蜂起前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/19 22:00 UTC 版)
1657年、王領ハンガリーのケーシュマールク(現在のスロヴァキア領ケジュマロク)に生まれ、幼いころに両親を亡くした。エペリェシュにあるルター派の大学に入ったが、彼の住む上ハンガリー(現在のスロバキア東部)では当時、ハプスブルク家の反対派やプロテスタントの皇帝軍に対する武装蜂起が恒常的に起きていて、テケリの立場も危ういものだった。 父テケリ・イシュトヴァーン伯爵(hu:Thököly István)は1670年12月、反ハプスブルク派によるヴェッシェレーニ陰謀の参加者としてスロバキア北部のアルヴァ城を防衛していた時、トランシルヴァニア公アパフィ・ミハーイ1世に大法官として仕えていた親族テケリ・ミハーイを頼ってトランシルヴァニアに逃亡しようと城を脱出したところで、皇帝の軍勢に殺されていた。テケリもまた王領ハンガリー(現在のスロバキア地域)からトランシルヴァニアに逃れた人々と連絡を取るようになった。 トランシルヴァニアの亡命者達は、自分達と同じように迫害を受け、膨大な領地の大部分を皇帝によって没収された、有能な若き貴公子テケリに大きな期待を寄せていた。そして神聖ローマ皇帝レオポルト1世が1673年2月27日にハンガリー国法を停止してヨハン・カスパー・フォン・アンプリンゲン(de:Johann Caspar von Ampringen)を独裁官に任命し、アンプリンゲンが450人のプロテスタント聖職者を追放し、そのうち67人以上をガレー船の徒刑囚にすると、テケリの不満は頂点に達した。
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