三省堂 大辞林 |
アッバースちょう ―てう 【―朝】
ウィキペディア |
アッバース朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/19 05:55 UTC 版)
- アッバース朝
- الخلافة العباسية الاسلامية
-
← 
750年 - 1258年
→
→
→
(国旗) 
アッバース朝の版図(850年)-
公用語 アラビア語 首都 クーファ
バグダード
サーマッラー通貨 ディルハム(銀貨)
ディナール(金貨)
アッバース朝(الدولة العباسية al-Dawla al-‘Abbāsīya)は、中東地域を支配したイスラム帝国第2の世襲王朝(750年 - 1258年)。
目次 |
概要
イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバースの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められた。
東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命以前における世界最大の都市となった[1]。また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。
アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。
アッバース朝は1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。
国名
イスラム帝国という呼称は特にこの王朝を指すことが多い。古くはヨーロッパ中心史観に基づき日本でもサラセン帝国と呼ばれたが、現在では一般的ではない。後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。
歴史
アッバース革命
詳細は「アッバース革命」を参照
ウマイヤ朝末期、ウマイヤ家によるイスラム教団の私物化はコーランに記されたアッラーフの意思に反しているとみなされ、ムハンマドの一族の出身者こそがイスラム教団の指導者でなければならないと主張するシーア派の過激な運動が広がった。このシーア派の運動はペルシア人などの被征服諸民族により起こされた宗教的外衣を纏った政治運動であり、現在でも中東の大問題として尾を引いている。
反体制派のアラブ人とシーア派の非アラブムスリム(マワーリー)である改宗ペルシア人からなる反ウマイヤ朝軍は、749年9月にイラク中部都市クーファに入城し、アブー=アル=アッバースを初代カリフとする新王朝の成立を宣言した。翌750年、アッバース軍がザーブ河畔の戦いでウマイヤ朝軍を倒し、アッバース朝が建国された。
シーア派の力を借りてカリフの座についたアブー=アル=アッバースは、安定政権を樹立するにはアラブ人の多数派を取り込まなければならないと考え、シーア派を裏切りスンナ派に転向した。この裏切りはシーア派に強い反発を潜在させ、アッバース朝の下でシーア派の反乱が繰り返される原因となった。
弱小部族のアッバース家が権力基盤を固めるには、イラクで大きな勢力を持つ非アラブムスリムのペルシア人の支持を取り付ける事が必要であったため、クルアーンの下でイスラム教徒が平等であることが確認され、非アラブムスリムに課せられていたジズヤ(人頭税)とアラブ人の特権であった年金の支給を廃止し、差別が撤廃された。
アッバース朝はウラマー(宗教指導者)を裁判官に任用するなどしてイスラム教の教理に基づく統治を実現し、秩序の確立を図った。つまり征服王朝のアラブ帝国が、イスラム帝国に姿を変えたのであるが、そうした変革をアッバース革命という。アッバース革命は、イスラム教、シャリーア(イスラーム法)、アラビア語により民族が統合される新たな大空間を生み出すこととなった。
アッバース朝の最盛期
建国の翌年の751年に、アッバース朝軍は高仙芝が率いる3万人の唐軍をタラス河畔の戦いで破り、シルクロードを支配下に置いた。その結果、ユーラシアからアフリカのオアシス交易路が相互にリンクする大交易路が成立した。
第2代カリフマンスールは、首都ハーシミーヤがシーア派が崇拝する第4代正統カリフ・アリーの故都クーファに近いことからシーア派の影響力が高まることを恐れ、ティグリス河畔のバグダード(ペルシア語で「神の都」の意味)と呼ばれる集落に、762年から新都を造営した。この新都の正式名称はメディナ・アッ=サラーム(アラビア語で「平安の都」の意味)と言った。また、マンスールは新王朝の創建に功績があったペルシア人のホラーサーン軍をカリフの近衛軍とすることで、権力基盤を固め、集約的官僚制や、カリフによる裁判官の勅任により権限を強化した。また、マンスールはサーサーン朝の旧首都に保存されていた学問を大規模にバグダードに移植した。
アッバース朝のカリフは、それまでのカリフの主要な称号であった「神の使徒の代理人」、「信徒たちの長」に加えて、「イマーム」「神の代理人」といった称号を採用し、単なるイスラム共同体(ウンマ)の政治的指導者というだけに留まらない、神権的な指導者としての権威を確立していった。一方で、カリフの神権性はあくまでウラマーの同意に基づいており、カリフに無謬の解釈能力やシャリーア(イスラーム法)の制定権が認められることはなかった点で、スンナ派の指導者としてのカリフの特性が現れている。
第5代カリフのハールーン・アッ=ラシードの時代に最盛期を迎え、バグダードは「全世界に比肩するもののない都市」に成長した。その人口は150万人を超え、市内には6万のモスク、3万近くのハンマーム(公衆浴場)が散在していたといわれる。バグダードは産業革命以前における世界最大の都市になり、ユーラシアの大商圏の中心地に相応しい活況を呈した。
第7代カリフのマアムーンはギリシア哲学に深い関心を持ったカリフとして知られる。彼はバグダードに知恵の館という学校・図書館・翻訳書からなる総合的研究施設を設け、ネストリウス派キリスト教徒に命じてギリシア語文献のアラビア語への翻訳を組織的かつ大規模に行わせた。翻訳されたギリシア諸学問のうち、アリストテレスの哲学はイスラム世界の哲学、神学に大きな影響を与えた。
その後、バグダードとその周辺には有力者の手で「知恵の館」と同様の機能を有する図書館が多く作られ、学問研究と教育の場として機能した。バグダードは世界文明を紡ぎ出す一大文化センターとしての機能を果たしたのである。
政治的混乱から滅亡へ
869年にカリフのお膝元であるイラクの南部で黒人奴隷が起こしたザンジュの乱は、独立政権を10年以上存続させる大反乱となり、カリフの権威を大きく損ねることとなった。9世紀後半になると、多くの地方政権が自立し、カリフの権威により緩やかに統合される時代になった。
10世紀になると、北アフリカにシーア派のファーティマ朝が、イベリア半島に後ウマイヤ朝が共にカリフを称し、イスラム世界には3人のカリフが同時に存在することになった。さらに945年、西北イランに成立したシーア派のブワイフ朝がバグダードを占領し、アッバース朝カリフの権威を利用し、「大アミール」と称し、イラク、イランを支配することとなった。
そうしたなかで、イスラム世界の政治的統合は崩れ、地方の軍事政権が互いに争う戦乱の時代となった。長期の都市居住で軍事力を弱めたアラブ人はもはや秩序を維持する力を持たず、中央アジアの騎馬遊牧民トルコ人をマムルーク(軍事奴隷)として利用せざるを得なくなる。
1055年に入ると、遊牧トルコ人のセルジューク朝がバグダードを占領してブワイフ朝を倒し、カリフからスルタンの称号を許されて、イラク・イランの支配権を握ることとなった。
セルジューク朝の衰退後、モンゴル帝国のモンケ・ハーンはフレグに10万人を率いさせて、バグダードを攻略させた。1258年、当時のカリフは僅かに2万人の軍隊を率いて抗戦したものの敗北を喫し、3人の子供と共に処刑された。その後、7日間の徹底的な略奪により、バグダードは見る影も無く破壊された。バグダードの攻略で80万人ないし200万人の生命が奪われたと言われている。
1261年、アッバース朝最後のカリフの叔父が遊牧民に護衛されてダマスカスに到着したとの知らせを受けたマムルーク朝第5代スルタンバイバルスは、この人物をカイロに招き、カリフ・ムスタンスィル2世として擁立した。カリフはバイバルスにアッバース家を象徴する黒いガウンを着せかけ、これをまとったバイバルスはカイロ市内を騎行したと伝えられる。これ以後、250年にわたって次々と位に就いたが、彼らはマムルーク朝に合法性を与える価値があったためスルタンのあつい保護を受けることができた。
1517年、オスマン帝国のセリム1世によってマムルーク朝が滅ぼされると、最後のカリフ・ムタワッキル3世は数千人によるエジプト人のアミール、行政官、書記、商人、職人、ウラマーなどをともなってイスタンブルに移住した。このとき、エジプトの民衆は深い悲しみに陥ったと伝えられる。アッバース家のカリフの存在は、2世紀をへて、エジプトのムスリムのなかに深く根を下ろすようになったとみるべきであろう。
その後、セリム1世はムタワッキル3世以降のアッバース家のカリフの継承を認めず、1543年にムタワッキル3世が死ぬとアッバース朝は完全に滅亡した。歴史家のイブン・イヤースは「セリム・ハーンが犯した最大の悪事」であると断じている。[2]
軍事
首都バグダードはペルシアの円型要塞を参考にして建造されており、3重の頑丈な城壁に囲まれていた。基部の厚さ32メートル、高さ27メートルとされる巨大な主壁の内部には、100平方メートル近い広さを有する金曜モスク、高さ50メートルに及ぶ緑の巨大なドームに覆われた豪華なカリフの宮殿があった。主壁の内側と外側には鉄製の巨大な扉が設けられ、4000名の近衛軍が配置された。
アッバース朝は月給をもらう常備軍を備えた国家であった。貴族や封建騎士ではなく、官僚と常備軍に支えられた国家とは、近代ヨーロッパが理想とした国家であり、ヨーロッパではようやく19世紀になって実現した。アッバース朝はそのような体制を8世紀には実現していた。[3]
アッバース朝では中央アジアの遊牧トルコ人との交易が盛んになって以降、マムルークと呼ばれる軍事奴隷の取引が盛んになった。優れた騎馬技術を持つトルコ人の青年は、購入後に一定のイスラム教育を施され、シーア派の台頭で混乱に陥った帝国の傭兵として利用された。マムルークはカリフを初めとする各地の支配者の近衛軍になったのである。アッバース朝のマムルークの数は7万人から8万人に達し、俸給の支払いが帝国財政を圧迫するようになった。
固有名詞の分類
アッバース朝に関係した商品
- 【送料無料】 ギリシア思想とアラビア文化 初期アッバース朝の翻訳運動 / ディミトリ・グタス 【単行本】HMV ローソンホットステーション R
- ベリーダンス♪雑誌♪本♪専門誌♪書籍♪カタログ♪通販♪Belly dance Japanベリーダンス・ジャパン Vol.9●DRESS HOUSE
- 文明の道 第6集 イスラーム・大いなる知恵の都 【DVD】HMV ローソンホットステーション R