使節
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関連項目
使節団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/14 14:11 UTC 版)
「アフマド・イブン・ファドラーン」の記事における「使節団」の解説
イブン・ファドラーンは、バグダードから921年に、アッバース朝カリフムクタディルからヴォルガ・ブルガールのイルテベル(en:iltäbär)(ハザール人の下の首長)であるアルムシュ(en:Almış)への使節団の書記として派遣された。 使節団の目的は、ブルガール王に貢納をカリフであるアル=ムクタディルへ払わせること、そして見返りに要塞の建設費を渡すことであった。彼らはブルガールに着いたが、王のための金を集めることができなかったので、任務は失敗した。王は約束の額が払われなかったことに怒って、マーリク学派からバグダードのハナフィー学派に転向することを拒否した。 使節団は921年7月21日(イスラーム暦309年サファル月11日)にバグダードを出発した。多くの困難ののち、一行は922年5月12日(イスラーム暦310年ムハッラム月12日)にブルガールに到着した。(この日は現在のタタールスタン共和国では公的な宗教休日となっている)。イブン・ファドラーンは、バグダードからブハラとホラズム(アラル海の南)まで旅した。旅の安全はオグズの長(クダルキンen:Kudarkin)によって保証されていたものの、オグズの盗賊の襲撃を受け、運良く盗賊団を買収して難を逃れた。使節団はイランのゴルガーンで冬を過ごし、それから北へウラル川を渡って、サマーラ川分岐点のボルガ川の北の3つの湖にあるブルガールの町にたどり着いた。 ボルガルにつくと、アフマド・イブン・ファドラーンは、ウィス(en:Wisu)へ旅をし、ヴォルガ・ブルガールとフィン系原住部族(コミ人)間の交易の観察を記録した。
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使節団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/09/03 03:59 UTC 版)
「カーライル和平使節団」の記事における「使節団」の解説
初代オークランド男爵ウィリアム・イーデン(英語版)(当時33歳)が使節団を組織し、自ら加わったが、その団長は第5代カーライル伯爵フレデリック・ハワード(同30歳)となり、その他に以前西フロリダの総督を務めていた(在任1763年-1767年)ジョージ・ジョンストン(同48歳)が加わった。当時のイギリスの政治家ホレス・ウォルポールは、まだ若かったカーライルのことを「作られようとしていなかった条約を作るのに大変適した」者であり、「事業には完全に無知であり、大望は無いが、穏健なところがあり、妥協は少ない」と評していた。団員の提案をされていたリチャード・ジャクソンは、アメリカとフランスが同盟条約を締結したことを知って、参加を辞退した。代表団の面々も4月に出発する前に米仏同盟を知った。 代表団が出発前に知らなかったことは、北アメリカのイギリス軍総司令官であるヘンリー・クリントン将軍がフィラデルフィアからの撤退を命令していたことであり、その命令は彼らの出発する1ヶ月も前に発せられていた。カーライルは、それを知っておれば出発しなかったであろうから、情報伝達の遅延は意図的になされたという意見だった。カーライルは妻に宛てた手紙で状況を説明して、「我々は皆深刻な顔をしており、おそらく澄ましこんでいると思う。我々が戻った時にそう考えてくれる人がいないことを恐れる。...私はここで何をすべきかわからない。」と記していた。カーライルは撤退が計画されていることを知った時に、クリントンにそれを遅らせるよう訴えたが、クリントンは遅滞無く行動するように命令を出したことを挙げて、その訴えを拒否した。このことでカーライルは政府が使節団に「冷笑、無効および当惑の混合物」になることを望んだと考えるようになった。イーデンは、イギリス軍の撤退する意図がさらにアメリカ側の決意を固めることになるので、クリントンの命令を知らされなかったことに動揺した。 6月3日、使節団は当時ペンシルベニアのヨークで会期を開いていた大陸会議に1組の提案を送付した。大陸会議の回答は、アメリカの独立が認められるか、あるいはまずイギリス軍全軍が植民地から撤退することを主張するものだった。このような条件は使節団が認める権限を越えているものだった。使節団は破壊が広がることを警告して、大衆世論に訴えることを試みたが、成功しなかった。ジョンストンは大陸会議の代議員数人を買収することを試み、アメリカ側に付いて戦っていたラファイエット侯爵が、カーライルの行った反フランス的声明に対して決闘を申し込んだ。 ペンシルベニア邦代表の大陸会議代議員ガバヌーア・モリスはこの提案に反対するエッセーを幾つか残した。使節団は1778年10月10日にコネティカットのハートフォード・クーラントで印刷した綱領を配った。イギリスでこの戦争に反対する指導者だったロッキンガム侯チャールズ・ワトソン=ウェントワースはこの綱領に書かれた脅迫に反対し、それを否認させる方向に動いた。
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使節団
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「フランス軍事顧問団 (1872-1880)」の記事における「使節団」の解説
顧問団は1872年5月に日本に到着した。団長はシャルル・アントワーヌ・マルクリー中佐(Charles Antoine Marquerie、1824年 – 1894年)であり、後にシャルル・クロード・ムニエール大佐 (Charles Claude Munier) に交代した。 顧問団は士官9人、下士官14人、軍楽隊責任者(ギュスターブ・シャルル・ダグロン、Gustave Charles Desire Dagron)、獣医師1名、および職人2名で構成されていた。著名な団員の一人に、工兵大尉であったルイ・クレットマン(Louis Kreitmann、1851年 – 1914年)がいた。クレットマンは後にエコール・ポリテクニークの学長になるが、日本で約500枚の写真を撮影しており、パリのコレージュ・ド・フランス「日本学高等研究所」 (Institut des Hautes Études Japonaises) に保管されている。 団員は3年契約で、月俸150円から400円で雇用された(なお、当時の太政大臣三条実美の月俸が800円、新卒の教員の月俸は5円であった)。
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「使節団」の例文・使い方・用例・文例
- カナダへの日本貿易使節団
- 親善使節団を送る
- 使節団は温かく迎えられた
- 使節団は空路を利用して国境までの最短距離を行った。
- 中国への貿易使節団.
- その国の外交使節団が(ホテルの)二階を借り切った.
- 閉じられて封をされ、使節団とその本社の間のコミュニケーションをもたらすために使用されるメール・ポーチ
- 外交上の目的を果たす使節団
- 公使を長とする常設外交使節団
- 外交使節団に選ばれた専門家
- 大使がない時一時的に外交使節団の責任者となる役人
- 使節団の一員
- フランスの哲学者、医師、オルガン奏者で、人生の大半を医療使節団としてガボンで過ごした(1875年−1965年)
- 1979年,文化使節団の一員としてアラビア半島にあるオマーンを初訪問。
- その文書は,薩摩藩が公務に出かけるという名目で使節団を海外に派遣したことを示している。
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