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やばたいこく 【邪馬台国】

⇒やまたいこく(邪馬台国)

やまたいこく 【邪馬台国/耶馬台国】

魏書東夷伝)」倭の条(いわゆる魏志倭人伝」)から知られる、二世後半から三世紀にかけての日本存在した国。二世後半倭国大乱は、女王卑弥呼(ひみこ)倭王共立することによって鎮まったという。魏と交通した。その位置については九州北部説と畿内大和説とがある。やばたいこく

卑弥呼


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邪馬台国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/03 01:50 UTC 版)

邪馬台国(やまたいこく)は、3世紀に日本列島に存在したとされるクニ[注釈 1]卑弥呼が治める女王国であったとしてよく知られている。


  1. ^ ここでいう「クニ(国)」とは、現在の日本全体を含む範囲という意味ではないと一般に解されている。奈良時代から江戸時代にかけて「~国」といった場合に現在の都道府県のような範囲を指すことからもわかるように、ある勢力の治める、しかしムラよりは比較的大きな範囲である。「魏志倭人伝」の邪馬台国は柵で囲っていたとの描写があるため、当時の中国語では柵で囲った範囲を「国」と表記したと説明する人もいる。
  2. ^ 日本の最古の正史として編纂されたとされる『日本書紀』には「邪馬台国」の文字も「卑弥呼」の文字もなく、本文以外の箇所に「その年、倭の女王が中国に使いを送った」という意味の文が記されているのみである。「我が国(倭)の女王が使いを送った」という意図なのか、「他国(倭)の女王が使いを送った」という意図なのかも定かでない。
  3. ^ 木綿が弥生時代の衣服であったかには異論もある[誰?]。このほか、『魏志倭人伝』は全体的に江戸時代の日本の生活や地理をもとにしていると解釈可能な文面があちこちにみられる[要出典]。歴史書『三国志』自体、日本でいう江戸時代にあたる清の時代になって中国で歴史の記録として扱われるようになったものであることは従来から指摘されている。
  4. ^ この景初2年6月(司馬懿が遼東の公孫淵攻撃のため出発した月)には帯方郡は公孫淵の支配下で、遣使は困難であるとして、『梁書』と『日本書紀』引用に従い、翌年の景初3年の誤りであろうとする説がある。ただし、卑弥呼の遣使2人で朝貢物が奴婢10人布2匹2丈とかつての奴国の貢物奴婢160人と比べても粗末なものであったのに、魏が邪馬台国を厚遇しているのは、公孫氏政権からいち早く魏に乗り換えた事の功績が認められたからという観点から、公孫氏政権滅亡直前の景初2年の遣使が正確であるという説(古田武彦「邪馬台国」はなかった』 角川文庫 1977年)もあるし、「魏志は倭人伝の前の東夷伝前半で、魏の母丘険の軍隊が沿海州から朝鮮半島の日本海側の玄菟郡故府方面に遠征していたことを語り、その記事の延長線上に倭人伝が書かれているため、朝鮮の西側の帯方郡と逆の東海岸に遣使した可能性があり、この場合、遣使困難とは言えない」という説も存在するようである。
  5. ^ 現存する版本は全て宋 (王朝)以後のものである。隋書では「邪靡堆」と国ではなく地域となっていることにも注意すべきであろう。
  6. ^ ただし、『三国志』には「臺獄」という表記や死体を積み上げた塚を「臺」としている例があることから、これに反対する説もある。
  7. ^ 古代中国語音の研究が進んだことにより、「邪馬臺国」も「jamatö」に近い発音となると考えられている[要出典]
  8. ^ ただし、墓の所在地がすなわち生前の所在地であるかについては、古墳研究者も歴史研究者も必ずしも肯定しない。記紀でも大王や天皇はその所在たる宮がすなわち陵墓なのではなく陵墓は別のところに作っている。
  9. ^ 年輪年代学では原理的に遺跡の年代の上限しか決定できない上に、まだ専門家の数が少なく、日本の標準年輪曲線は一つの研究グループによって作成され、正確データの公表すらなされておらず追試検証が行われていないとする指摘がある。放射性炭素年代測定法にしても、測定資料をとることは遺物を損傷することでもあり機材も必要なので追試検証は行われない。
  10. ^ 九州説では調査の精度に疑問を呈し、銘入りの鏡を後世の偽作と見ている。
  11. ^ 九州説では、書紀の編纂に当たった当時の大和朝廷が、参照した中国の史書(魏書、後漢書など)にある古代国家の記述を書紀に組み入れたにすぎないとする。
  12. ^ しかし、邪馬台国が北九州をすでに勢力下においていたとすれば、絹や鉄の記述があるのは不思議ではない。
  13. ^ これに対して、北九州の国々の行程を表記するにあたっても、すでに60度ほど南にずれているからもともと正確ではない、あるいは、倭国が会稽東冶の東海上に南に伸びて存在するという誤った地理観に影響されたものである混一疆理歴代国都之図[1]」の影響下にある地図には、日本を右回りに傾かせて描かれたものがある(「日本地図」の項目も参照のこと)などの意見がある。また方角の正しい地図は、現代において九州説が創作された時代以降のものしか確認されていないため、その方角の正しい地図の創作自体が、九州説創作の切っ掛けとなったという説もなされている。ただし混一疆理歴代国都之図については、15世紀に原図を作った朝鮮人が「行基図」を誤って右回りにはめ込んだにすぎず、古くからの地理観とはいえないと主張する説や、他に15世紀以前に日本を右回りに回転させたと証明できる地図が存在するわけでもなく、『隋書』では正しい地理観に基づいて行程を記述しているので、根拠とはしがたいという反論がある。
  14. ^ 放射読みでなされる60度までの変更であれば、そのまま進んでも目的地には近づいていくわけであるが、連続読みでなされる90度の変更となるとそのまま進むと目的地からは離れていく。これについて、記した人物が船で実際に倭にきたわけではないため、そのような誤記となったとする反論もある[誰?]。しかし、そうであるならばそのような信頼性のおけない記述に基づいてこうまで論じている意味がそもそもなくなる[要出典]。また、もともと地理に関しては『山海経』の描写が影響していること、生活や風俗に関しては江戸時代の様子と酷似しているとの指摘は従来からある[要出典]。歴史書『三国志』が二十四史として中国で歴史書扱いになったのは日本でいう江戸時代にあたる[[清]朝のときである。
  15. ^ 畿内説の側は、多くの鏡の年号が235年から244年の範囲内に納まるから、邪馬台国とは無関係であるとするのは逆に無理があると再反論している。
  16. ^ ただし、墓の所在地がすなわち生前の所在地であるかについては、古墳研究者も歴史研究者も必ずしも肯定しない。記紀でも大王や天皇はその所在たる宮がすなわち陵なのではなく陵は別のところに作っている。
  17. ^ 墓と一概にいっても、卑弥呼の遺骸を埋葬した場所という意味での墓所であるかはまた別問題である。なお、江戸時代から戦前にかけての近畿地方(特に滋賀・奈良・京都)では遺骸を埋める墓所と供養のために詣る墓所を別に持つ両墓制の葬送風俗が一般に色濃く残っていたことが昭和に行われた民俗調査によって知られている。
  18. ^ 三宅米吉は、12,000里は里程のわかっている不弥国までの距離であるとし、山田孝雄は、これは一部不明のところのある現実の距離をあわせたものではなく、単に狗邪韓国までの7,000里と倭地の周旋5,000里を合算したものに過ぎないとする。九州王朝説を唱えた古田武彦は、「正確を期するため同じ行程を距離と掛かる日数とで二重に標記している」とする読み方を提唱している。
  19. ^ 畿内説では狗奴国を毛野または桑名加納などの東海地方の勢力と考えるにしても、官名に対し特別な解釈を与えないようである。畿内説の内藤湖南は、彼が邪馬台国の時代に近いと考える景行天皇の時代に、朝廷と熊襲が激しく衝突したことから、狗奴国を熊襲、「狗古知卑狗」を菊池彦に当てている。そうすると、ここでは方角が正しいことになるが、彼は、狗奴国に関する記述は旅程記事とは別系統に属するから、問題はないという。『魏略』には「拘右智卑狗」とあるが、古代の日本語は語中に母音が来ることはないから、これは誤字と見てよい。吉備説・出雲説・東四国説では狗奴国を河内の勢力と見ている。
  20. ^ 当時の北九州以外における一般的な埋葬方法はまだ良く分かっていない。
  21. ^ 後者の東遷説は神武東征をその事実の反映と見る立場が多いが、『隋書』の記述がすでに現存する記紀神話とは相当異なっている可能性があるとして、神話を根拠とすることは受け入れがたいとする意見もある。
  22. ^ 九州説ではに圧力をかけるための厚遇であったとする。また前述の古田武彦は、公孫氏政権からいちはやく魏に乗り換えた功績に対する厚遇であるとする。
  23. ^ 一般的には概ねの領域と考えられている。
  1. ^ 森浩一『倭人伝を読みなおす』筑摩書房、p.29。ISBN 978-4480065582
  2. ^ 『三国志』魏書東夷伝序文
  3. ^ 市村其三郎『卑弥呼は神功皇后である』(新人物往来社、1972年)
  4. ^ 大正9年『日本古代文化』
  5. ^ 1956年「東洋史上より観たる古代の日本」
  6. ^ 1960年に刊行された「邪馬台国」、日向起源説。
  7. ^ 『国家の誕生』
  8. ^ 1960年に刊行された「日本の歴史1 神話から歴史へ」の中で邪馬台国の東遷が最も自然な解釈とした。
  9. ^ 古田武彦『「邪馬台国」はなかった
  10. ^ 田原本町教育委員会『唐古・鍵遺跡の考古学』
  11. ^ http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091111/acd0911111059006-n1.htm新井白石以来の邪馬台国論争ゴール近し 纒向遺跡 産経新聞
  12. ^ 石野 博信『大和・纒向遺跡』、邪馬台国の候補地・纒向遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
  13. ^ 「新邪馬台国論―女王の鬼道と征服戦争―」『歴史における政治と民衆』1986年、「親魏倭王印とその歴史的背景」『日本印章史の研究』雄山閣、2004年)。
  14. ^ 本居宣長『馭戎概言』、鶴峯戊申『襲国偽僣考』、近藤芳樹『征韓起源』
  15. ^ 原田実 『トンデモ日本史の真相 と学会的偽史学講義』 文芸社、2007年6月。ISBN 978-4-286-02751-7






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