書崔琰伝注に引く『九州春秋』にのみ名が見える。 劉義遜は同僚左丞祖と共に孔融配下では清廉な俊才との評判があった。しかし孔融は、2人顧問の座につけるだけで要職につけず、しかも2人とも民からの声望が厚いため、他国に送るわけにはいかない考えていた。代わりに過激な議論はするが才能乏し王子法、劉孔慈が、孔融腹心として寵愛された。 何の展望策略無く孤立を保つ孔融を、左丞祖諌めたが、かえって怒り触れて誅殺されてしまう。これを見た劉義遜は、失望余り逃亡した結局建安4年199年)頃になって孔融袁紹の子袁譚攻撃受けて敗北している。 なお、劉義遜は小説『三国志演義』登場しない

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鄭蘋茹」の記事における「事跡」の解説

1918年民国7年)、浙江省蘭渓市生まれた。父・鄭越原孫文慕って中国同盟会参加した事があり、母は日本人だったこともあって、早くから日本に対して親近感抱いていた。1932年1934年にかけて上海明光中学(民光中学とする説もある)高等部在籍。後に自身運命決定づける丁黙邨同校代表理事であった時期があり、このときに二人出会っていた可能性がある。 美貌しなやかな肢体持っていたと言われ上海グラビア雑誌良友画報』の表紙飾った事もあった。やがて自身容貌活かして抗日運動身を投じ、その過程近衛文隆近衛文麿元首相長男)と知り合った。しかし、1939年6月4日近衛暗殺未遂事件があり、危険を察知した大日本帝国陸軍幹部近衛日本送還その後満州へ召集令状出された)し、二人の関係終わったその後重慶国民政府特務機関中央統計局から重大な命令が下る。それは、汪兆銘政権傘下の特工総部(ジェスフィールド76号)の指導者となっていた丁黙邨暗殺せよというものであった。鄭は丁に近づき1939年12月21日、丁の暗殺計画実行する失敗終わった。そして特工総部に出頭し、そこで構成員之江らに捕らえられ監禁された。 1940年2月春節前、らによって上海郊外の滬西区中山路連行され銃殺された。享年22没後中央統計局後身である中華民国法務部調査局より殉職烈士認定され、また彼女の悲劇数々ロマンスは、多く小説・映画モデルとなっている。

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褚玉璞」の記事における「事跡」の解説

青年期はは緑林の徒として活動した最初安徽都督柏文尉の軍に加えられている。しかし、1913年民国2年)に張宗昌配下転じ、褚玉璞は営長となる。1917年民国6年)、張が馮国璋から第6混成旅旅長に任命されると、褚はやはり営長として動員された。同年に張が暫編陸軍第1師師長となると、褚は団長昇進している。 1921年民国10年)に張宗昌江西省で軍を喪失しても、褚玉璞はこれに従い、ともに奉天派加わった以後第3混成旅第50団団長、第28混成旅旅長を歴任した1926年民国15年)、褚は直聯軍第1軍軍長兼前敵総指揮任命され馮玉祥国民軍撃破している。この時の功績により、直隷軍務督弁兼直隷省長に任命された。しかし、1928年民国17年)に奉天派中国国民党北伐軍敗北すると、張と褚は下野したその後も、褚玉璞は張宗昌のために、山東省膠東一帯活動し再起図った。しかし1931年民国20年)、かつての部下であった国民革命軍21師長兼山東省政府委員劉珍年に膠東捕縛され生埋めの刑に処された。享年45

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劉夢庚」の記事における「事跡」の解説

陸軍軍医学校卒業以後直隷督軍軍医課長保定陸軍病院院長、直三省巡閲使署軍医総監などを歴任した1919年民国8年)、天津造幣廠廠長に就任する1922年民国11年5月京兆尹就任し1924年民国13年11月までこの地位にあった北京政府においてはこの他にも、井陘鉱務局総弁京畿司令部副司令、密雲副都統、陸軍26師駐京弁事処処長、直隷督軍参議などを歴任している。また、輯威将軍陸軍上将の位も授与された。 1934年康徳元年11月満州国熱河省省長に任ぜられる。1937年康徳4年7月1日付で退官した。以後劉夢庚行方不詳である。

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汪大燮」の記事における「事跡」の解説

挙人となり、清朝で各職をつとめた後、1902年光緒28年11月日本留学生の監督となる。1905年光緒31年7月、出使英国大臣イギリス公使となった翌年外務部右侍郎昇進し、さらに考察憲政大臣としてイギリスドイツなどを視察した1910年宣統2年)、駐日公使となる。 中華民国成立後1912年民国2年9月汪大燮は、熊希齢内閣教育総長就任したあわせて進歩党加入している。翌年3月平政院長となり、5月参政副院長転じる1916年民国5年6月段祺瑞内閣交通総長つとめたが、翌月辞任する1917年民国6年2月特使として日本に赴き、翌月大正天皇政府代表して勲章授与した張勲復辟失敗後の同年7月段祺瑞再度内閣組織し汪大燮外務総長就任した11月22日に段が国務総理辞職すると、30日まで、汪が代理総理として臨時内閣組織している。1918年民国7年12月総統徐世昌の下で外交委員会委員長をつとめ、翌年には国民外交協会暫定代理理事長就任した。さらに、ヴェルサイユ条約に関する案件審議するための外交委員会徐により設置されると、汪が委員長となった1920年民国9年1月欧州参戦に功があったとして、北京政府から勲三位授与されている。同年10月には、中国紅十字会赤十字会長就任したワシントン会議対応に関与した後、1922年民国11年11月汪大燮臨時国務総理財務総長となった。しかし、1か月持たず辞任したその後も、外交赤十字事業等に従事している。1929年民国18年)、病没享年71

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董鴻禕」の記事における「事跡」の解説

1900年光緒26年)とその翌年に、庚子辛丑併科挙人となる。学部候補主事となった後、日本留学して早稲田大学政治・経済学んだ卒業後に蔡元培知り合い中国同盟会加入している。 中華民国成立後北京政府教育総長となった蔡元培の下で、董禕は教育部秘書長就任する1912年民国元年7月教育部次長昇進した翌年5月趙秉鈞内閣代理教育総長となる。段祺瑞臨時内閣経て熊希齢内閣9月まで、その地位にあった1914年民国3年5月には、平政院庭長に就任している。 1916年民国5年3月病没享年39

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陳振先」の記事における「事跡」の解説

清末は駐米公使館書記官をつとめる。1907年光緒33年)、カリフォルニア大学卒業した帰国後は、廷試を受け、農科進士となる。1909年宣統元年)、翰林院編修となる。後に奉天省農事試験場監督などを歴任しまた、考察憲政大臣随員つとめた中華民国成立後1912年民国元年5月北京政府農林次長となる。7月には陸徴祥内閣宋教仁後任として農林総長昇進した。続く趙秉鈞内閣でも留任し翌年3月、署理教育総長兼任している。熊希齢内閣成立後9月陳振先閣僚辞任し総統府顧問転じた1918年民国7年)、安福国会参議員となる。1927年民国16年)には北京税務学校校長経済教授となった北京政府崩壊後実業活動従事しまた、清華大学北京大学教授つとめた1935年民国24年)、国民政府軍事委員委員長四川行営第2庁庁長起用された。翌年実業農本総経理異動する。さらに湖北省武昌市金水農場場長兼任した。 しかし1938年民国27年2月23日陳振先金水農場農民暴動巻き込まれ襲撃受けて殺害された。享年63(満62歳)。

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モクテスマ2世」の記事における「事跡」の解説

1502年テノチティトランにおいて35歳王位についた彼は、叔父前王アウィツォトル採用した官僚代え由緒ある家系の者を登用した。メシカ族1428年以来、同言語群異民族の国であるテスココ・トラコパン(タクバ)と三国同盟結んでいた。 1504年モクテスマ2世はチャルコにあったテスココ領地占領し1516年に甥のカカマツィンをテスココ君主据え中央集権化図った1519年エルナン・コルテスコンキスタドールアステカ訪れたこの年は、アステカの暦で「一の葦の年」と呼ばれメシカ族にとっては生贄習慣を嫌う神であるケツァルコアトル羽毛)が帰還する年でもあった。この出来事10年ほど前からアステカでは不吉な予兆見られており、北の夜空彗星現れたり、火山爆発しテスココの湖が煮えたぎるなどの現象占星術師らによって、厄災が起こる前触れ判断された。この占星術師たちは悪い言葉運んだものを殺せば厄を防げるという観念からモクテスマ2世によって縛り首にされたとも、餓死させられたとも言われるテスココ領主であり、モクテスマ2世助言であったネサワルピリも悪夢から厄災予言している。 1519年11月8日モクテスマ2世はカカマツィンの兄弟でイスタパルパ領主クイトラワク案内テノチティトランにやってきたコルテス初め出会った。この時、コルテスモクテスマ2世抱擁しようとしたが、同席していたカカマツィンとクイトラワク止められたという。コルテスは首にかけていたガラス玉外してモクテスマ2世の首にかけ、モクテスマ2世巻貝の殻でできた首飾りコルテスにかけたという。モクテスマ2世は、それまでスペイン人呪術をかけるため妖術師コルテス一団送り込んだが、いずれも効果がなかったため、コルテスケツァルコアトル神の使いもしくはそのもの)と信じていた。コルテスメシカ族最高神崇める存在であり、生贄要求するウィツィロポチトリ(南の蘇生した戦士)とテスカトリポカ噴煙の鏡)の神殿案内され、そこで生贄から取り出され心臓と血で汚れた祭壇見せられた。また、モクテスマ2世ケツァルコアトルから譲り受けた王位コルテス返還すると言ったという。しかし、コルテスは「あなたのあがめる偶像は、我々が悪魔とみなす存在である。あなたの神殿聖母マリアの像を建てさせてほしい」と語りモクテスマ2世困惑させ、彼はそれを拒否した。するとコルテスはいくつかの神像階段から落として破壊した11月14日コルテスは元々トトナコ人の土地であるベラクルス築いた都市対し税金納めないトトナコ人を匿っているとしてメシカ人総督クアウポポカが攻撃したことを口実に、モクテスマ2世幽閉しその後有力者となったカカマツィンを、反乱企てたとして捕縛したコルテスは、モクテスマ2世により1519年宣戦され、三国同盟反感抱いていたトラスカラや、モクテスマ1世時代侵略され恨みを持つチャルコ、さらにテパネなどを味方につけており、アステカ王国征服する可能性見出していた。そして1520年5月16日テノチティトラン神殿執り行われていたテスカトリポカ祭礼のため一堂集まった最高位神官貴族を、コルテス部下アルバラード虐殺したという。この襲撃自体にはコルテスは関わっておらず、コルテスのまったく知らないところで行われたためコルテス激怒したという。この事件以降暴徒化したメシカ族抑えるためコルテス6月29日モクテスマ2世神父派遣し攻撃者説得するよう要求したモクテスマ2世アステカ兵士前に立ち、攻撃中止訴えた。だが、アステカ軍の代表は、モクテスマ2世前に進み出て、涙を流しながらこう述べた。 我々はもう新しい王を選んでしまいました。我々は軍神に、貴方の安全を毎日祈願してます。だが、我々は戦いの手緩める事は出来ません。然し、もし神々御心通りこの戦い終わればその時こそ、貴方を再び王として迎え前に増して尊敬捧げるでありましょう。 そう言い終わるか言い終わらないうちに、モクテスマ2世のような石と投げ槍投げられ彼の頭部胸部直撃した最初致命傷には見えなかったが、翌日には傷が元で息を引き取ったコルテスとの出会いから約半年後の出来事であった

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ヴァシーリー1世」の記事における「事跡」の解説

1390年リトアニア大公国ヴィータウタスの娘ソフィヤリトアニア語版)を娶る 1392年ニジニ・ノヴゴロド公国併合する同時代史料によれば、もはやモスクワ勢力拡大対抗できないこと悟ったニジニ・ノヴゴロド貴族たちが自分の公を説得したという。同時にタルサムーロムゴロジェッツモスクワ併合される他方北東ルーシ若干諸公スタロドゥブ公、オボレンスキー公、ベロオーゼロ公)は大公勤務人になり、軍司令官代官引き受け始めた1396年には、ヴィータウタス会談し、対モンゴル関し共同歩調を取ることで合意する死に際して、モスクワ大公位を息子ヴァシーリー2世譲ったが、このことが、ヴァシーリー2世彼の叔父ガーリチ公ユーリーとその息子たちとの大公位を巡る内戦を招くこととなった先代: ドミトリイ・ドンスコイ モスクワ大公 1389 - 1425 次代: ヴァシーリー2世 表 話 編 歴 ロシア君主 ウラジーミル・スーズダリ大公アンドレイ1世1168–1174 ミハイル1世1174–1176 フセヴォロド3世1176–1212 ユーリー2世1212–1216 コンスタンチン1216–1218 ユーリー2世復位1218–1238 ヤロスラフ2世1238–1246 スヴャトスラフ3世1246–1248 ミハイル・ホロブリト(ロシア語版英語版1248 アンドレイ2世ロシア語版英語版1248–1252 アレクサンドル1世1252–1263 ヤロスラフ3世1264–1271 ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ1272–1277 ドミトリー1世1277–1294 アンドレイ3世1294–1304 ミハイル2世1304–1318 ユーリー3世1318–1322 ドミトリー2世1322–1326 アレクサンドル2世1326–1327 イヴァン1世1325–1340 セミョーン1340–1353 イヴァン2世1353–1359 ドミトリー3世ロシア語版英語版) 1359–1362 ドミトリー4世1362–1389 ヴァシーリー1世1389–1425 ヴァシーリー2世1425–1462 イヴァン3世1462–1505 ヴァシーリー3世1505–1533 イヴァン4世1533–1547 モスクワ大公ダニール・アレクサンドロヴィチ1263–1303 ユーリー3世1303–1325 イヴァン1世1325–1340 セミョーン1340–1353 イヴァン2世1353–1359 ドミートリー・ドンスコイ1359–1389 ヴァシーリー1世1389–1425 ヴァシーリー2世1425–1462 イヴァン3世1462–1505 ヴァシーリー3世1505–1533 イヴァン4世1533–1547 ツァーリ リューリク朝イヴァン4世1547–1574 シメオン・ベクブラトヴィチ1574–1576 イヴァン4世復位)1576–1584 フョードル1世1584–1598 動乱時代ボリス・ゴドゥノフ1598–1605 フョードル2世1605 偽ドミトリー1世1605–1606 ヴァシーリー4世1606–1610 偽ピョートル1606–1607 偽ドミトリー2世1608–1610 ウラジスラフ1610-1634 カール・フィリップ1611-1617 偽ドミトリー3世1612 ロマノフ朝ミハイル・ロマノフ1613–1645 アレクセイ1645–1676 フョードル3世1676–1682 イヴァン5世1682–1696 ピョートル1世1682–1721 インペラートル ロマノフ朝ピョートル1世1721–1725 エカチェリーナ1世1725–1727 ピョートル2世1727–1730 アンナ1730–1740 イヴァン6世1740–1741 エリザヴェータ1741–1762 ホルシュタイン=ゴットルプロマノフ朝ピョートル3世1762 エカチェリーナ2世1762–1796 パーヴェル1世1796–1801 アレクサンドル1世1801–1825 ニコライ1世1825–1855 アレクサンドル2世1855–1881 アレクサンドル3世1881–1894 ニコライ2世1894–1917 一覧 典拠管理 FAST: 361821 GND: 1055652663 LCCN: n95088474 NKC: js2017944646 NLP: A18569316 PLWABN: 9810655014005606 VIAF: 720151778249618130002 WorldCat Identities: lccn-n95088474 この項目は、歴史関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ歴史)。

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寇英傑」の記事における「事跡」の解説

幼年時代から軍歴重ね河南省長く職務にあり、辛亥革命当時河南新軍29混成協で勤務していたと思われる1914年民国3年10月15日少校にして第9師(長:張錫元)第33団団長に任ぜられた。しかし当時河南省辛亥革命時に出兵そのまま土着した趙倜率いる毅軍(宏威軍)が鎮守使・師長職を独占しており、豫軍出身者冷遇されていた。そのため、のちに湖北省王占元元に渡り蒲圻鎮守使・通城鎮守使を歴任1921年民国10年8月の湘鄂戦争後河南から進軍した蕭耀南配下となり、湖北陸軍第2混成旅旅長に就任する1924年民国13年)秋の第2次奉直戦争後の10月ごろ、済臣の依頼防備手薄となった河南省渡り彰徳鄭州進駐、また湖北陸軍第1師に拡充され師長昇進した。しかし11月胡景翼率い国民軍第2軍孫岳率い第3軍河南省進攻、更に陝西省劉鎮華配下の憨玉琨(中国語版率い中央35師、及び張治公(中国語版)の陝軍第2師も洛陽進攻して来た。呉佩孚12月2日公山(中国語版)へと遁走した。3日開封陥落後、駐馬店退却した河南省退却後の1925年民国14年10月呉佩孚により第2路軍司令に任命される

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丁仏言」の記事における「事跡」の解説

清の廩貢生日本留学し法政大学法政速成科卒業した帰国後はドイツ山東鉱山占領反対するため、保鉱会という組織結成している。後に山東法政学堂教習教官となった1910年宣統2年)、山東咨議局議員当選したが、翌年辞職する武昌起義勃発すると、革命派与して山東省独立図った1912年民国元年)、北京臨時参議院議員当選し、さらに『亜細亜日報主筆つとめた。翌1913年民国2年5月進歩党加入し党務部長に任ぜられている。同年10月国民党張耀曽らと民憲党組織したが、まもなく袁世凱命令により国会解散されてしまう。政党活動一方で、張東蓀らと共に中国雑誌』を編集出版した1915年民国4年)、袁が皇帝即位もくろむと、丁は上海移り反袁活動展開した袁世凱死後の1916年民国5年8月大総統となった黎元洪により丁仏言総統府秘書長任命された。しかし、翌年2月にいったん辞職帰郷し古文書学親しむ。1922年民国11年)、曹錕が賄選により大総統当選目論むと、当時国会議員となっていた丁はこれを拒否し、さらに批判的な言論活動展開したこのために丁は逮捕され1924年民国13年)に北京政変首都革命)で曹が失脚するまで拘禁された。 その後丁仏言済南中学国文学教師となった1928年民国17年以降北平寓居している。丁は書家詩人として優れた声望有し多く作品残した1930年民国19年12月1日北平にて病没享年53

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徐淑希」の記事における「事跡」の解説

香港大学卒業して文学士学位取得後アメリカ留学しコロンビア大学文学修士号を取得した帰国後は香港大学戻り国際法講師務めている。1920年民国9年上海基督教青年会秘書となった1924年民国13年)からは私立燕京大学助教授任命され翌年コロンビア大学博士号取得している。1928年民国17年)、燕京大学政治主任教授となり、以後教務委員会主席研究院委員会主席社会科学院院長法学院院長歴任した1931年民国20年)に満州事変九・一八事変)が勃発すると、徐淑希国民政府招聘され東北外交研究委員会委員に任ぜられる。まもなく国際連盟調査団中国代表専門委員に任ぜられ、さらに国際連盟中国代表専門委員法科研究所所長にも起用された。日本軍南京攻略戦時に設置され南京安全区国際委員会記録集Documents of the Nanking Safety Zone南京安全区攩案)を1939年編集した日中戦争最中1940年民国29年)に国際連盟理事会中国副代表に任ぜられる。1942年民国31年6月外交部西亜司司代理となった戦後国際連合関連職務務めた国共内戦中国国民党台湾へ逃れた後の1956年、駐ペルー兼駐ボリビア大使着任したその後も、中華民国代表して国際連合代表団全権代表を何度務めている。1962年、駐カナダ大使任命された。 1982年死去享年91

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陳錦濤」の記事における「事跡」の解説

1885年光緒11年)、香港の皇仁学院入学する1890年光緒16年)の卒業後は教員として天津北洋大学堂につとめる。1901年光緒27年)、アメリカ留学しコロンビア大学理学修士号を、エール大学哲学博士号取得した帰国後の1906年光緒32年)、清朝試験受けて法政進士となる。以後、主に財政部門の役職歴任し度支予算司司長、統計局局長幣制改良委員会会長大清銀行監督などを歴任した1911年宣統3年10月袁世凱内閣度支副大臣任じられている。 1912年民国元年1月南京中華民国臨時政府において、財政部総長就任する3月には許世英らと国民共進会組織する9月北京政府財政部審計処総弁任じられた。1913年民国2年10月財政部駐外財政員としてロンドン駐在する1916年民国5年6月段祺瑞内閣財政総長兼署理外総長任じられた。しかし翌年収賄罪により収監されてしまう。1918年民国7年)にようやく赦免された。 その後広州護法軍政府転じ1920年民国9年4月伍廷芳後任として財政部長に任ぜられた。しかし同年11月主席総裁岑春煊失脚すると、陳も辞職し以後上海寓居する。1925年民国14年12月に、段祺瑞の下で再び起用され財政総長となった翌年には、天津での中国無線電業公司合弁参加している。 国民政府時代になった1930年民国19年)、清華大学経済教授財政部幣制研究委員会主席となる。1935年民国24年)にも財政部幣制委員会主席つとめている。1938年民国27年3月中華民国維新政府参加し財政部長に任命され5月には商業銀行総裁兼任した1939年民国28年6月12日上海にて病没享年69(満67歳)。

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沈嗣良」の記事における「事跡」の解説

上海聖ヨハネ大学卒業後にアメリカ留学する最初オベリン大学学び、後にコロンビア大学進学して教育管理学び修士号取得した1923年民国12年)に帰国し聖ヨハネ大学教務長兼体育部主任を務めている。また、中華全国体育協進会総幹事にもなった。 1925年民国14年)、フィリピン開催され極東選手権大会(「遠東運動會」)に中国代表団を率いて参加したまた、同年から1927年まで、極東体育協会Far Eastern Athletic Association)の名誉幹事honorary secretary)を務めている。1927年民国16年)、張伯苓らと協力して極東選手権大会上海招致している。1936年民国25年)、中国代表監督としてベルリンオリンピック参加したその後上海当時国最大規模だった江湾体育場建設提唱主導している。日中戦争期間中には、聖ヨハネ大学学長務めた戦後アメリカに移住し、晩年過ごしている。 1967年アメリカにて死去享年72著書に『中華全国体育協会史略』などがある。

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王驤」の記事における「事跡」の解説

清末秀才となる。省立山西大学堂卒業し貴州鉱業学堂中校)や山西省の陽興中学教員となる。辛亥革命後故郷戻り中国同盟会加入した1913年民国2年)、山西省第一中学校長に任ぜられている。 1916年民国5年)、晋鉱務公司総稽兼営業部部長となる。1928年民国17年)、河北省井陘県鉱務局局長となった。このほか、陽泉第2鉱山鉱長もつとめている。1930年民国19年9月退職し山西省新絳県で雍裕紗廠を創設した1932年民国21年)、山西省銀行事務総理となる。1935年民国24年2月山西省政府委員建設庁長任命された。翌年2月農村救済局の成立とともに同局長に転じている。 日中戦争抗日戦争)が勃発すると、王驤下野し陝西省移り、さらに香港逃亡した1942年民国31年)、山西省戻り1943年民国32年4月南京国民政府山西省教育庁庁長任命された。また、山西省医学専科学校校長つとめている。翌年6月山西省省長兼保安司令昇進した日本敗北後王驤はいったんは閻錫山に再登用され山西省高級参事に任ぜられた。しかし省内における王驤への制裁世論強く1946年民国35年1月漢奸として逮捕され、後に無期徒刑懲役)の判決言い渡された。1949年民国38年4月中国人民解放軍太原市攻略すると、中国共産党により王驤再逮捕された。1953年8月山西省高級人民法院王驤死刑判決言い渡し同月16日に刑は執行された。享年67

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馬毓宝」の記事における「事跡」の解説

1908年光緒34年)、北洋陸軍大学正則第1期卒業陸軍35標標統、九江都督となる。辛亥革命後江西都督擁立されたが、1912年民国元年1月辞任したその後北京政府大総統顧問などをつとめる。国民政府でも参軍参軍となった1933年民国22年2月1日死去享年70

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治無載」の記事における「事跡」の解説

247年隴西南安金城西平にいた羌族の長である餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞は、結託して魏に反乱起こし蜀漢の軍を招き入れようとした。このとき、涼州蛮族名家であった治無戴もこれに呼応したため、反乱大規模なものとなった。 魏はただちに反乱鎮圧のため軍を差し向けた。まず夏侯覇が為翅に駐屯し続いて郭淮が軍を狄道まで進めた郭淮枹罕で賊を討つべきとする味方意見退けた上で、蜀の姜維北上し夏侯覇攻撃する確信していたため、渢中に入って南に進み夏侯覇合流した予想通り姜維は為翅に出現したが、郭淮の軍が来たことを見て逃走したこのため俄何・焼戈郭淮の軍に斬られ、治無戴・蛾遮塞残存1万部落降参することになった。 しかし翌年、治無戴・蛾遮塞らは再び反乱起こした河関白土古城駐屯し、河を根拠として抵抗姿勢見せた。しかし郭淮上流から進行する見せかけ密かに下流回って白土城を占拠すると、治無戴・蛾遮塞らは郭淮攻撃を受け大敗したという。 このとき、治無戴は武威包囲していたが、西海家族置いていた。このため郭淮は軍を西海進め、治無戴の家族捕虜にしようとした。治無戴は西海敗走して来ると郭淮遭遇したため、一戦してこれを打ち破ろうとしたが、反対に破られ大敗しそのまま蜀へ逃れ帰順することになった蜀志姜維伝」)。また蛾遮塞らの行方不詳である。その後も、令居蛮人や蜀はこれに乗じて兵を起こしたが、全て郭淮退けられた。 なお、小説『三国志演義』には登場しない

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台与」の記事における「事跡」の解説

(この項では便宜上台与』の名称で記述する魏志倭人伝によると、 正始8年247年)に帯方郡太守として王頎着任した倭国帯方郡へ載斯烏越ら使者派遣し親魏倭王女王卑弥呼未だ従わない狗奴国の男王卑弥弓呼攻撃中であると(王頎に)報告した太守は塞曹掾史の張政らを派遣し詔書および黄幢(魏帝軍旗)を難升米(なしめ)に授けて和平仲介した。 後に女王卑弥呼が死ぬと径百余歩大きな塚を作り奴婢余人殉葬した。後継者として男王が立った。ところが男王を不服として国が内乱態となり、千余人誅殺合った改め卑弥呼の宗女である台与13歳女王として立てた結果倭国遂に安定した張政らは(幼くして新女王となった台与対し檄文内容判りやすく具体的に説明した台与倭国大夫卒善中郎將掖邪狗二十人随行させた上で張政らを帰還させた。 その際男女生口三十人献上すると共に白珠五千孔、靑大句珠二枚および異文雑錦二十匹を貢いだとされる張政が倭に渡った正始8年から、卑弥呼の死台与王位継承は、それ程年月経っていないと思われる『日本書紀』神功紀に引用される『晋起居注現存せず)』に、泰初(「泰始」の誤り2年266年)に倭の女王使者朝貢したとの記述がある。現存する『晋書』武帝紀と四夷伝では、266年倭人朝貢したことは書かれているが、女王という記述は無い。卑弥呼#神功皇后説にもあるように、江戸時代にはこの女王は卑弥呼考えられていたが、卑弥呼249年正始10年)までに逝去『梁書』)してしまっていることから、近年ではこの倭国女王台与のことであると考えられている。 なお、この正始10年4月改元されて嘉平元年)(249年)は、中国では曹操に始まる曹氏の魏から、司馬懿に始まる司馬氏の晋へ禅譲革命が行われる265年12月泰始元年)に至る契機となった年である。 この朝貢記録最後に中国史書から邪馬台国や倭に関する記録途絶え次に現れるのは150年の後の義熙9年413年)の倭王讃朝貢倭の五王)である。 台与と後のヤマト王権との関係は諸説あってはきりしない人物の比定については諸説ある(#人物比定参照)。

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天道根命」の記事における「事跡」の解説

先代旧事本紀天神本紀によれば高天原から葦原中国降臨する事となった饒速日尊護衛として付き従った32神の1柱で、同書国造本紀紀伊国造家伝える『国造次第によれば神武天皇によって初代紀伊国造任じられた。 異伝として『紀伊続風土記所載の「国造家譜」は、日前大神国懸大神紀伊国造が奉斎する和歌山県和歌山市秋月鎮座日前宮祭神)の降臨随従して以後大神仕え、後に神武天皇東征に際して大神神体ある日像鏡と日矛の2種神宝奉戴して紀伊国名草郡到来し毛見郷(現和山市毛見)の琴ノ浦にそれを鎮座させて天皇東征成功祈念したために、即位後の天皇によって論功行賞として紀伊国授かるとともに国造任じられ以来その子孫国造職を襲うとともに日前宮を奉斎し続けることとなったとの由来を記す。また、同家に伝わる別の紀伊国造系図』は更に詳しい伝え載せている。 『紀伊国造系図によれば天道根命天照大神天岩戸隠れに際して石凝姥命によって鋳造され日像鏡と日矛の2種神宝高天原神々から託され高天原においてこれを天照大神の「前霊(さきのみたま)」として奉斎していたが、天孫降臨に際して天照大神から三種の神器とともにこの2種神宝聖なる鏡、聖なる矛として授かった天津彦彦火瓊瓊杵尊随従して同尊とともに日向降臨降臨後も引き続いてこれらを奉斎していたが、後に神武天皇東征に際して天皇からそれらを鎮座させるべき地を探すよう改めて託せられ、東征軍とは別に諸国の浦々を遍歴して遂に紀伊国賀太浦に到着、そこより木本郷(現和山市木ノ本)へ移って暫時滞在しその後更に毛見舟着浦に移って同地海中聳える奇岩上に行宮建てて奉斎するとともに神武天皇武運寿命長久祈念することとなったといい、次いで神武天皇東征途次竃山現和山市和田)に来着すると神宝鎮座地実地検分求め現地赴いた天皇から選定地の妥当なることを誉められ引き続き天下平定祈念するよう命じられその後天皇大和国橿原の地で即位する祈念の功を賞され紀伊国授かり子々孫々亘って国造職を継承するよう命ぜられたため再度紀伊国下向現地の神の女である地道女命を娶って比古麻命を儲け以来その子孫国造として日前・国懸両神宮を奉斎するよう受け継いだといい、最後に神皇産霊尊の時より神武天皇御宇に至る」まで在世した「長寿の神」であった結ばれている。

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蒲殿俊」の記事における「事跡」の解説

青年期広安紫金精舎設立学問重ねた当地保守勢力により康有為郎党目された。1904年光緒30年)、甲辰進士となり、法部主事の位を授かったその後日本留学している。帰国して1909年宣統元年)、四川省咨議局議長選出された。翌年、『蜀報』を創設し立憲宣伝し、また北京請願赴いている。 1911年宣統3年)、鉄道保護運動(保路運動)が勃発すると、四川保路同志会会長選出された。同年11月27日辛亥革命呼応して成都大漢四川軍政府成立すると、蒲殿俊都督朱慶瀾副都督として選出された。しかし12月8日給料遅配に不満を抱いた四川軍兵士が暴動起こしはこれを鎮圧できず逃亡した中華民国成立後1912年民国元年8月民主党加入する翌年衆議院議員に当選する。同年5月民主党共和党統一党とともに進歩党結成すると、蒲殿俊はその理事選ばれた。 1913年より袁世凱帝政張勲王朝復古に異を唱えた段祺瑞政権内務部長となって議員買収曹錕大統領とした。 1916年民国5年)、国会復活とともに衆議院議員復帰する翌年7月北京政府内務次長北京市政督弁に任命された(内務次長については、同年12月辞任している)。翌年北京『晨報』社社長に就く。1921年民国10年4月上海民衆戯劇社を創設し月刊『戯劇』を刊行した翌年、再び国会議員戻っている。晩年郷里帰り政治には関与しなかった。 1934年民国13年10月北平にて死去享年60

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王謀」の記事における「事跡」の解説

楊戯の『季漢輔臣賛』では、劉備家臣団の第15位に挙げられている。身を修め慎み深い評されており、また陳寿からも、立ち居振舞い素行優れていたと評されている。 初め劉璋仕え巴郡太守となり、その後、治中従事任命された。建安19年214年)の劉備による益州平定後も、王謀そのまま任用され、別駕従事昇進している。建安24年219年劉備漢中王になると、黄柱頼恭とともに九卿少府)に任命された。建安25年220年)、許靖諸葛亮と共に劉備即位するよう願う上奏文を奉呈した。建興元年223年)、関内侯封じられ、後に太常の職へ異動となった。 後に蔣琬が、漢嘉郡出身張休対し「同郡の先輩王元泰がいたが、今は誰が彼の後を継いでいるか」と聞いたところ、張休は「元泰を継ぐ人は州の中ですらおりません。ましてや私の郡などにはいる筈がございません」と答えたという。 これほど人物であったが、陳寿『三国志』編纂した頃には史料失われていたため、立伝されなかった。 また小説『三国志演義』では劉備即位時に名前が登場しているのみである。

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堃岫」の記事における「事跡」の解説

かつては理藩部侍郎つとめていた。1910年宣統2年9月(旧暦)ウリヤスタイ定辺副将軍から、綏遠城将軍に任命された(正式着任は、翌年3月(旧暦))。 辛亥革命勃発後の1911年宣統3年)、閻錫山らの山西革命軍綏遠方面進軍開始した堃岫は、大同鎮総兵陳希義に防戦指示する同時に清朝への救援派兵を要求した。しかし、すでに軍事力喪失していた袁世凱は、この救援要請無視した。 それでも綏遠帰化いわゆる帰綏」。現在のフフホト市)の両城守っていた堃岫は、精鋭部隊であるトゥメト陸軍により山西革命軍迎撃する両軍ともに損害大きく山西革命軍これ以上進軍停止して山西引き返したまた、帰綏包頭革命派については、堃岫配下である五原同知・樊恩慶が、謀略によりこれを蜂起前壊滅させた。 民国成立した後も、堃岫引き続き綏遠将軍地位にあった1912年民国元年10月まで、その任にあった以後堃岫行方不明である。

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兪作柏」の記事における「事跡」の解説

1911年宣統3年)、中国同盟会加入している。1916年民国5年)、保定陸軍軍官学校第3期歩兵科卒業し当初旧広西派林虎属した1925年民国14年)から李宗仁らの新広西派転じて旅長に任命されている。1926年民国15年3月中央軍政治学南寧分校校長任命された。また、新広西派による広西統一でも戦功大きかった北伐に際して国民革命軍第7軍第1旅旅長に任じられた。 しかし、李宗仁白崇禧黄紹竑らは、兪作柏が親共的で農民運動同情的なのを見てこれを恐れるようになる1927年民国16年2月兪作柏広西省政府委員農工庁長左遷して、その兵権剥奪した。さらに、同年4月の上クーデター契機にして、兪作柏広西省から追われてしまい、香港逃げ込んでいる。 その後兪作柏は、新広西派打倒を狙う蔣介石援助を受けるようになった1929年民国18年1月国民政府首都建設委員会委員任じられている。そして蔣介石援助により兪作柏広西省帰還図り、反蔣戦争起こした李宗仁白崇禧黄紹竑新広西派指導者たちを駆逐した6月広西省政府主席任じられている。 わずか3カ月後の9月兪作柏汪兆銘汪精衛)・陳公博連合し、反蔣を宣言して護党救国軍南路司令自称した。しかし、呂煥炎部下軍人たち蔣介石支持して兪作柏に背く。呂煥炎らは蔣介石派遣した粤軍(広東軍)と連合して攻撃してきたため、兪作柏敗北下野した1936年民国25年12月国民政府から陸軍少将の位を授与され国民革命軍復帰する日中戦争抗日戦争に際しては、第3戦区忠義救国軍中将司令となる。また、軍事委員参議軍事委員会調査統計局設計委員歴任した1946年民国35年)、陸軍中将の位を授与されたが、まもなく再び下野し以後商売で生活を立てている。一時香港へも移住した中華人民共和国成立後1956年広州入りする。以後広東省政治協商会議委員広東省人民政府参事歴任した1959年広州にて病没享年73

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楊希閔」の記事における「事跡」の解説

1909年宣統元年)、雲南陸軍講武堂入学する1911年宣統3年10月昆明重九起義に、学生として革命派参加したその後、謝汝翼率いる援川滇軍第1梯団配属され四川省出撃している。 1912年民国元年)、江西講武堂に転学した1913年民国2年)の卒業後、江西歩兵第3上尉参謀任命された。同年江西都督李烈鈞による二次革命第二革命)が勃発すると、革命派加わったが、敗北したその後雲南省戻って滇軍に加入し昇進重ねた1921年民国10年)、駐川滇軍第1軍軍長顧品珍雲南へ戻ると、その下に配属されていた楊希閔もこれに従い雲南支配していた唐継尭叛旗翻してこれを駆逐した。楊は第3旅旅長に任命されている。しかし1922年民国11年3月顧品珍唐継尭反撃遭って戦死してしまう。楊は広西省駐屯していた張開儒率いる滇軍の下に逃れた同年6月孫文陳炯明決裂すると、張開儒は陳の討伐のために広東へ向かう。しかし、その途中桂平広西省)で、楊希閔は張から軍の指揮権奪い取った孫文は楊をそのまま西路討逆軍滇軍総司令任命し、滇軍の范石生桂軍劉震寰沈鴻英とともに陳炯明撃破させた。 1923年民国12年3月孫文陸海軍大元帥大本営設置すると、楊希閔中央直轄滇軍総司令任命された。同年7月、滇軍は3個軍に改変され、楊は第1軍軍長兼粤贛湘辺防督弁に任命された。1924年民国13年1月国民党第1回大会中央執行委員選出され2月中央直轄区域執行部中央執行委員任命された。10月建国滇軍総司令任命される孫文死後の1925年民国14年3月楊希閔北京政府から広東軍務幇弁に任命される5月唐継尭陳炯明段祺瑞香港総督など、反国民党勢力支援を受けつつ、劉震寰とともに香港反乱計画し広州実行移した。しかし、許崇智軍や黄埔軍官学校学生軍の反撃遭って敗北し、楊は香港逃げ帰った。この反乱により楊は国民党から除名され以後、楊は軍政舞台復帰することはできなかった。 その後浙江省紹興寓居した。日中戦争抗日戦争勃発後の1937年民国26年)、昆明移って引き続き寓居している。中華人民共和国成立後雲南省留まり雲南省政治協商会議委員選出され中国国民党革命委員会(民革)にも加入した1967年1月17日病没享年82

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周駿」の記事における「事跡」の解説

四川武備学堂卒業後、日本留学する陸軍士官学校第6期歩兵科卒業した1909年宣統元年)に帰国し以後四川武備学堂教習監督四川新軍17鎮の管帯や標統を歴任した1912年民国元年)、四川第1師師長任命される1913年民国2年)、陸軍15師長となり、重慶鎮守使も兼任した。以上の職歴から、周駿将来四川軍界におけるトップエリートであり、指導者地位約束されていたとも言えた。 護国戦争第三革命終盤1916年民国5年5月四川将軍陳宧が独立宣言すると、周駿袁世凱から署理四川督軍任命される6月には陳宧を駆逐し成都入りした。しかし、国内情勢はすでに護国軍が圧倒的有利であり、まもなく今度周駿護国軍に成都から追い払われてしまう。結局、この時の状勢判断甘さ致命傷となり、周駿は陳宧共々下野追い込まれた。 1923年民国12年5月北京政府から四川塩運使に任命されたが、同年中に死去した享年40

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甘介侯」の記事における「事跡」の解説

清華大学卒業後、1920年民国9年)にアメリカ留学しウィスコンシン大学ハーバード大学政治学外交学を学びハーバード大学哲学博士号取得した1926年民国15年)に帰国し当初上海の各大学教鞭をとった。翌1927年民国16年)、甘は武漢国民政府外交部招聘され外交部長陳友仁秘書となり、まもなく秘書長昇進した武漢国民政府反共転じ、陳がモスクワへ去ると、甘が暫時外交部長代理している。11月、湘鄂臨時政務委員会委員となり、さらに江漢監督特派湖北交渉員に任ぜられた。 その後甘介侯新広西派李宗仁頼って広西省に赴き、翌1928年民国17年)、の下で第1方面軍外交処処長となる。1931年民国20年)、西南派による広東広州国民政府成立すると、甘もこれに参加し、第4集団軍外交処処長に任ぜられた。同政府には陳友仁外交部長として参加しており、甘は再び陳を補佐して活動している。満州事変九・一八事変)後の大同団結により、陳が合流後国民政府でも外交部長に任ぜられると、甘は外交部常務次長として起用された。 翌1932年民国21年1月早くも陳友仁部長辞任し甘介侯もこれに従い自らも次長職を離れたが、その後の甘は駐広東広西特派員つとめている。1936年民国25年5月辞任し翌年8月国防参議会参議となった1938年民国27年6月第1期国民参政参政員に選出された(第2期でも同じく選出)。日中戦争抗日戦争終結後1946年民国35年)に北平行轅顧問に任ぜられる。1949年民国38年)、いったん香港に移るが、まもなく国際連合代表に任命されアメリカ赴任した。後にラトガース大学教授となっている。1984年ニューヨークにて病没享年88

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程畿」の記事における「事跡」の解説

初め劉璋仕え漢昌県となった。 ある時、巴西太守龐羲漢中張魯対抗するため、私兵募集した。ところが、劉璋讒訴する者がいたため、劉璋龐羲を疑うようになった龐羲程畿の子の程郁を配下としており、程郁を程畿の下に派遣して救援求めた。しかし、程畿は「異心抱いていないのなら、誠意尽くすべきです」と言い、これを拒否したまた、程郁に対して「私は州から恩を受けているから、州牧のために忠節を尽くすのだ。おまえは郡吏なのだから、太守のために力を揮うのが当然である。私を理由にして異心抱いてならない」と諭している。 程畿言葉聞いた龐羲別人派遣し協力しなければ程郁を殺すと脅しをかけた。しかし、程畿楽羊が子の羹を飲んだ故事を引き、大義に従うと重ねて拒否した程畿助力得られない悟った龐羲は、ついに劉璋謝罪し劉璋もこれを許した。後に劉璋程畿行い聞き、彼を江陽太守取り立てている。 劉備益州支配すると、程畿従事祭酒として登用された。 222年劉備夷陵の戦い随従した。夷陵大敗して撤退する際、ある者は「船を軽くすれば逃れることができます」と進言したが、程畿は「私は軍にあって、敵から逃走したことは一度もない。ましてや陛下に従って危機臨みながら、そのようなことができようか」と退けた程畿船上で自ら戟を持ち追撃してきた呉軍戦っていくつか敵船沈めたが、最後衆寡敵せず戦死した楊戯の『季漢輔臣賛』において、その剛毅にして節義ある人柄を讃えられている。子の程祁は楊戯張表らと並び称されるほどの人物であったが、20歳夭折した小説『三国志演義』にも登場し史実同様に戦死している。

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向忠発」の記事における「事跡」の解説

青年時代漢陽軍需工場学徒として働き、後に漢陽造幣廠で勤務した。後に埠頭人夫などにもなっている。1922年民国11年)、中国共産党に加入し、湖北省工会労働組合)で活動した。後に漢冶萍公司工会副委員長務めている。 1926年民国15年)、向忠発は、中共湖北執行委員会委員となる。また、国共合作に伴い中国国民党漢口市党部工人部長兼任した。このほかにも、武漢工人糾察総指揮武漢工会委員長中華全国総工会執行委員会委員なども務めている。翌1927年民国16年)、武漢国民政府人民裁判委員会委員に任ぜられた。同年共産党第5回全国代表大会で中央委員当選し八七会議では臨時中央政治委員選出されている。まもなくソビエト連邦に赴き、中国共産党コミンテルン代表に任ぜられた。 1928年民国17年2月向忠発コミンテルン執行委員会第9回拡大全体会議出席しコミンテルン執行委員会委員主席委員選出された。さらにモスクワ開かれた中国共産党第6回全国代表大会で向は中央委員再選され6期1中全会中央政治局常務委員中央総書記抜擢される。しかし、向は中央宣伝部李立三傀儡過ぎず実権握りいわゆる李立三コース」が推進された。 1931年民国20年初頭李立三失脚した頃、向忠発帰国した。しかし6月22日上海国民政府により逮捕され24日銃殺刑処された。享年52

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劉文輝」の記事における「事跡」の解説

14歳成都四川陸軍小学入学する1911年宣統3年)、陝西省向かい西安陸軍中学進学した辛亥革命勃発後にいったん帰郷し1912年民国元年)に北京向かい陸軍第一中学入学する1914年民国3年)、保定陸軍軍官学校第2期砲兵科入学し1916年民国5年)に卒業した帰郷すると、劉湘紹介により川軍(四川軍)に加入する以後順調に昇進し1923年民国12年)には川軍第9師師長成都衛戍司令にまでなった。1925年民国14年2月四川軍務幇弁に任ぜられる。翌年11月国民政府側に転じ国民革命軍第24軍軍長となった1928年民国17年9月、川康辺防総指揮に任ぜられ、11月には、国民政府初代四川省政府主席昇格した。これにより同じく四川内の有力者である劉湘匹敵する実力備えたことになり、四川ではこの2人双頭形勢となった。しかし、劉湘劉文輝次第対立深めていき、ついに1932年民国21年)秋から両者角逐戦が展開されることになる(「二劉之戦」)。翌年10月劉文輝はこの戦い敗れ西康方面逃亡した1934年民国23年12月劉文輝国民政府中央により、西康建省委員会委員長に任命された(このとき、ようやく四川省政府主席より辞任)。以後西康省創設向けた活動開始することになる。1937年民国26年9月には、陸軍上将銜を授与され、さらに第5軍団軍団長任命された。1939年民国28年1月西康省正式に成立し、劉が西康省政府主席兼全省保安司令任命される以後国共内戦により国民党台湾逃亡するまで劉がこの地位にあり続けた1949年民国38年12月劉文輝は、四川派の有力者である鄧錫侯、潘文華協力して中華人民共和国転じる起義を宣言した中華人民共和国では、西南軍政委員会主席中国人民政治協商会議全国委員会常務委員林業部長全国人民代表大会常務委員会委員中国国民党革命委員会(民革)中央常務委員委員などを歴任した1976年6月24日北京市病没享年82(満81歳)。

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卓茂」の記事における「事跡」の解説

姓名卓茂 時代前漢時代 - 後漢時代 生没年生年不詳 - 28年建武4年) 字・別号子康(字) 本貫出身地荊州南陽郡宛県 職官丞相府吏〔前漢〕→給事黄門侍郎前漢〕→密県令〔前漢〕→京部丞〔前漢〕→門下祭酒前漢→新?〕→侍中祭酒更始〕→太傅後漢爵位・号等- 陣営所属等成帝哀帝平帝孺子嬰更始帝光武帝 家族・一族子:卓戎 卓崇 前漢元帝の代に長安遊学し博士生に師事して『詩』、『礼』、算法暦象学び、師の技術極め、通儒と称された。人柄は、寛仁にして恭愛であり、郷里旧友たちは皆卓茂敬愛し慕ったという。 最初は、丞相府の吏となり、孔光仕えた。後に儒術を評価され給事黄門侍郎となり、さらに密県河南尹)の令に遷った。心を尽くして勤務取り組み、人を見ること我が子のごとく、善行取り上げて教化し悪口を口にすることが無かったため、官民卓茂親愛し、これを欺く忍びなかったという。平帝の代に、河南尹では害に遭ったが、卓茂治め密県はそれを免れた前漢末期王莽大司農六部丞を置き農業養蚕業振興させると、卓茂これに伴い京部丞に遷った。密の人民は、老人から子供まで、卓茂泣いて見送ったという。居摂年間に、病により免ぜられて南陽郡帰り門下祭酒となったが、官吏職務行おうとはしなかった。 更始帝即位すると、侍中祭酒として登用され更始帝に従って長安入りしたが、老年により骸骨を乞う帰郷した光武帝は、即位する直ち卓茂訪問しようしたため卓茂河陽県河内郡)まで詣でてその謁見賜った卓茂時に70余歳だったという。光武帝卓茂太傅任じ食邑2,000戸等を下賜した。卓茂長男の卓戎は太中大夫となり、次男の卓崇は給事黄門中郎に任ぜられた。 建武4年28年)、死去次男の卓崇が継ぎ、後に大司農まで昇進した

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婁圭」の記事における「事跡」の解説

若い頃数万の兵と千の馬を手に入れて後世に名を著すことを志し仲間笑われた。後に亡命者を匿って死刑になるところだったが、脱走し変装したので逃げ延びることができた。 初平年間に、荊州北境に衆を集め群雄一人として割拠していた。劉表連合し食料求め襲撃してきた張済討ち取るが、婁圭の下に立つ事を望まない王忠撃ち破られてしまった。その後婁圭劉表の元を離れ曹操配下となった曹操婁圭大将したものの、軍を統率させず、会議で常に議論させた。河北平定後は、曹操随行して冀州滞在した。ある時、曹操子供たち連れて外出した際、婁圭もこれに随従したが、婁圭左右に向かって「この家(曹氏)の父子は、今日の様な楽しみを味わった事があるだろうかと言った。これをある者から聞いた曹操は、この言を自分対す誹謗判断し、後に婁圭処刑してしまった。 なお、『三国志』魏書武帝紀」注『曹瞞伝』は以下のような逸話載せている。建安16年211年)、曹操渭水馬超戦った際、地質悪さから塞を築くことができなかった。婁圭が「今は気候が寒い時であり、かければ一晩で塞ができる」と進言したため曹操はこれに従って塞を築いたとされる。しかし、実際時期は閏8月であり、裴松之事実の筈がないと否定している。

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藤堂家信」の記事における「事跡」の解説

近江国の礒崎神社神官として武内宿禰後裔武内信實京都より派遣され蒲生姓を名のった。その後、礒崎を名乗って磯崎神社宮司となったのが礒崎家の始まりである。武内家には磯崎大明神掛け軸残されている。なお、『宗国史』によれば磯崎家の原姓は蒲生となっており、武内家の系図にも蒲生と名のっている時期がある。蒲生氏郷3代前の礒崎家郷蒲生定秀兄弟時代から、礒崎姓と蒲生姓をそれぞれ使用するようになった。 礒崎金七は藤堂高虎仕え文禄・慶長の役参加し南原城の戦い得た敵将衣服が遺されている。関ヶ原の戦いにも参加大坂夏の陣では長宗我部氏吉田重親横山将監討った。これはその日5月6日)一番の手ということで、徳川家康から(一ニ)の紋を拝領し代々式部家では当主が男紋として使用することになっている系図によれば一時は2万石知行し慶長12年1607年)に藤堂姓を授けられ藤堂式部を名のった。また、大坂夏の陣の時で受けた戦傷に対して家康与えた権現様頂戴之御軟膏」が現在でも伝わっている。 寛永11年1634年)、伊賀国領内起きた鍵屋の辻の決闘の際に、荒木又右衛門らを預かっている。 寛永13年1636年2月19日京都死去紫野大徳寺塔頭大光院には藤堂式部家の5代家信家道2代)、家明(3代)、信副(4代)、信方5代))と礒崎九郎左衞門の墓がある。なお、式部家は明治13年1880年)に藤堂姓から元の武内復姓している。

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陳茂」の記事における「事跡」の解説

姓名陳茂 時代新代 生没年生年不詳 - 23年更始元年) 字・別号不詳 出身地不詳 職官執金吾候〔前漢〕→大司馬〔新〕→秩宗将軍〔新〕→丞相劉望爵位・号等延徳侯〔新〕 陣営所属等平帝孺子嬰王莽劉望劉聖家族・一族不詳 前漢平帝時代には執金吾候(執金吾属官)の地位にあった天鳳2年15年)、訢の後任として、陳茂大司馬就任する。しかし天鳳3年16年)秋、日食出現理由として大司馬罷免された(後任荘尤厳尤))。 その後時期不明だが、陳茂秩宗将軍(「秩宗」は太常相当する)に任命され地皇3年22年)、納言将軍荘尤と共に王常率い荊州の反新軍である下江軍を撃破している。しかし地皇4年23年)、陳茂荘尤は、劉縯率いる反新軍育陽南陽郡)で敗北した。そのため、陳茂荘尤は、荊州更始帝劉玄)を討伐する大司空王邑大司徒王尋新軍主力部隊合流した。しかし、この新軍主力部隊も、同年6月昆陽の戦いで、劉秀光武帝率いる漢軍に大敗して壊滅し荘尤陳茂辛うじて戦場から離脱した陳茂荘尤は、譙(沛郡)へ逃れ、ここで新を見限り漢朝将軍号した。この時の荘尤は、新は滅亡すべきで、漢が復興すべきであると、沛の官吏民衆に対して演説したが、一方陳茂は、地に伏して哭泣したという。しかし、荘尤陳茂は、荊州更始帝には降らなかった。更始元年23年8月、漢では鍾武であった劉望『漢書』では「劉聖」)が汝南郡皇帝自称していると聞くと、2人はこれに投降し荘尤大司馬陳茂丞相任命された。 更始帝は、皇帝称した劉望政権を敵とみなし、大司徒劉賜派遣してこれを討伐させたが、劉望らは劉賜撃退する。しかし同年10月続いて討伐に来た奮威大将軍劉信敗れ劉望荘尤陳茂はいずれ戦死した

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王駿 (明義侯)」の記事における「事跡」の解説

姓名王駿 時代前漢時代 - 新代 生没年生年不詳 - 16年天鳳3年) 字・別号君公 出身地京兆尹長安県 職官執金吾歩兵将軍強弩将軍中郎将前漢〕※就任順は不明→五威将〔新〕→奮武将軍〔新〕→五威将〔新〕 爵位・号等明義侯〔前漢陣営所属等平帝孺子嬰王莽 家族・一族不詳〕 新の王莽配下将軍である。 元始3年3年)、執金吾になり、元始5年5年歩兵将軍移った居摂2年7年9月東郡太守翟義王莽打倒蜂起する。明義侯となっていた王駿は、王莽から強弩将軍任命され、奮武将孫建虎牙将軍王邑ら他の6人の将軍とともに翟義討伐向かった同年12月孫建王邑らは、圉(陳留郡)で翟義軍を殲滅する。しかし、王駿軍功あげられなかったため、居摂3年8年正月将軍職から解任されてしまった。 一方で王駿は、前漢末期から匈奴との外交使節の任に携わっていた。時期不明だが、前漢末に中郎将として王昌とともに使節団の長となり、匈奴単于の下に派遣されている。王莽が新を建国した後の始建国元年9年)、五威将となった王駿は、再び使節団の長となる。そして新の使節として印璽金品等を匈奴単于下賜した。しかし、この時の印璽刻印は、王莽により漢の時代から改められていたため、後に匈奴の新からの離反招いてしまう。 始建国2年10年12月王莽匈奴単于称号を降奴服于と改める。さらに立国将軍孫建12人の将軍率いさせ、五路からこれ討伐させた。この時、王駿も奮武将軍として12人の将軍1人となっており、定胡将軍王晏とともに張掖郡から出撃している。 天鳳3年16年)、匈奴討伐するため、王駿西域都護李崇は、西域へと出撃した。この時、西域諸国王駿らの軍を支援したが、そのうち一国である焉耆国は偽って降伏し王駿らを攻撃しよう備えていた。そのため王駿らは、莎車国・亀茲国などの兵7千人率いて焉耆国を攻撃した。しかし、王駿指揮にあった姑墨国・尉犁国・危須国の兵が反逆したため、王駿敗北して戦死した

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王況 (将軍)」の記事における「事跡」の解説

姓名王況 時代前漢時代 - 新代 生没年生年不詳 - 23年地皇4年) 字・別号不詳出身地不詳職官王城校尉前漢〕→奮威将軍前漢〕※振武将軍は時期不明虎賁将軍〔新〕→将軍(九虎将軍1人)〔新〕 爵位・号等- 陣営所属等孺子嬰王莽 家族・一族不詳王莽配下武将居摂2年7年9月東郡太守翟義王莽打倒蜂起する。春王城校尉つとめていた王況は、王莽から奮威将軍任命され、奮武将孫建ら他の6人の将軍とともに翟義討伐参加している。なお『宋書』百官志によると、前漢末に振武将軍に任命されたとあるが、時期不明である。 始建国2年10年12月王莽匈奴単于称号を降奴服于と改める。さらに立国将軍孫建12人の将軍率いさせ、五路からこれ討伐させた。この時、王況虎賁将軍として12人の将軍一人となっており、五威将軍とともに五原郡から出撃している。 地皇4年23年)秋、析県(弘農郡)で蜂起した鄧曄于匡討伐するために、王況王莽から「九虎将軍」の一人任命された。九虎将軍家族王莽人質にとられ、首都警備する精鋭部隊率いていた。しかし、王莽は自らの財貨惜しみ、九虎将軍部隊兵士には僅か四千銭しか支給せず、士気低調であった王況は他の将軍たちとともに、回谿(弘農郡華陰県)の要衝守備したが、鄧曄于匡前に大敗してしまう。 王況同じく九虎将軍一人である史熊とともに朝廷戻って死罪受けようとした。しかし、その前に王莽使者派遣して叱責してきたため、2人その場自殺して果てた

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平晏」の記事における「事跡」の解説

姓名平晏 時代前漢時代 - 新代 生没年生年不詳 - 20年地皇元年) 字・別号不詳出身地右扶風平陵職官尚書令前漢〕→長楽少府前漢〕→大司徒前漢〕→太傅(兼領尚書事、左伯)〔新〕→太傅〔新〕 爵位・号等防郷侯〔前漢〕→就新公〔新〕 陣営所属等哀帝平帝孺子嬰王莽 家族・一族父:平当 王莽腹心一人で、その下で機密(「機事」)を管轄していた。平帝即位した元寿2年紀元前1年)の時点では、尚書令地位にあり、後に長楽少府に遷った。元始5年5年閏月、防郷侯に封じられ千戸領有する同年12月大司徒昇任した始建国元年9年)、王莽が新を創建するとともに平晏は就新公に封じられ太傅任命された。これにより平晏は、太師王舜国師劉歆・国将哀章とともに四輔とされている。また、この時から、領尚書事兼任したと見られる始建国2年10年)、甄豊の子の甄尋が王莽献上した符命に基き、平晏は左伯に任命された。 天鳳元年14年)、王莽の命で平晏大司空王邑と共に洛陽派遣され王莽のために宗廟社稷・郊兆の建設予定地選定している。同年3月領尚書事兼任解かれた。なお、この年事件思われるが、平晏規定より多く吏員雇用していたとして、僕射から尋問されたところ、これに反発した太傅府の吏員僕射拘禁してしまう。王莽はこれを聞いて怒り戦車数百台を繰り出して太傅府を包囲し僕射拘禁し吏員捕縛してただちに処刑した地皇元年20年)、平晏太傅地位にあったまま死去した

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劉曼卿」の記事における「事跡」の解説

父は回族ではあったものの、代々ラサ居住していたため、習俗言語もすでにチベット化しており、曼卿もやはり母語チベット語であった1911年宣統3年)夏、清朝滅亡に伴う混乱があり、劉曼卿一家インドダージリン逃れている。 1918年民国7年)、劉父子北京に移る。曼卿は北京第一小学入学して中国語学び成績は優秀であった。その後北通女子師範入学したが、19歳時に父母厳命退学、親が決めた男と結婚している。しかし、これは曼卿の本意ではなかったため、まもなく離婚し師範再入学した。卒業後は、チベット衛生教育のために働きたい、との願いから、道済医院看護士となっている。 1928年民国17年)冬、国民政府蒙蔵委員会設立した機会に、ダライ・ラマ13世使者としてロサン・パサン(「羅巴賛」または「羅」)を派遣してくる。ロサン・パサンは人手を介して通訳として劉曼卿招聘し、共に蒋介石会見した。蒋は劉の中双方言語能力賞賛し、数日後国民政府一等書記官任命した。 翌1929年民国18年)、ダライ・ラマパンチェン・ラマとの間で抗争発生し国民政府中央はその調停のための使者派遣することになる。このとき、劉曼卿は自ら志願して使者となった同年7月、劉は南京出発し四川省西康経てチベット入り1930年民国21年2月ラサ到着した。約3か月ラサ滞在の間、劉はダライ・ラマ3度会談し国民政府との通交の利を説いたその結果ダライ・ラマ南京チベット代表を駐在させることなどに同意している。 任務完了後、劉曼卿インド経由海路帰国し帰国後は各界から大歓迎受けた1932年民国21年)夏、西康チベット第2次踏査赴いている。劉の2度踏査記録は『康軺車』としてまとめられ1933年民国22年11月出版されている。ただし、劉本人の手による踏査記ではなく、彼女の口述等をもとに蒋唯心という人物書きまとめたものと推測されている。日中戦争勃発に際しては、劉は他の西康チベット出身人と共に抗日声明発表した1941年民国30年)、病没享年36

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藺苞」の記事における「事跡」の解説

前漢末に匈奴と漢は和親していたが、新の皇帝王莽が始建国元年9年)に烏珠留若鞮単于地位下げようとしたことから関係が悪化した。新から匈奴投降する者が出て、新に服属していた西域諸国動揺走った始建国2年10年12月王莽匈奴15人の単于立てて分裂させよう考え30万人兵士動員して北辺配置し中郎将藺苞・副校尉の戴級と将兵1万騎を雲中郡の塞に遣わした始建国3年11年)に、藺苞らは呼韓邪単于の子の右犁汗王咸と、その子の登と助の3人を塞に誘い入れた黄金などの宝を与え、また脅して、咸を孝単于、助を順単于立てた。そして咸を返し、助と登を都の長安送った藺苞はこの功績宣威公封じられ虎牙将軍任命された。 結局この分工作失敗して匈奴との戦い激化し国内でも反乱広がったが、藺苞活動について他に知られることはない。

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王邑」の記事における「事跡」の解説

王舜とともに王莽親族にして腹心とされた人物。新においては、その創始から滅亡に至るまで三公地位にあった重鎮である。

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董忠 (新)」の記事における「事跡」の解説

姓名董忠 時代新代 生没年生年不詳 - 23年地皇4年) 字・別号不詳出身地不詳職官大司馬〔新〕 爵位・号等降符伯〔新〕 陣営所属等王莽 家族・一族不詳王莽配下武将天鳳6年19年)、匈奴攻撃諫止した大司馬荘尤厳尤)が、王莽怒りを買い罷免されたため、降符伯だった董忠後任大司馬任命された。 地皇3年22年)冬、各地で反新軍勃興してくると、王莽命令により、大司徒王尋10数万軍勢率いて洛陽駐屯し大司馬董忠は軍の訓練従事することになった。そのため、大司空王邑三公全ての職を兼務している。 地皇4年23年6月王邑率いる新の主力部隊が、昆陽劉秀(後の光武帝率いる漢軍に殲滅され、王尋戦死した。新の滅亡近づく中で、衛将軍王渉が、日頃世話をしていた道士西門君恵から「天文によれば劉氏当に復興しようとしています。国師公(劉歆)の姓名これにあたります」旨の進言を受け、これを信じる。王渉は、大司馬董忠劉歆説得して皇帝擁立し挙兵する謀議持ちかけ、董忠もこれに応じた2人劉歆説得しようとしたが、劉歆は、天文観察によれば東方軍隊更始帝劉秀らの荊州の漢軍)が成功するだろうと述べ消極的な姿勢を示す。そこで王渉計画変更し王莽を捕え、荊州の漢軍に投降することを劉歆持ちかけ、劉歆もこれに応じた。 しかし董忠配下指示し、軍の演習行って計画進めていたところ、配下一人である司中大贅・起武侯孫伋が妻の説得により翻意し、王莽密告し董忠らの陰謀露見してしまう。王莽召喚に、董忠部下護軍王咸の諫止聞かず、これに応じて宮中参内した。そこを中黄門たちに捕縛されてしまい、董忠自刎ようとしたが、その直前中黄門たちに刺し殺されてしまう。董忠配下士官たちも、更始将軍史諶により武装解除された。 王莽は、虎賁近衛兵)に命じて斬馬刀董忠遺体を切り刻み、それを竹の器に盛りつけ晒した。さらに董忠宗族処刑し強酸毒薬小刀とともに地中埋めている。

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王匡 (新)」の記事における「事跡」の解説

姓名王匡 時代新代 生没年生年不詳 - 23年地皇4年) 字・別号不詳出身地冀州魏郡元城県委粟里 職官太師将軍〔新〕?→)兆域大将軍〔新〕→太師〔新〕 爵位・号等褒新侯〔新〕→褒新公〔新〕 陣営所属等王莽 家族・一族父:王舜 兄:王延 新の王莽配下である。天鳳3年16年)、父の王舜死去した後に、兄の王延は父の爵位である安新公を継ぎ、褒新侯に封じられていた王匡は父の地位である太師将軍継いだ。ただし、地皇元年20年2月には、王匡は兆域大将軍地位にあったとあり、父の死去後ただちにその地位にあったかどうか不明である。 地皇3年22年4月太師となっていた王匡は、更始将軍平均廉丹と共に精鋭10万軍勢率いて赤眉軍討伐向かった。しかし王匡廉丹は、進軍先で部下放縦限り尽くさせたため、「赤眉軍に逢っても、太師王匡)には逢うな。太師はまだ良い更始廉丹)には殺されるぞ」との格言出来るほどであった同年冬、王匡らはまず無塩蜂起していた索盧恢を鎮圧し王匡廉丹公に昇進している。 まもなく赤眉軍別働隊董憲梁郡活動しているという情報入り王匡はただちにこれを討伐ようとした廉丹兵士休養が必要と諫言したが、王匡聞かず廉丹已む無くこれに従う。そして須昌董憲交戦した敗北した逃走する王匡に、廉丹は自らの印韍と符節渡した上で小僧逃げることもできよう。だが、私はそうも行かないと言いその場踏みとどまって戦死したその後王匡は国将哀章救援を受け、洛陽守備している。しかし、地皇4年23年9月更始帝の命を受けた更始帝配下王匡攻撃受けて洛陽陥落し王匡哀章降伏した2人更始帝配下王匡により、宛へ送致された上で処刑されている。

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甄邯」の記事における「事跡」の解説

姓名甄邯 時代前漢時代 - 新代 生没年生年不詳 - 12年始建国4年) 字・別号子心(字) 本貫出身地豫州汝南郡 職官侍中兼奉車都尉前漢〕→光禄勲(後に右将軍兼任)〔前漢〕→太保兼後承〔前漢〕→大将軍前漢〕→大司馬〔新〕 爵位・号等承陽侯〔前漢〕→承新公〔新〕 陣営所属等平帝孺子嬰王莽 家族・一族不詳王莽腹心幕僚一人同姓甄豊とともに王莽さまざまな献策行い、新の創建貢献した政治家である。 元始元年1年)、侍中兼奉車都尉から光禄勲遷る元始2年2年)、右将軍兼任する同年3月侍中・奉車都尉就任時に宗廟安んじる策を定めた功績評価され承陽侯に封じられた。 以上のように、元始年間に、甄豊甄邯王莽側近として台頭し朝廷威勢振るい始めた元始3年3年)、甄邯王莽による王宇呂寛・衛氏一族誅滅加担している。またこの時、京兆尹金欽が、その曾祖父金日磾功績を讃え、自身祖父父について立廟するよう上奏すると、甄邯はこれを「大不敬」として糾弾した。金欽は罪に問われ自殺し甄邯は国礼の綱紀正した功により千戸加増されている。 居摂元年6年3月甄邯太保兼後承に任命され孺子嬰補佐した居摂2年7年9月東郡太守翟義反乱の際には、甄邯は、大将軍兼任し王莽の命で覇上に駐屯した。翟義呼応して槐里右扶風)で蜂起した趙明・霍を、甄邯は建威将軍王晏とともに迎撃し、居摂3年8年)に三輔引き返してきた虎牙将軍王邑らの援護得て趙明らを鎮圧する始建国元年9年)、王莽が新を創建するとともに、承新公に封じられ大司馬就任した始建国4年12年)、大司馬地位に在ったまま死去した

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王憲 (新)」の記事における「事跡」の解説

姓名王憲 時代新代 生没年生年不詳 - 23年更始元年) 字・別号不詳出身地司隷弘農郡 職官弘農掾〔新〕→校尉更始〕→漢大将軍自称爵位・号等- 陣営所属等王莽更始帝 家族・一族不詳〕 新討伐蜂起した群雄一人である鄧曄配下武将当初王憲弘農掾の地位にあったが、地皇4年23年秋に鄧曄于匡が析県(弘農郡)で蜂起するとその配下になったと見られる鄧曄于匡が、丞相司直李松らが率い更始帝軍と合流し京師倉を攻撃すると、その間王憲鄧曄から校尉任命された。王憲別働隊として、周辺地域掃討することになる。 まず王憲は、数百人の部隊率いて北の渭河渡河する。そして左馮翊進入し、各城を攻略占領した。さらに北進したところ、頻陽県(左馮翊)に至るまでに、陽(左馮翊万年県)の豪族申碭と下邽(左馮翊)の豪族大などが次々と王憲投降してきた。そして、天水郡隗囂率いる軍が長安向かっているという風聞を受けると、王憲長安攻略大功立てよう進軍開始する同年10月王憲らが率い部隊により長安陥落した王莽は漸台で商人呉に殺され校尉公賓就は王莽首級王憲献上する。すると王憲は漢大将軍称し城内10万軍勢自軍加えたまた、王莽後宮女性たち衣服車馬器物独り占めし御璽天子の儀まで自分のものとしている。 それからまもなく李松鄧曄らが率い更始帝本隊長安入城し更始帝配下の西屏大将軍申屠建将軍趙萌もこれに合流する。しかし王憲戦利品独り占めし御璽や儀献上しようとしなかった。この様見た申屠建趙萌は、直ち王憲を捕え、処刑してしまう。 ところが王憲処刑により、三輔官民は残らず粛清されるという風聞飛んだこのため三輔各地挙兵していた群雄民衆は、恐慌から更始帝軍への反乱頻発する申屠建らはこれらを鎮圧できず、更始2年24年2月更始帝長安入りして大赦布告するまで混乱続いた

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王渉」の記事における「事跡」の解説

姓名王渉 時代前漢時代 - 新代 生没年生年不詳 - 23年地皇4年) 字・別号不詳本貫出身地冀州魏郡元城県委粟里 職官衛将軍〔新〕 爵位・号等直道侯〔新〕→直道公〔新〕 陣営所属等王莽 家族・一族父:王根 一族王莽従兄弟王舜又従兄弟王邑従兄弟天鳳5年18年)、直道侯の地位にあった王渉衛将軍任命されまた、王莽王根がかつて自分引き立ててくれた恩を思っていたため、王渉直道公に昇格した地皇4年23年6月大司空王邑率いる新の主力部隊が、昆陽劉秀(後の光武帝率いる漢軍に殲滅され、大司徒王尋戦死した。新の滅亡近づく中で、王渉は、日頃世話をしていた道士西門君恵から「天文によれば劉氏当に復興しようとしています。国師公(劉歆)の姓名これにあたります」旨の進言を受け、これを信じる。そして、大司馬董忠共謀して劉歆説得して皇帝擁立し挙兵しようとした。しかし劉歆は、天文観察によれば東方軍隊更始帝劉秀らの荊州の漢軍)が成功するだろうと述べ消極的な姿勢を示す。そこで王渉計画変更し王莽を捕え、荊州の漢軍に投降することを劉歆持ちかけ、劉歆もこれに応じた。 しかし、董忠配下の司中大贅・起武侯孫伋が王莽密告して、王渉らの陰謀露見してしまう。王莽指図により董忠宮中誅殺され、王渉劉歆自殺して果てた王莽は、王渉親族劉歆古くからの部下であることから、政権内部崩壊恐れ、この事件公開しようとしなかった。

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唐尊」の記事における「事跡」の解説

姓名唐尊 時代前漢時代 - 新代 生没年生年不詳 - 23年地皇4年) 字・別号伯高(字) 本貫出身地豫州沛郡 職官太傅〔新〕 爵位・号等平化侯〔新〕 陣営所属等王莽 家族・一族不詳王莽配下政治家初めは、山陽郡の張無故(字は子儒)に儒学学んだ地皇元年20年)、太傅平晏死去すると、唐尊その後任として太傅任命された。この時に唐尊は、「国が貧しく人民苦しんでいるのは、奢侈原因です」と王莽進言している。 『漢書』鮑宣によれば唐尊は、破れた古着着て、穴の開いた靴を履き、粗末な器で食事をとり、公卿にもこれらの器を贈ったとしている。また、王莽によれば、袖の短い衣服(「短衣小袖」)を着て牝馬が引く粗末な車(「柴車」)に乗り寝床としたという(粗末な器の話も掲載されている)。さらに、男女並んで歩いている姿を見ると、唐尊はこれを捕え、「象刑」と称して赤い染料(「赭幡」)でその衣服染めた唐尊は、以上のような清貧振舞いを示すことで、王莽から賞賛を受け、平化侯に封じられた。しかし『漢書』鮑宣伝は、唐尊前漢末期から新代にかけての「清名之士」の一人とする一方、「虚偽により名声得た(「被虚偽名」)」とも非難している。 地皇4年23年10月王莽更始帝軍によって漸台に追い詰められると、唐尊も他の同僚たちとともに王莽護衛していたが、敵兵との戦闘の中で討ち死にしている。

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郭欽 (新)」の記事における「事跡」の解説

姓名郭欽 時代新代 生没年不詳〕 字・別号不詳本貫出身地等〔不詳職官戊己校尉〔新〕→九虎将軍〔新〕 爵位・号等侯〔更始帝陣営所属等王莽更始帝 家族・一族不詳王莽配下将軍天鳳3年16年)、新の五威将王駿焉耆国を討伐したが、配下西域兵に離反され、敗死した。戊己校尉地位に在った郭欽は、このとき別に軍を率いており、王駿戦死後焉耆国に到達した焉耆国の軍が帰還していなかったため、郭欽焉耆国の老幼殺して、軍を率いて本土へ帰還した地皇4年23年)秋、析県(弘農郡)で蜂起した鄧曄于匡討伐するために、郭欽王莽から「九虎将軍」の一人任命される。九虎将軍家族王莽人質にとられ、首都警備する精鋭部隊率いていたが、王莽は自らの財貨惜しみ、九虎将軍部隊兵士にはわずか4千銭しか支給せず、士気低調であった郭欽は他の将軍たちとともに、回谿(弘農郡華陰県)の要衝守備したが、鄧曄于匡前に大敗してしまう。 この結果、九虎将軍のうち王況と史熊は自害し果て、四虎は逃亡して姿をくらました。残る三虎郭欽・陳翬・成重は、敗残兵取りまとめ、賞都大尹王欽とともに京師倉(華陰県の北)を守備した王莽殺害され、新が滅亡した聞くと、郭欽は王欽とともに更始帝降伏した更始帝はこれを義とし、2人は侯に封じられた。 以後郭欽行方不明である。

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甄阜」の記事における「事跡」の解説

姓名甄阜 時代前漢時代 - 新代 生没年? - 23年地皇4年) 字・別号不詳出身地不詳職官校尉前漢〕→前隊大夫〔新〕 爵位・号等- 陣営所属等平帝孺子嬰王莽 家族・一族不詳王莽配下人物最初匈奴との外交事務関与していた模様である。まず、中郎将韓隆を長とする匈奴への使節団に、甄阜は副校尉として加わり次いで中郎将王駿を長とする使節団にも同じ肩書加わっている。新が創設された後の始建国元年9年)にも、甄阜は五威将王駿を長とする匈奴への使節団参加したその後時期不明だが、甄阜は前隊大夫新制南陽太守)に任命され地皇年間において反新勢力摘発鎮圧従事した李通が反新活動参加したことから、宛の名家である李氏一族尽く処刑したり、反新軍敗北して棘陽南陽郡)から撤退した県長岑彭の母を拘束したりするなど、苛烈にして強迫的な手法が目立つ。地皇3年22年)末、宛を目指し進軍してきた劉縯王匡らの反新軍を、属正新制都尉梁丘と共に長安聚(南陽郡育陽県)で迎撃した。甄阜はこれに勝利し、さらに劉縯一族数十人も殺害している。 地皇4年23年1月甄阜梁丘賜は、勢い乗って南へ向けて追撃する。甄阜らは輜重郷(南陽郡棘陽県)に留め10万精兵率いて黄淳渡り、沘臨んで両川の間に宿営し後方壊して背水の陣敷いた。しかし劉縯は、王常率い下江軍を味方引き入れ反撃転じる別働隊郷の輜重を奪わせた上で劉縯らは甄阜梁丘賜軍に総攻撃仕掛けた逃げ場失っていた甄阜梁丘賜軍は、次々と黄淳落ち込んで2万人余り死者出し甄阜梁丘賜も混乱の中で戦死したとされる

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鮑文エツ」の記事における「事跡」の解説

北京陸軍大学卒業し奉天派に属する。1926年民国15年)、鮑文樾安国第3・4方面軍軍団参謀長就任した翌年6月陸軍中将銜を授けられた。1928年民国17年)、東北保安司令部参議東北陸軍講武堂教育長、東省特別区警務処処長をつとめる。 張学良易幟後、鮑文樾参謀本部参謀次長軍事委員会第2庁副庁長軍事委員北平分会委員軍事委員会弁公庁副主任陸海空軍総司令部駐京弁事処処長を歴任した。なお1930年民国19年)の中原大戦に際しては、張の代理人として南京に赴き、蒋介石との間で連絡役をつとめた1939年民国28年)、鮑文樾は、汪兆銘汪精衛)の下で中国国民党中央委員となる。翌年3月汪兆銘政権南京国民政府)が成立すると、軍政政務次長任命され代理軍政部長となった。このほか、中央政治委員会委員軍事委員常務委員にも就任している。同年12月軍事委員会主委員任命された。 1941年民国30年3月鮑文樾軍政部長正式に昇格し、清郷委員会委員兼ねた5月広東省政府委員任じられる9月中央陸軍軍官学校校務委員会委員となる。翌年8月軍政部の改組に伴い陸軍部部長となった1943年民国32年1月には最高国会議委員となる。同年4月参謀総長任じられた。1945年民国34年4月河南省省長となっている。 日本敗北後鮑文樾蒋介石国民政府により漢奸として逮捕される1947年民国36年3月7日死刑判決言い渡されたが、同年5月20日無期懲役減刑された。1949年民国38年)、台湾連行され引き続き収監される。1975年民国64年)、釈放された。 1980年民国69年4月台北市にて病没享年89

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張邯」の記事における「事跡」の解説

姓名張邯 時代新代 生没年生年不詳 - 23年地皇4年) 字・別号不詳本貫出身地揚州九江郡 職官大長秋〔新〕→大司徒〔新〕 爵位・号等明学男〔新〕 陣営所属等王莽 家族・一族不詳王莽配下で、後に三公となった重鎮前漢末期儒学者后蒼弟子で、王莽の下では、いずれも時期不明だが、大長秋任命され明学男に封じられている。また、地理孫陽と共に、新における井田制実施中心的人物であった地皇元年20年)秋、王莽長安の南に巨大な祖廟建築しようとした。この時、張邯崔発と共に「徳の盛んな方は儀礼豊富になるものであり、この建築かなりの規模なります海内全国)にこのことを知らしめ、万世の後もこの祖廟越え建築現れないようにするべきです」と王莽進言した。しかし、この祖廟建築は、国内官民徴発寄付強要し疲弊させることになってしまう。 地皇2年21年)、かつて左将軍務めていた公孫禄が王莽に対して国師劉歆らを弾劾したが、張邯孫陽もその対象であり、「井田制実施して民衆から土地生業を失わせた」と非難されている。しかし王莽怒り公孫禄を追い払ってしまった。 地皇4年23年)、更始帝配下の漢軍などが、王莽平帝毒殺した触れ回っていた際に、王莽釈明今後の対応のための朝議行った。この時、張邯は、以下のように述べて王莽おもねっている。「『易経』は“伏戎于莽、升其高陵三歳不興”と記してます。“莽”は陛下、升は劉伯升劉縯当時更始帝大司徒)、“高陵”は高陵翟方進の子翟義指します。すなわちこの文は、劉伯升翟義新皇帝の世に伏兵(“伏戎”)を構えながらも、結局は殲滅されて勃興できないこと述べているのです。」張邯の言を聞き大臣たちは皆歳を唱えた同年6月昆陽潁川郡)の戦いで大司空王邑大司徒王尋の軍が漢軍に敗退し王尋戦死した王邑長安退却した後、張邯王尋後任として大司徒任命されている。同年10月更始帝配下の軍が宣平城門から長安城内へ突入してきた。この時、張邯城門視察赴いたが、敵兵出会って殺害されてしまう。

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王巡」の記事における「事跡」の解説

姓名王巡 時代新代 生没年生年不詳 - 23年地皇4年) 字・別号不詳出身地不詳職官震狄将軍〔新〕→車騎将軍〔新〕 爵位・号等- 陣営所属等王莽 家族・一族不詳王莽配下武将である。 始建国2年10年)、王莽立国将軍孫建命じ12将軍率いて匈奴討伐させる王巡も震狄将軍として、厭難将軍陳欽とともに雲中郡から出撃している。その後も陳欽とともに雲中郡邪塞に駐屯し、しばしば進攻してくる匈奴交戦した。 しばらくすると王巡三輔召喚され車騎将軍任命されている。地皇4年23年正月納言将軍荘尤厳尤)・秩宗将軍陳茂・左隊大夫王呉とともに南陽の反新軍(のち更始帝擁立)を討伐するよう王莽から命じられた。 同年10月更始帝配下の軍が長安攻撃してくると、王巡大司馬王邑とともに部隊率いて抗戦した。しかし防衛線を破られ城内への進入許してしまう。王巡は漸台にいた王莽護衛し迫り来る敵軍懸命に食い止めた。しかし、ついに白兵戦の中で戦死した

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王尋」の記事における「事跡」の解説

姓名王尋 時代前漢 - 新 生没年? - 23年地皇4年) 字・別号不詳出身地不詳職官校尉前漢〕→大司徒〔新〕 爵位・号等丕進侯〔前漢〕→章新公〔新〕 陣営所属等平帝孺子嬰王莽 家族・一族不詳王莽配下で、丕進侯。前漢末期中郎将王駿らの匈奴への使節団に副校尉として参加している。 始建国元年9年1月王莽皇帝として即位し、新を創始した。このとき、王尋哀章献上した匱に王莽補佐する11人の一人として名が挙げられていた。そのため、大司徒任命され、章新公に改め封じられた。地皇元年20年7月王莽長安の南に祖廟建築しようとする王尋大司空王邑と共に符節与えられ建築工事指揮監督した。 地皇3年22年)冬、王莽命令により、王尋10数万軍勢率いて洛陽駐屯した。地皇4年23年3月、漢軍(更始帝軍)の劉秀王常らが潁川郡進攻し、昆陽・郾・定陵各県攻略する。そのため、大司空王邑王莽の命により洛陽派遣された。王邑王尋は各郡の部隊から100万兵力動員して実際に42万人だったとされる)、これを「虎牙五威兵」と称し荊州潁川平定用いている。 同年5月王邑王尋洛陽から潁川到着した。このとき、宛(荊州中心地)は劉縯劉秀の兄)率いる漢軍に包囲されていたが、王邑王尋先に昆陽の漢軍を制圧しようと目論んだ王邑王尋の軍に合流した納言将軍荘尤厳尤)は、劉縯討伐こそが重要であるため、直ちに宛へ向かうべきであると進言した。しかし王邑王尋聞き入れず昆陽包囲した王邑王尋は、昆陽城を守備していた漢軍の王鳳らの降伏を赦さず、荘尤諫言無視して包囲強めた。そのため、窮鼠王鳳らは必死抵抗する昆陽攻略てこずっている間に、宛は劉縯により陥落した。さらに6月昆陽城内から脱出した劉秀数千援軍引き連れて昆陽戻ってきた。王邑王尋はこれを甘く見て、自ら1万余りの軍を率いると、味方軍勢軽挙妄動禁じた上で単独劉秀軍に挑みかかる。しかし劉秀果敢な戦いぶり前に王邑王尋の軍は撃破されてしまう。そして、さらなる劉秀攻勢前に王尋戦死した王尋戦死きっかけに、新軍劉秀により殲滅されてしまう(昆陽の戦い)。

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梅思平」の記事における「事跡」の解説

国立北京大学法律科の卒業生国立中央大学国立中政治学教授経て1933年民国22年)、江寧県現在の南京市江寧区県長となる。中国国民党では、CC系一員とされる1936年民国25年6月江蘇省10区行政督察専員に任命され9月には同区保安司令兼ねた翌年5月、職を免ぜられたが、同年国民党中央政治委員会内政委員となる。 梅思平は、周仏海側近として「低調倶楽部」に参加し対日和平主張したまた、芸文研究会香港分会責任者として、香港国際問題研究所専門研究員となり、『国際叢書』の編集担当した1938年民国27年)8月汪兆銘汪精衛)側の代表として松本重治日本側の和平運動責任者交渉重ね汪兆銘重慶脱出実現させた。 1939年民国28年8月汪兆銘合流し、その指導下で国民党秘書長中央執行委員常務委員組織部長に任ぜられた。翌年3月南京国民政府正式な成立とともに中央政治会議委員工商部長となる。5月日本軍管理工廠接収委員会委員長となり、7月には糧食委員会委員となった11月日本との『中日日中基本関係条約締結参与する1941年民国30年2月浙江省省長を兼任し3月に清郷委員会委員8月実業部長歴任した1943年民国32年1月、最高国会議委員となり、9月内政部部長異動した1945年民国34年5月民衆訓練部部長兼任する日本敗北後同年9月逮捕され1946年民国35年5月9日死刑判決を受ける。同年9月14日南京死刑執行された。51歳没。

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童冠賢」の記事における「事跡」の解説

天津南開大学卒業日本留学し早稲田大学法学士取得した続いてアメリカ留学しコロンビア大学経済学修士学位取得するその後ドイツにも留学しベルリン大学大学院在学した。さらにイギリスにも留学してロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に在籍した1925年民国14年)に帰国し北京大学教授となる。まもなく顧孟余追随して広州向かい中国国民党加入したその後北京戻り国民党政治委員華北分会委員として党務工作従事した中山大学教授安徽大学法学院院長国立編訳館人文主任中央大学法学院院長歴任している。 1933年民国22年2月監察院監察委員任命される同年6月には監察院審計部常務次長昇進した以後も、監察院監察委員つとめた他、国民参政参政員、中央大学経済主任などを歴任した1943年民国32年12月監察院山西陝西監察監察使に任じられている。 1946年民国35年11月には憲法制定(「制憲」)国民大会代表当選した1948年民国37年11月孫科後任として中華民国立法院院長就任した。しかし、国共内戦帰趨決した1949年民国38年10月辞任している。 1950年香港移り、崇基学院教鞭をとった。1965年引退し米国メリーランド州移住した1981年8月7日カナダ死去享年88

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邵元沖」の記事における「事跡」の解説

13歳秀才となり、1906年光緒32年)に杭州浙江高等学堂入学抜貢となった翌年には法官裁判官)として採用され江蘇省鎮江地方審判庁庭長に就任した。この時期中国同盟会加入している。1911年宣統3年)に訪日し孫文対面している。 中華民国成立後帰国し上海で『民国新聞』の総編輯となった1913年民国2年)、第二革命勃発し邵元沖参加したが、失敗終わり日本へ亡命した。1914年民国3年)、中華革命党に加入し、雑誌民国』の編集従事した1917年民国6年9月広州大元帥府機要秘書となり、秘書長代行職務務めた1919年民国8年)冬、アメリカ留学しウィスコンシン大学コロンビア大学学んだ1924年民国13年1月中国国民党第1期候補中央委員選ばれ、まもなく中央委員選ばれた。その後中央常務委員委員政治委員委員、粤軍総司令秘書長黄埔軍官学校政治教官代理政治部主任)、法制委員会委員などを務めた同年冬、孫文随従して北京向かい、行営機要主任秘書北京民国日報』社社長となった孫文死後は、西山会議派加入し、その中央執行委員選出されている。1926年民国15年5月国民党中央青年部部長となった翌年5月浙江省省務委員会委員杭州市長に任じられた。1928年民国17年4月上海で『建国雑誌創刊し11月中華民国立法院立法委員選出された。その後も各職を歴任し1931年民国20年3月立法院副院長一時代理院長となった12月副院長辞任しその後国民党中央委員などを歴任している。 1936年民国25年12月西安訪問していた蔣介石電文に応じて邵元沖西安赴いた。しかし同月12日西安事変巻き込まれて邵は張学良楊虎城部下発砲を受け負傷14日死亡した享年47

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顧忠琛」の記事における「事跡」の解説

清末安慶安徽武備学堂監督つとめた。しかし、学生柏文蔚らが中国同盟会参加したため、顧忠琛は清朝猜疑されて、南京閑職左遷された。 辛亥革命に際しては、顧忠琛は江浙聯軍総参議として革命派加わった1924年民国13年5月孫文孫中山)の下で北伐賊軍第4軍軍長任命されている。 1940年民国29年3月汪兆銘汪精衛)の南京国民政府において監察院副院長任命された。1944年民国33年11月立法院長に転じた梁鴻志後任として監察院院長昇格している。 日本敗北直前1945年民国34年7月31日死去享年86

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黄金栄」の記事における「事跡」の解説

農民の子として生まれ、六歳で両親とともに上海移り寺子屋教育を受ける表具店で勤めた後、フランス租界中国人警察官となる。てなづけチンピラ偽装事件を起させそれを自らの力で解決させることで手柄挙げていた。特に有力者フランス人神父誘拐事件解決した(この時は自分コネクション使って居所探し当て救出した)ことで警察長にまで上りつめ、その地位利用して阿片賭博売春の3事業莫大な財と権力獲得。しかし、愛人女優めぐって軍閥息子トラブル起こしその部下たちに誘拐された。配下杜月笙救出され彼と義兄弟契り交わし同等の地位になる。 国民党北伐開始し1927年到着するとかつて世話をした蒋介石再会し同年4月張嘯林杜月笙とともに中華共進会結成共産党弾圧した上海クーデター参加。その功績から高い地位与えられた。1937年日本軍の上占領が起こると杜月笙蒋介石従い脱出した張嘯林そのまま留まり日本協力し黄金栄も留まったが中立立場維持した国共内戦共産党勝利し上海まで進軍してくると香港脱出することを勧められたが高齢のため断りそのまま居残った中華人民共和国建国後質素に生活し1950年始まった反革命鎮圧運動では執拗な取調べを受け、過去犯罪人間関係隠し財産などを自白させられた。裁判かけられたが判決はさほど厳しくなく数ヶ月間、かつて所有していた娯楽センター大世界」の前の通り掃除させられその様子は新聞宣伝された。1953年上海病死した。

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鉄良」の記事における「事跡」の解説

直隷総督栄禄幕僚となり、後に戸部兵部侍郎に任ぜられた。1903年光緒29年)、日本軍事視察赴く帰国後に練兵大臣軍機大臣陸軍部尚書歴任した1910年宣統2年)、江寧将軍異動する辛亥革命勃発後の1912年民国元年1月に、良弼愛新覚羅溥偉と共に宗社党結成し清朝擁護図った。しかし結局清朝はまもなく滅び鉄良はこれ以後天津隠れ住んでいる。 1938年民国27年6月8日死去享年76(満75歳)。 大清国先代: 長庚(チャンゲン) 兵部尚書 1905年 次代: 松寿(スンシェウ) 先代: 栄慶(ルンキン) 戸部尚書 1905年 - 1906年 次代: - 先代: - 陸軍部尚書 1906年 - 1910年 次代: 廕昌(イェンチャン)

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趙爾豊」の記事における「事跡」の解説

1875年光緒元年)、郷試受けた及第せず、謄録浄書係の旧称)に任じられた。その後山西省官吏として経歴開始したが、1888年光緒14年)、当時山西省赴任していた錫良(シリャン)に見出され以後錫良引き立てにより各職を歴任する。特に、1901年光緒27年)からは、河道総督となった錫良の下で、趙爾豊河川工事責任者務め実績積んでいる。 1903年光緒29年)、四川総督となった錫良随従して趙爾豊四川入りし、会党土司反乱鎮圧従事した1906年光緒32年)、清朝から督弁川滇辺務大臣任命される。そして1907年光緒33年)、錫良後任として、護理四川総督任じられた。1908年光緒34年5月、駐大臣兼領辺務大臣任じられ、さらに正式に四川総督就任した1909年宣統元年)には、軍を率いてチベット入りしたが、この年に駐大臣等を辞任し、川滇辺務大臣専任となる。 1911年宣統3年4月趙爾豊四川総督復帰し四川省発生した鉄道保護運動鎮圧奔走した。しかし、武昌起義勃発すると、四川省でも鉄道保護運動革命派蜂起と結びついていく鎮圧どころか自己の身が危うくなった趙爾豊は、四川咨議局議長蒲殿俊政権委ねて下野する。 しかし、鉄道保護運動鎮圧革命派などから怨みを買い、さらに反動的蜂起疑われていた趙爾豊は、同年12月蒲殿俊後継した四川都督尹昌衡により逮捕され成都公開処刑された。享年67

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毛光翔」の記事における「事跡」の解説

貴州講武学堂第1期卒業以後毛光翔義兄周西成追随して各地転戦し次第昇進していった。1923年民国12年)、周が靖黔軍を結成した頃に、桐梓内部で「群(毛光翔)、紹(王家烈)、佩(黄道彬)、用(猶国才)」の後継序列定まる。すなわち、毛が序列第1位となった1924年民国13年)、毛光翔川南辺防総司令に任ぜられている。1927年民国16年)、周西成国民革命軍第25軍軍長貴州省政府主席に任ぜられると、毛は第25軍軍長任命される。 しかし、毛は同年8月雲南遠征において、総司令官立場ありながら妾の下で数日過ごして指揮放棄し、そのために雲南軍に敗北するという大失態犯している。1929年民国18年5月雲南省政府主席竜雲雲南軍を貴州送り込んでくると、周の指揮の下、毛はこれを迎撃したが敗北し、周も戦死したその後雲南軍は李燊貴州省政府主席擁立したが、まもなく雲南省内戦のために引き上げ孤立状態となる。毛光翔桐梓派の軍人たちは、反撃転じ下野追い込んだ同年10月、毛が新たに貴州省政府主席兼討逆軍第18路軍総指揮就任し、いったんは桐梓派の貴州支配復活する。 しかし、毛光翔過去大失態などもあって人望薄く桐梓派内で序列第2位とされていた王家烈次第にその地位を伺うようになった。王は蒋介石密かに結んでその軍事支援を受けると、1932年民国21年)、クーデター起こす同年3月情勢不利になった毛は下野宣言し、王が後任の省政府主席となった。 それでも毛光翔は、王家烈クーデターに不満を抱いていた序列第4位の猶国才ら他の桐梓指揮官たちと結んで、王への反撃開始する12月今度は王が下野追い込まれ、猶が代理ではあるが後任の省政府主席となる。しかし、毛・猶らは各指揮官同士主導権争い展開しまとまりがなかった。王はそこを衝く形で逆襲開始し翌年4月、猶から省政府主席地位奪回している。猶はその後一定の地位保持して王を牽制したが、毛はこれを最後に完全に軍事政治から引退した1947年民国36年)、死去享年55

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錫良」の記事における「事跡」の解説

光緒元年1874年)、甲戌進士となる。各地知県知州知府道員歴任した後、光緒24年1898年)、山西按察使となる。翌年湖南布政使遷る同年9月湖南巡撫光緒26年1900年)に山西巡撫翌年湖北巡撫赴任せず)と歴任した同年5月東河河道総督遷り光緒28年1902年2月河南巡撫となり、同年5月熱河都統となった光緒29年1903年4月、署四川総督昇進し翌年正式に四川総督任命された。光緒33年1907年2月雲貴総督に遷った。宣統元年1909年2月欽差大臣任命され、さらに東三省総督兼管三省将軍事に遷った。翌年、他省の総督巡撫と共に内閣の組織国会開設清朝中央電文要請した宣統3年1911年4月、病により辞任休養した同年11月、再び熱河都統任じられたが、民国元年1912年1月辞任した総督として任じられていた間に、錫良は各任地政務辣腕振るい政治・軍事産業近代化基盤築き上げ民国以後にも影響与えた民国6年1917年)、病没享年65

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王文豹」の記事における「事跡」の解説

清の附生(府・州・県で採用され生員)。1902年光緒28年)、日本留学し東京帝国大学治安警察法専攻するその後巡査教習所経て警視庁警察法学んだ1905年光緒31年)に帰国すると、湖南省警察庁上席顧問巡警教習所教官となる。翌年北京移り北京外城巡警総庁検事外城分庁知事に任ぜられ、以後行政局長、衛生局長も歴任した中華民国成立後1912年民国元年)、警察庁課長に任ぜられる。翌年禁煙参事となり、さらに京畿税務局長兼任したその後司法秘書長転じ1914年民国3年7月司法監獄司司長に任命された。なお北京政府崩壊する1928年民国17年6月まで、そのほとんどの期間において、王文豹はこの地位にあり続けた監獄司司長を務めつつ、1924年民国13年11月王文豹は署理司法次長兼任する1926年民国15年4月賈徳耀内閣盧信後任として代理司法総長となり、胡惟徳臨時内閣経た同年5月まで務める。その後燕京大学講師転じたが、1927年民国16年7月監獄司司長に再任され、北京政府崩壊まで務めた。その他、民国学院法律主任北平大学法学院法律講師務めている。王文豹没年不明である。

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魏益三」の記事における「事跡」の解説

1914年民国3年11月保定陸軍軍官学校第1期砲兵科卒業。第1師(長:蔡成勲連長経て1917年民国6年)、北京陸軍大学第5期入学するその後保定陸軍軍官学校教官となり、1920年には徐樹錚西北辺防軍第3混成旅(長:褚其祥(中国語版))騎兵第4団団長として庫倫駐屯安直戦争後の1921年民国10年)、東北赴いて奉天派転じ東北陸軍39団団長、第3混成旅(長:張学良参謀長に任ぜられる。1923年東三省教導隊隊長兼任東北陸軍講武堂教官1924年民国13年)、張学良師団長務める第27参謀長となった第2次奉直戦争では、姜登選第1軍張学良第3軍合併させた鎮威軍第1、3聯軍の参謀長として張学良サポートし熱河直隷に展開。翌1925年春、第1、3聯軍は京駐軍司令部改編され天津駐留ほどなくして東北陸軍砲兵第2旅旅長に転じ10月東北陸軍第3方面軍第10軍(長:郭松齢参謀長砲兵司令

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宋建」の記事における「事跡」の解説

関中軍閥一人後漢末期に枹罕反乱起こした。『献帝春秋』によると、反乱起こした宋建王国は、韓遂韓約)ら数十人を人質取り金城太守の陳懿を殺害した韓遂は、金城郡有力者によって身代金払われ買い戻されると、名を韓遂改めたという。『後漢書』によると、中平元年184年)の出来事だったとある。 宋建河首平漢王称し後漢朝廷から自立して独自の年号定め丞相以下百官置いていた。しかし建安19年214年)、曹操軍夏侯淵攻撃され一月あまり後の10月枹罕滅ぼされた。宋建処刑され宋建置いた丞相以下の官吏らもまた同じく殺された。 建安21年216年)、献帝曹操魏王封じた。その詔勅によると、宋建韓遂と共に益州劉備通じていたとある。 司馬彪の『続漢書』によると、建安17年212年10月益州周羣は、彗星が五諸侯星宿出たのを見て西方群雄が皆土地を失うと予言した。『続漢書』では実際に没落した群雄として、益州劉璋漢中張魯湟中北宮玉涼州韓遂枹罕宋建挙げ予言的中した主張している。 また傅玄『傅子』では、魏で司馬氏反乱起こして敗死した文欽諸葛誕と共に宋建の名を挙げ反乱者が碌な最期迎えられないことを、当時誰もが知っていたこととして、例示している。宋建比較挙げられ群雄反乱者の名から、宋建自身それなりに有力な群雄か、あるいは反乱者として認識されていた可能性はある。 この項目は、中国の歴史関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者求めています(P:中国/P:歴史/P:歴史学/PJ中国史)。 この項目は、人物関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者求めています(プロジェクト:人物伝Portal:人物伝)。

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周隆庠」の記事における「事跡」の解説

日本留学し1932年民国21年)に九州帝国大学法文学部法科卒業する帰国後は汪兆銘汪精衛)の日本語通訳務めた1937年民国26年)末の時点では、外交部情報司科長兼外交部研究専員となっている。 翌1938年民国27年5月周隆庠汪兆銘の命を受けて高宗武と共に東京に赴き、日本側との交渉あたった1939年民国28年5月末、汪兆銘日本逃れ首相平沼騏一郎らと交渉行った際には、周が通訳つとめている。8月、周は汪派の中国国民党中央委員任命された。11月周仏海陶希聖梅思平と共に影佐禎昭との間で「日華新関係調整要綱」について交渉行った翌月、汪が署名)。 汪兆銘政権発足直前1940年民国29年3月26日周隆庠中央政治委員会外交専門委員会委員に任ぜられる。4月外交部常務次長代理亜洲司司長となり、7月には正式に常務次長任命された。8月、党海外党務委員会委員指名される。翌1941年民国30年2月東亜聯盟中国総会理事会秘書長に、5月には清郷委員会参議に任ぜられた。6月汪兆銘随従して日本に赴き、昭和天皇首相近衛文麿などとの会談通訳つとめた10月外交部政務次長となる。 1942年民国31年2月時局策進委員会秘書長に任ぜられる。翌1943年民国32年1月外交部次長となった2月新国運動促進委員会委員行政院敵産管理委員会委員に任ぜられる。4月国民政府政務参賛に、5月上海フランス専管租界接収委員に任ぜられた。9月行政院秘書長昇進した11月大東亜会議出席する汪兆銘随従し、やはり周が通訳つとめている。1944年民国33年5月中央政治委員会高国会議秘書長となり、11月に汪が病没すると、国民政府文官長に移り陳公博の下でも日本語通訳つとめた汪兆銘政権崩壊後1945年民国34年8月25日に、陳公博と共に日本へ亡命したが、10月帰国強いられることとなる。周隆庠反逆罪いわゆる漢奸の罪)で国民政府から無期懲役言い渡された。 1969年上海病没享年65

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アンドレイ・アレクサンドロヴィチ (ウラジーミル大公)」の記事における「事跡」の解説

1277年カフカースタタール向けて遠征1281年以降ウラジーミル大公位をめぐり、兄ドミトリー・アレクサンドロヴィチと争う。その際タタール唆してこれを味方に付けてドミトリーと戦う場合多かった1281年1285年1293年デュデンの侵寇)。 1294年ロストフ公ドミトリー・ボリソヴィチの娘ヴァシリサと結婚この年に兄が死去しウラジーミル大公確保した1304年死去彼の三人の息子父親より早く亡くなっており、ウラジーミル大公位は従兄弟トヴェリ公ミハイル・ヤロスラヴィチに移る。 先代: ドミトリー・アレクサンドロヴィチ ウラジーミル大公 121294年 - 1304年 次代: ミハイル・ヤロスラヴィチ 表 話 編 歴 ロシア君主 ウラジーミル・スーズダリ大公アンドレイ1世1168–1174 ミハイル1世1174–1176 フセヴォロド3世1176–1212 ユーリー2世1212–1216 コンスタンチン1216–1218 ユーリー2世復位1218–1238 ヤロスラフ2世1238–1246 スヴャトスラフ3世1246–1248 ミハイル・ホロブリト(ロシア語版英語版1248 アンドレイ2世ロシア語版英語版1248–1252 アレクサンドル1世1252–1263 ヤロスラフ3世1264–1271 ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ1272–1277 ドミトリー1世1277–1294 アンドレイ3世1294–1304 ミハイル2世1304–1318 ユーリー3世1318–1322 ドミトリー2世1322–1326 アレクサンドル2世1326–1327 イヴァン1世1325–1340 セミョーン1340–1353 イヴァン2世1353–1359 ドミトリー3世ロシア語版英語版) 1359–1362 ドミトリー4世1362–1389 ヴァシーリー1世1389–1425 ヴァシーリー2世1425–1462 イヴァン3世1462–1505 ヴァシーリー3世1505–1533 イヴァン4世1533–1547 モスクワ大公ダニール・アレクサンドロヴィチ1263–1303 ユーリー3世1303–1325 イヴァン1世1325–1340 セミョーン1340–1353 イヴァン2世1353–1359 ドミートリー・ドンスコイ1359–1389 ヴァシーリー1世1389–1425 ヴァシーリー2世1425–1462 イヴァン3世1462–1505 ヴァシーリー3世1505–1533 イヴァン4世1533–1547 ツァーリ リューリク朝イヴァン4世1547–1574 シメオン・ベクブラトヴィチ1574–1576 イヴァン4世復位)1576–1584 フョードル1世1584–1598 動乱時代ボリス・ゴドゥノフ1598–1605 フョードル2世1605 偽ドミトリー1世1605–1606 ヴァシーリー4世1606–1610 偽ピョートル1606–1607 偽ドミトリー2世1608–1610 ウラジスラフ1610-1634 カール・フィリップ1611-1617 偽ドミトリー3世1612 ロマノフ朝ミハイル・ロマノフ1613–1645 アレクセイ1645–1676 フョードル3世1676–1682 イヴァン5世1682–1696 ピョートル1世1682–1721 インペラートル ロマノフ朝ピョートル1世1721–1725 エカチェリーナ1世1725–1727 ピョートル2世1727–1730 アンナ1730–1740 イヴァン6世1740–1741 エリザヴェータ1741–1762 ホルシュタイン=ゴットルプロマノフ朝ピョートル3世1762 エカチェリーナ2世1762–1796 パーヴェル1世1796–1801 アレクサンドル1世1801–1825 ニコライ1世1825–1855 アレクサンドル2世1855–1881 アレクサンドル3世1881–1894 ニコライ2世1894–1917 一覧 この項目は、君主関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者求めています(P:歴史/P:人物伝/PJ王朝/PJ人物伝)。 この項目は、ロシアの歴史関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者求めています(P:歴史/P:ロシア/PJ:歴史/PJ:ロシア)。

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李文範」の記事における「事跡」の解説

1900年光緒26年)、自費日本留学し法政大学法政速成科学んだ1905年光緒31年)、東京中国同盟会加入する帰国後、公立広東法政学堂教員翻訳通訳となった翌年広東省同盟会長となる。清末同盟会の蜂起にも参加した1912年民国元年)、広東省海軍軍務秘書長都督府参議となる。翌年から袁世凱打倒活動従事し二次革命第二革命)や護国戦争第三革命)にも参加した1920年民国9年)、フランス留学している。 1924年民国13年9月広東省政務庁庁長当時の省長は胡漢民)に任ぜられた。翌年7月広州国民政府秘書長中央委員会政治委員秘書長となっている。同年9月、胡に随従してソビエト連邦視察向かった1926年民国15年)に帰国したが、同年11月今度アメリカ合衆国へ党務視察向かっている。 1927年3月帰国すると、中国国民党中央執行委員会宣伝委員会主任委員任命された。翌年6月広東省政府委員民政庁長となっている。1928年民国17年10月国民政府立法院立法委員秘書長に任ぜられた。翌年3月国民党第3期中央執行委員選出され以後第6期まで継続して同職選出されている。また第5期からは常務委員にも選出された。1931年民国20年12月内政部部長任命されたが、翌年2月退いている。1935年民国24年)、国民政府委員に任ぜられた。 日中戦争抗日戦争)が勃発すると、国防最高委員会委員任命されている。1940年民国29年11月から党政工作委員会主任委員党務主任の他、党務様々な要職兼任した1946年民国35年)、制憲国民大会代表に当選する翌年6月司法院副院長に任ぜられた。1948年民国37年)、行憲国民大会代表当選している。 国共内戦国民党敗北すると、李文範台湾逃れた以後国民大会代表党中央評議委員党中央規律委員会主任委員総統府資政などを歴任している。 1953年民国42年6月23日台北市にて病没享年70(満68歳)。

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諸青来」の記事における「事跡」の解説

清末日本留学し商工経済学んだ帰国後は、清朝の農商部・財政部任官する。後に、上海神州大学創設し総務長となる。また、雑誌銀行周報』編輯となり、上海大夏大学・持志大学光華大学中国公学で教授つとめた1934年民国23年)、中国国家社会党加入する1937年民国26年)の日中戦争抗日戦争勃発後は、上海雑誌新学識』において、国共合作反対の主張展開した1940年民国29年3月汪兆銘汪精衛)の南京国民政府加入した。(汪派)中国国民党中央政治委員交通部部長兼任している。翌年8月全国経済委員会常務委員水利委員会委員長となる。1943年民国31年8月立法院副院長任命された。 日本敗北後諸青来消息不明である。

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下間頼照」の記事における「事跡」の解説

頼照の前半生については詳らかではなく記録が残るのは天正元年1573年)頃からである。 天正元年1573年朝倉義景織田信長によって滅ぼされ越前国織田勢力下におかれた。天正2年1574年1月越前桂田長俊反発する民衆誘って富田長繁指導者として土一揆起こし、長俊を滅ぼした。だが、長繁と一揆衆はまもなく敵対し一揆衆は長繁に代わって加賀国から一向宗七里頼周呼んで自らの指導者とし、長繁を滅ぼした。こうして、越前平定した後に頼照は顕如によって一向一揆新たな総大将として派遣され豊原寺本陣として越前平定し実質的な本願寺領とした。 しかし一揆主力である地元勢力は、大坂から派遣された頼照や七里頼周らによって家臣のように扱われることに不満をもち、反乱企てた天正2年1574年)閏11月、頼照はじめ本願寺側の勢力はこれを弾圧した天正3年1575年)夏、織田勢力越前進攻。頼照は観音丸城に立てこもり木芽峠信長迎え撃つ準備をする。8月15日信長1万5千の軍をもって越前総攻撃とりかかった地元一揆勢の十分な協力得られなかったこともあり、織田方の猛攻拠点の城は落城、頼照は海路のがれようとしたが、真宗高田派門徒発見され、首を討たれた。

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胡家鳳」の記事における「事跡」の解説

1912年民国元年)、国立北京法政専門学校卒業し、後に北京政府教育部主事視学歴任した1923年民国12年4月から翌年8月まで江西省教育庁庁長署理を務めている。その後私立中国大学、私立華北大学国立北平大学農学院、警官高等学校教授歴任したまた、塩務学校教育長校長代理務めている。1931年民国20年2月より青島市政府秘書長に任ぜられた。 日中戦争抗日戦争勃発後、胡家鳳山東省政府委員秘書長に任ぜられ、省政府主席沈鴻烈随従した。まもなく胡は国民政府軍委員会国防最高会議第1処処長に転じている。1940年民国29年10月江西省政府委員に任ぜられ、翌年1月には同省政府秘書長就任した戦後軍事委員会東北行秘書長立法院立法委員歴任している。1948年民国37年4月王陵基後任として江西省政府主席起用されたが、翌年1月早くも辞任し5月には香港移った1950年民国39年秋に胡家鳳台湾移り総統府国策顧問に任ぜられた。翌年春、裕台企業公司董事長となっている。 1962年民国51年12月29日台北市にて病没享年77(満76歳)。

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畢沢宇」の記事における「事跡」の解説

15歳長春府中学卒業する1911年宣統3年)冬に、辛亥革命間隙を衝いて黒竜江省仲間たち挙兵してハルビン占領しようとしたが、失敗して獄に入れられた。 翌年釈放され奉天公立法政学校入学した1915年民国4年卒業後、呉佩孚の下で参議処処長をつとめた。しかし、呉が中国国民党北伐敗北して下野すると、畢沢宇もやはり下野した1937年民国26年)に日中戦争抗日戦争)が勃発すると、畢沢宇は冀南で遊撃隊組織した1939年民国28年2月察哈爾省政府委員民政庁長当時主席石友三)に抜擢されている。4月重慶に赴き、国民党中央訓練第3期訓練受けた1940年民国29年12月国民革命軍69軍長に任ぜられる。さらに翌年8月まで代理察哈爾省政府主席となった1943年民国32年5月河北省政府委員に任ぜられている。 日中戦争勝利後は吉林省臨時参議会議長となった1948年民国37年3月には行憲国民大会代表当選する8月ハルビン市市長に任ぜられた。国共内戦国民党敗北する台湾逃れ引き続き国民大会代表務めている。 1968年民国57年1月8日台北市死去享年76

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鄒琳」の記事における「事跡」の解説

1905年光緒31年)、成都高等予科学校入学する翌年北京学館合格、さらに1907年光緒33年)には京師法政学堂入学した中華民国成立後1912年民国元年)からは、『民権報』、『民主報』、『民国報』などの各紙で社論を執筆しながら学業継続している。京師法制学堂国立北京法政専門学校改組された後の1913年民国2年)に卒業した卒業後の鄒琳は、弁護士として北京律師公会加入し、またジャーナリストとして『実録報』の総編輯務めた1914年民国3年)、四川省屏山県内江県で県知事となる。1919年民国8年)からは広東赴いて孫文孫中山)の護法運動参加した翌年5月広州軍政府司法第三司司長に任ぜられ、以後広東省政府部門の各職を歴任している。 1928年民国17年1月鄒琳国民政府財政部秘書長に任ぜられ、7月全国財政会議秘書長12月財政部塩務署署長となる。1930年民国19年1月財政部常務次長となり、1932年民国21年7月、同部政務次長に任ぜられた。 日中戦争勃発後、鄒琳国防最高会議委員国家総動員設計委員会財政金融主任任命され戦時財政政策責任者1人となった以後国防最高委員会設計委員会委員広東省政府財政庁長第4戦区経済委員会主任委員などを歴任している。1942年民国31年1月財政部貿易委員会主任委員となり、翌年4月財政部設計委員会委員兼任した1944年民国33年2月中国銀行董事となり、10月中国進出口(輸出入貿易協会理事長となっている。なお鄒琳は、国民政府内では秦汾と共に宋子文側近目されていた。 戦後1947年民国36年11月広東省政府秘書長広東省銀行董事長就任する翌月には広東物資調節委員会常務委員となった国共内戦末期1949年民国38年)に香港へ去る。後に、崇正総会常務理事世界客属懇親大会籌備委員会名誉理事など客家団体幹部務めた1984年11月22日香港死去享年97

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謝冠生」の記事における「事跡」の解説

浙江第一中学徐匯中学卒業後、1915年民国4年)に商務印書館入り、『辞源』や『中国地名大辞典』の編集業務参加したその後震旦大学法科学び1922年民国11年)に卒業するフランス留学している。フランスではパリ大学法学研究所で学び1924年民国13年)に法学博士学位取得した帰国後の謝冠生は、震旦大学復旦大学中国公学、法政大学教授歴任した1926年民国15年)冬、国民革命軍北伐武漢に至ると、外交部秘書として登用された。南京国民政府成立してからも引き続き外交部留まり秘書条約委員会委員歴任している。また、国立中央大学法律主任法学院院長務めた1930年民国19年4月司法院参事参事転じる1934年民国23年10月司法行政部政務次長となり、1936年民国25年3月には司法院秘書秘書長務めた日中戦争抗日戦争勃発後の1937年民国26年8月司法行政部部長昇進し以後1948年民国37年12月まで11年長期わたってこの地位在り司法官任用などの事業携わった1945年民国34年5月中国国民党第6期中央監察委員選出され1947年民国36年4月には、行政院政務委員兼ねた司法行政部長離任後は、公務員懲戒委員会委員長司法院秘書長転じている。 国共内戦国民党敗北すると、謝冠生台湾逃れた1950年民国39年5月司法院副院長任命され1958年民国47年6月司法院院長昇進している。 1971年民国60年12月22日台北市にて病没享年75(満74歳)。著書に『中華民国憲法概論』(英文書)、『法理学大綱』、『ローマ法大綱』、『中国法制史』(フランス語)、『ソ連国際法』(英文書)がある。

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欧事研究会」の記事における「事跡」の解説

1913年民国2年7月からの第二革命二次革命)に敗北した孫文日本亡命し、翌1914年民国3年7月8日東京新たに中華革命党組織した中華革命党は、加入者に孫への絶対的な忠誠要求したため、この体制黄興始めとする多く革命派人士反感を抱くことになる。 同年8月孫文反発する革命派人士たちのグループは、東京において欧事研究会結成した。この研究会の名は、欧州情勢重大さ(すなわち第一次世界大戦)につき、集合して討論することを目的としたことから付けられた。欧事研究会結成中心となったのは、黄興かねてから親しかった李根源章士釗である。このほか発起人には、彭允彝殷汝驪、冷遹、林虎程潜などが名を列ねた。会員100余り数え、これ以後護法運動活躍したり、国民政府に参加したりする著名な人士参与している。 ところが黄興は、欧事研究会結成時点ですでにアメリカ去っていた。その後、黄は訪米中李根源らからの要請を受け、欧事研究会構成員となることは了承したが、自身がその領袖となることは辞退している。それでもらにとっては、やはり黄が心中領袖であった欧事研究会は、中華革命党異なり表向き急激な革命路線をかかげなかった。むしろ「漸進主義」・「同情主義」を採用して穏健に袁世凱対峙することを旨としている。しかし袁が皇帝即位目論むうになると、李根源らは果敢に決起して護国戦争にも貢献した1916年民国5年6月袁世凱皇帝即位取消しの末に病没すると、欧事研究会事実上解散されるその構成員たちも様々な政治路線へと分かれていくことになった

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馬相伯」の記事における「事跡」の解説

カトリック教徒家庭生まれた11歳イエズス会運営する上海イグナチオ公学(徐匯公学)に入学した1862年イエズス会に入会し、哲学文学天文学学んだ1869年神父となり、安徽省宣城江蘇省南京徐州一帯布教行った1872年イグナチオ公学の校長となるが、外国人宣教師やっかみ遭って1876年イエズス会脱会した。 その後、兄の馬建勛の勧め李鴻章幕僚となり、山東省鉱業調査行った1881年より駐日公使館の参賛となり、翌年からは朝鮮赴いた1885年から台湾巡撫劉銘伝幕僚となった1892年から再び日本赴任し長崎横浜領事館公使館の参賛となった1903年には震旦学院(後の震旦大学)を創設した1905年には厳復とともに復旦公学現在の復旦大学)を創設し、自ら校長となって于右任邵力子らを教授招いた。また英斂之とともに北京教大学を設立し、これは後に輔仁大学改名された。他に北京培根女校も創立している。 1912年中華民国成立する江蘇都督府外務司長・北京大学校長代理などを歴任した1920年引退しキリスト教書籍翻訳没頭した。さらに最高学術機関創設構想したが、これは友人教育者蔡元培により、1928年中央研究院として実現した1931年満州事変勃発する内戦停止呼びかけ1935年中国共産党八・一宣言発表する沈鈞儒鄒韜奮らと上海文化救国運動宣言発表した翌年宋慶齢何香凝らと全国各界救国連合会執行委員選ばれた。1937年南京国民政府委員となった1938年昆明避難する途中ベトナムで病にかかり、翌年死去した

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程徳全」の記事における「事跡」の解説

清で貢生となる。1890年光緒16年)、国子監で学ぶ。翌年から、主に黒竜江において政治的経歴積み重ね、主に事務文書起草の任に就いた1905年光緒31年)、黒竜江将軍を署理し、1907年光緒33年)、黒竜江巡撫を署理する。1909年宣統元年)、奉天巡撫任命された。1910年宣統2年)、江蘇巡撫異動した辛亥革命勃発後の1911年宣統3年11月程徳全周囲から推戴され江蘇都督となる。1912年民国元年1月3日南京臨時政府成立すると、その内務部総長任命された。その同日中国同盟会離脱した章炳麟章太炎)・張謇らと中華民国連合会(後の統一党)を組織している。4月臨時大総統就任した袁世凱から、改め江蘇都督任命される5月統一党民社合併して共和党となったが、程徳全章太炎不和になり、共和党から離党した1913年民国2年)の二次革命第二革命)では、程徳全江蘇省独立宣言した。しかし、まもなく上海赴くなどして、実際活動乏しかった同年9月二次革命敗北とともに江蘇都督辞任した。これにより政界から引退し以後上海仏門に入った1930年民国19年5月29日死去享年71

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白朗」の記事における「事跡」の解説

辛亥革命発生した1911年宣統3年10月、宝豊で挙兵した。初め20数人小銃1本を有するにすぎなかったが、後に周辺民兵糾合していき、1912年民国元年)には500人を擁し河南省西部一帯ゲリラ戦展開した1913年民国2年)、第二革命発生する白朗南方革命党支持のもと、袁世凱政権反乱起こし京漢線の安全を脅かすようになった袁世凱湖北省河南省陝西省の3省連合軍白朗包囲したが、連合軍のうち陝西王生岐の部隊反乱起こし白朗軍に参加した。これにより白朗軍の兵力装備大い改善され白朗は「中華民国扶漢討袁司令大都督」と自称するようになった1914年民国3年)、白朗軍は袁世凱軍の包囲突破して安徽省侵入した2月13日袁世凱段祺瑞総司令として北洋軍の精鋭繰り出して白朗追撃した追われ白朗安徽省離れて湖北省入り3月8日老河口占領した。このとき兵力は2万人達していた。 この後白朗西進決意して3月17日陝西省入った。たびたび現地の駐防軍を破り天水岷県経て甘粛省南部チベット族居住地区入った。しかし拠点を築くことに失敗し武器入手できなかったので、白朗は軍を引き返して河南省戻った白朗袁世凱防衛線を突破して6月河南省に戻ることができたが、損失甚大やむなく軍を分散してゲリラ戦移行した。やがて袁世凱軍に各個撃破され、白朗は宝豊の戦いで包囲落ちる。包囲突破した際に銃弾浴びて負傷し8月5日に石荘で死亡した享年42。 この白朗の軍(白狼軍)に1913年10月頃から1914年1月初めまで、中国名「王鉄石」として入った日本人がいた。工藤三郎である。工藤は後1932年満洲国執政溥儀から「忠」名をもらい、戸籍上も工藤忠改名した工藤南京第二革命軍に参加し革命軍崩壊の後、漢口から白狼軍向かい江湖会哥老会)の会員となってから河南省荊紫関白狼軍入り雲南革命派2人とも会った。のち工藤革命派家法とともに日本行き孫文黄興白狼軍との連携働き掛けたが、孫文黄興殺戮略奪強姦破壊繰り返す白狼軍手を握ることは、盛んに革命派白狼軍連携宣伝している袁世凱政権術中に陥るものだと拒否した。しばしば諸研究強調されている孫文黄興による白狼軍への働きかけということは疑問のである。 以上は、山田勝芳工藤忠資料から見た白狼軍白朗軍)」(『東北アジア研究17号2013年)による。

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金邦平」の記事における「事跡」の解説

1899年光緒25年)、日本留学し早稲田大学学んだ1902年光緒28年)に卒業し帰国して袁世凱文案となる。以後北洋督錬処参議直隷省自治局督理、資政院秘書長などを歴任している。 中華民国成立後1912年民国元年)、中国銀行籌弁処総弁任じられる1914年民国3年)、北京政府政事堂参議となる。翌年3月、農商部次長となり、8月には全国水利副総裁兼任した1916年民国5年4月段祺瑞内閣において周自斉後任として農商総長任命されたが、わずか2か月辞任した以後政界離れて天津移り実業活動従事する1931年民国20年)には、上海啓新洋灰公司経理となっている。これ以降金邦平活動不詳である。

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金永昌」の記事における「事跡」の解説

若くして喀喇沁右旗軍官学堂入学する1909年宣統元年)、日本留学し東京帝国大学農学部畜産学学んだ帰国後、北京政府では臨時参議院蒙古選出議員、蒙学院教授をつとめる。一時孫文孫中山)の護法運動支持して広東常国会議員となったが、まもなく北京政府戻り黎元洪大総統顧問となったその後、蒙専門学校校長西北督弁公署顧問歴任している。その後白雲梯らと内蒙古国民党組織参画し、1925年民国14年)、内蒙古国民党中央執行委員となる。また、南京国民政府でも農鉱部設計委員となった1932年からは関東軍嘱託となり、同年満州国建国とともに駐蒙弁事処処長となる。その後内モンゴル転じて蒙古自治政務委員会委員蒙古軍政府内務処長、同政府満代表を歴任した1937年民国26年11月蒙疆聯合自治政府成立と共に総務交通委員となる。翌年8月政府改組従い産業部長異動した1939年民国28年9月蒙古聯合自治政府成立すると、同政府交通部長に任命された。1941年民国30年6月政府機改組に伴い交通部交通総局改められたが、金永昌引き続き総局局長をつとめる。1943年民国32年8月辞任した以後金永昌行方不詳である。

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翟文選」の記事における「事跡」の解説

1901年1902年光緒27年28年)に、辛丑壬寅併科挙人となる。以後黒竜江将軍府全省文案処提調官、安達庁撫民通判、呼倫庁撫民同知を歴任した中華民国成立後1913年民国2年)、黒竜江警察庁庁長任命された。以後張作霖率い奉天派一員となる。1917年民国5年)、参議院議員選出される1920年民国9年9月東三省塩運使に任ぜられた。1928年民国17年)、東三省保安委員となっている。 張作霖死後の同年7月、翟文選張学良から奉天省長に任命された。同年12月易幟経て奉天省遼寧省改組され、翟がそのまま遼寧省政府主席留任している。1929年民国18年1月東北政務委員会委員国民政府首都建設委員会委員兼ねた1930年民国19年1月に、省政府主席辞任する。後に万国道徳総会理事となった満州事変勃発後、翟文選関東軍から満州国参加呼びかけられた。しかし、翟はこれを拒否して天津隠居する。後に北平移った晩年仏門入り邸内修行していたとされる1950年4月23日死去享年73

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李錦綸」の記事における「事跡」の解説

華僑家庭生まれシカゴ大学法学士ニューヨーク大学法学修士それぞれ取得している。1911年帰国し広東省交渉政務科科長に任ぜられた。中華民国成立後国民党加入したが、第二革命二次革命)で革命派敗北すると、一時国外へ亡命している。 1917年民国6年)、李錦綸孫文孫中山)の護法運動参加し、孫の秘書務めた翌年4月広州軍政府外交部政務司司長に任ぜられ、1920年民国9年)、粤海関監督広東交渉員となっている。1922年民国11年)、私立上海滬江大学副校長政治学教授転じた国民政府成立後1927年民国16年11月李錦綸外交部参事に任ぜられる。翌1928年民国17年)には、常設仲裁裁判所代表となり、10月駐メキシコ公使となった1929年民国18年10月外交部政務次長昇進し1931年民国20年10月各派合流国民政府改組の間に外交部長暫時代理している。まもなく政務次長部長代理辞し翌年在米華僑への宣慰やアメリカ政府との折衝のため渡米した1933年5月、駐ポーランド兼駐チェコ公使に任ぜられる。翌1934年6月、駐ポルトガル公使に転じ1943年9月までこれを務めたその後外交部顧問となり、アメリカで国民政府宣伝活動従事している。 1956年2月21日ニューヨークにて病没享年71

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馬良 (安徽派)」の記事における「事跡」の解説

北洋武備学堂卒業1911年宣統3年)には北洋第5鎮第9協協統に昇進している。中華民国成立に伴う軍改組後も、そのまま第5師第9旅旅長に留まった。以後山東47混成旅旅長、済南鎮守使を歴任している。 1916年民国5年6月袁世凱死後は、段祺瑞率い安徽派所属した1918年民国7年)、参戦軍第2師師長辺防軍第2師師長歴任した。しかし、1920年民国9年7月安直戦争失脚した1925年民国14年)に北京政府軍事顧問となる。また、1933年民国22年)に国民政府軍事参議院参議となったものの、概して不遇であった1937年民国26年)の日中戦争勃発後、華北日本軍の手落ちとともに馬良済南維持会長として日本協力した1938年民国27年4月中華民国臨時政府の下で署理山東省省長となる。翌年1月唐仰杜に譲るまでその地位にあった汪兆銘汪精衛)が1940年民国29年3月南京国民政府樹立すると、華北政務委員会委員任命された。また、国術教会組織して自ら会長となる。自らの邸宅数十名の居候武術家を置き、道場設けて後輩指導にあたっている。 1945年民国34年8月日本敗北後馬良漢奸として国民政府に捕えられる1947年民国36年)、山東省済南市獄死した。享年73

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黄自強」の記事における「事跡」の解説

黄埔軍官学校第4期卒業後、日本留学する1926年陸軍士官学校入学し第20期砲兵科首席卒業した帰国後、1930年民国19年)の中原大戦では、蔣介石派として天津で反蔣派の動向調査したが、発覚して反蔣派に逮捕されている。この時は留学時代友人伝手釈放された。中原大戦後は南京砲兵学校上校教官に任ぜられ、同学校の教育長項致荘から目をかけられた。しかし講義中の落馬事故で、黄は右足後遺症が残る怪我負ってしまう。 日中戦争抗日戦争勃発した後に、黄自強海州(今の江蘇省連雲港市)に駐屯していた楊仲の軍で参謀長つとめた1940年民国29年3月汪兆銘政権南京国民政府)が成立すると、楊は第2集団総司令に任ぜられ、黄もそのまま汪兆銘汪精衛配下となる。 黄自強留学時代戦術教官であった今井武夫との人脈生かし次第政権内で台頭していく。1941年民国30年11月南京国民政府軍事委員会弁公庁副主任となる。翌年8月参謀本部参謀次長軍事委員総務庁庁長昇進した。これらのほか、(汪派)中国国民党候補監察委員に任ぜられ、また、かつての上司である項致荘汪兆銘政権迎え入れる上で貢献する1943年民国32年2月黄自強新国運動促進委員会委員となり、4月陸軍編練総監公署総監任命された。10月軍事委員会の改組に伴い軍事委員政治部部長となる。この人事により、黄は李士群死後の特務指揮掌握することになった1945年民国34年3月江西省省長兼九江綏靖主任公署主任となる。また、上海塩業公司董事長にもなった。 日本敗北後黄自強密かに台湾へ逃亡した。しかし1947年民国36年)、黄は喫茶店1人軍人により射殺されてしまった。この事件背景等については不明である。

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趙徳全」の記事における「事跡」の解説

20歳湖北軍に加わる。1904年光緒30年)、貴州新軍移動し、隊官に任ぜられた。 1911年宣統3年10月武昌起義契機辛亥革命勃発すると、趙は新軍内で同志蜂起の準備開始し、その集団の代表に選ばれている。11月3日陸軍学堂学生蜂起きっかけ新軍革命派蜂起し翌日には貴州軍政府成立した貴州軍政府都督には貴州陸軍小学総弁楊藎誠推戴され、趙は副都督に任ぜられている。まもなく、楊は湖北黎元洪救援のため北伐向かい、趙が代理都督となった。 しかし貴州軍政府内では、趙徳全らの新軍張百麟らの革命派グループと、任可澄らの立憲派劉顕世らの旧軍グループとの間で激しい対立生じていた。そして任・劉らは、翌1912年民国元年3月唐継尭率いる滇軍(雲南軍)を貴陽招きいれ、張・趙らのグループ粛清してしまったのである趙徳全貴陽から逃亡したものの、翌月になって修文県において雲南軍に捕縛殺害されてしまった。享年31

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許修直」の記事における「事跡」の解説

日本留学中央大学法科卒業した。なお留学中中国同盟会加入している。帰国後は、江蘇法司科長、蘇州私立法政学堂教習浙江高等審判庁推事、同代理庁長浙江官立法政学堂教習大理院推事を歴任した1924年民国13年11月黄郛起用され国務院印鋳局局長となる。以後、黄の腹心として活動することになった1927年民国16年)、国民政府転じ上海市法制主任となる。同年10月交通部秘書長となった翌年12月交通部参事となる。1933年民国22年)、行政院北平政務整理委員会委員委員長黄郛)にも任ぜられ、日本との折衝にもあたった1935年民国24年7月内政部長の黄の下で内政部常務次長昇格した翌年2月病気により辞任した黄に従う形で許修直辞任している。 日中戦争勃発後の1937年民国26年12月中華民国臨時政府新民会厚生部長となる。翌年1月行政委員会調査処処となった3月中華民国維新政府行政院司法行政部部長任命されたが、これは受けなかった。同年7月華北電信電話株式会社副総裁となる。このほか、北京華僑協会理事などをつとめた1939年以降動向はしばらく不詳となるが、1945年民国34年2月汪兆銘政権北京特別市市長に任ぜられている。汪兆銘政権崩壊後動向不詳だが、1954年北京死去した享年74

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費観」の記事における「事跡」の解説

陳寿『三国志』編纂した頃には史料失われていたため立伝されていないが、楊戯記した季漢輔臣賛』には記録がある。 はじめ劉璋仕えていた。213年費観李厳配下として綿竹劉備軍防いだが、最終的に李厳とともに劉備降伏した益州平定し劉備費観を裨将軍任命し、後に巴郡太守江州都督とした。 223年、都亭侯に封じられ振威将軍加えられた。 費観人づき合い上手く20歳以上年長でしかも自尊心の強い李厳相手にしても同年輩のように交流したという。没年不詳だが37歳死去した費観人物像について楊戯は『季漢輔臣賛』で「才幹があり、その文武人々感動させた。官吏として任務をよく理解し物事論じること心強く聡明であった利殖図りつつもその財は施し、義に厚く秩序立ったふるまいをした」と述べている。 小説『三国志演義』では劉璋の婿ではなく劉璋の妻の弟として登場する李厳推挙した上でともに綿竹守り李厳劉備軍に捕えられると、李厳説得受けて開城した。以後登場しない

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銭昌照」の記事における「事跡」の解説

若年時代イギリス留学しロンドン・スクール・オブ・エコノミクス修士号取得した1922年から1924年までオックスフォード大学経済学研究している。 帰国後の1928年民国17年3月銭昌照国民政府外交部秘書文官秘書となる。1931年民国20年6月教育部常務次長昇進した。その翌年国防設計委員会秘書長転じる1933年航空技術処処長を務めていた従兄弟銭昌祚空軍航空技術者養成のため各工科大学航空工程系の設立建議すると、秘書長翁文灝とともに清華大学工学院長の願毓琇(中国語版)や校長梅貽琦理学院長企孫(中国語版)に書簡送り後押しした結果翌年には清華大学航空工程組の設置準備始まった1935年民国24年5月軍事委員資源委員会秘書長となる。1940年民国29年5月資源委員会(この時点経済部移管副主任委員昇進した1941年民国30年9月行政院全国水利委員会委員となり、1945年民国34年5月中国国民党第6期中央執行委員候補となった1946年民国35年5月銭昌照資源委員会主任委員昇進し翌月には国民政府最高経済委員会委員兼任した10月資源委員会が行政院直属移ったことに伴い主任委員から委員長改められている。1947年民国36年4月国防部科学委員会委員となった。その翌年秋に出国し海外へ視察赴いている。 1949年6月帰国すると、銭昌照香港経由北平向かい中国共産党政権へ参加意思表明した中国人民政治協商会議政協第1回全体会議代表(後に第1期全国委員となっている。中華人民共和国成立後は、全国人民代表大会代表(第1~4期)、全人代常務委員法案委員会委員政務院財経委員会委員計画局副局長歴任した。さらに政協第5期第6期には全国委員会副主席務め全人代でも法制委員会委員となったまた、中国国民党革命委員会(民革)にも加入し、後に中央副主席務めている。 1988年10月14日北京市にて病没享年90

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ドミトリー・ミハイロヴィチ」の記事における「事跡」の解説

幼少期から戦い出撃していた。 1314年に父がハン国行き留守の際にノヴゴロド人が蜂起起こすと、それを鎮圧して市長を追する。 1318年には父をサライに連れて行く。彼の帰国後に父がユーリー3世計略殺害されることになる。 1319年末に父の死知らせを受け、トヴェリ公位に就く。 1320年末に、リトアニア大公ゲディミナスの娘マリア結婚する1321年に、ハン国貴族タヤンチャルがトヴェリであったカシン来て、町を荒廃させる1322年に、ユーリー3世が、ルーシからハンに入る収入に手をつけていることをサライ・ベルケに報告する1324年には、ハンの許からユーリー使節送られた。 1325年ハン陣営においてユーリー出会いウズベク・ハン目の前にして、その場ユーリー殺害する1326年そのまま処刑される先代: ミハイル・ヤロスラヴィチ トヴェリ大公 1319年 - 1326年 次代: アレクサンドル・ミハイロヴィチ 先代: ユーリー3世 ウラジーミル大公 1322年 - 1326年 次代: アレクサンドル・ミハイロヴィチ 表 話 編 歴 ロシア君主ウラジーミル・スーズダリ大公アンドレイ1世英語版)1168–1174 / ミハイル1世1174–1176 / フセヴォロド3世1176–1212 / ユーリー2世1212–1216 / コンスタンチン1216–1218 / ユーリー2世復位1218–1238 / ヤロスラフ2世1238–1246 / スヴャトスラフ3世1246–1248 / ミハイル・ホロブリト(ロシア語版英語版1248 / アンドレイ2世ロシア語版英語版1248–1252 / アレクサンドル1世1252–1263 / ヤロスラフ3世1264–1271 / ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ1272–1277 / ドミトリー1世1277–1294 / アンドレイ3世1294–1304 / ミハイル2世1304–1318 / ユーリー3世1318–1322 / ドミトリー2世1322–1326 / アレクサンドル2世1326–1327 / イヴァン1世1325–1340 / セミョーン1340–1353 / イヴァン2世1353–1359 / ドミトリー3世ロシア語版英語版) 1359–1362 / ドミトリー4世1362–1389 / ヴァシーリー1世1389–1425 / ヴァシーリー2世1425–1462 / イヴァン3世1462–1505 / ヴァシーリー3世1505–1533 / イヴァン4世1533–1547 モスクワ大公ダニール・アレクサンドロヴィチ1263–1303 / ユーリー3世1303–1325 / イヴァン1世1325–1340 / セミョーン1340–1353 / イヴァン2世1353–1359 / ドミートリー・ドンスコイ1359–1389 / ヴァシーリー1世1389–1425 / ヴァシーリー2世1425–1462 / イヴァン3世1462–1505 / ヴァシーリー3世1505–1533 / イヴァン4世1533–1547 ツァーリ リューリク朝イヴァン4世1547–1574 / シメオン・ベクブラトヴィチ1574–1576 / イヴァン4世復位)1576–1584 / フョードル1世1584–1598 / 動乱時代ボリス・ゴドゥノフ1598–1605 / フョードル2世1605 / 偽ドミトリー1世1605–1606 / ヴァシーリー4世1606–1610 / 偽ピョートル1606–1607 / 偽ドミトリー2世1608–1610 / ウラジスラフ1610-1634 / カール・フィリップ1611-1617 / 偽ドミトリー3世1612 ロマノフ朝ミハイル・ロマノフ1613–1645 / アレクセイ1645–1676 / フョードル3世1676–1682 / イヴァン5世1682–1696 / ピョートル1世1682–1721 インペラートル ロマノフ朝ピョートル1世1721–1725 / エカチェリーナ1世1725–1727 / ピョートル2世1727–1730 / アンナ1730–1740 / イヴァン6世1740–1741 / エリザヴェータ1741–1762 ホルシュタイン=ゴットルプロマノフ朝ピョートル3世1762 / エカチェリーナ2世1762–1796 / パーヴェル1世1796–1801 / アレクサンドル1世1801–1825 / ニコライ1世1825–1855 / アレクサンドル2世1855–1881 / アレクサンドル3世1881–1894 / ニコライ2世1894–1917

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コンスタンチン・ミハイロヴィチ」の記事における「事跡」の解説

初め年代記登場するのは1318年。父の人質としてハン国にいた。 1320年モスクワユーリー3世の娘ソフィア結婚する1327年トヴェリ蜂起際しハン懲罰恐れトヴェリ諸公ノヴゴロドプスコフ逃亡するコンスタンチンラドガ逃亡するが、すぐにトヴェリ帰国1328年ハンから、トヴェリ大公位のヤルルィクを得る。 1337年に兄アレクサンドルトヴェリ公位を一時渡す。 1346年頃、兄アレクサンドル息子フセヴォロドと争い両者ともに紛争解決のためにハン国に行く。その解決見ぬ前にコンスタンチンはそこで死去した先代: アレクサンドル・ミハイロヴィチ トヴェリ大公 1328年 - 1337年 次代: アレクサンドル・ミハイロヴィチ 先代: アレクサンドル・ミハイロヴィチ トヴェリ大公 1339年 - 1346年 次代: ヴァシーリー・ミハイロヴィチ

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ヴァシーリー・ミハイロヴィチ」の記事における「事跡」の解説

1318年、父ミハイル最後ハン国行きネルリ川まで随行1319年帰還した父の遺骸対面1327年ハン国によるトヴェリ攻撃の歳に母と共にラドガ待避1328年帰還1339年には兄アレクサンドルハン国行きに「スヴャトスラフの野」まで随行1340年ペレヤスラヴリ・ザレスキーにて兄の遺骸対面1345年の兄コンスタンチン死後トヴェリ公第一候補になる。1346年にはハン国行き、その認可得ようとする。 1347年ハンは、甥のフセヴォロドをトヴェリ公とする裁定下すが、ヴァシーリー折れずに公位を彼と争い続ける。 1349年に、トヴェリ主教フョードル仲裁で、ヴァシーリートヴェリ公になる。甥フセヴォロドと共同統治1351年にはハン国から正式にヤルルィク得た1352年にはフセヴォロドと不和に。1353年にはモスクワセミョン大公寡婦マリヤ後見人になる。 1356年にはフセヴォロドが府主教アレクシーを通じてヴァシーリー和解しようと試みるが、成功せず1368年カシン死去先代: コンスタンチン・ミハイロヴィチ トヴェリ大公 1349年 - 1368年 次代: ミハイル・アレクサンドロヴィチ

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厳修」の記事における「事跡」の解説

天津塩商家庭生まれる。親族実業家厳信厚がいる。進士となり、翰林院編修学部侍郎貴州省学政歴任した貴州では教育資金投じ朝廷奏上し科挙廃止経済特科開設提案した戊戌の変法失敗した後、辞職して故郷戻った。しかし中国には変法維新が必要と確信して天津教育事業始めた。まず家塾である厳氏家塾拡張し張伯苓招聘した。張伯苓何度も外国学校視察し厳修張伯苓厳氏家塾をもとに南開中学、ついで南開大学創設した。また女子教育重視し厳氏女塾を創設した。これは後に厳氏女学厳氏女子中学改められ1923年には南開女子中学となった1903年日本の教育視察する帰国後、直隷学校司に任命され1年任期中に各府県学堂設立することと師範学校設立することを要求し天津模範小学天河師範学堂北洋師範学堂女子師範学堂などを創建した南開学校では厳范孫奨学金設置し周恩来奨学金受けて日本留学した

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朱鼎卿」の記事における「事跡」の解説

1920年民国9年)、江蘇淮陰鎮守使の馬玉仁の下で兵士となったが、まもなく四川省出身石青陽配下転じた1922年民国11年)、石に随従して四川省に赴き、軍歴重ねる。翌年雲南陸軍講武学校18期歩兵科学んだ卒業後は広東戻って国民革命軍第3軍属し北京政府派の鄧本殷討伐参戦した1925年民国14年12月重慶市国民革命軍第9軍第1師(師長賀竜)で参謀となり、北伐武漢攻略参加した武漢攻略後、新広西派新桂系)の胡宗鐸配下転じている。 1932年民国21年)、南京中央軍学校高級班学び卒業後は陳誠第18軍参謀処に属した。まもなく第67師第1団団長に昇進し第2次上海事変八・一三淞瀘抗戦)に参戦戦後に同師副師長昇進している。1938年民国27年1月、第75軍第13師で旅長とされ、山東省方面出撃した。年末湖南省移駐し、第13師副師長に再昇進している。1940年民国29年)に同師師長昇進し宜昌一帯守備した1943年民国32年7月、第86軍長昇進し同年11月常徳会戦参戦している。1945年民国34年2月陸軍少将銜を授与される5月、第10集団軍総司令に任ぜられたが、実際に着任せず、第8軍軍官総隊隊長転じた1947年民国36年5月、第1補給司令に任ぜられる。翌年、第9補給司令転じあわせて陸軍中将銜を授与された。1949年民国38年2月湖北省政府主席などに任ぜられ、同省の軍政統括し同年11月には第3兵団司令兼暫編第8軍軍長にも任ぜられている。しかし中国人民解放軍前に敗北し四川方面退却12月26日四川省金堂県で起義(中華人民共和国への寝返りないし投降)を宣言した中華人民共和国では1950年2月に第18兵団高級政治研究班学習し、後に重慶市西南軍政大学でも学んでいる。学習終了後湖北省政治協商会議常務委員副主席務めた1982年5月24日武漢市にて死去享年81

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馬麟 (民国)」の記事における「事跡」の解説

幼年時代モスク学問励んだ。後に武官であった父の馬海宴(『清史稿』によると、馬海彦)に従い軍に入隊する1906年光緒32年)頃からは、いったん商業転じた1911年宣統3年)に軍に復帰し西寧鎮標左路統領任じられる。さらに寧海巡防馬歩率い寧海軍で幇統兼左路統領歩兵第2営管帯に異動した1919年民国8年)、寧海玉樹防務支隊司令任じられる民国10年1921年)、甘辺寧海鎮守使署参謀長異動した1925年民国14年)、寧海軍は馮玉祥率い国民軍編入改組され、国民軍新編26師副師長任じられた。1926年民国15年)、甘辺寧海護軍使署参謀長となる。 1929年民国18年2月青海省政府委員建設庁長任じられた。翌年甘粛全省保安司令任じられる騎兵第1師師長兼任して蘭州駐屯した。 1931年民国20年8月、兄の馬麒死去したため、青海省戻り代理青海省政府主席となった1933年民国22年3月正式に政府主席任じられた(7月、省政府民政庁長兼任)。また、西安行営第2防区司令兼任している。1935年民国24年11月には、中国国民党第5期候補中央監察委員となった。 しかし1936年民国25年5月馬麒は甥で馬麒の子である馬歩芳対立し青海省政府主席地位事実上奪い取られてしまう(馬歩芳正式な政府主席継承は、1938年民国27年3月)。失意馬麒は、同年11月メッカ巡礼赴いた帰国後は故郷居住する1937年民国26年10月国民革命軍17集団軍副司令として復帰した翌年3月には、国民政府委員にも任じられた。 1945年民国34年1月26日病没享年70

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五十嵐竹沙」の記事における「事跡」の解説

安永3年1774年越後国新潟画家五十嵐片原の子として生まれ、父に絵を学んだ天明4年1784年父の死後江戸出て鈴木芙蓉酒井抱一谷文晁等に接して絵を学んだ文化6年1809年亀田鵬斎越後国来訪した際、信濃国佐久郡から千曲川畔まで同行した江戸で毎月7日大窪詩仏詩聖堂で開いた詩会に参加し文化12年1815年)詩仏・菊池五山秦星池作『文人番付の上位に掲載されている。また、文政元年1818年)『江戸方角分』に中御徒町在住天保7年1836年)『広益諸家人名録』にも下谷聖天町在住として掲載される天保15年1844年2月25日71歳死去し上野護国院葬られた。戒名は竹沙院巨宝主膳居士。後に多磨霊園第3区甲32側に改葬された。

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李聖五」の記事における「事跡」の解説

北京大学卒業し日本留学して東京帝国大学大学院法学部研究員となった。さらにイギリスにも留学しオックスフォード大学法学士学位取得した帰国後は、曁南大学復旦大学教授となる。また、上海商務印書館編輯南京中央日報』主編も勤めた1932年民国21年7月国民政府行政院参事就任した翌年12月外交部総務司司長、中央政治会議特務秘書、『東方雑誌』総編集兼任した1935年民国24年)に香港国際問題研究所研究員転じる。このとき、汪兆銘汪精衛)と親しくなった。1937年民国26年6月外交部顧問転じている。 1940年民国29年3月汪兆銘南京国民政府加入し司法行政部部長中央政治委員会指定委員任命された。6月憲政実施委員会常務委員となる。翌年3月、清郷委員会委員となり、8月教育部部長社会行動指導委員会常務委員転じた9月、駐ドイツ大使任命され11月には文物保管委員会委員図書専門委員会主任委員となった1942年民国31年2月ドイツ大使加えデンマーク公使兼任した6月新国運動促進委員会常務委員任じられる1945年民国34年4月外交部部長兼任し翌月には、文物保管委員会委員長と各国治外法権撤廃委員会委員長も兼任している。 日本敗北後同年9月26日蔣介石国民政府により逮捕され南京収監された。1947年民国36年12月9日懲役15年判決受けた。しかし後に釈放され香港隠居し香港中文大学法学教鞭をとった。1979年以降何度帰郷する1984年からは黒竜江省ジャムス市に住む長女の下で暮らした1985年病没享年87

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常蔭槐」の記事における「事跡」の解説

1926年民国15年)、京奉鉄路局長就任した同年12月安国交通総長となる。1927年民国16年6月北京政府潘復内閣交通部次長となる。さらに交通総長兼任していた潘復のために、総長事務代理した。また、関税自主委員会委員兼任している。7月黒竜江省長に異動し陸軍行営総執法処処長兼ねた張作霖死後の1928年民国17年7月東北保安委員会委員黒竜江省省長、東北交通委員会委員長を兼任する同年12月31日易幟に伴い改組された黒竜江省政府初代主席となった。 しかし、その直後1929年民国18年1月11日張学良により常蔭槐楊宇霆とともに緊急逮捕されてしまう。常蔭槐楊宇霆は、即座に銃殺刑処された。享年54

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キョウ心湛」の記事における「事跡」の解説

監生国子監学生)で、卒業後にイギリス留学した日本アメリカフランスイタリアフィリピンなどで公使館随員となる。帰国後は、広東知府兼署理按察使任命され、さらに欽廉兵備道も兼ねた。さらに、雲南臨安広道雲南提法使も歴任している。 1912年民国元年以降武昌造幣廠廠長、漢口中国銀行行長、賑撫局督弁、安徽省国税籌備処処長、財政司司長歴任した1914年民国3年)、安徽省財政庁長となる。1915年民国4年6月北京政府財政部次長昇進し、さらに塩務署督弁も兼ねた同年12月、督弁経界事務任命される1916年民国5年4月参政院参政となる。 1918年民国7年11月安徽省省長に任命されたが、就任しなかった。1919年民国8年1月北京政府財政部総長幣制局督弁兼造幣総裁就任する同年6月から3か月間、一時的に国務総理代行した1924年民国13年11月段祺瑞執政政府内務総長揚子江水道討論委員会会長兼賑務督弁となった1925年民国14年11月、署交通部総長となり、12月正式に交通部総長任命された。1926年民国15年4月辞任している。翌年6月、耀玻璃公司総董に任命され12月、督弁京都事宜兼任した晩年天津居住し銀行保険会社董事長理事長)などをつとめた。なお1942年民国31年3月南京国民政府華北政務委員会から諮議会委員として招聘されている。 1943年民国32年12月天津死去享年73

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事跡

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朱履龢」の記事における「事跡」の解説

イギリス留学経験持ち帰国後は、法権討論会関税特別会議で秘書つとめた1927年民国16年6月国民政府外交部総務司司長となる。10月、同部第二司司長に異動した翌年2月司法秘書長となり、翌月司法次長昇格している(11月、同部政務次長となる)。1930年民国19年4月魏道明後任として司法行政部代理就任する12月立法院立法委員兼任した翌年12月羅文幹司法行政部就任とともに政務次長に戻る。1932年民国21年1月政務次長からも退いた1938年民国27年8月中華民国維新政府司法行政部次長任命された。翌年5月新設され最高法院院長就任している。1940年民国29年3月汪兆銘汪精衛)の南京国民政府成立すると、朱履龢司法院副院長中央政治委員会列席委員任命された。同年4月中央公務員懲戒委員会委員長任命されている。 1945年民国34年4月13日死去享年69

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林柏生」の記事における「事跡」の解説

1920年民国9年)、広州私立嶺南大学で学ぶが、1923年民国12年)、ストライキ参加したため、退学処分受けた1925年民国14年7月汪兆銘秘書となる。10月ソ連留学しモスクワ中山大学学んだ翌年9月帰国し黄埔軍官学校政治教官任命されている。1927年民国16年12月蔣介石対立して下野した汪に随従してフランス向かった1929年民国18年)冬、香港赴任し南華通訊社を創設した翌年2月には、『南華日報』を創刊している。1932年民国21年)、上海で『中華日報』を創刊した。同年4月国民政府僑務委員会常務委員となり、翌年には立法院立法委員となった1937年民国26年)、中国国民党中央宣伝部特派員兼任し翌年2月には香港国際問題研究所設立している。 1938年民国27年12月より、林柏生は、汪兆銘随従して親日政権樹立事務携わる翌年8月、汪の指導下で国民党中央常務委員中央宣伝部副部長となり、さらに中華通訊社社長に就任した翌年2月中央宣伝部部長昇格し3月南京国民政府成立とともに中央政治会議委員兼行院宣部長任じられた。1941年民国30年)、清郷委員会委員となり、さらに新国運動促進委員会常務委員秘書長にもなっている。1943年民国32年1月、最高国会議委員となり、翌年12月には、安徽省省長などに就任した日本敗北後林柏生陳公博随従して日本へ亡命したが、10月3日、陳らとともに中国送還された。1946年民国35年5月31日首都高法院死刑判決を受ける。 同年10月8日南京老虎監獄内で処刑された。享年45

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劉文島」の記事における「事跡」の解説

初めは旧学を学んだが、13歳時に湖北陸軍小学入学する。このときに革命派秘密組織加入し、後に武昌陸軍第三中学進学した1909年宣統元年)、保定陸軍軍官学校入学し第1期歩兵科配属される辛亥革命勃発すると、上海に赴き革命派の軍に加わった1913年民国2年)、第二革命二次革命)が勃発する劉文島革命派加わったが、敗北したために日本へ亡命し、早稲田大学政治経済学部入学した1915年民国4年)、袁世凱日本対華21ヶ条要求調印しようとすると、劉は帰国して反対運動展開したが、そのために逮捕・収監されている。翌年、袁が死去する釈放され日本戻って学業継続した1918年梁啓超組織した欧州視察団劉文島参加し、後にパリ大学法学部入学した1925年法学博士号を取得して帰国し長沙湖南省長公顧問に任ぜられる。まもなく武昌私立中大学教授となり、さらに広東省移り蔣介石紹介中国国民党加入した1926年民国15年)、国民革命軍第8軍党代表兼前敵総指揮政治部主任に任ぜられ、北伐に参加する漢口攻略後、国民党漢口特別市党部執行委員湖北省臨時政治委員委員漢口市委員会委員長を歴任し同年末に漢口市市長となった翌年3月中国共産党との対立の末に市長地位追われる以後国民革命軍総司令部政治部副主任転じ、後に総司令行轅総政治部主任昇進した1929年民国18年3月劉文島国民党第3期中央執行委員候補選出され4月漢口市市長再任された。1931年民国20年5月湖北省政府民政庁長転じている。同年10月、駐ドイツ全権公使起用され欧州向かった翌月には駐オーストリア全権公使兼任している。1933年9月、駐イタリア全権公使異動し翌年10月特命全権大使昇格した1935年11月国民党第4期中央執行委員候補再選されている。1937年民国26年12月帰国した戦時中劉文島国防最高委員会委員務め戦後湖北湖南江西三省で宣慰使を務めた1946年民国35年5月国民党第6期中央監察委員選出され、翌1947年民国36年3月中央監察委員会常務委員に任ぜられている。同年に閩台清査団団長を務めた1948年民国37年5月立法院立法委員に任ぜられ、立法院外交委員会委員となった国共内戦末期台湾へ逃れ以後月刊誌『健康長寿』を創刊し仏学研究している。 1967年民国56年6月11日台北市にて死去享年75(満74歳)。

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周詒春」の記事における「事跡」の解説

私立上海聖ヨハネ書院卒業後、1907年光緒33年)にアメリカ留学するイェール大学ウィスコンシン大学教育学心理学学び修士号取得した1911年帰国し清朝留学生試験を受け文科進士となっている。 1912年民国元年)、南京成立した中華民国臨時政府外交部秘書に任ぜられる。同年秋、公立北京清華学校(後の清華大学)で副校長教務となった翌年夏には校長昇進している。1915年民国4年)夏、私立聖ヨハネ大学文学博士栄誉学位授与された。同年冬、ロサンゼルス基金中華医薬理事会理事となる。1917年民国6年)、清華学校校長職を辞し洋義賬会総幹事となった1918年民国7年8月周詒春安福国会で参議院議員当選し翌年南北和議における北方代表団秘書長務めたその後実業界転じ北京中孚銀行董事経理天津立地公司董事長永利製造化学公司顧問歴任している。1923年民国12年3月北京政府全国財政討論委員会秘書長に任ぜられた。1925年民国14年)、中美文化教基金保管委員会常務董事専任董事務めている。 1933年民国22年6月周詒春国民政府招聘され行政院華北戦区救済委員会委員任命された。同年私立燕京大学校長代理となる。1936年民国25年7月国民政府実業常務次長に任ぜられ、翌年12月貴州省政府財政庁長転じた1945年民国34年8月農林部長抜擢され翌年6月には最高経済委員会委員兼任している。1947年民国36年4月衛生部部長転じ、翌1948年民国37年5月には行政院政務委員兼ねた。しかしこの年のうちに職務退き香港去っている。中華人民共和国建国後1950年内地戻り1956年には中国人民政治協商会議全国委員会特別代表として招聘された。 1958年8月上海市にて死去享年76

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周震鱗」の記事における「事跡」の解説

19歳秀才となり、1897年光緒23年)に両湖書院入学する卒業後、湖南高等学堂監督となり、後に教務となった1903年光緒29年)、長沙明徳学堂教鞭をとる同年11月黄興劉揆一章士釗らと華興会結成した1905年光緒31年8月には、中国同盟会にも加入している。以後安徽省北京教鞭をとる傍ら革命活動従事した辛亥革命直前には上海同盟中部支部により長沙派遣され蜂起計画参加した中華民国成立後は、湖南省籌餉局局長軍務幇弁に任ぜられている。1913年民国2年)、参議院議員選出された。1917年民国6年)、孫文孫中山)が護法運動開始すると、周震鱗もこれに合流し9月大元帥参議に任ぜられている。 1921年民国10年)、中国国民党広東支部総務部部長湖南駐粤代表に任ぜられた。1927年民国16年9月からは、南京国民政府委員となる。翌年国民革命軍北伐により北京攻略すると、周震鱗北京赴いて大総統府・国務院など各政府機関の接収事務担当した同年10月周震鱗立法院立法委員に任ぜられ、後に、北平民国大学校長も務めた。なお、周震鱗書道堪能であり、特に篆書優れたという。 1932年民国21年2月監察院熱察綏区監察使となる。翌年2月国民政府委員復帰した1944年民国33年7月国民政府顧問となり、その翌年5月には国民党第6期中央監察委員選出されている。1949年民国38年8月湖南省程潜陳明仁らが中国共産党側に転じる起義を行うと、周震鱗もこれに従った中華人民共和国成立後周震鱗北京寓居している。 1964年北京病没享年90

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夏晋麟」の記事における「事跡」の解説

郷里初等教育受けた後、1910年宣統2年)より天津英華学校入学する1914年民国3年)、イギリス留学しロンドンのミル・ヒル学校学んだその後グラスゴー大学進学し科学学士取得、さらにエディンバラ大学入学して文学修士号、哲学博士号取得した1922年民国11年)に帰国し威海衛回収事宜公署督弁秘書をつとめる。1923年民国12年)からは、私立上海南方大学文科主任教授となった1927年国民政府外交部秘書となったがまもなく辞任する以後、省立上海商大学東呉大学法学院教授兼任して国際法外交史英文学などを教え、さらに上海のメッドハースト・カレッジ(「麦倫書院」)校長院長)にもなった。 1929年民国18年)、京都開催され第3回太平洋問題調査会出席する1931年民国20年)、訪欧して軍縮会議出席しそのままイギリス赴いて駐英公使館一等秘書となったその後帰国し1935年民国24年1月中華民国立法院立法委員に任ぜられ、また持志学教授つとめている。国共内戦の後に台湾へ移る。1949年民国38年)から1956年民国45年)にかけ、国際連合安全保障理事会中華民国副代表経済社会理事会中華民国代表を歴任したまた、外交部顧問務めている。1956年外交官としての経歴終了し以後ニューヨークで教員となった1993年同地にて死去享年98

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一宮氏忠」の記事における「事跡」の解説

一宮氏は天文21年1552年3月後北条氏によって主君上杉憲政上野追われる後北条氏従いその後永禄3年1560年8月末に長尾景虎上杉謙信)による関東侵攻起きると景虎従った。氏忠の史料上の初見は翌4年1561年)に比定される11月16日の上政虎書状で、ここでは「神太郎」の名で確認されている。同年11月には武田信玄による西上野侵攻が行われ、甘楽郡では早くから武田氏に従っており上杉方に居城・国峯城追われていた小幡憲重居城奪回し旧領復帰した。氏忠は同月25日付で武田氏禁制獲得し武田氏従属した。同10年1567年8月7日付で提出された『下之郷起請文』では「一宮兵部助氏忠」の名で確認されている。これによると、氏忠は単独取次原昌胤提出しており、直接武田氏従属関係を結ぶ立場にあった考えられている。その一方で、同郡の有力国衆である小幡信実同心であったともされている。また、神官であったためか武田氏から軍役求められなかったようであり、『武田氏分限帳』にも一宮氏の名の記載がない。一宮社の造営為に同年10月信濃四郡で、天正2年1574年8月吾妻谷を除く上野一円での勧進認められ同月18日付で武田勝頼より勧進として太刀などを送られている。同7年1579年)には嫡男・豊氏の活動確認でき、それ以前死去したとみられる

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馬聯甲」の記事における「事跡」の解説

清末淮軍属した1912年民国元年)、安武軍統領となる。1913年民国2年1月陸軍少将昇進する1915年(国4年12月袁世凱皇帝即位する一等男に封じられた。 1918年民国7年1月安徽陸軍第1混成旅旅長、皖南鎮守使、会弁安徽軍務善後事宜任命された。安徽派倪嗣沖配下であったが、1920年民国9年)の安直戦争安徽派敗北すると、馬聯甲直隷派転じた1922年民国11年)、安徽督軍張文生駆逐して、馬が安徽督軍(督理)に任命された。しかし、1924年民国13年)の第2次奉直戦争直隷派敗北すると、同年11月に、馬も部下により下野追い込まれ南京逃亡した同年中に馬聯甲死去した享年61

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胡仁源」の記事における「事跡」の解説

1902年光緒28年)、壬寅科挙人となる公立京師大学堂卒業後に海外留学し、仙台高等学校イギリスの「待爾大学」を卒業した帰国後は、京師大学堂文科学長就任する。さらに上海江南船塢工廠副総理つとめた中華民国成立後1913年民国2年)、北京大学予科学長工科学長となる。翌年、署理北京大学校長となり、1918年民国7年)までその地位にあった1924年民国13年)、国立北京交通大学教務長に就任する1926年民国15年3月北京政府賈徳耀内閣胡惟徳臨時内閣において教育総長つとめた同年5月辞任し国立浙江大学工学教授転じた1942年民国31年)、病没享年60

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李培基」の記事における「事跡」の解説

東三省陸軍講武堂東三省陸軍測絵学堂入学し中国同盟会加入した辛亥革命の際には、革命派として関外民軍総司令部参謀長つとめた1918年民国7年)、閻錫山率いる晋軍(山西軍)に属する。1927年民国16年)夏、国民革命軍北方第1軍第1師師長をつとめ、さらに綏遠都統任命された。1928年民国17年6月第3集団軍第1軍軍長昇進した北伐終了後9月軍縮に伴い第3集団軍暫編第1師師長となる。10月中央陸軍編制組み込まれて第32師長となった同月河北省政府委員任じられる1929年民国18年8月綏遠省政府主席任命され1931年民国20年8月までつとめる。 1933年民国22年4月黄河水利委員会委員任命され5月河南省民政庁長転じた1935年民国24年6月河北省民政庁長にいったん転出し翌年6月、再び河南省民政庁長復帰した1938年民国27年2月国民政府監察院監察委員就任し5月には、銓叙部部長となる。1941年民国30年12月考試院秘書長つとめた1942年民国31年1月河南省政府主席任命される翌月、同省保安司令兼任した1944年民国33年7月から9月にかけて、これらの地位から罷免されている。民国35年1946年)、中国国民党第6期中央執行委員となる。1948年民国37年)には立法院立法委員選出された。 中華人民共和国成立後大陸とどまった中国人民政治協商会議全国委員会において、第3期特別招待委員第4期委員つとめている。 1969年北京死去享年84

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兪大維」の記事における「事跡」の解説

私立上海聖ヨハネ大学卒業して文学士学位取得した。後にアメリカ留学してハーバード大学哲学博士号取得し、さらにドイツ移ってベルリン大学研究続けている。帰国後は国立中山大学教授国立中研究院歴史語言研究所専任研究員歴任した1929年民国18年8月兪大維国民政府軍政部少将参事起用され参謀本部主任秘書、駐ドイツ大使館商務専員を歴任する。駐ドイツ大使館では兵器軍需物資購入の任にあたった1933年民国22年1月軍政兵工署長に任ぜられる。1937年民国26年)、軍事委員作戦部副部長兼任し日中戦争抗日戦争)でも軍需物資調達任務担当し続けた1943年民国32年7月三民主義青年団第1期中央評論議員として招聘される。その翌年12月には、軍政常務次長昇進した戦後1946年民国35年2月兪大維陸軍中将位を授与された。同年5月交通部長に起用され6月には全国経済委員会委員兼任している。以後行政院綏靖区政委員会委員国防部科学委員会委員行政院政務委員会委員なども兼任した1949年民国38年3月交通部長を退き東南軍政長官公署政務委員会副主任委員転じたが、国共内戦最終盤の同年11月アメリカ逃れている。 1950年民国39年3月兪大維国防部長にいったん任命されたが、実際に就任しなかった。翌1951年民国40年5月、美援会副主任駐米大使特別助理に任ぜられる。台湾戻った後の1954年民国43年5月国防部長に正式に就任した以後1965年民国54年1月まで10年余りこの地位在りその間1958年民国47年)には金門砲戦金門島事件)に対処している。1962年民国51年12月から1971年民国60年5月まで行政院政務委員務めたまた、1966年民国55年)には総統府国策顧問に任ぜられ、1976年民国65年)には総統府資政に移っている。 1993年民国82年2月仏門入り法号は浄維とした。同年7月8日台北市にて死去享年96(満95歳)。

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傅秉常」の記事における「事跡」の解説

10歳のときに父に従って香港移り、聖ステファン中学St. Stephen's Boys' College)、香港大学学んだ1916年民国5年12月大学卒業すると、聖ステファン中学教師となる。1918年民国7年)、護法運動開始した孫文孫中山)を頼って広州向かい護法軍政府に加わる。このとき、伍廷芳秘書となり、その指導下で法律外交文書について研鑽重ねた1919年民国8年)、パリ講和会議中国代表秘書つとめた翌年護法軍政府財政部外交部香港代表に任ぜられる。同年11月海南島瓊海監督異動する1923年民国12年2月大元帥外交部特派交渉員財政部海関監督転じた6月広州大本営外交秘書兼任した1927年民国16年9月国民政府財政部関務署署長に任ぜられたが、翌月外交部参事転じている。翌年10月立法院委員に任ぜられ、立法院外交委員会委員長に選出された。1929年民国18年2月、駐ベルギー公使となる。1931年民国20年)、香港大学から名誉法学博士号を授与された。同年5月、寧粤分裂では西南派(粤派)に与し広州国民政府外交部副部長に任ぜられている。寧粤合流後翌年1月外交部政務次長に任ぜられたが、同月末に辞任し西南政務委員会委員転じた1933年民国22年)からは立法委員戻り、やはり立法院外交委員会委員長をつとめている。 1935年民国24年11月中国国民党第5期中央執行委員選出された。1941年民国30年7月外交部政務次長返り咲く翌年12月、駐ソビエト連邦大使に任ぜられた。1945年民国34年5月国民党第6期中央執行委員に再び選出される1946年7月パリ講和会議連合国とイタリア・ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・フィンランド5か国との講和)に中国代表として出席した1949年民国38年3月呉鉄城後任として外交部長に任ぜられたが、このときは海外にあり、結局実際に就任できなかった。同年中にいったん帰国したが、まもなくパリ戻り以後しばらくここに滞在している。 1957年民国46年5月傅秉常台北市向かい蔣介石から国策顧問任命され、さらに国民党中央評議委員選出された。翌年6月司法院副院長に任ぜられ、7月には公務員懲戒委員会委員長兼ねた1965年民国54年7月29日台北市にて病没享年70(満69歳

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劉玉書」の記事における「事跡」の解説

日本留学し陸軍士官学校卒業1934年民国23年)、天津市公安局長に就任し翌年には工務局長兼ねた冀察政務委員会外交委員会委員務めた後、1938年民国27年8月日本国策会社北支那開発及び中支那振興両社の子会社として発足した華北電信電話取締役理事就任汪兆銘南京国民政府樹立すると、劉玉書もこれに参加する。劉は1943年民国32年2月北京特別市市長任命され、更に華北政務委員会華北河渠委員会委員兼任した1944年民国33年4月華北政務委員会農務総署糧食管理局局長兼任している。1945年民国34年2月辞任し翌月華北政務委員会委員に任ぜられている。日本敗北後同年12月5日劉玉書北平漢奸として逮捕され、翌1946年民国35年10月31日懲役15年言い渡された。以後劉玉書行方不詳である。

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岳開先」の記事における「事跡」の解説

1901年光緒27年)に日本留学し陸軍士官学校第16期留学生第3期)を卒業したその後長く在日中国公使館附武官務めている。国民政府では、1933年民国22年)から1936年民国25年2月まで外交部察哈爾省特派員地位にあった当時察哈爾省政府主席宋哲元など)。 その後中華民国臨時政府参加し1939年民国28年1月ら行委員会外務局長をつとめる。1940年民国29年3月臨時政府汪兆銘政権合流すると、華北政務委員会実業総署署長実業総署督弁は王蔭泰)に任ぜられ、華北政務委員会改組された1943年民国32年11月までこの地位にあったまた、1941年民国30年8月には、同委員会華北河渠委員会委員にも任ぜられている。1943年11月以降岳開先行方不詳である。

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孫振家」の記事における「事跡」の解説

1913年民国2年)、北京政府農商部に就職する1915年民国4年)、直隷派湖北軍務幇弁・王占元秘書となり、あわせて湖北官報局長就任した翌年1月王占元湖北督軍昇進し引き続き孫振家もその下にあった1918年民国7年4月、署理湖北省荊南道尹となり、翌年7月正式に同職就任している。1920年民国9年8月湖北省省長に昇格した。さらに翌月北京政府中央に召還され、京兆尹兼畿輔賑務督弁に抜擢される。1922年民国11年5月山東省賑務会弁に転じた1925年民国14年)、北京政府財政討論会委員に任ぜられている。 以後孫振家行方不詳である。

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劉哲」の記事における「事跡」の解説

京師大学堂文科卒業する以後吉林省政務暦を重ね北京政府中央でも総統府顧問など様々な職に就いた派閥としては、張作霖らの奉天派属している。 1922年民国11年)、劉哲参議院議員当選する1924年民国13年)には中東鉄路理事となった1927年民国16年6月潘復内閣教育総長兼国史館副総裁任命されている。なお劉哲は、北京政府最後教育総長である。同年8月には、国立京師大学校長も兼任した北京政府崩壊後劉哲張学良配下となる。東北政務委員会委員東北辺防司令長官公署参議等経て1935年民国24年12月には冀察政務委員会常務委員東北大学校長任命された。1947年民国36年10月監察院副院長となっている。国共内戦中国国民党敗北すると、劉哲台湾へ逃れた1954年民国43年)、死去享年75

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事跡

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陳恩普」の記事における「事跡」の解説

汪兆銘汪精衛)の南京国民政府において、司法関係地位就いた人物である。1944年民国33年3月特別法庭(特別法廷)庭長、最高法院検察長、刑務署長保護司司長となった7月司法行政部張一鵬死に伴い陳恩普後任部長となった翌年1月国民政府政務参賛に異動した日本敗北後消息不明である。

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屈映光」の記事における「事跡」の解説

1907年光緒33年)、杭州赤城公学を卒業し光復会属した1911年宣統3年)の辛亥革命では、杭州蜂起に参加し、1912年民国元年8月浙江都督府民政司司長に就任する以後1913年民国2年2月、同省内務司司長、同年8月、同省署民政長を歴任して1914年民国3年5月、同省巡按使(民政長の改称)に就任した袁世凱死後安徽派属し1918年民国7年)、北京政府国務院顧問任命され、賛威将軍の位を授与された。1919年民国8年7月、署山東省省長に任命されたが、同じ安徽派山東督軍田中玉権力抗争繰り広げる当初安徽派軍人である馬良支援受けた屈映光が田に対して優位に立っていた。しかし1920年民国9年7月安直戦争安徽派敗北すると、屈の方が下野追い込まれた。 1921年民国10年)、大総統顧問となり、1924年民国13年10月、褚輔成らと寧波浙江自治委員会組織し一時独立宣言した1925年民国14年2月善後会議代表に任命され1926年民国15年3月には、内務総長兼賑務督弁に任じられたが、同年5月辞任して欧州へ考察赴いた1927年民国16年帰国し上海隠居する1929年民国18年)には、密教灌頂を受け、法賢上師と称した1938年民国27年5月国民政府振済委員会副委員長に、翌年3月には、軍事委員会戦地党政委員会委員に、任命された。中華人民共和国成立直前台湾へ逃れ総統府国策顧問として招聘されたものの、おおむね仏道専念した1973年民国62年9月19日死去享年91

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陳耀祖」の記事における「事跡」の解説

1926年民国15年11月広東省政務委員会委員となる。翌年3月代理建設庁長に任ぜられた。11月広州市工務局長異動している。1932年民国21年1月国民政府鉄道部常務次長代理となる。3月、同部財務司司となって1936年民国25年4月までつとめた翌年6月広東省政府委員となっている。 1939年民国28年9月陳耀祖は、義兄汪兆銘組織した中国国民党広東省部主委員任命された。翌年3月正式に南京国民政府成立すると、中央政治委員会指定委員以後4期まで務める)となる。4月広東省政府主席代理陳公博代理)兼建設庁長保安司令に任ぜられた。11月正式に広東省政府主席となり、その翌月には中央政治委員会副主任委員となった。この陳耀祖人事には、陳璧君後押しがあったとされる1942年民国31年6月陳耀祖広州市市長兼ね広東省全権一手掌握した翌年1月、省政府主席から省長へと改組される。同年中にフランス専管租界接収委員新国運動促進委員会広東省主任委員務めている。 1944年民国33年4月4日陳耀祖広州暗殺された。享年53

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蔣尊簋」の記事における「事跡」の解説

1900年光緒26年)、日本留学する1904年光緒30年)に陸軍士官学校卒業した翌年東京中国同盟会加入し宣伝部長に任じられた。 帰国後の1906年光緒32年)、浙江新軍第2標標統に任命された。以後、第1標標統、弁目学堂総弁教練処幇弁、浙江講武学堂総弁歴任している。その後広西省転勤し1909年宣統元年)、広西参謀総弁就任した1910年宣統2年)、広東省異動し広東混成協協統に就任した1911年宣統3年10月広東革命派武昌起義呼応すると、蔣尊簋は都督府組織し軍事部長任命された。後に一時都督代理つとめている。1912年民国元年1月浙江省戻って浙江都督民政長に就任し2月には章炳麟張謇とともに統一党組織した。 この当時浙江省内では、蔣尊簋らの日本留学士官派と、南京師・保速成等の国内卒業士官派との派閥争い激化していた。同年7月、蔣は国内卒業士官派の朱瑞追われる形で、浙江都督辞任した1914年民国3年6月、蔣尊簋は袁世凱から宣威将軍任命される1915年民国4年)、袁が皇帝即位宣言すると、蔣は蔡鍔らが起こした護国戦争第三革命)に呼応する挙兵浙江省行い、袁討伐動いた1917年民国6年)、護法戦争参加する民国10年1921年5月、非常大総統となった孫文の下で広州軍政府参謀次長就任したその後国民政府においても職歴重ねる。1931年民国20年)、汪兆銘蔣介石反対して広州国民政府樹立すると、蔣尊簋は汪を支持して広州国民政府委員となった。しかし同年8月、蔣尊簋は死去した享年50

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林雲陔」の記事における「事跡」の解説

高州府城の海山書院で旧学を学ぶ。1909年宣統元年)、広州に赴き、両広方言高等学堂で学ぶ。このとき、中国同盟会加入した1911年宣統3年4月黄花戦役執信の下で参加したが、革命派敗北した1912年民国元年)に方言学堂を卒業すると、高州蜂起に参加し、成功後に高都督に任ぜられている。 その後渡米してニューヨーク州大学法律・政治を学ぶ。1918年民国7年)に帰国し上海雑誌建設』の編集携わった1920年民国9年)、孫文孫中山)に随従して広州に赴き、大元帥秘書就任したほか、土地登記局長広東省教育委員会教育雑誌社社長兼ねた1921年民国10年12月広東大本営金庫長兼広西銀行行長となる。1923年民国12年)、広州市政府委員長に任ぜられる。同年3月大本営金庫長兼大本営財政部第3局局長となる。5月中央銀行行長となった12月広東高等審判代理庁長転じている。1924年民国13年4月法制委員会委員となる。8月中央銀行董事理事となった10月大本営財政部次長兼塩務署署長となる。1925年民国14年7月広東省政府高等検察庁検察長に転じた。以上のように、孫文広東政府において林雲陔財務法務幹部としての地位歴任したのである1927年民国16年4月広州市政府委員長に復帰する1929年民国18年3月中国国民党第3期中央候補監察委員選出された(第4期も同様)7月広東省政府委員に任ぜられる。11月広州市特別市昇格しそのまま林雲陔特別市長をつとめた1931年民国20年5月広州市市長から広東省政府主席昇進し、同省財政庁長兼ねた同年12月まで)。1932年民国21年)、西南派による西南政務委員会常務委員に任ぜられる。1935年民国24年11月国民党中央監察委員選出された。広東にあった間、林雲陔広東省実力者であった陳済棠従い内政面手腕振るった1936年民国25年7月陳済棠が両広事変敗北して失脚すると、林雲陔広東省政府主席離れ蒙蔵委員会委員長転じる。しかし翌月には審計部部長移った以後死去するまで12年にわたり在任した1948年民国37年10月4日病没享年68(満67歳)。

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李鴻祥」の記事における「事跡」の解説

清末日本留学し陸軍士官学校歩兵科卒業したまた、留学中中国同盟会加入している。1909年宣統元年)に帰国し新軍73標管帯兼雲南陸軍講武堂教官就任した1911年宣統3年10月蔡鍔唐継尭らが画策し重九起義に参加したその後四川省革命派支援のために、滇軍第2梯団団長任命され四川遠征した。 雲南へ戻ると滇軍第1師師長任命された。まもなく雲南省政務庁長に異動し、これ以後軍事職から離れる1913年民国2年10月羅佩金後任として雲南省民政長に任命された。翌年北京異動し参政院参政となる。これ以後は、中央での目立った政治活動見られなくなる。 1931年民国20年)、雲南戻り以後地方文献収集活動従事した1939年民国28年)、雲南省参議会議長選出された。中華人民共和国建国後雲南省留まり雲南省軍政委員会委員雲南省人民委員会委員などを歴任した1963年死去享年85

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朱家宝」の記事における「事跡」の解説

16歳秀才となり、19歳挙人となった1892年光緒18年)、壬辰進士となり、翰林院庶吉士授かる以後知県知府、道台を歴任して江蘇按察使となる。1906年光緒32年)、吉林巡撫昇進した翌年安徽巡撫異動している。 1911年宣統3年)の辛亥革命において、朱家宝安徽省咨議局から安徽都督推戴された。しかし、まもなく兵変が発生して逃亡した以後参議院議員政治会議議員をつとめる。1914年民国3年2月直隷民政長に就任し、さらに署直隷都督となった5月民政長が巡按使に改められ6月正式に直隷将軍都督改称)に就任した1915年民国4年)、袁世凱皇帝即位を図ると、はこれを支持し一等伯に封じられた。 袁世凱死後の1916年民国5年7月朱家宝は、引き続き直隷省省長兼都督として、同省の統治継続した1917年民国6年7月張勲復辟に際して、これを支持して民政部尚書任命された。しかし復辟失敗とともに失脚し日本へ亡命した。同年10月帰国して天津逃げ込んでいる。 1923年民国12年9月5日天津病没享年64

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葉荃」の記事における「事跡」の解説

日本留学し東京振武学校経て陸軍士官学校第6期学んだ。このとき、中国同盟会加入している。帰国後は安徽講武総弁、川軍(四川軍)教練処幇弁、川軍第64標標統を歴任した中華民国成立後荃は黔軍(貴州軍)第1師師長警衛第4団団となった1915年民国4年12月護国戦争勃発すると、護国第5軍総司令に任ぜられている。1917年民国6年)の張勲復辟後に、駐粤(広東)滇軍(雲南軍)第5軍総司令となった。後に雲南戻り雲南派指導者唐継尭から靖国第8軍軍長に任ぜられ、四川省方面出撃している。 1921年民国10年1月雲南引き返してきた荃は唐継尭への不満からクーデター起こす。しかし、唐の側もこの動き察知しており、敗北して孫文孫中山)を頼り広東逃亡した。なお偶然にも、同僚靖国第1軍軍長顧品珍が、この好機にやはりクーデター起こし唐継尭一時雲南から追放している。 広東では孫文から将校団団長左翼総指揮に任ぜられている。1923年民国12年2月3日荃は中国国民党本部軍事委員委員となった1925年民国14年)、馮玉祥率い国民軍加入し国民軍第3軍軍長兼第2師師長に任ぜられている。 1927年民国16年)、蔣介石招聘に応じて荃は国民革命軍総司令顧問官兼滇川黔三省軍使任命された。1931年民国20年2月国民政府により監察院監察委員に任ぜられている。1937年民国26年)に引退帰郷し寺院で禅を学んだ1939年民国28年6月死去享年60(満59歳)。

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靳雲鵬」の記事における「事跡」の解説

山東省兗州府鄒県嶧山鎮(中国語版出身。父は靳長生、母は邱氏。幼くして父を亡くし靳雲鶚とともに売った運送業行って生計立てていたが、18歳の時、靳雲鶚尚書息子をはねて罪に問われそうになったため、靳雲鶚と母とともに夜逃げし済南へたどり着き染色業を営んだ。右眼外斜視だった事から、「斜眼染匠」と呼ばれ親しまれた。 のち天津に赴き、天津武備学堂卒業し1902年光緒28年)に北洋常備軍軍政参謀処で提調として任用された。李経羲雲貴総督任命されると、靳雲鵬雲南省赴任し新軍督練公所参議任命された。1911年宣統3年10月蔡鍔李根源唐継尭らが武昌起義呼応し昆明重九起義勃発させると、靳雲鵬五華山にて数個営を率いて籠城したが、結局昆明から逃走して帰郷し同じく下野した潘復済寧麺粉公司経営した1912年民国元年)に中華民国成立すると、靳雲鵬同年7月に軍に戻り山東省北洋陸軍第5鎮(中国語版統制兼会弁山東軍務に任ぜられる。9月部隊単位の名称変更により第5師師長となり、微山県韓荘鎮(中国語版)に駐屯その後陸軍部次長異動した1913年民国2年)、山東都督就任する1914年民国3年)には泰武将軍位授与され、督理山東軍務となっている。1915年民国4年12月袁世凱皇帝即位すると、靳雲鵬一等伯爵封じられた。1916年民国5年)、果威将軍封じられている。しかし3月18日江蘇将軍馮国璋広西将軍李純浙江将軍朱瑞湖南将軍湯薌銘護国撤退帝政撤回求める「五将軍の密電」を発した同年6月袁世凱死去すると、靳雲鵬段祺瑞配下の「四大金剛」の筆頭目され安徽派の有力幹部となった一方で直隷派曹錕とは義兄弟で、自身息子奉天派張作霖の五女と許嫁であった1917年民国6年)、日本軍事視察訪問し帰国後は参戦軍督練に任命された。1919年民国8年11月5日国務総理陸軍総長任命された。他派閥とのバランス重視していた靳雲鵬は、当初財政内務交通部長・国務院秘書長自派閥から選抜すべしとする安福議員からの要求拒んでいたが、24日同じく四大金剛」の徐樹錚から段祺瑞面前で「直隷派成り下がったのか」と罵られ段祺瑞閣僚名簿同意しなかった。結局閣僚名簿変更せざるを得なかった。 翌年2月23日段祺瑞河南省自己の勢力圏加え直隷派との主戦場するべく河南督軍趙倜呉光新換える命を下したが、河南省出身大総統徐世昌自身故郷主戦場となる事に反発し捺印拒否した捺印させられなかった靳雲鵬段祺瑞より叱責を受け、まもなく病気称して辞職した。 この経緯もあって、1920年民国9年7月安直戦争安徽派敗北した後も、靳雲鵬8月国務総理再任されたが、張作霖から直隷派寄りと見なされ対立して1921年民国10年12月11日に再び辞職した以後天津イギリス租界移住して日本との合弁会社を営むなど、経済活動専念したその後も、張作霖中国国民党日本から政治舞台への復帰勧められたが、実際に応じていない。晩年仏門入り中華人民共和国建国後天津に留まっている。 1951年1月3日天津死去享年75

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莫徳恵」の記事における「事跡」の解説

1907年光緒34年)、天津北洋高等巡警学堂入学する3年後卒業して浜江現在のハルビン巡警局局長双城県知事歴任した中華民国成立後1913年民国2年)、衆議院議員に当選する。1917年民国6年12月吉林省官産処処長となる。1922年民国11年)、東三省保安司令部諮議となり、さらに省立東北大学校長つとめた1925年民国14年3月、蒙副総裁任命され5月には農商部次長となる。翌年4月張作霖から奉天省省長に任命された。1927年民国16年10月潘復内閣農工総長任命され翌年6月北京政府崩壊までその任にあった国民政府成立後1929年民国18年1月東北政務委員会委員中東鉄路東清鉄道)督弁に任じられた。翌年、中ソ交渉において中国側首席全権代表を務めている。1938年民国27年以降4期わたって国民参政参政員となる。1941年民国30年)、川康建設期成西昌弁事主任任じられた。1946年民国35年1月中国政治協商会議(旧政協)に出席するその後も行憲国民大会代表憲政督導委員会会長などを歴任した国共内戦中国国民党敗北すると、莫徳恵台湾逃れた1954年民国43年9月考試院長に就任し1966年民国55年8月までその地位にあったこの他にも、引き続き国民大会代表となり、また、総統府資政、光復大陸設計研究委員会中国語版副主任委員などを歴任している。 1968年民国57年4月17日台北市死去享年86(満85歳)。

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銭能訓」の記事における「事跡」の解説

1898年光緒24年)、戊戌第二甲第18進士となる。以後中央各地方職歴重ね1903年光緒29年)、監察御丞に昇進した1904年光緒30年)より巡警尚書民政部尚書徐世昌属僚となる。1907年光緒33年)に徐が東三省総督になると、銭能訓もこれに従って東三省赴任した1910年宣統2年)、軍機大臣となった徐の推薦により、銭は陝西布政使となる。さらに護理陝西巡撫(護理とは、下位の者が上位職務代行すること)となった辛亥革命陝西省でも勃発すると、銭はこれを鎮圧できず、革命派捕虜とされた。その際に、銭は拳銃自殺図って果たせず、北京逃亡した中華民国でも、銭能訓は、徐世昌との関係から袁世凱重用された。1913年民国2年10月熊希齢内閣内務次長就任する1914年民国3年4月蒙古西蔵青海三省区の約法会議員選出された。同年5月国務卿兼礼制館総裁就任した徐を補佐する形で、政事堂右丞兼礼制館副総裁就任した1915年民国4年10月、署理平政院長文官高等懲戒委員会委員長翌年4月正式に平政院長就任)に任命された。 1917年民国6年12月王士珍内閣銭能訓内務総長任命された。1918年民国7年2月、王が辞任すると、3日間だけではあるが代理国務総理つとめたその後3月段祺瑞内閣でも内務総長再任される。10月徐世昌大総統任命されると、銭は再び代理国務総理となる。12月正式に国務総理翌年1月内務総長兼任)に任命された。 しかし銭能訓は、安徽派直隷派間の対立により、独自の指導力発揮することは出来なかった。最後五四運動発生責任をとらされる形で、就任からわずか半年後の1919年民国8年6月国務総理罷免された。その後太湖水利工程督弁、外交部顧問歴任している。 1924年民国13年6月5日北京病没享年55

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蘇体仁」の記事における「事跡」の解説

山西省立師学校を卒業後日本留学する東京高等工業学校化学科卒業した1916年民国5年帰国し山西省第一中学校長、省立山西大予科学長歴任するその後山西督軍閻錫山配下となり、山西省督軍秘書外交主任山西督弁駐京代表、晋綏司令駐京代表を歴任した。これにより、閻の「ブレーン・トラスト」の1人となり、閻の著作多く蘇体仁の手よるものと言われた。1924年民国13年12月北京政府臨時法院参事となる。 1928年民国17年7月蘇体仁は、国民政府外交部河北省交渉員任命される翌年河北省財政特派員となった1930年民国19年)、辞職して、いったん天津隠居した1932年民国20年5月綏遠省財政庁長として復帰し1934年民国23年12月まで務めた1938年民国27年6月中華民国臨時政府山西省公署創設し蘇体仁山西省長に任命された。1940年民国29年3月汪兆銘汪精衛)の南京国民政府でも山西省長をつとめ、華北政務委員会委員にも任命された。1943年民国32年1月北京特別市市長代理異動する。さらに翌月に、華北政務委員会常務委員教育総署督弁となった11月華北政務委員会工務総署督弁に就任(しばらくの間教育総署督弁と兼務)。1945年民国34年2月華北政務委員会総務庁庁長となった日本敗北後蘇体仁太原に戻る。山西革命同志会加入して太原綏靖参事となった1949年民国38年1月北平中国人民解放軍向けて開城されると、最初に綏遠次いで蘭州へと逃れたその後さらに香港最後台湾へ逃れている。 1979年民国68年8月20日台湾にて死去享年92

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李慶芳」の記事における「事跡」の解説

山西晋陽書院卒業して山西大学入学する1905年光緒31年)、日本留学し日本大学法学士称号取得した帰国後、留学生考試参加し法政科挙人となる。後に山西省戻り学校新聞社書店などの開業つとめた1913年民国2年)、衆議院議員に当選し、憲法起草委員会委員となる。また、『民憲日報』や『憲法新聞』などの新聞発行した同年9月梁士詒結成した袁世凱御用政党である公民党加入している。 袁世凱死後も、李慶芳国会議員として活動している。華北5省で旱魃発生した際には、被災救済のための教養院建設するなどした。1917年民国6年11月臨時参議院議員当選し参議院秘書長選ばれた。1927年民国16年)、張作霖の下で安国軍政討論会会員に任ぜられる。しかし翌年には、閻錫山開設した平津衛戍総司令部転じ軍法外交交通三処の処長に任ぜられた。 日中戦争勃発後に、李慶芳帰郷した。あるとき、日本軍兵士八路軍兵士30名を処刑しようとしたところ、日本軍指揮官留学時代同学であったことから、交渉の末に兵士たち救出している。後に自身日本軍捕らえられ40余りにわたり監禁され、かつ協力強要されたが、最後までこれを拒み続けた1940年民国29年3月10日病没享年62中国共産党機関紙新華日報』は、李慶芳追悼賞賛する記事掲載している。

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乞活」の記事における「事跡」の解説

304年并州匈奴劉淵挙兵すると、略奪殺戮繰り返され并州大い荒廃した306年并州刺史司馬騰が鄴に移ると、百姓兵士官吏2万戸余り食糧求めてこれに付き従った。鄴城に到着すると、司馬騰は彼らに食糧集めさせるため冀州派遣した。田甄・田甄の弟の田・任祉・祁済・李惲・薄盛ら并州の将がこれを統率した。この時、彼らは自らを乞活号した307年汲桑挙兵すると、司馬騰はこれに敗れて殺された。汲桑はさらに幽州刺史石尟が守る楽陵攻め込んだ乞活の田禋は田・薄盛らと共に司馬騰報復として汲桑討伐兵を挙げ、兵五万率いて石尟の救援むかった。だが、彼らが到着する前に石尟は敗死し、田禋は汲桑配下石勒敗れたその後兗州刺史苟晞冀州刺史丁紹汲桑大敗させると、田甄らは再び兵を動かして汲桑楽陵討ち、仇を取った汲桑討伐功績として、東海王司馬越は田甄を汲郡太守とし、田鉅鹿郡太守とした。田甄が魏郡太守の位を求めたが、司馬越は許さなかったので、彼を恨むようになった。 308年滎陽移った司馬越は田甄らを呼び寄せたが、司馬越不信感抱いていた田甄は応じず、司馬越監軍劉望討伐させた。劉望黄河を北に渡ると、田甄は撤退した配下李惲・薄盛は田を斬って、その部下率いて司馬越に降ると、田甄・任祉・祁済は軍を捨てて上党逃走した11月石勒中丘攻め込んでくると、田禋・赦亭は敗れて殺された。洛陽が漢(後の前趙)の侵攻を受けると、李惲・薄盛らは兵を率いて救援向かい劉聡敗走させた。李惲らはさらに、新汲にいる漢の大将軍王弥打ち破った310年司馬越が死ぬと、その封国である東海運ばれた。右衛将軍となった李惲は、司馬越の妃裴氏世子司馬毗伴い洛陽から東海向かった。だが、洧倉で石勒強襲遭い司馬毗らを見捨てて李惲広宗へと逃亡した洛陽陥落すると、大司馬王浚帝位に立つ志を抱き皇太子立てて百官置いた。この時、李惲青州刺史任じられた。313年李惲上白城において石勒戦ったが、敗れて殺された。石勒降伏した兵を生き埋めにしようとしたが、その兵の中にかつての恩人郭敬がいることを知り全員免罪となった郭敬上将軍となり、降伏した兵士は皆彼の配下になった李惲敗死知った王浚は、青州刺史地位を薄盛に取って代わらせた。しかし、薄盛は勃海郡太守の劉既を捕えると、五千戸を引き連れて石勒降伏したその後間もなく王浚石勒滅ぼされた。 薄盛の降伏をもって滅亡したかに見えた乞活だが、別の形で存続続けたもう一つ乞活は陳午という将が率いており、李惲永嘉の乱後に北に向かった際、彼は李惲別れて黄河以南浚儀に留まった。そして、陂に塢壁外敵を防ぐための土壁めぐらした集落)を作り精兵五千でこれを守った以後石勒関一帯を争った319年、陳午が亡くなった。彼は死ぬ間際部下たちに対して決し胡人仕えてはならぬと言い残した有力者達の推挙より子の陳川が盟主となった。ただ、彼は法規によって集団管理したので、陳午の様に部下の心を掴めなかった。陳川は自ら寧朔将軍陳留郡太守号した東晋豫州刺史祖逖流民張平・樊雅らと争っていると、祖逖使者遣わして陳川に救援求めた。陳川は将軍頭を遣わしてこれを救援させ、祖逖勝利導いた祖逖がこの時樊雅の駿馬手に入れると、褒美として頭に与えた頭は祖逖厚遇感じ入り「もしこの人を主にできれば、何も怨むことはないぞ」と言ったが、陳川がこれを聞く怒って頭を殺した配下の馮寵が四百人を引き連れて祖逖身を寄せると、陳川はますます怒り、魏碩を遣わして豫州の諸郡を掠奪させて子女車馬奪い取った祖逖は衛策を遣わして谷水において襲撃掛け攫われた者の身柄奪い返した。陳川は大い恐れ部下連れて石勒降伏申し入れた石勒五万の兵をもって陳川の救援に向かうも、祖逖奇兵をもってこれを大破したこのため石勒は陳川を連れて襄国撤退したこの後しばらく乞活に関する記録途絶えるが、冉閔李農反乱の際に再び僅かではあるが記述がある。

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張伯苓」の記事における「事跡」の解説

秀才家庭生まれる。弟に、世界人権宣言起草委員会中華民国代表となった張彭春がいる。 1892年光緒28年)、北洋水師学堂入学して操舵術を習得し5年後卒業して海軍士官となったその後教育界転じ厳修の下で新学を学ぶ。1904年光緒30年)、教育事業視察のために日本へ向かう。帰国後は南開中学堂などの創設参加した1917年民国6年)、アメリカコロンビア大学ジョン・デューイエドワード・ソーンダイクのもと教育学研究行った翌年冬の帰国後は、南開大学創設準備奔走する1919年民国8年)の正式開校こぎつけた1923年民国12年)には、南開女子中学開校した日中戦争抗日戦争勃発後の1938年民国27年1月に、教育機関昆明移転する南開大学は、北京大学清華大学連合して西南聯合大学組織し張伯苓校務委員会常務委員となったまた、重慶移転してきていた南開中学校長もつとめている。同年国民参政副議長となり、蔣介石積極的に支持する姿勢示した1945年民国34年)には、中国国民党第6回代表大会で中央監察委員選出されている。しかし、日中戦争終結後になると、張伯苓中国共産党との内戦進もうとする国民党不信を抱くようになる。それでも1948年民国37年6月には、中華民国考試院院長任命された。 国共内戦国民党敗北すると、張伯苓蔣介石らにこれ以上追随せず、大陸に留まった。中華人民共和国成立時には、周恩来祝電送っている。 1951年2月23日天津死去享年76(満74歳)。

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任峻」の記事における「事跡」の解説

後漢末混乱の中、任峻中牟県令の楊原河南尹堅守するよう進言し、その主簿任命された。さらに、楊原を行河南尹にするよう朝廷上表している。その後曹操中牟入ってくると、任峻は同郡の張奮協議して曹操付いた曹操大い喜び任峻騎都尉とするよう上表し、さらに自身従妹を娶らせて、頗る信任した曹操征伐するときは、常に任峻輜重補給のために留守預かった棗祗韓浩らが屯田制実施進言すると、任峻が典農中将に任命され屯田制実地運用担当した任峻はこれを成功させ、曹操陣営軍事的政治的強化大きく貢献した。また官渡の戦いでは、補給部隊守備強化して袁紹軍攻撃阻止した。これらの実績により任峻は都亭侯に封じられ封邑300戸を有した。さらに長水校尉昇進している。 建安9年204年死去曹操はしばらく涙を流して悲しんだ。子の任先後継したが、任先死後に子がいなかったため改易された。曹丕文帝)の時代成侯と諡され、また真ん中の子である任覧関内侯封じられた。

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李士群」の記事における「事跡」の解説

上海私立美術専科学校私立上海大学卒業する続いてソ連留学して東方勤労者共産大学卒業した中国国民党北伐開始した頃に中国共産党に加入し、上海拠点活動していた。 しかし1932年民国21年)に国民政府当局逮捕されると、転向表明する国民党中央組織調査科に属して上海で『社会新聞』を拠点特務としての活動従事した。このとき、丁黙邨唐恵民らと同僚になっている1937年民国26年)の日中戦争抗日戦争勃発後に南京陥落すると、李士群上層部指示により南京潜伏した。翌年夏からは、香港日本総領事館との連携開始し土肥機関接触して上海活動開始している。1939年民国28年5月汪兆銘汪精衛)の配下となり、特工総部副主任に任ぜられた。 8月、汪が(汪派)国民党第6回全国代表大会開催すると、李士群中央委員選出されている。まもなく開催され6期1中全会国民党中央委員会特務委員会設置されると、副主任委員任じられた。これと合わせて特工総指揮副主任粛清委員会副主任兼任している。は、汪兆銘腹心としての立場利用して公館派」の一員として次第台頭し、特工総部主丁黙邨をも凌駕する権勢有するうになる。しかし、丁は周仏海率いる「CC派」の幹部であったため、周が次第に対して不満を抱いたとされる1940年民国29年3月汪兆銘南京国民政府正式に樹立すると、李士群は、警政部政務次長、特工総部主任、中央政治委員会委員兼任した翌月には、警政部政治警察署長軍事委員委員兼ねている12月、警政部部長昇格した翌年からは、中日文化協会上海分会理事長、清郷委員会蘇州弁事処処長、南京清郷幹部人員訓練所所長行政院政務委員社会行動指導委員会委員歴任した1942年民国31年3月に清郷地党務弁事主任10月調査統計部部長となる。翌年1月江蘇省長に任命された。6月には新国運動促進江蘇分会主任兼任している。 同年9月6日上海憲兵隊特高課長岡村適三の招待出席した宴席において、李士群は毒を盛られ倒れる。9日蘇州そのまま死亡した戦後軍統局周仏海裁判提出した資料によれば軍統と周が共謀して毒殺したとされる。しかし、真相諸説が囁かれている享年39

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莫栄新」の記事における「事跡」の解説

幼い頃学問励んだが、成長するにつれ農民雑貨店店員転じている。1871年同治10年)に軍隊加入して広西の巡防営において次第昇進する1909年宣統元年)に広西巡防営幇統となり、梧州駐屯した。1911年宣統3年6月陸栄廷広西提督昇進すると、莫栄新は巡防栄督帯に昇進した辛亥革命勃発後、慶遠府長に任じられている。 1912年民国元年5月莫栄新は、陸栄廷から梧州府長兼梧州監督任命される。それからまもなく、広西中区第1正司令任命された。1914年民国3年)、広西陸軍第1師第2旅旅長兼蒼梧道道尹に任命される1915年民国4年9月桂平鎮守使に任命され同年12月袁世凱皇帝即位する二等男爵封じられた。1916年民国5年)、陸が護国戦争第三革命)に呼応し5月肇慶護国軍両広都司令部成立すると、護国第3師長肇慶衛戍司令任命されている。 袁世凱死後の同年10月莫栄新は広恵鎮守使を兼任し12月には広東第2混成旅旅長に異動した1917年民国6年11月広東督軍任命されている。1918年民国7年8月陸栄廷らが主導権握った改組後広州軍政府において、陸軍部長を兼任した1920年民国9年10月孫文支持する陳炯明敗北すると、下野し上海逃げ込み高崇民という偽名潜伏した。1928年民国17年)秋、故郷桂平引退している。 1930年民国19年3月30日桂平にて病没享年78(満76歳)。

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岑徳広」の記事における「事跡」の解説

日本留学した後、イギリスシンクタンク研究員つとめた帰国ワシントン会議中国代表随員梧州監督広西省外交特派員、滇聯軍総司令部参議善後会議議員などを歴任している。 1937年民国26年)に日本軍上海占領した頃から、上海に在った岑徳広周仏海知恵袋存在となる。翌年9月28日に、岑は土肥原賢二伴って義父唐紹儀訪問した。このとき、岑と土肥原は唐に親日政府参加求めたと見られるが、まもなく唐は軍統暗殺された。 1940年民国29年3月汪兆銘南京国民政府樹立すると、周に従い、岑もこれに参加した。賑務委員会委員長と第1期中央政治委員会延聘委員以後4期務める)に任ぜられている。以後、清郷委員会委員時局策進委員会委員社会部行動指導委員会委員歴任した1943年民国32年1月、賑務委員会社会福利部に統合され、岑は国民政府委員となる。1945年民国34年6月中央政治委員会高国会議秘書長任命された。8月経理総監部総監となっている。 日本敗北後岑徳広漢奸の罪に問われ9月26日南京逮捕されたが、後に香港への逃亡成功した。これ以降消息不詳である。

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孫宝琦」の記事における「事跡」の解説

父の孫詒経は、清の戸部侍郎で、光緒帝教師つとめた事がある孫宝琦は、1901年光緒27年)から、ドイツ・スペイン・ポルトガル・フランスなどの公使館随員をつとめる。 1902年光緒28年7月、出使法国大臣フランス公使)に昇進した1905年光緒31年)に帰国し、署順天府尹に任命される1907年光緒33年4月、出使徳国大臣ドイツ公使)に任命された。1908年光緒34年)に帰国し、幇弁津浦鉄大臣任命される1911年宣統3年)には山東巡撫転じたこの間山東省におけるドイツ鉱山利権取得動き掣肘するなどしている。 1913年民国2年6月北京政府承認孫文対す支援の中断要請するため、袁世凱特使として日本訪問した同年9月熊希齢内閣外交総長任命された。1914年民国3年2月12日代理国務総理兼任した同年5月1日まで)。第一次世界大戦の勃発に際して中立維持した1915年民国4年1月日本対華21カ条要求により外交総長辞任し、審計院長転任されている。1916年民国5年4月段祺瑞内閣財務総長6月から、漢冶萍公司董事長理事長)・税務督弁を兼任)に、それぞれ任じられた。1920年民国9年)春、経済調査局総裁任命された。 1922年民国11年1月揚子江水道討論委員会会長を、同年4月外交部太平洋会議善後委員会副会長を、それぞれつとめる。1924年民国13年1月12日から7月2日まで、国務総理再任された。1925年民国14年2月、淞滬商埠督弁をつとめた同年8月、駐ソ大使任命されたが、就任しなかった。1926年民国15年)、中法大董事長務める。 1931年民国20年2月3日上海死去享年65

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樊鍾秀」の記事における「事跡」の解説

宝豊県大営夏荘(現在の河南省平頂山市石竜区)の下層知識人の家に生まれる。父の樊道隆医者教師であった。4人兄弟次男で、叔父2人従兄弟7人と暮らしていた。幼い頃は旧学を学んでいたが、13歳登封嵩山少林寺に赴き、拳術棒術習得する。のち革命家となる徐万年亜東中国語版)も同門であった1911年宣統3年)、武昌蜂起が起こると河南省でも革命派呼応していた。樊鍾秀革命派参加河南同盟会に協力する拉杆(河南省方言匪賊の事)の王天縦中国語版)に従い信陽交戦する。のち湖南新軍兵士として挙兵していた徐万年に応じて武漢に赴き、漢陽監獄収容されていた亜東救出した1912年民国元年2月亜東が豫南民軍を組織するとそれに加わり馬雲卿の左翼先遣副司令に任ぜられ、王天縦協力して唐河鄭州新野南陽攻める。しかし1913年民国2年)、河南都督張鎮芳圧力で民軍が解散されると、樊鍾秀張鎮芳指名手配されたため、地元帰郷するが、拉杆の略奪遭い陝西省宜川県賀家溝の黄竜山逃れて開墾勤しんだ。しかし翌年春、杆首(匪賊頭目)の「黄大爺」が樊鍾秀の妹を無理矢理妻に娶ろうとした。憤慨した樊鍾秀同郷仲間集めると、夜に大爺山塞忍び込み寝ている黄大爺短刀殺害して新たな杆首を名乗り、その配下100名を従わせた。続いて澄城県馮原鎮(中国語版)と清明山民団自警団)の団長殺害し団員を従わせた。元々知識人生まれである樊鍾秀は、匪賊集まりである彼らの、農民守り地主役人抵抗する自警団への変革志向し恐喝強姦禁止農民保護配分平等などを打ち出したとされるこうした樊鍾秀方針農民支持を得、急速に勢力拡大した

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段芝貴」の記事における「事跡」の解説

天津武備学堂卒業1895年光緒21年)、袁世凱組織した新建陸軍加入する。督隊稽査先鋒官、左翼歩兵第2営統帯、北洋常備軍軍政参謀総弁天津南段警察局総弁などを歴任した1908年光緒34年)、布政使署理黒竜江巡撫就任し、さらに北洋第3統制就任した辛亥革命勃発時には武衛右軍右翼翼長就任する1912年民国元年)、拱衛軍司令に就任した1913年民国2年)、江西宣撫使兼第2軍軍長となる。さらに、二次革命第二革命鎮圧功績から、湖北都督昇進した1914年民国3年)、彰武上将軍封じられ、督理湖北軍務いわゆる湖北将軍)に就任した1915年民国4年8月鎮安上将軍遷り、督理奉天軍務奉天将軍)兼巡按使に就任した袁世凱皇帝即位支持し12月一等公爵封じられた。しかし、東北地盤広げようとする張作霖らから圧力かけられ、段は1916年民国5年4月に、奉天将軍等を辞任した6月袁世凱死去すると、段芝貴段祺瑞率い安徽派加わった1917年民国6年7月張勲復辟の際には、段芝貴は討逆軍東路司令任命され張勲撃破し、輔威上将軍封じられた。1918年民国7年1月陸軍総長就任した翌年1月京畿衛戍司令異動した1920年民国9年7月安直戦争では、定国軍西路総司令として直隷派戦った敗北する指名手配受けた段芝貴は、天津租界逃げ込み、完全に政界・軍界から引退した1925年民国14年3月死去享年57

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ユーリー2世」の記事における「事跡」の解説

1209年に兄コンスタンチンおよび弟ヤロスラフとともにトルジョークに軍を進めた1211年に、キエフのフセヴォロドの娘アガフィヤを妃に迎えた1214年には兄と戦い、ヴェリーキー・ソーリを奪われた。 モンゴルのルーシ侵攻のさなか、1238年バトゥ率いモンゴル軍シチ川戦い戦死した

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村上智彦」の記事における「事跡」の解説

瀬棚国保医科診療所時代保健師が各家庭回り保健指導繰り返す予防医療力を入れ、むだな投薬検査を減らす「予防地域包括ケア」の実践により、約140万円だった1人当たりの老人医療費70万円台にまで改善させた。2005年9月3町合併誕生したせたな町新町長と方針合わないためセンター長辞職する際、辞めないほしいという署名が旧瀬棚町人口の約1.7倍の4,675名も集まった2007年4月経営破綻した夕張市立総合病院再建策として、医療法人夕張希望を自ら1億円の借金をして設立。「公設民営」の診療所方式19床)と40床の老人保健施設選択し往診による在宅医療をすすめる。あいた場所に託児所娯楽施設設置し地域活性化拠点目指す病院20床以上)であれば5年交付される地方交付税交付金拒否して交付金頼らない新し地域医療方向性を示す。 2009年縊死図って心肺停止状態となった男子中学生夕張医療センター救急搬送されたところ、理事長村上受け入れ拒まれ死亡至った事件発生(同センター救急指定病院ではない)。このとき朝日新聞夕張臨時支局長(当時)の本田雅和夕張市立診療所糾弾する記事書いた後、「村上智彦医師(48)は4日、自らの『判断ミス』を認め、『ご遺族市民皆さん申し訳ない』と謝罪、『こういうことは2度起こさない』と述べた」と伝えた。これに対し村上は「夕張朝日新聞記者が『そう言わないとお前は出ていくことになるぞ!』等と何度も電話をかけてきて無理やり記事にした」「私自身は『若い方なのでヘリ呼んででも高度な医療ができる施設搬送すべきだ』と判断して後方病院への搬送指示したのが実際のところ」「朝日新聞記者は『自作自演のような記事書き医療機関非難してセンセーショナルに記事書くこと自慢して歩いています」と反論している。 2012年5月9日 村上医師自宅玄関内で殺人未遂事件が起こる。加害者は、夕張希望職員看護師であり、村上医師交際相手であった事件5月9日午前11時半頃、村上自宅玄関内で、同じく村上医師交際相手女性口論の末腹を包丁刺したものであり、通行人通報され殺人未遂容疑逮捕された。なお当時村上医師自宅にいなかったが、既婚であった被害者1週間ほどで退院したが、職員による殺人未遂容疑監督責任を取るとして、村上医師理事会辞任届を提出し承認される。ただし村上医師はいずれ理事長職は辞する予定であったとし、近隣医療機関での診療活動続けるとしている。2012年10月30日から開かれた札幌地裁での裁判員裁判で、被告は、自身被害者女性はいずれも、妻帯者である村上医師交際していたと陳述した

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陳嘉謨」の記事における「事跡」の解説

直隷派指導者曹錕率い陸軍第3師で昇進重ねる。1922年民国11年8月陸軍中将の位を授けられる1924年民国13年)、湖北督軍蕭耀南から鎮守使兼第25師長任命された。同年8月、儀威将軍の位を授与されている。1925年民国14年)、湖北25師長武漢警備総司令任命された。 1926年民国15年2月蕭耀南急病死したため、呉佩孚からその後任として湖北督弁兼省長に任命された。しかし、同年10月中国国民党北伐軍武昌攻略され、陳嘉謨自身捕虜とされた。 1927年民国16年)に釈放され天津居住したが、同年中に死去した

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劉文竜」の記事における「事跡」の解説

清の廩生。宣統年間辺境での開墾望み新疆省赴任した塔城現在のチョチェク市)参賛大臣汪歩端の下で任官している。中華民国時代になると、汪は搭城道尹に任ぜられ、劉もその下で事務携わった1917年民国6年)、劉文竜は、革命派敗北して越境してくるロシア皇帝派の軍勢について、事後処理担当した1922年民国11年3月新疆省教育庁庁長任命される1928年民国17年11月新疆省政府主席楊増新暗殺され金樹仁後任となる。このときに劉文竜は、新疆省政府副主席教育庁庁長任命された。1933年民国22年4月クーデターの発生より金仁はソ連逃亡する劉文竜は、臨時代理として省政府主席地位就いたその後南京国民政府が宣慰使として黄慕松派遣してきた。黄慕松指示により、8月劉文竜正式に政府主席となり、省内の軍事実力者である盛世才辺防督弁に任ぜられた。 しかし、まもなく盛世才が省内権力の掌握狙ってクーデター起こす同年12月劉文竜盛世才捕縛され以後長期にわたり軟禁されることになる。1944年民国33年11月、ようやく劉文竜釈放され蘭州隠居した1945年民国34年4月第4期国民参政参政員となる。1948年民国37年)、行憲国民大会代表選出された。 中華人民共和国成立後も、劉文竜大陸に留まっている。劉文竜ウルムチ戻り1950年6月ウルムチ市人民代表会議代表に選出された。 同年秋、死去享年81

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李溶」の記事における「事跡」の解説

幼年時代故郷私塾に通う。後に甘粛省の秋古書院学んだ新疆に戻ると、イリ、恵遠(現在の霍城県)で学堂の堂長となっている。 中華民国成立後1913年民国2年)、参議院議員選出される1915年民国4年8月シャヤール県沙雅県知事となった1919年民国8年)、トルファン県知事となり、トルファン紡績工廠総経理兼ねる。その後新疆省議会議長になった1928年民国17年11月李溶新疆省政府主席となった金樹仁の下で省政府委員起用された。金樹仁クーデターにより逃亡した後の1933年民国22年9月、省政府改組され、劉文竜が省政府主席となったが、そのまま李溶留任している。まもなく辺防督弁盛世才クーデター起こし12月には劉文竜捕縛軟禁する事件起きた盛世才朱瑞墀を後任の省政府主席代理として擁立したが、翌1934年民国23年3月朱瑞墀は病没する。それを引き継ぐ形で李溶が省政府主席代理として盛世才擁立されている。 結局国民政府盛世才クーデター黙認追認せざるを得なくなり10月正式に李溶劉文竜後任として新疆省政府主席任命された。しかし、李溶はあくまで盛世才傀儡過ぎず実権盛世才掌握している。 1940年民国29年3月21日李溶は省政府主席在任したまま病没した。享年72

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楊開慧」の記事における「事跡」の解説

楊公廟公立第四小学、衡粋実業学校附設小学班、陰儲女子学校稲田女子師範などで学ぶ。父の影響受けて開明的思想をもっていた。北京在住17歳の時、父のもとを訪れた毛沢東知り合う。父死後の1920年民国9年1月長沙帰りミッションスクールである長沙福湘女子中学選修班に入学した直後に毛と再会結婚し毛岸英毛岸青をもうける。 同年冬、楊開慧中国社会主義青年団加入した1921年民国10年)、中国共産党湘区党委員会機密交通に関する連絡事務担当する同年冬、正式に共産党加入した1924年民国13年)夏、上海に赴き、女性運動従事している。1925年民国14年2月毛沢東の下に戻り、毛を補佐して農民夜学創設取り組んだ10月広州移り女性運動に再び参加している。1926年民国15年11月長沙に戻る。まもなく毛沢東随従して武漢移り中央農民講習所開き女性運動展開した1927年民国16年11月長沙引き返し以後共産党地下工作従事している。 しかし1930年民国19年10月国民革命軍一系統である湘軍湖南軍)の指導者何鍵により、楊開慧毛岸英と共に長沙逮捕されてしまった。何からは毛との離婚非難声明出せば釈放する誘われたが、楊は拒絶し、ついに長沙城門外で銃殺された。享年30一報聞いた毛は「彼女の死は百身を持ったとしても贖えぬ。」と嘆息したという。毛沢東にとって革命同志であり理想の妻であった毛沢東晩年女性秘書楊開慧と同じ髪型にさせていた。なお毛は楊開慧生存1928年3番目の妻賀子珍結婚している。

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蔡夫人」の記事における「事跡」の解説

『三国志』魏志劉表伝によると、韓嵩曹操元へ使者として赴いた際、官位賜り帰ってきたことに激怒した劉表重臣と共に諌めた

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丁儀」の記事における「事跡」の解説

と共に曹植仕えた丁儀文才優れており、曹操からもその才能評価され清河長公主曹昂同母妹)を嫁がせようともいわれた。しかし当時太子であった曹丕が「丁儀容貌斜視(眇=すがめ、片目小さいこと)なので、そのような醜い男の妻になって姉上お気の毒です。この際姉上には子夏侯楙)に嫁いでいただくのがよろしいでしょう」と縁談反対した。このため曹操頷き丁儀と娘の縁談破談にした。 だが曹操は、後に丁儀改め有能だ分かると「やはり娘を丁儀嫁がせるべきであった」と、大い後悔したという。このような経緯から、丁儀曹丕犬猿の仲になってしまった。そのため曹操晩年曹丕曹植による後継者争いが起こると、丁儀曹植擁立奔走し曹丕太子から廃そうと何度も画策した。丁儀働きによって曹丕派の崔琰処刑され毛玠失脚した(「崔琰伝」「毛玠伝」「徐奕伝」「何夔伝」)。 220年曹丕王位即位すると、弟と共に逮捕され処刑された。だが、文才富んでいた彼の死は、多くの人から惜しまれと言う。 なお、陳寿『三国志』編纂過程丁儀の子孫に原稿料要求し、それを断られたため丁儀伝記を書かなかった、という逸話残っている。ただしこれは、丁一族男子曹丕族滅させられしまっているため疑わしい

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趙匡」の記事における「事跡」の解説

姓名趙匡 時代後漢時代 生没年生年不詳 - 34年建武10年) 字・別号不詳本貫出身地荊州南陽郡 職官右扶風後漢爵位・号等- 陣営所属等光武帝公孫述 家族・一族不詳建武3年27年4月征西大将軍馮異が、延岑関中割拠していた群雄攻撃し延岑については関中から駆逐した。しかし、当時関中飢饉に喘いでおり、馮異軍の兵士たち果実を糧としなければならない状態になっていた。そこで光武帝は詔を発して趙匡右扶風任命し馮異のために援軍兵糧届けさせた。馮異の軍は歳を唱え、これにより勢い取り戻し馮異趙匡呂鮪ら残る関中群雄撃破している。 建武4年28年)、蜀(成家)の公孫述部将の程烏に数万の兵を率いさせ、呂鮪助けて陳倉駐屯させた。馮異趙匡はこれを迎え撃って敗走させた。 ところが趙匡は、この後公孫述へと寝返っている。建武9年33年)に天水郡群雄一人隗囂死去し、子の隗純後継すると、公孫述趙匡と田弇率いる軍を救援派遣した光武帝来歙にこれを迎え撃たせ、さらに、かつては趙匡と共に戦った馮異を行天水太守事として、来歙の下につけた趙匡馮異1年余りに渡り戦った末、建武10年34年)夏、趙匡天水郡馮異敗れ、斬られた。馮異も、この戦い最後に、まもなく陣中病没した。 なお、趙匡叛逆については、理由時期一切不明である。ただし、『後漢書』馮異伝注『東観漢記によれば馮異を行天水太守事に任命した際に、光武帝は「聞吏士精鋭水火不避、購賞之賜、必不令将軍丹青、失断金」との璽書下賜している。

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公孫康」の記事における「事跡」の解説

建安9年204年)、父の後を継いで太守となった建安年中に、楽浪郡18城の南半分である屯有県(現在の黄海北道黄州か)以南裂いて帯方郡設置し、韓や倭まで勢力広げた建安12年207年)、烏桓大人単于班と袁煕袁尚兄弟らが曹操追われ遼東郡逃れてきた時、袁尚らがいることを理由曹操攻めてくる事を恐れ班をはじめ袁煕袁尚らを殺し、その首を曹操差し出した。これにより、曹操から襄平侯・左将軍任命された。 没年不明だが、曹丕文帝)の時代までには死去していたらしく、曹丕から大司馬追贈されている。

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譚慶林」の記事における「事跡」の解説

直隷口北鎮守使兼察哈爾軍務幇弁をつとめた1922年民国11年5月一時的ながら、察哈爾都統を護理(下級職位の者が上位職務代行すること)した。1924年民国13年)の第2次奉直戦争では、直隷派として討逆援軍10司令、討逆軍独立騎兵前敵総指揮となる。しかし、直隷派奉天派敗北し譚慶林1926年民国15年)に山西省閻錫山投降した。 この結果譚慶林また、閻錫山随従して国民政府に付くことになる。1927年民国16年7月国民革命軍第8軍軍長任命された。その後国民政府軍委員会委員軍事参議院参議歴任する1935年民国24年1月陸軍中将銜を授与された。 しかしこれを最後に譚慶林それ以降動向不詳となる。

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彭允彝」の記事における「事跡」の解説

明徳師範学校卒業し日本留学して警察関係の学校で学ぶ。その後早稲田大学政治経済科を卒業し中国同盟会加入した辛亥革命勃発後に帰国して宋教仁殷汝驪らと統一共和党結成して常務幹事となる。さらに国民党結成されると、同党本部文事部主となった1913年民国2年)に衆議院議員に当選する。しかし、宋が暗殺され、さらに国会解散されたため、日本逃亡した日本では欧事研究会発起人に名を列ねている。袁世凱皇帝即位を図ると帰国し上海雑誌中華新報』を創刊して袁を批判する論陣張った袁世凱死後国会議員として復帰した。しかし、孫文孫中山)が護法運動開始すると、これに参加している。1922年民国11年11月汪大燮臨時内閣で署理教育総長任命される翌年1月王正廷臨時内閣正式に教育総長となった教育総長にあった際の彭允彝は、政府統制教育機関に及ぼすため、北京大学学長蔡元培圧力をかけ、これを辞職追い込むなどした。そのため彭は、大学教授・学のみならず世論からも激し非難被っている。続く張紹曽内閣経て高凌霨内閣途中同年9月に、彭は辞任した国民政府時代には、1938年民国27年)から1942年民国31年)まで、3期にわたり国民参政参政員に選出された。 1943年民国32年)、病没享年66

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沙淦」の記事における「事跡」の解説

12歳通州第一高等小学入学したが、13歳のときに弁髪を切り、革命の道を志すうになる中学卒業後に日本留学し成城学校などで学んだ日本滞在中に孫文孫中山)の中国同盟会創設準備関与し創設時構成員ともなった1911年宣統3年)の帰国後は、ジャーナリストの道を歩みつつ革命の準備進める。一時は清の官憲逮捕される危機もあったが、革命派人士である趙声救出され、後に上海に赴き、革命工作引き続き従事した同年10月武昌起義勃発辛亥革命開始される沙淦陳其美とともに決死隊組織し上海製造局を攻撃するなどした。上海革命派により掌握されると、沙は都督府参謀に任ぜられている。 中華民国成立後沙淦江亢虎率い中国社会党加入し、総部庶務幹事をつとめる。しかし江は次第袁世凱接近する姿勢見せたため、沙は中国社会党離脱し別に社会党純粋社会党とも呼ばれる)を結成した。沙は陳其美とともに上海出版界活動し、袁を非難する『土皇帝』という書を著している。 1913年民国2年)に第二革命二次革命)が勃発すると、沙淦地元周辺資金募集活動従事している。ところが、故郷南通戻ったところで袁世凱味方する勢力により捕縛殺害されてしまった。享年29

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劉攻芸」の記事における「事跡」の解説

私立上海聖ヨハネ大学附属中学卒業1919年民国8年)、アメリカ留学しペンシルベニア大学ウォートン・スクール入学する1922年民国11年)、商学士学位取得した続いてノースウェスタン大学入学し同時に銀行でも勤務している。1924年民国13年)、やはり商学士学位取得した後に渡英し、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス入学、ここでも銀行勤務継続した1927年民国16年)に博士学位取得して帰国し国立清華大学経済学講師となる。翌年国立中央大学転じ銀行学を教授した1929年民国18年)、中国銀行総経理張公権張嘉璈)に招聘され同行業務携わる1935年民国24年8月中央信託局局長に任ぜられ、数か月後に国民政府鉄道部財務委員会異動した1940年民国29年)、四行聯合総弁事処秘書長となる。1945年民国34年5月中国国民党第6期中央執行委員候補選出された。 戦後劉攻芸中央信託局局長復帰し浙皖区敵偽産業処理局局長兼ねた1947年民国36年3月中央銀行総裁昇進し1949年民国38年1月には同行総裁となった同年3月徐堪後任として財政部長に任ぜられる。しかし、すでに国共内戦趨勢定まっていた上に、4月には南京陥落してしまったため、劉は財政における指導力をほとんど発揮できなかった。国民政府貯蔵していた黄金台湾輸送する任務従事した後、6月辞任した(徐が後任として復帰)。 その後劉攻芸香港逃れ1950年春にシンガポールシンガポール華僑銀行顧問華僑保険公司董事経理などを歴任した1973年8月8日シンガポールにて病没享年74(満73歳)。

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劉郁芬」の記事における「事跡」の解説

保定速成学校卒業雲南省向かい中国同盟会加入した辛亥革命後北京戻り陸軍軍事学校で職に就く。陸軍10混成参謀長、第11参謀長、第11師第22旅旅長を歴任した1924年民国13年)、馮玉祥組織した国民軍の第2師師長任命される1925年民国14年)、代理甘粛軍務督弁に就任した1926年民国15年9月に馮が五原誓師を行うと、劉郁芬正式に甘粛督弁に任命された。中国国民党北伐の際には、第7方面軍総指揮甘粛省政府主席任命された。1929年民国18年)、馮玉祥蒋介石との内戦開始すると、馮の下で第3路軍総指揮第2軍団総司令となる。1930年民国19年)の中原大戦では、後方総司令代理陝西省政府主席として後方守った。しかし、馮の敗北とともに、劉も下野した1931年民国20年)に復帰し冀察政務委員会委員をつとめる。しかし、1933年民国22年)に再び引退して北平寓居した。 1940年民国29年)、汪兆銘汪精衛)の南京国民政府参加し開封綏靖主任任命された。1942年民国31年)には、軍事委員総参謀長就任している。 1943年民国32年4月2日北平病没享年58

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董訢」の記事における「事跡」の解説

姓名董訢 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳本貫出身地荊州南陽郡葉県 職官不詳爵位・号等- 陣営所属等独立勢力家族・一族不詳新末後漢初群雄一人だが、出身階層初期の経歴等の詳細不詳である。 建武2年26年)、董訢は宛(南陽郡)で漢に叛逆し、南陽太守劉驎を捕虜として立て籠もった。この時、漢の揚化将軍堅鐔右将軍萬脩ととも南陽平定従事していたが、堅鐔決死隊組織し夜に自ら宛城内に斬り込んでこれを陥落させた。董訢故郷の堵郷に逃げ戻っている。 しかし、この時、宛へ向かっていた漢の大司馬呉漢途中で略奪働き故郷新野南陽郡)まで荒らされた漢の破将軍鄧奉育陽南陽郡)で叛逆し、呉漢撃破した董訢鄧奉同盟して堅鐔南北から挟撃包囲し1年渡って困窮させたが、堅鐔最後まで屈せず戦い抜いている。 同年11月光武帝廷尉岑彭を征南大将軍任命し、8人の将軍率いさせて董訢攻撃してくる。そこへ鄧奉董訢救援かけつけ岑彭以下の漢将を大い苦戦させた。しかしこれにより、建武3年27年3月、ついに光武帝親征してくる。董訢別働隊派遣してそれを阻もうとしたが、岑彭により別働隊葉県撃破されてしまう。光武帝堵陽到達すると、鄧奉育陽逃走したが、董訢降伏したこの後董訢どのように処分されたかは不明である。

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尹奉」の記事における「事跡」の解説

初め涼州従事であった建安19年214年春正月尹奉馬超一時的に降伏強いられる。しかし、尹奉南安郡の趙衢と共に馬超討ち取ろう謀り、姜叙が鹵城挙兵したのに応じた。趙衢と尹奉馬超を姜叙討伐出陣させた後、その妻子殺害して梟首している。このため馬超漢中逃亡した黄初2年221年)頃、尹奉敦煌太守に任ぜられた。しかし、黄華・張進ら現地豪族が功曹の張恭を捕えて反抗するなどしている。それでも張恭の策により、尹奉は何とか太守として着任した尹奉現地豪族には逆らわず統治旧習維持するままに任せている。この状況は、後任太守倉慈により改革された。 その後尹奉の名は史書見えない

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尹尊」の記事における「事跡」の解説

姓名尹尊 時代新代 - 後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官不詳爵位・号等郾王〔更始帝陣営所属等更始帝→〔独立勢力家族・一族不詳更始帝劉玄配下武将だが、出身不明である。 更始2年24年)、尹尊功臣一人として更始帝から郾王に封じられそのまま封土の郾に赴いた更始3年25年9月更始帝赤眉軍滅ぼされても尹尊降伏せず、群雄一人として自立保った。なお、同年洛陽朱鮪光武帝劉秀)に降伏する際には、万が一自分殺され場合尹尊降れ、と部下指示している。 建武2年26年)の時点でも、尹尊勢力健在であった。そのため、光武帝諸将軍議において「郾は最強であり、宛はこれに次ぐ。誰がこれを撃つのか」と激して問うている。この時、執金吾賈復が「郾を撃たせてください」と申し出る光武帝喜んで賈復尹尊攻撃させ、宛には大司馬呉漢派遣した。 こうして賈復は、騎都尉陰識・驍騎将劉植率いて郾に進攻してくる。尹尊はこれを迎撃したが、連戦連敗し、わずか1月余りあっけなく降伏したその後尹尊行方不明である。

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夏詒霆」の記事における「事跡」の解説

貢生となった後、ベルリンドイツ公使館翻訳官をつとめる。その後スペイン公使館館員パリフランス公使館一等秘書官となる。1912年民国元年)、夏詒霆北京政府外交部秘書となり、翌年2月国務院秘書異動している。同年8月日本赴任し1か月だけ署理横浜総領事となったその後もベルギー・フランス在外公館領事歴任した1915年民国4年3月、夏は外交部参事となる。 翌1916年民国5年3月帝制目論見潰えた袁世凱新たな政治制度検討するための政治研究会創設し夏詒霆はこの研究会秘書長任じられている。4月、夏は外交部次長代理となった10月段祺瑞内閣外交総長代理暫時つとめ、次いで大総統顧問兼国務院顧問就任した1918年民国7年2月、ブラジル・ペルー公使任命されている。1920年民国9年1月二等文虎章を、1922年民国11年10月一等大綬嘉禾章を、それぞれ授与された。1927年民国16年、。任務終えて帰国したその後南京居住し1936年民国25年)、故郷江陰県戻った。しかし、まもなく日中戦争勃発したため、上海逃れている。1944年民国33年)、同地にて病没享年67

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宋謙」の記事における「事跡」の解説

正史『三国志』によると、195年孫策配下として劉繇攻め従った劉繇軍の太史慈孫策一騎討ち挑んだ際、孫策につき従っていた13人の騎兵一人として韓当黄蓋と共にその名を記されている。 215年孫権合肥城を攻めた時は一軍率いて参加したが、曹操軍張遼奇襲してきたため、宋謙の兵は徐盛の軍と共に逃げ出してしまった。しかし潘璋逃げ出した2人を斬ったため、彼らの軍は全軍逃走至らず踏み留まることができた。 222年蜀漢が呉に侵攻してきた時は、陸遜指揮下で朱然潘璋韓当徐盛鮮于丹孫桓と共に5万軍勢出陣し、これを撃退した劉備白帝城撤退すると、徐盛潘璋と共に再攻撃許可孫権上奏したが、陸遜反対もあり許可されなかった。 宋謙に関する部分上記部分のみで、黄蓋武官として功績挙げた者たちが載る呉書第十にも立伝されていない他の人物の伝に付伝されたり裴松之の注釈にも詳細記述されていないため、字や生没年官位などが不明である。

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何豊林」の記事における「事跡」の解説

北洋武備学堂卒業後、新建陸軍加入し清末には第4鎮第8協第15標標統まで昇進した1912年民国元年5月、第4鎮第8協協統に昇進する翌年、第4師第7旅旅長となった1915年民国4年)、袁世凱皇帝即位した際には、三等男爵封じられた。袁世凱死後は、安徽派盧永祥属する。1917年民国6年1月浙江省寧台鎮守使となる。1920年民国9年)、淞滬護軍使兼第6混成旅旅長に就任する1924年民国13年)、江浙戦争では浙滬聯軍第1軍司令として戦ったが、盧の敗北と共に下野し大連逃れたその後何豊林奉天派に加わる。張作霖大元帥となると軍事総長抜擢され、さらに安国模範軍団総司令任じられた。なお1927年民国16年4月には、軍事特別法廷裁判長として、李大釗絞首刑宣告している。北京政府崩壊した後には、何も辞任して東北逃れた1931年民国20年)、東北辺防軍司長官公署首席参議任じられている。1935年民国24年)、死去享年63翌年陸軍中将銜を追贈された。

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良弼」の記事における「事跡」の解説

日本留学し1903年光緒29年)、陸軍士官学校第2期歩兵科卒業する帰国後は練兵処調処差委となった1904年光緒30年)、練兵軍学監督となり、さらに新軍第6鎮第23標標統に転じた1905年光緒31年)、練兵軍学副使に任ぜられ、あわせて軍事教育司る各職を兼任する1907年光緒33年)、陸軍部軍学司司長に昇進した1908年光緒34年12月禁衛軍第1協統領に任ぜられる。1910年宣統2年)、載濤に随従して欧米軍事視察赴いた辛亥革命勃発後の1911年宣統3年12月、鑲白旗漢軍副都統兼軍諮府軍諮使に異動した1912年民国元年1月愛新覚羅溥偉鉄良らと宗社党結成し清朝擁護活動図った。しかし同月26日良弼革命派刺客、彭家珍が仕掛けた爆弾を受け重傷負い1月29日回復せぬまま死亡した

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周道剛」の記事における「事跡」の解説

四川武備学堂卒業後、日本留学する陸軍士官学校第3期歩兵科学んだ卒業後に帰国し四川陸軍学堂監督四川新軍管帯、第33協第65標標統などを歴任する1912年民国元年)、四川都督陸軍部長をつとめる。まもなく北京総統府議官異動したまた、進歩党にも入党している。 1916年民国5年)、護国戦争に際して蔡鍔らの護国軍に呼応し袁世凱討伐参加した。蔡から四川軍第1師師長任命されている。四川軍の劉存厚雲南軍の羅佩金貴州軍の戴戡による四川省での三つ巴混戦経て1917年民国6年7月までに羅佩金四川省撤退し戴戡戦死する。これを受けて周道剛北京政府から代理四川督軍任命された。 周道剛は、勢力確保のために、長江上遊司令四川査弁使呉光新援軍受けた。しかし、顧品珍らの雲南軍の攻撃受けて周は敗北し同年12月には下野追い込まれた。 日中戦争抗日戦争)期から1948年民国37年3月まで国民参政参政員を務めた1953年死去享年79

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周道剛」の記事における「事跡」の解説

四川省地方編纂委員会編 『四川省人物志 下冊』 四川人民出版社2001年ISBN 7220035144。 徐友春主編 『民国人物大辞典 増訂版』 河北人民出版社2007年ISBN 978-7-202-03014-1。 劉寿ほか編 『民国職官年表中華書局1995年ISBN 7-101-01320-1。 田子渝・劉徳軍 『中国近代軍閥史詞典』 档案出版社1989年ISBN 7-5626-0244-1。 中華民国北京政府先代: 戴戡 四川督軍代理1917年7月 - 12月 次代: 劉存厚

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隗純」の記事における「事跡」の解説

姓名隗純 時代後漢時代 生没年生年不詳 - 42年建武18年) 字・別号不詳本貫出身地涼州天水郡成紀職官不詳爵位・号等朔寧王〔蜀〕 陣営所属等隗囂公孫述光武帝 家族・一族父:隗囂 兄弟:隗恂(兄?弟?) 父の隗囂は、当初光武帝陣営属していたが、対立の末に蜀(成家)の公孫述服従して朔寧王封じられ光武帝抗争した。しかし、部下を切り崩され要地占領されるなど劣勢に陥り、最後建武9年33年春正月に、冀城(天水郡)にて困窮し死去した隗純は父を後継し、やはり天水郡拠って光武帝への抵抗続けた。これを支え部下には王元周宗行巡高峻・苟宇・趙恢らが健在で、しかも公孫述部将である田弇・趙匡援護もあったため、依然として漢にとって侮れない勢力であった。 これに対して光武帝は、同年8月に、中郎将来歙に、征西大将軍馮異・建威大将軍耿弇虎牙大将軍蓋延・揚武将軍馬成・武将軍劉尚率いさせ、天水へと侵攻させた。両軍による戦いは、以後1年余りに渡って継続する建武10年34年)夏、天水郡趙匡馮異敗れ戦死したが、隗純らは、その後の漢軍による冀城への攻撃は何とか凌いだ同年8月第一城(安定郡高平県)を守備していた高峻が、力尽きて漢の寇恂降伏した。そして同年10月、落門聚(天水郡冀県)で隗純来歙大敗し部下共々ついにここで全面降伏した。ただ、王元のみが、蜀の公孫述の下へ逃れている。こうして隴右は漢により平定されたのであった。 後に建武18年42年)、隗純賓客と漢を逃亡。胡族と結び、武威郡に至るも捕縛され誅された。

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蕭叔宣」の記事における「事跡」の解説

辛亥革命参加した後、1915年民国4年)、奉天省陸軍講武堂赴任した1926年民国15年)、中国国民党北伐において、唐生智率い国民革命軍第8軍の中で指揮官をつとめる。その後福建教導旅旅長、駐日大使館武官などを歴任した1936年民国25年)、陸軍中将昇進した1939年民国28年8月汪兆銘汪精衛)の下で国民党中央委員任じられた。翌年3月南京国民政府の正式成立とともに軍事訓練政務部長任命され代理部となったあわせて中央政治委員会員と軍事委員常務委員兼任している。1941年民国30年3月正式に軍事訓練部長昇進する翌年8月軍事参議院院長就任した1943年民国32年9月中央陸軍将校訓練教育長に任ぜられる。1945年民国34年3月陸軍部部長となった日本敗北直後8月17日周仏海配下である税警局隊長・周鎬率い南京国民政府税警団一部が、南京中央儲備銀行総部の建物占拠し南京国民政府軍の武装解除政府要員逮捕開始した(周鎬事件)。このとき、蕭叔宣税警団連行されそうになり、抵抗したところ、射殺された。享年52

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沈爾喬」の記事における「事跡」の解説

中国国民党浙江省党部執行委員婦女部長つとめたことがある1940年民国29年3月汪兆銘汪精衛)により南京国民政府樹立されると、沈爾喬は審計部政務次長に任ぜられた。10月浙江省政府委員民政庁長異動する翌年2月、省政府主席梅思平代理として省政府主席任じられ8月までつとめたその後、浙東行公署行政長官、清郷委員会委員などを歴任する1943年民国32年4月浙江省第1行政督察専員に任ぜられた。同年8月、銓叙部部長となり、南京国民政府崩壊までその地位にあった日本敗北後沈爾喬消息不明である。

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高順」の記事における「事跡」の解説

呂布配下高順に関する記述は、『後漢書』呂布伝・『三国志』呂布伝の他・両書の注に引く『英雄記』(魏の王粲等が編纂した『漢末英雄記』を指すと思われる)・『九州春秋』等に散見される建安元年196年6月呂布下邳劉備から奪って間もなく呂布軍郝萌反乱起した(袁術呂布軍陳宮とが背後画策しとされる)。この時、都督高順は自らの兵営呂布匿うと、素早く郝萌部隊弓矢一斉射撃浴びせ反乱鎮圧した建安2年197年)、開陽駐屯中の臧覇が、琅邪国相の蕭建撃ち破って莒を占領すると、このとき既に蕭建味方取り込んでいた呂布は、怒って臧覇攻撃しようとした。高順は「董卓誅殺威光活かして周囲帰服させるべきであり、軽々しく軍を動かして敗北すれば名声損ないます」と呂布進言した。呂布聞き容れずに臧覇攻撃したが、撃退され下邳引き返した結局、後に呂布臧覇和睦している。 建安3年198年)春、呂布袁術と誼を結び高順中郎将として、北地太守張遼と共に劉備攻撃し9月には小沛城を攻め落して劉備妻子を捕えた。さらに、劉備救援駆けつけ曹操軍夏侯惇とも戦い撃破した。 しかしこうした高順奮戦虚しく曹操自らが東征の軍を催すと呂布三戦敗して下邳城内追い詰められ同年12月敗れた高順呂布陳宮と共に捕らえられ曹操命令絞首処せられた。その首級は、許の市場梟首された後に埋葬されている。

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劉翼飛」の記事における「事跡」の解説

鉄嶺県河沿村出身1901年光緒27年)より私塾学び鉄嶺県第二小学1905年光緒31年)に卒業1908年光緒34年)、奉天陸軍小学英文班に入学する在学中1910年宣統2年)に中国同盟会加入した同盟会員の宋少侠、高子信、王静山らと連絡取り合い鉄嶺開原法庫康平等にそれぞれ赴き革命参加鉄嶺開原一度革命党の手中に収まったが、清軍に奪還され捕らえられる脱走し山東省煙台に向かう。1914年奉天陸軍補習所学監督于珍推薦北京清河陸軍中学進学袁世凱皇帝称すると、陸軍中学内でも生徒デモ起こし授業停止となった。馬海竜、王静山らとともに山東省に赴き、民軍「岱東(中国語版第二隊」司令部代理参謀長。しかし、諸城護国副司令劉玉亭の裏切りで司令の宋滌塵とともに逮捕されるほどなくして釈放されるが、劉玉亭は更に山東将軍張懐芝誣告陸軍省は劉玉亭の逮捕命令出したが、徐樹錚秘書長同学であった次眉が握りつぶしたため事なきを得陸軍中学卒業して保定陸軍軍官学校候補生隊に転ずる1916年民国5年8月保定陸軍軍官学校第5期歩兵科入学した1918年民国7年9月の卒業後、北京黄寺参戦軍軍官教導団(長:陳文運)で訓練を受け、翌1919年民国8年1月参戦軍第3師第59第3営第11連排長、中尉間もなく団の銃剣術主任教官となる。1920年民国9年7月安直戦争勃発後、固城戦闘負傷し後送される。しかし、そこの病院では戦闘の影響治療滞っていたため、暴動引き起こして脱走する

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チョトパジャップ」の記事における「事跡」の解説

1900年光緒26年)、三群馬隊の哨官として軍歴開始する清朝牧場の委協領、正協領を歴任し1909年宣統元年)、牧場総管となった1911年宣統3年)、モンゴル外蒙古)軍と国境のダリガンガ(達里崗崖)で戦う。しかし敗北して捕らえられフレー庫倫)に3年拘禁された。 帰国後に、チョトパジャップ北京政府から記名副都統に任ぜられた。1915年民国4年)、匪賊討伐軍功をあげ、四等文虎章を授与されている。同年、(明安(ミンガン牧場長兼ねた翌年バボージャブらを討伐して、これを捕虜としている。この軍功により、陸軍中将昇進した1918年民国7年8月安福国会で衆議院議員選出される国民政府成立後1929年民国18年)に、蒙蔵委員会北平弁事処副処長に任ぜられる。1932年民国21年10月蒙古地方自治政務委員会察哈爾チャハル)部保安長官に任ぜられた。翌年8月察哈爾省政府委員任命される1934年民国23年3月蒙古地方自治政務委員会委員となった。それからまもなく、チョトパジャップデムチュクドンロブ李守信協力して南モンゴル自治運動開始する1937年民国26年10月チョトパジャップ蒙古聯盟自治政府参加し参議察哈爾盟盟長に就任する翌月蒙疆聯合委員会総務委員会委員となった翌年7月、同委員会総務部部長昇格している。1939年民国28年9月蒙古聯合自治政府成立すると、政務院院長察哈爾盟盟長となった翌年3月南京国民政府汪兆銘政権)の中央政治会議に、蒙古代表として参加した。まもなく、中国国民党中央執監委員中央政治委員会委員選出されている。1941年民国30年)、蒙古聯合自治政府参議会議長異動した1945年民国34年以後消息不明である。

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廉隅」の記事における「事跡」の解説

日本留学し京都帝国大学法学士称号取得した帰国後は北京政府でまず外交部主事就任する以後1913年民国元年1月浙江省高等審判庁長任命され11月辞任する1914年民国3年3月直隷省高等審判庁長任命され1920年民国9年9月までつとめた。まもなく署理河南省高等審判庁長異動したが、翌月早くも辞任した。後に天津市弁護士を開業する。 中華民国維新政府成立後1938年民国27年4月廉隅はその外交部次長任じられたが、6月、いったん辞任している。翌年2月外交部長陳籙国民政府特務暗殺されると、4月から8月まで廉隅が署理部長つとめた次いで署理実業部長転じる1940年民国29年3月維新政府汪兆銘汪精衛)の南京国民政府合流すると、いったんは立法委員に任ぜられる。しかし同年末、廉隅初代満州国大使任命された。1943年民国32年2月まで、この地位つとめている(後任陳済成)。いったん大使在部弁事となり、1945年民国34年5月汪兆銘政権最後駐日大使に任ぜられた。 日本敗北汪兆銘政権崩壊以後は、廉隅行方不明となっている。

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胡惟徳」の記事における「事跡」の解説

上海方言館で学習した後、1888年光緒14年)、戊子科挙人となる1890年光緒16年)、薛福成随従して、駐英公使館翻訳担当学生となり、その後随員昇格した以後、駐米公使館参賛、駐ロシア公使館参賛と歴任し1902年光緒28年2月駐ロシア公使事務代行した同年7月、出使俄国大臣駐ロシア公使)に正式に昇進した1907年光緒33年9月帰国して外務部右丞に任命される翌年3月日本公使として派遣され駐在した1910年宣統2年)、デン・ハーグ常設仲裁裁判所仲裁人任命された。同年5月帰国して外務部右侍郎となる。7月には左侍郎異動して、幇弁税務大臣兼任した1911年宣統3年10月袁世凱内閣外務副大臣任命され、署理外大臣となった1912年民国元年3月税務処督弁に任命されあわせて唐紹儀内閣外交総長兼任した同年11月駐フランス公使任命される以後民国3年1914年)までスペイン公使ポルトガル公使も兼任した1920年民国9年9月駐日公使異動した1922年民国11年6月職務解かれ帰国する9月外交部太平洋会議善後委員会理事に任ぜられた。 1926年民国15年3月賈徳耀内閣外交総長任命され、さらに関税特別会全権大使兼任した4月20日段祺瑞臨時執政辞任、賈の総理辞任に伴い胡惟徳国務院総理代行となる。同年5月13日までその任を務めた1927年民国16年1月顧維鈞内閣内務総長となり、同年6月までつとめた同年11月平政院長及び文官高等懲戒委員会委員長任じられた。1923年民国17年)、常設仲裁裁判所仲裁人に再び任命された。 1933年民国22年11月24日北平病没享年71

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陳君慧」の記事における「事跡」の解説

私立嶺南大学卒業後にアメリカ留学するニューヨーク大学修士号取得した帰国後の1933年民国22年)、社会調査研究所主任となる。翌年中央研究院社会研究所専任研究員となった1940年民国29年3月汪兆銘汪精衛)の南京国民政府加入し中央政治委員会委員以後4期務める)、経済専門委員会主任委員となった翌月行政院参事庁長中央銀行籌備委員会委員兼ねている12月中央儲備銀行常務理事全国経済委員会秘書長となった翌年3月文物委員会委員を、8月行政院政務委員物資統制委員会委員糧食管理委員会委員兼任している。12月僑務委員会委員長に任ぜられた。 1942年民国31年8月水利委員会委員長となり、その翌年1月建設部長異動した9月実業部長全国経済委員会常務委員となる。10月合作事業委員会委員長となる。1944年民国33年3月短期間ながら糧食部長兼ねた糧食部は同年4月実業部に併合される)。7月郷村建設実施委員会秘書長となる。 日本敗北後陳君慧陳公博随従して日本へ亡命したが、10月帰国する陳君慧は、蔣介石国民政府により逮捕され、老虎監獄収監された。 その後陳君慧行方は、不詳である。

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陳済成」の記事における「事跡」の解説

日中戦争抗日戦争勃発後、汪兆銘汪精衛)に合流する。その下で中国国民党中央候補監察委員社会部部長任じられた。 1940年民国29年3月南京国民政府成立すると、国民党海外党務委員会委員となる。また、僑務委員会委員長にも任命された。1942年民国31年3月辺疆委員会委員長に転じる翌年1月国民政府委員異動した同年2月満州国大使任命され赴任日本敗北汪兆銘政権崩壊後漢奸容疑逮捕され上海市の提監獄収監。陳の最終的な行方没年について不明彼の息子慶應義塾大学留学して歴史研究し、その息子の祖徳は中華人民共和国初め囲碁プロ棋士となった

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盧元善」の記事における「事跡」の解説

日本留学し1912年民国元年)、宮城県宮城農学校卒業した帰国後は、金州南金書院農業科教員となっている。1923年民国12年)、金州農業学堂成立すると、その教員になったまた、通遼県墾殖公司経理つとめている。 満州国成立するとこれに参加し1932年民国21年4月軍政部高級秘書に任ぜられた。後に黒竜江赴任し実業庁長民生庁長教育庁庁長専売総局長を歴任している。1939年康徳6年4月三江省省長に任ぜられる。1942年康徳9年9月総務庁次長起用された。1943年康徳10年4月文教大臣昇進している。 満州国滅亡後は、ソ連軍逮捕連行されハバロフスク45収容所収監された。1950年8月中華人民共和国引き渡され撫順戦犯管理所収監されている。 1959年9月獄中病没享年72

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劉汝明」の記事における「事跡」の解説

陸建章率いる左路備補軍から軍歴開始する当初馮玉祥率いる前営(第2大隊)で前哨(第2中隊)当兵、間もなく第5什長。翌年少尉任官し、京衛軍左翼第1団第3営第10連排長。1914年2月、京衛軍左翼第1団・第2団が合併して第7師第14旅が編成される連長に任ぜられる。当時、同連の兵卒吉鴻昌曾志がいた。同年白朗鎮圧動員される。 第7師の分裂後馮玉祥率いる第16混成旅で累進し1922年民国11年)に第11師第22旅(長:張之江)第44団(長:劉郁芬)第1営営になった5月5日第1次奉直戦争呼応した河南督軍趙倜率いる毅軍が鄭州少数部隊率いていた張之江らを包囲すると、救援のため翌6日、第11主力とともに河南省派遣される。第1営は祭城(現:鄭州市金水区)に展開し9日深夜反撃転じた毅軍6、7個営に包囲されたが持ちこたえた国民軍結成される警衛第1旅(2個団を管轄)旅長に就任し、後に警衛第1旅・第2旅を合併して西北軍暫編陸軍10師(長:門致中)が編成されると第31旅旅長、翌年師長昇進した北伐後の1929年民国18年)、国民革命軍第5路軍総指揮第10軍軍長となる。1930年民国19年)の中原大戦後は山西省渡り宋哲元率いる第29軍副軍長任命された。 1933年民国22年)、長城抗戦参加し、第143師長任命された。1936年民国25年)、察哈爾省政府主席兼任した日中戦争抗日戦争勃発後の1937年民国26年)、第68軍長就任した第2集団軍副総司令総司令代理総司令歴任日中戦争終結後に、第2集団軍は第4綏靖区、さらに1948年民国37年)に第8兵団改編され司令官として国共内戦で戦う。しかし、1949年民国38年8月厦門戦役劉汝明の軍はついに中国人民解放軍殲滅されてしまい、劉は台湾へ逃亡した10月22日解任後は閑職追いやられ、1952年退役1975年民国64年4月28日台湾死去享年815月10日二級上将追贈

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衛茲」の記事における「事跡」の解説

張邈配下。同郡の孝廉推挙された。 激し弁論好まず俗世名声求めない人柄であったまた、優れた節操を持つ人物として知られ三公招聘にも応じなかった。 曹操初め陳留訪れた際に、衛茲は彼と面会したところ「天下平定する人は、必ずやこの人だ」と言った曹操衛茲異才人物認め以後数度渡り訪問して大事を諮った。その後衛茲董卓討伐のために3千の兵を集めた魏書衛瑧伝」注『先賢行状』)。また魏書武帝紀」注『世語』によれば衛茲家財提供して曹操挙兵支援したため、曹操は兵5千を率いることができたという。 初平元年190年)、張邈命令により、衛茲は兵を率いて曹操随行した曹操衛茲らは、滎陽県董卓軍徐栄交戦し衛茲終日力戦した。しかし軍は敗れ衛茲戦死した曹操衛茲の死を悼み陳留郡通過する際には、必ず使者派遣して衛茲のために祭祀執り行なったという。

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諸葛玄」の記事における「事跡」の解説

兄の諸葛珪急死したため、まだ幼かったの子諸葛亮諸葛均引き取り育てるが、この頃朝廷無視し自ら天子名乗る袁術によって、豫章太守任命された。実直な彼はその命令応じ赴いた。だが朝廷改めて、豫章太守朱皓(字は文明朱儁の子)を任じて諸葛玄と代わらせようとした困った諸葛玄は、以前から荊州牧の劉表旧知の仲だったので、諸葛亮らを引き連れて劉表頼ったが、後に亡くなった一方別の説では、豫章太守であった周術(述)が病没したため諸葛玄劉表によって豫章太守に任ぜられて昇進し豫章郡南昌県駐屯した。朝廷は周術の死を聞いて朱皓豫章太守として派遣し劉繇朱皓支援命じた案の定諸葛玄板挟み遭い遂には兵を用いた争いにまで発展してしまった。その結果諸葛玄敗走し西城まで逃亡し、代わって朱皓南昌赴任することになった197年正月笮融煽動され西城住民反乱を起こすと、諸葛玄巻き込まれ戦死し、その首を劉繇届けられた。そのため拠り所失った諸葛亮兄弟は、荊州流れることになったという。

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李思賢」の記事における「事跡」の解説

福建公立専門学校専門科卒業霞浦県知事[要出典]を経て福建省司法官となる。1917年民国6年)、廈門弁護士を開業した。1931年民国20年)まで福建弁護士会長をつとめ、中華弁護士協会理事なども兼ねている1938年民国27年1月李思賢廈門治安維持司法主任審判官となる。3月廈門治安維持会長高等法院院長となる。7月中華民国維新政府において廈門市政府成立すると、市長就任した。さらに高等法院院長特別市警察庁庁長兼ね廈門政治司法・警察をすべて自身の手指揮している。 1940年民国29年)に南京国民政府汪兆銘政権)が成立しても、引き続き李思賢廈門市長留任している。1943年民国32年3月廈門市特別市昇格した際にも、やはり引き続き特別市長をつとめた1945年民国34年8月汪兆銘政権崩壊するまで、同職にあった廈門統治7年余りにわたったことになる。 中華人民共和国建国後1951年1月19日李思賢廈門市人民法院により民衆裁判(「公審大会」)にかけられ漢奸として処刑された。享年66

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郝普」の記事における「事跡」の解説

建安19年214年)、劉備益州平定すると、郝普零陵太守任命され荊州関羽の下に属したこの年孫権劉備返還渋っていた長沙零陵桂陽の3郡に太守任命して派遣したが、関羽いずれも追い払われた。怒った孫権は、自ら軍を率いて陸口に駐屯し魯粛を巴丘に駐留させて関羽動き封じ呂蒙に3郡を攻め取らせた長沙桂陽の2郡はすぐに降伏したが、零陵郝普降伏受け入れずそのまま守備した。 まもなく、劉備が自ら軍を率いて公安来援したため関羽は3郡を奪回しようと益陽向かった一方孫権は、呂蒙魯粛救援するよう命令したこの際呂蒙は、郝普古くからの友人である南陽の鄧玄之という人物引き入れたという。呂蒙は鄧玄之を、零陵郝普元に派遣し劉備漢中夏侯淵包囲され動けず、関羽南郡孫権破られた」と、偽の情報告げさせた。このため郝普はこれを知ると戦意喪失して降伏した。しかしその後呂蒙対面した際に実情が全く異なっていたことを知らされ、また呂蒙に手を叩いて嘲笑されたため、慙愧に耐えず突っ伏してしまった。 まもなく、劉備孫権の間で和解成立すると、郝普劉備の下へ一旦返された(呉書呂蒙伝)。ところがその後孫権の下へ戻ってきている。呉での郝普廷尉にまで昇進した黄龍2年230年)に呉へ投降した青州隠蕃は、その才能から廷尉監に任命された。郝普隠蕃親しく交遊し、朱拠と共に隠蕃には王佐の才がある」と賞賛した。郝普隠蕃高位得られないことについて、不平を漏らすほどであったという。しかし隠蕃が魏から送り込まれ間諜であったことが後に分かり孫権誅殺される事件起こったこのため郝普もその責任孫権から糾弾され自殺追い込まれることとなった蜀漢楊戯著した季漢輔臣賛』に名を列ねているが、やはり糜芳士仁潘濬と共に「魏・呉2国の笑い者になった者達」と評されている。なお、小説『三国志演義』には登場しない

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霍峻」の記事における「事跡」の解説

兄の霍篤の死後劉表の命により霍峻はその私兵受け継いだ建安13年208年)に劉表死去する劉備仕え中郎将任命された。 建安17年212年)、劉備の入蜀際し霍峻広漢郡葭萌城の守備命じられた。この時、張魯配下楊帛から寝返り誘いがあったが、これを断ったという。その後劉璋軍の扶禁・向存ら一万余の軍勢に城を包囲されたが、1年に亘り守り通した。そして数百軍勢の中から精鋭選抜し城外出撃して扶禁・向存を破り、向存を斬った。この功績により建安22年217年)、梓潼太守兼裨将軍任じられた。 建安24年219年)、在職中40歳死去し遺体成都葬られた。劉備はその死を大変悲しみ葬儀の際は墓の側で宿泊したという。

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魏越」の記事における「事跡」の解説

姓名魏越 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官不詳爵位・号等- 陣営所属等呂布 家族・一族不詳呂布配下の将。『三国志』魏書呂布伝・『後漢書』呂布伝に、その名が散見される呂布長安から追われて後、袁紹と共に常山張燕戦った呂布が、僅か数十騎で1日3・4回も張燕本陣突撃加えた時、魏越成廉と常に呂布傍らにあったこのような戦い振り10日余り続けた末、ついに張燕軍を大破している。これ以降魏越の名は史書見当たらない『後漢書』呂布伝では、勇将ないしは猛将意味する「健将」との表現がある。

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郭涼」の記事における「事跡」の解説

姓名郭涼 時代新代 - 後漢時代 生没年不詳〕 字・別号公文(字) 本貫出身地幽州右北平郡 職官兵曹掾〔劉秀後漢)〕→雁門太守後漢爵位・号等広武侯〔後漢陣営所属等劉秀光武帝家族・一族不詳身長8尺、気力は盛んであった武将ではあるが、経書通じて智略多く辺境事務明るかったため、北方では有名な人物であった最初は、幽州朱浮招聘され兵曹掾として任用された。その後反乱起こした彭寵討伐功績があり、広武侯に封じられている。 その後雁門太守遷り建武9年33年)、驃騎大将軍杜茂と共に繁畤雁門郡)で盧芳部将尹由を攻撃したが、盧芳賈覧率い匈奴(胡)騎兵差し向けてきたため、敗退したその後守り固めて盧芳軍の内部分裂待った建武12年36年)、盧芳雲中郡攻略失敗すると、尹由に将帥任じられ平城雁門郡)を守備していた雁門の人である賈丹・霍匡・解勝らが、尹由を殺害して郭涼降伏してきた。郭涼その事情を光武帝報告したところ、賈丹らは列侯封じられた。その後盧芳側の城邑次々と降伏し郭涼雁門豪族・郇氏を誅滅したが、その他の一般民衆保護し雁門郡平定した。これも原因となり、盧芳匈奴の地へ逃走した光武帝は、この功績から、郭涼の子を中郎として抜擢し左右宿衛担当させた。 以後郭涼に関する記述は、史書登場しない

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孫丹林」の記事における「事跡」の解説

山東大学卒業1911年宣統3年)、辛亥革命の際に登州軍政府樹立されると、その秘書長兼総参謀として推戴された。その後、高苑知県、直巡閲使署秘書長歴任する1922年民国11年6月北京政府内務次長となる。同年7月内務総長代理9月同職を署理した。そのほかに、督弁鄭州商埠事宜つとめている。 1927年民国16年)、上海中国興業銀行総経理となった1937年民国26年)に日中戦争抗日戦争)が勃発すると、国民政府外交部特派員として日本との交渉あたったその後孫丹林行方不明である。

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周学昌」の記事における「事跡」の解説

国立北京大学広東大学卒業し1925年民国14年)、黄埔軍官学校教官となる。以後北伐東路軍第2師政治部主任国民政府工部調査主任中国国民党党員志願軍団秘書長政治部主任中央党幹事山東棗荘鉱区工会指導主任北平市党務指導委員歴任した1931年民国20年)、北平市政府教育局局長任命される翌年10月陝西省政府委員教育庁庁長、同省党部執行委員となった1938年民国27年)、西康建省委員となる。 1939年民国28年8月汪兆銘汪精衛)に合流し、その下で国民党中央委員任命された。翌年9月中央党訓練教育長任命されている。1941年民国30年2月東亜聯盟中国総会理事会秘書長となる。5月、同南京分会常務理事書記長異動した8月国民政府社会行動指導委員会委員となる。9月糧食管理委員会常務委員に任ぜられた。12月南京特別市市長任命され汪兆銘政権崩壊までその地位にあった翌年2月には、新国運動促進委員会委員となっている。 日本敗北直後8月17日周仏海配下である税警局隊長・周鎬率い南京国民政府税警団一部が、南京中央儲備銀行総部の建物占拠し南京国民政府軍の武装解除政府要員逮捕開始した(周鎬事件)。このとき、周学昌税警団逮捕されたが、支那派遣軍総参謀副長今井武夫が周鎬を説得したことにより、釈放された。 同年9月26日蒋介石国民政府により周学昌結局漢奸として逮捕された。翌1946年民国35年10月19日死刑判決言い渡され1947年民国36年5月の上訴審でも死刑判決維持された。しかし、その後死刑結局執行されず、1949年民国38年1月南京から上海移送され中華人民共和国成立後上海収監され続けた1952年11月27日周学昌そのまま上海提籃監獄病没した。享年55(満54歳)。

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阮忠枢」の記事における「事跡」の解説

清末挙人となる。李鴻章幕僚となり、北洋水師学堂教習教官)、北洋軍械総文案歴任する1895年光緒20年)、袁世凱幕僚転じ、やはり文案つとめた1908年光緒33年)、順天府尹となる。後に郵伝副大臣昇進した辛亥革命勃発すると、清朝の命により、一時引退追い込まれていた袁の再出馬を要請する使者となっている。 北京政府成立後1914年民国3年5月阮忠枢総統府秘書長改組した総統府内史監に就任した以後袁世凱皇帝即位のために奔走したが、1916年民国5年6月に袁が病死すると、阮は皇帝即位画策の罪で指名手配されてしまう。翌1917年民国6年)、阮は張勲復辟加担する同年7月清朝復辟時に阮は郵伝部左侍郎に任ぜられたが、まもなく張勲敗北し、阮も逃亡した同年12月上海病没享年51

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津熊三郎」の記事における「事跡」の解説

津田町長村家系図によると、正平十五年冬十一月七日楠木正儀津田城主の津田左衛門範高をはじめ、交野郡内の山下相模守、津熊三郎笹田五郎等の三十九士、尊延寺海藏坊をはじめ同宿三十九人並びに津田寺、明尾寺、獅子窟寺の各衆徒引率し京都攻撃した。 なお、長村家の祖津田左衛門範高は楠木正成に従って軍功あり、その恩賞として交野郡津田郷を賜り建武三年正月津田城築いた湊川合戦の前、一子正儀養育遺託されたので、正儀幼児期は同城内迎えて同居したと伝えられている。(旧枚方市史より引用

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石青陽」の記事における「事跡」の解説

清末秀才となる。重慶府中学堂を経て日本留学する当初養蚕専門学校学んだ1906年光緒32年)、東京中国同盟会加入した翌年学校卒業して帰国する帰国後は養蚕伝習所開設する傍らひそかに同盟重慶支部参加し理事となる。 1911年宣統3年)夏、四川鉄道保護運動(「保路運動」)が発生すると、決死隊(「敢死隊」)を組織し重慶での革命派蜂起に加わる。重慶革命派蜀軍政府成立すると、決死隊義勇軍改組した。 1913年民国2年)の二次革命第二革命)が失敗する日本逃亡する日本では中華革命党に加入した。1915年民国4年)末に護国戦争勃発すると、これに参加している。この前後から四川省での軍事活動開始し1917年民国6年12月川北招討使となる。翌年3月四川陸軍第2師師長川北鎮守使となった。後に川滇靖国聯軍援陝第1路軍総司令となる。その後四川離れて孫文孫中山)の護法運動加わった1921年民国10年12月大本営参議に任ぜられた。 1922年民国11年)、孫文派の司令官として四川戻り四川賊軍第1路軍総司令川東辺防総司令となる。しかし、1924年民国13年)には四川省内の内戦敗北して広東省逃亡した同年1月中国国民党第1期中央執行委員選出されている。政治的立場反共右派であった1926年民国15年1月国民党第3回全国大会除名されたが、同年3月西山会議派加わり、同派の下で中央監察委員選ばれている。 1929年民国18年)に国民党各派合流に伴い党籍回復した同年、滇康墾殖特派員に任ぜられた。1931年民国20年12月国民党第4期中央執行委員選出される同月蒙蔵委員会委員長に任ぜられた。 1935年民国24年3月25日南京死去享年57死後陸軍上将追贈された。

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賈徳耀」の記事における「事跡」の解説

保定陸軍軍官学校卒業した後に、日本留学した陸軍士官学校第3期歩兵科学んでいる。帰国後は、北洋第2鎮正参謀官、騎馬2標標統を歴任した1912年民国元年)、河南護軍配属され団長となる。1913年民国2年)、第7師第13旅旅長に昇進する民国3年1914年9月には第15混成旅旅長に異動した1916年民国5年1月、陝南鎮守使に任命されている。袁世凱死後賈徳耀段祺瑞率い安徽派に属する。1919年民国8年8月保定陸軍軍官学校校長任じられた。安直戦争後の1922年民国11年)、陸軍部軍学司司長に任じられ1923年民国12年3月陸軍軍学編輯局局長となった1924年民国13年10月賈徳耀馮玉祥による北京政変首都革命)に参与して、段祺瑞復権貢献した11月陸軍次長に、12月には陸軍総長任命されている。1926年民国15年2月15日許世英後任として、国務院総理任命される陸軍総長兼任)。しかし3月18日日本欧米各国が段に馮排除要求し、さらに武力行使辞さない勧告したことに端を発して北京でこれに反発する民衆官憲との衝突事件発生した三・一八惨案)。賈は事件の責任をとり、4月20日辞任したその後段祺瑞とともに下野していたが、1932年民国21年6月賈徳耀国民政府軍参議院参議として復帰する民国24年1935年12月冀察政務委員会委員となった1936年民国25年1月外交委員会委員となり、主任委員も後につとめた日中戦争勃発した後には、賈は日本軍の占領地域とどまった。しかし、親日政府への参加要請拒絶している。晩年上海移り隠棲した。1941年民国30年)、上海にて病没享年62死後国民政府から陸軍中将陸軍上将銜を追贈されている。

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阿曽三右衛門」の記事における「事跡」の解説

江戸時代初期越中砺波郡陸上交通の便が極めて悪く年貢米など農作物運搬や、日用品売買する為には、今石動城城下町として興り廃城後奉行所置かれた今石動か、善徳寺瑞泉寺門前町加賀藩産業拠点として発展した城端井波まで行かなければならなかった(現南砺市)。阿曽三右衛門はこれらの町の中間にあたる場所に新しい町を開く必要があることを説きそれを実行した福野町立 慶安2年1649年六月、三右衛門38歳の時、福野での町立加賀藩奉行国府新助願い出た。翌慶安3年1650年正月許可されると、57軒の家が建てられた。毎月二と七の日を市の日と定め近在公益図った。(町立文書富山大学図書館所蔵菊地文書) 福光町立 慶安4年1651年)には福光町立加賀藩奉行国府新助願い出て許可された。市日は二と七の日で、月に六回となり六済市と呼ばれた。(町立文書所在不明十村石崎文書によると文化年間(1810年頃)に町立文書紛失したとある) 津沢町立 万治3年1660年五月。三右衛門50歳の時、津沢町立の願い書加賀藩砺波郡奉行津田右京と金長右衛門提出して許可された。(町立文書原本富山県公文書館中島文庫所蔵津沢町立先立って右衛門明暦元年1655年加賀藩対し藩の小矢部川中流右岸建てることを献策した。六千石の藩が二棟出来ると砺波郡各地から年貢米収納された。この米は小矢部川下流の「吉久御蔵」(現富山県高岡市吉久)まで十二里(約45km)を二十五石積の「長船」に載せ一日かかりで川下げされた。さらに、「吉久御蔵」からは「北前船」で大坂現在の大阪市)へと運ばれた。城端福光(現南砺市と共に、米だけでなく五箇山から加賀藩納める煙硝伏木からの塩、肥料など様々な物資集散地となった頃、舟運人足商人利便考え、ここに町を立てることを藩へ願い出た津沢町立文書の奥書署名には砺波郡清水村右衛門添書浅地十村肝煎右衛門となっている。この頃、三右衛門本江村にあった阿曽家の旧宅壊し以後晩年まで清水村質素な暮らしぶり続け津沢町発展つくした伝わっている。また、福野町恩光寺に参禅したことも伝わっている。墓所富山県小矢部市津沢にあり、戒名は「応機通心大居士」、毎年9月小矢部市公式行事として追悼式が行われる。この地は現在、阿曽記念緑地公園となっている。

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張一鵬」の記事における「事跡」の解説

南洋公学で学んだ卒業せず、兄の張一麐創始した学社に加入した1893年光緒19年)、癸巳科挙人となる日本留学し法政大学速成科を卒業した帰国後、法部主事、京師地方検察庁庁長呉江地方検察庁庁長雲南高等検察庁検察長を歴任した雲南から帰郷した後、『時事新報』の主編となる。 中華民国成立後江蘇司法籌備処処長や北京政府平政評事第三庭庭長をつとめる。しかし1913年民国2年)、江蘇省36か所の初級審検庁を廃止しようとして省内各階層の反対に遭うまた、宋教仁暗殺事件の処理をめぐって、ついに辞任追い込まれた。 1917年民国6年8月江西省財政庁長となる。同年12月北京政府中央の署理司法次長昇格した1920年民国9年7月薩鎮氷臨時内閣司法総長代理つとめたまた、この時期東呉大学教授にもなっている。 1927年民国16年3月国民革命軍蘇州において呉県臨時行政委員会設置すると、張一鵬はその主席民政局となった。しかし同年6月早くも辞任している。その後は、上海弁護士を開業した。 1943年民国32年12月南京国民政府汪兆銘政権)において、司法行政部長に任命された。翌年7月14日監獄視察した際に感染した発疹チフスがもとで死去した享年72

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呉頌皋」の記事における「事跡」の解説

上海復旦大学卒業後、フランス留学してパリ大学法科で学ぶ。卒業後はイギリス移りロンドン大学研究員つとめた帰国後は復旦大学法学院院長国立中央大学法学院副教授国立中政治学校外交系教授歴任した1932年民国21年7月国民政府行政院参事となる。翌年11月外交部参事異動した1935年民国24年7月外交部国際司司長兼中央政治会議外交秘書任じられた。また、雑誌外交評論』総編輯中国政治学会幹事つとめた。 後に汪兆銘汪精衛)に合流し、その指導下で中国国民党中央執行委員会委員中央政治会議秘書任じられた。1942年民国31年7月南京国民政府外交専門委員会主任委員司法行政部次長任命されている。翌年3月漢口日本租界接収委員4月フランス専管租界接収委員5月天津フランス専管租界接収委員歴任した1944年民国33年4月上海市政府秘書長任命される翌月には上海市保甲委員会委員長も兼任した翌年1月司法行政部部長昇進した。さらに、各国治外法権撤廃委員会副委員長兼任している。 日本敗北直後8月17日周仏海配下である税警局隊長・周鎬率い南京国民政府税警団一部が、南京中央儲備銀行総部の建物占拠し南京国民政府軍の武装解除政府要員逮捕開始した(周鎬事件)。このとき、呉頌皋税警団逮捕されてしまったが、支那派遣軍総参謀副長今井武夫が周鎬を説得したことにより、釈放された。しかし9月8日に、今度蒋介石国民政府により漢奸として逮捕され、後の裁判無期懲役の判決受けた中華人民共和国成立後そのまま継続して収監され1953年獄死した。享年56著書に『治外法権』、『欧州外交史』などがある。

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香翰屏」の記事における「事跡」の解説

1912年民国元年)、広州出て法律・政治学び、また中国同盟会加入した1916年民国5年)、広東海防司令部就職したが、当初軍艦書記つとめていた。3年後広東護国第5軍軍官講武堂に入学し卒業後、粤軍(広東軍)第1師に配属される以後、粤軍軍人として着実に昇進重ね、粤軍実力者陳済棠所属した1928年民国17年)、国民革命軍第4軍12師長昇進する北伐後の1929年民国18年)に、第8路討逆軍第60師長に任ぜられた。1931年民国20年11月中国国民党第4回代表大会で中央監察委員選出されている(以後第5期第6期でも連続選出)。翌年第1集団軍第2軍軍長広州公安局局長つとめた1934年民国23年)に一時引退して郷里戻っている。 1936年民国25年)、第4路軍副総司令として復帰しあわせて陸軍中将に任ぜられた。日中戦争抗日戦争勃発後は第9集団軍所属し1939年民国28年)、第9集団軍総司令第4戦区挺進隊東江指揮主任をつとめる。翌年、閩贛粤辺区総司令転じた日本側の評によれば、「軍人としてよりはむしろ外交官型の男で万事如才なく蓄財の道に秀で骨董就中花瓶類の蒐集家として有名である」とのことである。事実1939年には、香港開催され広東文物展覧会籌備委員をつとめるなどしているが、それでも日中戦争期間を通して広東軍の第一線にあり続けた人物である。 戦後国民政府軍委員会広州行轅副主任(後に広州綏靖公署副主任改組)に任ぜられる。1946年民国35年)、広東文献理事となり、1948年民国37年)には行憲国民大会代表選出された。1949年民国38年2月広東省政府委員に任ぜられている。 国共内戦後香港居住する。ただし、第2期から第6期まで国民大会代表をつとめ、国民大会開催される時期には台湾赴いてこれに出席した1978年8月17日香港にて病没享年89(満88歳)。

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呉思豫」の記事における「事跡」の解説

1905年光緒31年)、浙江武備学堂歩兵科卒業し日本留学する東京振武学校経て陸軍士官学校歩兵科学んだ1910年宣統2年)に卒業して帰国する辛亥革命勃発すると、浙江省革命派樹立した浙江軍政府において参議会参議総司令部副官処処長をつとめた。後に陸軍第6師歩兵98団団長、寧台鎮守使署参謀長歴任する1925年民国14年)、呉思豫広州移り蒋介石から黄埔軍官学校訓練部少将主任長洲要塞中将司令に任ぜられた。その後北伐参戦し1927年民国16年)に浙江省政府軍事庁中将参謀長となり、翌年1月には国民革命軍総司令部公庁主任に移る。同年は、参軍総務局局長参軍参軍代理つとめた北伐終了後1929年民国18年7月より、呉思豫青島特別市市長代理馬福祥代理)兼青島警備司令となる。翌1930年民国19年1月から1933年民国21年2月まで、首都警察庁長つとめた1935年民国24年5月軍事委員会弁公庁副主任となる。翌年1月中将銜を授与された。 日中戦争においては、呉思豫戦闘前線に立つことも、政務要職に就くことも無かった考試院法規委員軍事委員会銓叙庁中将庁長撫恤委員会副主任委員などの閑職しかつとめていない。戦後1946年民国35年6月国民政府参軍参軍典礼中将局長となり、同年11月には制憲国民大会代表に選出される1948年民国37年5月総統府第4局中将局長兼参軍となった。翌1949年民国38年5月までにこれらの地位退き香港移住している。 1961年死去享年76

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王昌 (後漢)」の記事における「事跡」の解説

姓名王昌 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官虎賁 爵位- 所属陣営献帝 家族・一族不詳献帝虎賁近衛兵)の一人興平2年195年)、皇甫酈李傕取り入っていた侍中の胡邈と言い争いになると、献帝はその身を案じて皇甫酈逃亡させた。果たして、胡邈の報告受けた李傕は、皇甫酈殺害しよう王昌追跡命じた。しかし王昌は、皇甫酈正し人物であると考えていたため、故意にこれを見逃したであった以後王昌史書見当たらない小説『三国志演義』でも王昌登場し史実同様に皇甫酈見逃している。

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唐仰杜」の記事における「事跡」の解説

父は四川省知府であったため、唐仰杜成都生まれた京師学館ロシア語学んだ後、挙人となり、学部七品京官授かった中華民国成立後山東省省議会議員などをつとめた1923年民国12年4月山東省市政総弁に任ぜられた。国民政府による北伐最中済南事件発生すると、唐は責任をとって辞職するその後一時山東省政府主席韓復榘の下で北寧鉄路文書科長などをつとめたが、短期間で再び辞職した中華民国臨時政府成立後1938年民国27年3月山東省公署(省長:馬良)が成立すると、唐仰杜財政庁長任命された。翌年1月馬良後任として山東省省長に昇格し、省内の治安強化中国共産党掃討取り組んでいる。 1940年民国29年3月臨時政府汪兆銘南京国民政府合流してからも、唐仰社引き続き山東省省長をつとめた同年9月には、華北政務委員会委員兼任した翌年には、日本への様々な貢献評価され東條英機から直筆感謝状贈られるなどしている。1945年民国34年2月華北政務委員会工務総署督弁に異動し同年中に全国経済委員会常務委員兼ねた日本敗戦に伴う汪兆銘政権崩壊後唐仰杜蒋介石国民政府北平逮捕され南京送られた。しかし、判決下されることなく収監され続けた中華人民共和国成立した後に、唐は身柄済南送られ山東省人民法院審理されることになった1951年4月12日、唐は漢奸の罪により死刑判決を受け、29日執行された。享年64

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楊毓珣」の記事における「事跡」の解説

北京陸軍大学第5期卒業江西省警備隊統領北京大総統侍従武官歴任した1926年民国15年7月北京政府参謀本部次長をつとめる。翌年6月軍事陸軍次長となった1928年民国17年4月軍事軍政署長昇進している。その後国民政府でも中将銜を授与された。 1940年民国29年3月汪兆銘汪精衛)が南京国民政府創設すると、楊毓珣は中央政治会議議員任命された。1945年民国34年2月山東省省長に任命される4月、駐済南綏靖主任公署主任兼任した日本敗北後、楊毓珣は漢奸として国民政府逮捕される1947年民国36年)、獄死した。享年53

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陳昭常」の記事における「事跡」の解説

清朝では進士となり、翰林院編修吏部主事員外郎、郎中歴任したその後吉林省赴任し長春府知府吉林府知府歴任した次いで広西省異動し右江道、按察使歴任したこの後、いったん中央戻り郵伝部左丞、山海関内外鉄道幇弁をつとめた吉林間島辺防督弁をさらにつとめた後、1908年光緒34年)に吉林巡撫昇進した中華民国建国後の1912年民国元年3月初代吉林都督任命された。翌1913年民国2年1月に同省民政長も兼任している。6月広東民政長に異動したが、病気のため着任できなかった。 同年10月24日上海市病没享年48

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邵力子」の記事における「事跡」の解説

清末期の挙人。若い時に中国同盟会参加上海震旦大学卒、亜子南社(中国語版)を創設する文学革新提唱する1920年8月陳独秀らと上海中国共産党設立し上海民国日報主宰編集長となる。1925年には黄埔軍官学校事務局長として、国民党再編成作業参加した1926年中国共産党離党した1927年以降国民革命軍総司令部事務局長中国公学校長、甘粛省政府主席陝西省政府主席国民党中央宣伝部長、駐ソ連大使国民参政会事局長歴任する国共合作主張した1949年国民党代表として北平和平交渉を行うが、国民党政府和平条件拒否した後、国民党政府離れる同年招待応じ中国人民政治協商会議第1回全体会議出席第1回全国政協常務委員選出される中華人民共和国建国後政務院政務委員第1回から第3回全国人民代表大会常務委員第2回から第4回全国政協常務委員歴任1949年11月以後第2回から第4回中央常務委員連続選出される文化大革命期邵力子批判され、後に特別保護を受ける。1967年12月25日北京病没邵力子により中国最初産児制限提案された。1920年代早くも避妊して人口削減する必要がある主催した民国日報述べている。1953年政務院人口管理主張、後に馬寅初計画出産提唱した

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孫毓筠」の記事における「事跡」の解説

1906年光緒32年)、東京中国同盟会加入する同年中に帰国して革命派蜂起目論んだが、事が漏れて逮捕される。これにより5年間の徒刑言い渡された。1911年宣統3年)の辛亥革命勃発とともに革命派から救出され江浙聯軍総部副秘書長任命された。 1912年民国元年3月、孫毓筠は安徽都督任命された。同年7月北京召還され臨時参議院議員選出されるその後北京政府政治会議議員総統府高等顧問歴任した1913年民国2年3月、約法会議長任命された。同年5月参政院参政員に異動し憲政研究会組織した1915年民国4年8月、孫毓筠は楊度厳復劉師培李燮和胡瑛とともに袁世凱皇帝即位支援するための籌安会を組織した。しかし護国戦争勃発もあって、皇帝即位運動失敗に終わる。翌年4月、孫は天津逃げ込んでいる。このため同年7月指名手配受けてしまった。1918年民国7年3月特赦されている。 1924年民国13年)、河南督理胡景翼招聘応じ、孫毓筠は開封訪れた。しかしまもなく同地病没した。享年53

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ボヤンマンダフ」の記事における「事跡」の解説

1925年内モンゴル人民革命党参加し中央執行委員候補ジェリム盟支部長となった1932年大同元年4月ボヤンマンダフ満州国興安南省民政庁長就任する1942年康徳9年4月興安南省省長に昇進した。翌1943年康徳10年10月興安総省成立とともに興安総省省長に昇格し満州国滅亡まで同職にあった。なおこの期にあっても、ボヤンマンダフ中国共産党人士密かに庇護し経済的支援与えている。 満州国滅亡後1946年民国35年1月ボヤンマンダフモンゴル族上流階層人物率いてヒンガン盟興安盟)の葛根廟において東モンゴル自治政府組織し、自ら主席就任した。しかし同年5月ウランフ組織した内モンゴル自治運動連合会合流し、その副主席に任ぜられている。 1947年内モンゴル自治区成立すると、ボヤンマンダフもこれに参加した以後内モンゴル自治政府第1期臨時参議会議長内モンゴル自治区人民政府委員参事主任自治区政治協商会議常務委員中国人民政治協商会議全国委員会第35期委員歴任した1980年死去享年87

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鄭金声」の記事における「事跡」の解説

幼年期私塾学びその後農業漢方薬製造草鞋編みなど様々な職業遍歴している。1900年光緒26年)、袁世凱新建陸軍加入したその後1907年光緒33年)に東北赴任して隊官となり、この時に馮玉祥知り合い義兄弟契り(「換帖兄弟」)を結んだ辛亥革命後に管帯に昇進している。 民国時代に入ると、騎兵団団長、綏遠第1混成旅旅長などの地位就いた1924年民国13年10月北京政変首都革命)にも参与している。国民軍結成されると、国民軍第1軍第3師長任命された。1926年民国15年)、馮玉祥部隊の総参賛となる。同年4月国民軍が他の北洋軍に圧迫され北京から撤退した後には、鄭は東路軍第1軍軍長に任ぜられた。そして南口大戦において、国民軍圧倒的不利の状況の中、他の北洋軍を相手善戦している。9月五原誓師後には、河南省国民革命軍第2集団第6軍軍長任命された。 1928年民国17年)の中国国民党北伐では、劉鎮華率い第2集団軍第2路副総指揮任命され山東省進軍した。しかし、同年5月山東省曹県部下師長である姜明玉叛逆されて捕えられ、山東省支配していた張宗昌引き渡されてしまった。 同年11月6日張宗昌命令により、鄭金声済南銃殺処された。享年50。なお張宗昌は、1932年民国20年9月に、鄭金声の甥である鄭継成に済南駅殺害されている。

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蘇錫文」の記事における「事跡」の解説

日本留学し早稲田大学政治経済科を卒業した帰国後は、南洋華北商業従事している。その後政界入り福建省政府財政局長、広東大元帥府財政署長民政司長、上海持志大学教授などを歴任した。後に台湾赴任している。 1937年民国26年12月日本指示により、上海大道市市長に就任した翌年3月中華民国維新政府成立すると、その翌月蘇錫文上海市公署暫行督弁(市長に相当)に任ぜられる。10月傅筱庵新たに上海市長任命されると、上海市政府秘書長中央市場場長異動した1940年民国29年10月、傅が暗殺されると、翌月陳公博着任するまで暫時市長代行した。陳の就任とともに秘書長辞任する以後中華輪船股份有限公司董事長、航業財整理委員会主任委員などをつとめた1945年死去享年54

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胡若愚 (安徽)」の記事における「事跡」の解説

国立北京大学卒業して法学士となる。その後張作霖招聘受けて鎮威上将軍公署顧問に任ぜられる。また、張学良副官となり、学良とは義兄弟の盟を交わす仲であったという。 1925年民国14年)、胡若愚北京政府善後会議委員となった同年7月臨時参政院参政、北京崇文門政務監督となる。1928年民国17年6月張作霖爆殺事件勃発後、張学良は胡を南京派遣し国民政府蒋介石との交渉にあたらせた。この交渉での好感触もあり、張は同年末に易幟踏み切っている。 1930年民国19年4月胡若愚国民政府衛生部政務次長に任ぜられる。同年6月青島市長任命され、翌1931年民国20年2月北平市長周大文に代わり北平市代理兼務した。あわせて実業部開灤鉱務局督弁もつとめている。同年中に北平市代理兼務終了し1932年民国21年1月青島市長辞任した青島市長辞任後胡若愚天津寓居し、政界とのつながり絶って書道読経観劇日々送った国共内戦末期に、かねてから交友のあった孔祥熙から台湾行を勧められたが拒絶している。晩年病身のため、静養して暮らした1962年天津にて病没享年66

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呉笈孫」の記事における「事跡」の解説

清末民政部尚書徐世昌の下で民政部民治司員外郎となり、徐が東三省総督となると呉笈孫もこれに随行して衙門文案に任ぜられる。徐が京師呼び戻されると呉もこれに随従し、郵伝尚書となった徐の下で呉も地位得た中華民国成立後呉笈孫はいったん引退した。しかし1914年民国3年5月徐世昌北京政府政事堂国務卿(首相地位)に任ぜられると、呉もその下で政事堂司務所所長として復帰した1916年民国5年5月国務院印鋳局局長となった1918年民国7年10月徐世昌大総統就任すると、呉笈孫総統府秘書長起用されている。呉は南北和平交渉参与するなど、徐を補佐した1922年民国11年6月、徐の大総統辞任に伴い、呉も秘書長退いた1947年民国36年)、死去享年73

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盧英」の記事における「事跡」の解説

保定陸軍軍官学校第2期歩兵科卒業。後に同学校の教官つとめた国民革命軍参加し、第26第3師第7団団長、浙滬警備司令部偵緝処処長、上海市公安局偵緝総隊隊長などを歴任している。 1939年民国28年8月汪兆銘汪精衛)派の中国国民党中央委員任命された。汪兆銘政権成立後1941年民国30年7月上海保安司令部副司令に任ぜられる。翌年8月、清郷委員会上海分会委員となった1943年民国32年5月上海物資調査委員会委員となる。8月上海市第二警察局局長となり、さらに軍事委員委員にも任命された。翌年7月上海市警察局副局長となる。1945年民国34年4月国民政府参軍長に起用された。 汪兆銘政権崩壊後盧英蒋介石国民政府逮捕収監される。中華人民共和国成立後1950年処刑された。享年57

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焦瑩」の記事における「事跡」の解説

1906年光緒32年)、保定高等農業学校卒業するその後日本留学し東京高等師範学校で学ぶ。その後帝国大学進学した留学中中国同盟会加入している。 1913年民国2年)に帰国し国立武昌高等師範学校博物学教えた1916年民国5年)、国立北京高等師範学校転勤する1920年民国9年)、同校校長昇進した1923年民国12年)、京兆学務局長となる。1926年民国15年)、再び国立北京高等師範学校戻りまた、私立燕京大学教授兼ねた。 まもなく焦瑩は南に向かい国民政府北伐参加した広州武漢中国国民党中央党工作従事している。1929年民国18年)、私立中法大教授となり、また北平市私立成城中学創設携わった1932年民国21年)、国民政府鉄道部で職に就く。1936年民国25年)、北平赴いて成城中学燕京大学学務教務従事した日中戦争抗日戦争勃発後、焦瑩北平に留まっている。1940年民国29年3月南京国民政府汪兆銘政権)が成立すると、焦は考選委員会委員長に任命されたが、実際に就任しなかった。 1945年民国34年)春、北平にて病没享年63

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高維嶽」の記事における「事跡」の解説

東北講武堂卒業後、奉天軍務につく。1912年民国元年)、第27参謀長就任したその後団長、旅長を歴任する1925年民国14年)、東北陸軍第7師師長昇進し同年11月には第8軍軍長となった1926年民国15年)、安国第3、4方面軍第9軍軍長昇進する同年8月、署察哈爾都統となる。張作霖死後の1927年民国16年8月正式に都統就任したこの年には、奉天軍京綏前線総指揮つとめている。 張学良易幟の後、高維嶽国民政府転じる。しかし、遼寧省政府委員東北辺防長官公署軍事参議官軍事参議院参議、同代理院長など、軍事指揮権直接握る職にはついていない。日中戦争勃発後、北平寓居した。親日政権へ協力要請されたが、これは拒絶している。 1938年民国27年)、死去享年64

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蕭吉珊」の記事における「事跡」の解説

公立広東高等師範学校卒業した後、汕頭に赴き、道尹公署科長となる。その後故郷戻り、県勧学所所となった1924年民国13年)夏、黄埔軍官学校創設時に蒋介石秘書任命された。1926年民国15年)の北伐に際しても、国民革命軍総司令部機要室秘書に任ぜられている。 1927年民国16年)、蕭吉珊中国国民党中央特派員として南洋へ僑務(華僑関連事務)の視察赴いた帰国後の1929年民国18年1月に、国民政府僑務委員会委員に任ぜられ、9月外洋籌募公債委員会委員転じた同年国民党中央監察委員会秘書長となり、さらに南京特別市党部執行委員常務委員となった1931年民国20年9月僑務委員会常務委員となり、12月に党第4期中央執行委員候補選出され中央海党務委員会委員兼ねた1932年民国21年10月国民政府宣慰華僑専員に任ぜられている。 1935年民国24年11月蕭吉珊第5期中央執行委員昇格選出され(後の第6期も同様)中央海党務委員会主任委員代理にも就任した1936年民国25年7月広東省政府委員任命されている。1938年民国27年4月党中央海外副部長昇進し南洋研究所所長兼任した日中戦争抗日戦争に際して米州各地訪問し華僑からの戦費募集調達の任にあたっている。また、広東省では田糧処処長にも任ぜられた。 戦後1946年民国35年11月制憲国民大会代表、1948年民国37年)に行憲国民大会代表それぞれ選出されている。1949年民国38年)、国共内戦での国民党敗北と共に台湾逃れ1952年民国41年)、党中央評議委員に任ぜられた。 1956年8月13日訪問先プノンペン自動車事故遭い26日この際怪我原因死去した享年64(満62歳)。

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林俊廷」の記事における「事跡」の解説

初め塩商であったが、その後緑林の徒となった1902年光緒28年)、清朝帰順し軍人となる。以後、管帯、督帯、統領順調に昇進した1913年民国2年4月、巡防第2軍統領となる。1916年民国5年8月桂林鎮守使に任命された。1917年民国6年10月桂軍第2軍総司令任命され1920年民国9年)、桂平鎮守使となる。 1923年民国12年1月林俊廷広西自治軍司令を自称し同年3月広西省省長代理兼任した11月広東八属軍務督弁に任命された。しかし1924年民国13年9月陳炯明配下の鄧本殷に敗れ貴県現在の広西チワン族自治区貴港市)に撤退する1925年民国14年1月林俊廷雲南省唐継尭与し建国聯軍鄂辺防督弁兼広西省長に任命された。しかし同年7月新広西派新桂系)の李宗仁大敗して下野した1933年民国22年)、寧明県にて死去享年58

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イルキン・バトゥ」の記事における「事跡」の解説

幼年時代は、満洲語蒙古語漢語学習したその後ハイラル蒙旗学校入学する1898年光緒24年)、父を後継して新バルグ左翼白旗第二佐の第9代佐領となった1922年民国11年)、左翼総管昇進している。 1926年民国15年)、イルキン・バトゥ新バルグ左翼に初の公立学校創設した。これとは別に医学学校開設している。イルキン・バトゥ自身医術を身につけており、領内民衆診察看病している。 満州国建国後の1934年康徳元年)、左翼総管衙門左翼公署改組されたが、イルキン・バトゥは旗長として引き続き留任している。1936年康徳3年4月興安北省長の凌陞関東軍により処刑されると、イルキン・バトゥ後任興安北省省長に就任した以後満州国崩壊する1945年康徳12年8月まで、9年にわたりこの地位にあり続ける。内政手腕長じていたイルキン・バトゥは、遊牧民多数占める省内民衆生活改善尽力し声望大きかった満州国崩壊後イルキン・バトゥソ連支援受けてハイラル設立されフルンボイルホロンバイル自治省政府(後にフルンボイル地方自治政府と改称)の主席就任したイルキン・バトゥソ連との連携強化しつつ、省内の混乱鎮めることに専念したまた、同年11月からは、中国共産党との連携開始するうになる。省政府主席にあった間にも、ソ連からの支援物資などを運用して民政充実努力しバルグ合作社バルグ蒙古医院などを設立している。 1946年民国35年11月自治省政府ホロンバイル地方自治政府に改称される以後イルキン・バトゥ中国共産党政権傾斜し、これに参加することになっていく。1948年1月内モンゴル自治区による統一自治開始されると、イルキン・バトゥウランフからホロンバイル盟の初代盟長に任命された。中華人民共和国建国後には、北京訪問して毛沢東対面している。 1951年7月13日ハイラル病没享年70

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高冠吾」の記事における「事跡」の解説

保定陸軍軍官学校卒業後、新聞民権報』の記者となったその後軍人に戻り広州江防司令部参謀長代理司令広東全省航政局監督貴州督軍公署参謀長などを歴任した。さらに王天培率い国民革命軍第10軍の副軍長として北伐参加している。北伐最中では、徐州警備司令などをつとめた1938年民国27年3月高冠吾は、中華民国維新政府参加した綏靖次長南京市政督弁(後に南京特別市市長)を歴任した。なお、南京特別市市長地位には、維新政府解散後引き続きまっている。 1940年民国29年3月汪兆銘汪精衛)が南京国民政府樹立すると、高冠吾中央政治委員会委員以後4期務める)に任命される6月には江蘇省政府主席となった翌年12月安徽省政府主席異動する1943年民国32年3月、清郷委員会安徽弁事主任となる。同年冬には、物資調査委員会新国運動促進委員会安徽省主任兼ねている同年末に、江西省省長に異動し軍事委員委員長九江綏靖公署主任兼任したその後も、軍事委員委員国民政府委員つとめている。 日本敗北後高冠吾動向について詳細うかがえない。しかし、中華人民共和国建国後大陸留まり1957年山東省死去した享年66

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張我華」の記事における「事跡」の解説

日本留学し明治大学法科卒業している。留学中中国同盟会加入した帰国後は吉林省法政学校教員上海神州日報記者となっている。 1913年民国2年)、参議院議員当選する二次革命第二革命に際して上海逃れた1917年民国6年)の護法運動に際しては、孫文孫中山)らの護法軍政府与し大元帥府諮議となっている。翌年2月大元帥参議となった1924年民国13年)、参議院秘書長に任ぜられている。その翌年には全国酒事務署署長となった1928年民国17年)からは国民政府に参加し、外交部条約委員会委員となる。翌年10月外交部常務次長昇進した1930年民国19年4月内政部常務次長横滑りし外交部条約委員会副会長兼任している。同年12月暫時ながら内政部部長代理つとめた1932年民国21年)、各職を辞し安徽省宣城居住している。 日中戦争抗日戦争勃発後、張我華抗敵後援会組織した。しかし1938年民国27年11月26日日本軍空爆遭遇死亡した享年53

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鄭士キ」の記事における「事跡」の解説

安徽陸軍随営学堂卒業し北洋第5鎮の隊官、管帯を歴任した1913年民国2年)、陸軍第5師砲兵第5団団長に任命される1914年民国3年8月、第5師第10旅旅長に昇進した1919年民国8年5月、署陸軍第2師二等参謀官に任命され、後に第5師師長昇進した1923年民国12年1月、済威将軍の位を授与される同年10月山東督軍(後に督理、督弁)に任命された。1925年民国14年)、奉天派張宗昌圧力屈し4月安徽督軍転任した。しかし実際に就任することが出来ず8月下野した以後天津寓居し、1935年民国24年病没享年63

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寇遐」の記事における「事跡」の解説

1906年光緒32年)、西安師範学堂選科入学する在学中中国同盟会加入した1909年宣統元年)に卒業後、同州中学堂監学となる。その傍らで、陝西省内の革命派蜂起支援する秘密活動従事している。 中華民国成立直後陝西省臨時議会副議長となり、さらに衆議院議員選出されている。革命派として反袁世凱の活動にも従事した。袁死後の第1次国会回復とともに再び衆議院議員復帰した孫文孫中山)が護法運動開始すると、これに応じて広州に赴き、国会常会議員大元帥参議などをつとめた1922年民国11年)、第2次国会回復とともに再び北京衆議院議員となった。しかし、翌年曹錕賄選反発して孫の下に戻った1924年民国13年)の第2次奉直戦争の際には、北京政変首都革命)の発動参与している。1925年民国14年12月許世英内閣で農商総長任じられたが、翌年3月賈徳耀内閣途中で辞任する以後北京寓居した。 1931年民国20年)に帰郷し陝西省政府委員、同省臨時参議会議員国民政府行政院僑務委員会委員、同賑務委員会委員などをつとめた金石文研究好んだことから、1934年民国23年)に西安金石書画学会発足させて、その会長となる。また、秦腔陝西省地方劇・戯曲)にも造詣深く研究書著している。 中華人民共和国成立後故郷に留まっている。陝西省人民政府委員などをつとめた1953年9月6日西安にて死去享年70

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那彦図」の記事における「事跡」の解説

1893年光緒19年)、鑲白旗都統兼領侍衛内大臣となる。1898年光緒24年)、正紅旗都統に移る。1903年光緒29年)、鑲黄旗都統転じた1908年光緒34年)、健鋭営都統になる。1912年民国元年)、烏里雅蘇台将軍昇進した中華民国成立後政党活動加わり共和党進歩党理事となった1913年民国2年)、政治会議議員となる。翌年参政院参となった同年9月、綏威将軍の位を授与されている。1917年民国6年)、臨時参議院副議長となる。後に、満州鑲黄都統復帰した1925年民国14年)、善後会議会員となる。1934年民国23年3月蒙古地方自治政務委員会委員となった1938年民国27年4月死去享年66

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佟麟閣」の記事における「事跡」の解説

農民家庭生まれる。はじめは学問志したが、清末政治変動家庭苦境影響もあり、軍人の道に転じた中華民国成立後に、馮玉祥率いる第16混成旅に加入する以後順調に昇進していった。 1924年民国13年10月北京政変首都革命)後に、国民軍第1軍11歩兵21旅旅長に就任した。翌1925年民国14年7月西北軍11師長昇進している。1926年民国15年)の南口大戦では、要害拠って奉天派の軍を相手激しく抗戦し勇名轟かせた。 五原誓師を経て馮玉祥国民革命軍加入すると、佟麟閣もこれに従う。1927年民国16年)に甘粛隴南鎮守使兼代理甘粛督弁をつとめた。馮が国民革命軍第2集団総司令任命されると、佟は第11軍軍長任命された。しかし佟は、回族馬仲英軍に包囲され大きな損害出し北伐貢献することはできなかった。 北伐後に、馮玉祥蒋介石対立するうになると、佟麟閣も蒋軍と交戦したが、敗北終わったその後宋哲元率いる第29軍で、副軍長軍官教導団団長つとめた1933年民国22年)の長城抗戦では、佟も宋を補佐して善戦し最終的に敗北したものの、国内世論賞賛受けた同年5月に、馮が張家口察哈爾民衆抗日同盟軍結成すると、佟麟閣もこれに参加し第1軍軍長任命された。しかし、蒋は馮に圧力をかけたために、8月には馮は下野する。佟もいったんは宋の下に戻ったが、結局はやはり下野した1936年民国25年)、佟麟閣は第29軍副軍長教導団団長そのまま復帰し南苑現在の北京市豊台区)に駐屯した。民国26年1937年7月7日盧溝橋事件勃発すると、佟ら第29軍の有力幹部抗戦意思示している。宋哲元抗戦決断できずに逡巡し南京国民政府中央も、この時点での戦闘開始には消極であったやむなく佟は南苑そのまま守備した同月20日頃から、進軍してきた日本軍と佟軍との交戦が始まる。 圧倒的な兵力火力の差の中、佟麟閣激しく抗戦したが、同月28日、力尽きて戦死した享年46(満44歳)。31日に、国民政府から陸軍上将追贈された。現在でも、北京市西城区佟麟閣路にその名を残している。

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竜建章」の記事における「事跡」の解説

1904年光緒30年)、甲辰進士となる。公立京師大学堂北京大学前身)を卒業した以後戸部主事吏部員外郎、郵伝郎中、出使各国考察憲政大臣参賛、郵伝参議歴任した中華民国成立後1912年民国元年5月北京政府交通部参事となる。翌年交通部政司司長となった。その年末には郵伝局長任じられている。1914年民国3年5月、約法会議員となる。 同年7月貴州省黔中道尹に異動する同年11月、署理貴州巡按使となり、1915年民国4年11月正式に同職就任した12月袁世凱皇帝即位すると、竜建章一等男に封じられ貴州護軍使劉顕世とともに、袁への支持表明している。 反袁世凱護国戦争勃発すると、竜建章貴州にあって袁を支持する姿勢保とうとする。ところが翌年1月に、劉顕世も省内の圧力に耐えかねて反袁の姿勢明らかにした。これにより孤立した竜は、貴州から逃亡してしまったのである1917年民国6年6月竜建章李経羲内閣で署理交通総長任じられた。張勲復辟中断経て段祺瑞内閣でも当初留任したが、7月中に辞任した以後竜建章行方不明である。

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周化人」の記事における「事跡」の解説

1925年民国14年)、北京中国大学入学する1929年民国17年)、北平大学現在の北京大学)に入学し中国国民党左派顧孟余師事した。後に顧の紹介汪兆銘汪精衛)と知り合うことになる。1933年民国22年)、汪の推薦により津浦鉄管理局副局長に任ぜられた。1935年民国24年)、イギリスへ留学してロンドン大学で学ぶことになる。 汪兆銘重慶脱出して日本保護を受けるようになった頃、周化人帰国して汪を補佐することになる。1939年民国28年9月汪兆銘汪精衛)派の中国国民党組織部副部長就任する以後、汪の命により、北平上海香港政治工作従事した。翌1940年民国29年2月には中央秘書宣伝組長となった同年3月正式に汪兆銘政権成立すると、周化人鉄道部常務次長に任ぜられている。1941年民国30年8月社会行動委員会委員となった10月広東省政府委員広州特別市市長任命されている。翌1942年6月まで、その地位にあった同年12月新国促進委員会上海分会委員転じる1943年民国32年1月全国経済委員会委員となった翌年7月上海市1区行政督察専員に任ぜられる。 日本敗北汪兆銘政権崩壊直前に、周化人吉林逃れた。しかし戦後結局逮捕され上海市の提監獄収監された。その後何らかの事情釈放され香港逃れている。香港では『中国文学史稿』などの書物執筆した1976年香港病没享年74

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許継祥」の記事における「事跡」の解説

福州英学院を卒業辛亥革命勃発する許継祥革命派参加し1911年宣統3年11月上海の滬軍都督府で顧問官に任ぜられた。1914年民国3年7月北京政府海軍軍法司司長に任命される護法運動開始されると、許は南下して孫文孫中山)らの護法軍政府参加し1917年民国6年9月大元帥参議となったその後全国海道測量局長全国海岸巡防処処長を歴任している。 国民政府成立後1928年民国17年12月軍政海軍署海政司司長、軍需営造司司長に任ぜられた。1930年民国19年2月海軍部の成立改組経て政司司長に留任するその後1938年民国27年1月海軍部が改組されて海軍総司令部となるまで、一貫して許継祥はこの地位に留まった。1936年民国25年9月海軍少将の位を授与されている。 その後許継祥汪兆銘汪精衛)に合流し1940年民国29年3月汪兆銘政権成立とともに海軍常務次長に任ぜられた。翌年には軍事参議院参議にも任ぜられている。1942年民国31年4月8日在職のまま死去

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谷次亨」の記事における「事跡」の解説

日本留学し東京高等師範学校卒業帰国後は満鉄嘱託となり、さらに奉天省塩運総局長、本渓湖煤公司秘書などを歴任した満州国建国後は、国務院人事調査科長、文教嘱託民政部警務外事保安科長、安東省教育庁庁長歴任している。1937年康徳4年)、満州国機構改革とともに総務庁次長抜擢された。1940年康徳7年昭和15年10月大阪開催され興亜厚生大会満洲帝国代表として出席1941年康徳8年1月要人大規模な世代交代に伴い民生部大臣となる。1942年康徳9年9月交通部大臣異動した谷次亨日本語精通しており、また、関東軍からの信任厚かった。谷は関東軍司令部をしばしば訪問し中国人思想動向報告していたとされる満州国滅亡すると、谷次亨ソ連軍逮捕されシベリア連行収監された。1950年8月中華人民共和国引き渡され撫順戦犯管理所収監される。後に特赦を受け、長春市図書館勤務した1977年長春病没享年80

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龐羲」の記事における「事跡」の解説

朝廷で議郎を務めていたため、劉焉とは父祖以来交際があった。 興平元年194年)、劉焉の子劉範劉誕李傕討伐ようとして処刑されたため、龐羲その子供たちを連れて益州逃れた劉焉死去し劉璋後を継ぐと、龐羲巴西太守任命され漢中張魯備えたまた、龐羲の娘は劉璋の子劉循嫁いだ龐羲は士を好むとの評判があったため、鄧芝などが身を寄せている。 ある時、龐羲張魯対抗するため私兵募集したところ、劉璋讒訴する者がいたため、劉璋龐羲猜疑するようになった。これを恐れた龐羲漢昌県長の程畿救援してもらうため子の程郁を派遣したが、程畿は「異心抱いていないのなら、誠意尽くすべきです」と言って応じなかった。龐羲は程郁を殺すと脅して、あくまで程畿協力させよう迫ったが、重ねて拒否された。このため、ついに龐羲劉璋謝罪したところ、劉璋もこれを許したという。 なお、建安16年211年)、張松劉備益州招き入れる目的劉璋進言した際に「龐羲李異は自らの軍功驕り外部と手を結ぼうとしている」と述べているが、張松上記讒言をしたのかは不明である。 劉備益州平定すると、龐羲左将軍司馬任命された。建安24年219年)、劉備漢中王推挙した際には、営司馬として名を連ねている。

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事跡

出典:『Wiktionary』 (2021/08/14 05:20 UTC 版)

別表記

名詞

じせき

  1. 物事行われた跡。

「事跡」の例文・使い方・用例・文例

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