さんきん‐こうたい〔‐カウタイ〕【参勤交代】
参勤交代 (さんきんこうたい)
参勤交代
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参勤交代(さんきんこうたい)とは、江戸時代において各藩の主である大名や交代寄合を交替で江戸に出仕させる制度。参勤交替、参覲交代、参覲交替などとも書く。
注釈
- ^ 近世の高野山寺領は2万1,300石で、1649年に高野山の学侶方と行人方の双方に江戸在番が命じられた[2]。
- ^ 当時の文書は当然手書きであり、「参」の字は康煕字典体の「參 (ムムム人彡)」ではなく、異体字「(ムニニ人水)」となっている。
- ^ 熊沢蕃山は著書の「大学或問」で、鎌倉時代の如く、諸大名は三年に一度の参勤、在府五十日か六十日に定めたならば、三十万石の大名でも米五千石で余りがあろう。当代は、江戸に諸大名の母儀・奥方・子たちが居るので、將軍家が気遣う人はいない。公儀から在府を短かくすれば、御恩恵となって辱く思われて心服の本となろう。諸侯が財政難となって参府が出来ず、下から願って許されるのでは悪いであろう。世間に多い善政中でも江戸詰を許されるのが仁政の大本である、と述べている[6]。
- ^ 室鳩巣は八代將軍吉宗の諮問に答えたものとして「献可録」を残しているが、その中で、古代中国の諸国の例を挙げて、周の時代には五年に一度の朝観とあり、いずれの国でも諸侯が都に逗留するのは僅かであるとしている。鎌倉時代に、和田・畠山・三浦・佐々木などの旧功譜代の家は鎌倉に居て、折ふし領地に行ったが、遠国外様の大名はいずれも在国していた。室町幕府の時も細川・畠山などは在京し、その他の大名は京都へ参勤したが、これも隔年に交代したことはない。江戸中には四方から大勢の人馬が入りこみ、諸物が払底している。大名の参勤が今の通りでは、諸大名も大分の費用がかかり、却て江戸が困窮する。そこで先年の上米の制度の時の如く、在府半年、在国一年半とすれば、在府の大名も半分となり、江戸中も人が少なく物静かになるであろうと述べている[6]。
- ^ 中井竹山の「草茅危言」は、老中松平定信が大坂に赴いた折に、竹山を召して経義を講じさせ、また、当世の事務を諮問した時に奉呈したものという。それには、今の参勤の制は領地の遠近に拘らず一様である。最も遠い薩摩からは海陸四百里に及び、四、五十里の諸侯と同じでは余りに労逸の差がある。帰国はいつも夏のことであるから、大勢の供廻りの者の中には病人が出て、途中で死ぬ者も年々何人となくある。九州の諸大名は同じ苦痛をしている。そこで、江戸より五十里以内の大名は毎年参勤して在府五十日、百里以内は二年に一度参勤して在府百日、二百里以内は四年に一度で在府三百日、三百里以上は五年に一度、在府一年とし、妻子はすべて帰国させる。こうすれば諸侯の窮乏を救い、天下の民をゆるめ、上下洋々として太平の化に浴するであろう、と述べている[6]。
出典
- ^ a b c d e f 武部健一 2015, p. 119.
- ^ a b “木食応其と高野山”. 和歌山県教育センター学びの丘. 2021年9月21日閲覧。
- ^ 『江戸三〇〇年「普通の武士」はこう生きた』著・八幡和郎、臼井喜法
- ^ a b 早川明夫「参勤交代のねらいは? : 「参勤交代」の授業における留意点」『教育研究所紀要』第16巻、文教大学、2007年12月、111-119頁、CRID 1050845762956170368、ISSN 0918-9122。
- ^ “江戸幕府が改訂した「武家諸法度」(寛文令)21ヶ条を発布し、キリスト教の厳禁及び不孝者の処罰を追加、商船の500石制限を撤廃する(新暦6月29日)”. ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事) (2022年5月23日). 2023年11月29日閲覧。 “大名、小名在江戸交替之儀、毎年守所相定時節、可致参勤、從者之員数彌不可及繁多、以其相応、可減少之、但公役者任教令、可隨分限事”
- ^ a b c d e f g h 児玉幸多「参勤交代制度の意義」『日本学士院紀要』52巻3号、1998年
- ^ 山本博文『参勤交代』第一章 参勤交代の歴史 1 参勤交代の源流 丸山雍成説より p28〜29。
- ^ 吉村豊雄 1989, p. 35.
- ^ 吉村豊雄 1989, p. 28.
- ^ 『喜連川公方実記』
- ^ 工藤 2009, p. 314.
- ^ 山本博文 1998, p. 210-212.
- ^ “金沢板橋間駅々里程表 所蔵文書データベース”. 金沢市立玉川図書館近世史料館. 2021年8月8日閲覧。
- ^ 永原慶二、青木和夫、佐々木潤之介『百姓・町人と大名』読売新聞社〈日本の歴史 ジュニア版 第3巻〉、1987年、134頁。
- ^ 『加賀藩大名行列図屏風』加賀藩の大名行列を記した屏風より。
- ^ a b 武部健一 2015, p. 120.
- ^ コンスタンチン・ヴァポリス『日本人と参勤交代』柏書房、2010年。ISBN 978-4760138210。
- ^ 石川県の金沢市にある大樋松門跡の立札には『通行旅行ノ武士ハ(中略)松門ヲ出レバ行装ヲ崩ス慣例ナリキ』(引用)とある。
- ^ 山本博文 1998, p. 93-104.
- ^ 山本博文 1998, p. 98-99.
- ^ 山本博文 1998, p. 141-142.
- ^ 御道中日記
- ^ 宇和島伊達家の参勤交代 (PDF) (第19回 宇和島市民歴史文化講座「そこ・どこや」 2011年1月16日)。
- ^ a b ヴァポリス, コンスタンティン・ノミコス「参勤交代と日本の文化」、国際日本文化研究センター、2004年10月、CRID 1390290699747876608、doi:10.15055/00005664。
- ^ 渡邊容子「参勤交代について」『華頂博物館学研究』第5巻、華頂短期大学、1998年12月、27-44頁、CRID 1571698601797123968、ISSN 09197702、NAID 110001192274。
参勤交代
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井伊家の江戸城詰席は帝鑑間であった。上屋敷は安永年代は数寄屋橋内、文久年代は向柳原、明治になると下谷七曲りに所在した。参勤の様子は1824年(文政7年)を例に取ると、5月15日に与板を出発、三国街道を進み川口・六日町・三俣・須川・渋川・本庄・桶川・板橋に宿泊する。5月23日に江戸へ到着した。
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参勤交代
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久留米藩の参勤交代は、久留米城を出て現在の通町十丁目から北に曲がり、百年公園の北にあった宮地の渡しで筑後川を越え、宮ノ陣町の古賀茶屋で薩摩街道に合流していた。4代藩主有馬頼元までは瀬戸内海の海路を使っていたが、天候に影響され、決まった日にたどり着くことができないため、6代藩主則維からは山陽道や東海道の陸路で江戸に向かっていた。
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参勤交代
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岩村藩は参勤交代で江戸へ行き来する際には、岩村城から飯羽間の根上から上平を通って夕立山を越え、佐々良木村、竹折村、土岐郡の駄知村、曽木村、柿野村から三国山を越えて三河の拳母に出て岡崎宿から、東海道で江戸へ向かった。この道筋は遠回りではあるが美濃国内は全て岩村藩領を通るため他領を通る場合の面倒な手続きが回避できたのである。岩村藩では、この道筋を大名街道と呼んでいた。また中山道ではなく東海道を通行した理由は、享保20年(1735年)に1万石の加増を受けて3万石となった際に、その内の5,276石が駿河国の15ケ村で、そこを支配するための岩村藩の横内陣屋が東海道沿いにあり、立寄る目的もあった。
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参勤交代
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「交代寄合」も参照 交代寄合は旗本であるが大名と同様に参勤交代をした。美濃衆の参勤交代は「四月参府、五月御暇」と言われるほど江戸での滞在期間が短かった。更に2家と1家に分かれて隔年で参勤することが基本であり、幼少での家督相続があった場合は初御目見までは他の2家が交代を勤めた。他にも美濃・伊勢・尾張の河川普請の見回りを勤めた年とその翌年は参勤を免除され、免除期間中に見回りが命じられた場合には参勤免除が繰り越された。その他にも家督相続のための御礼参府をした翌年や病気時も参勤免除となったため、結果的にはほとんどの期間を国元で過ごした。
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「参勤交代」の例文・使い方・用例・文例
- 大名は江戸へ参勤交代した
- 参勤交代制で,大名が領地に帰る年
- (江戸時代)参勤交代という,大名統治制度
- (江戸時代)(大名が)参勤交代する
- 参勤交代で,大名が江戸と領地を往復する時の行列
- 超高速! 参勤交代
- 1736年(元(げん)文(ぶん)元年)春,徳川幕府は湯長谷藩に突然の参勤交代を命(めい)じた。
- その上,藩主の内藤政(まさ)醇(あつ)(佐々木蔵(くら)之(の)介(すけ))と藩士たちはちょうど参勤交代から戻ってきたばかりなので,藩にはもう1回参勤交代をするのに十分な資金がない。
- 超高速!参勤交代 リターンズ
- これは2014年の大ヒット映画「超高速!参勤交代」の続編である。
- 徳川幕府が藩に,通常は8日以上かかる参勤交代をたった4日でするように命(めい)じたのだ。
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