公孫康とは? わかりやすく解説

公孫康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 04:14 UTC 版)

公孫康
後漢
遼東太守・左将軍・襄平侯
出生 生没年不詳
幽州遼東郡襄平県
拼音 Gōngsūn Kāng
主君 曹操
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公孫 康(こうそん こう、生没年不詳)は、中国後漢末期の群雄。幽州遼東郡襄平県の人。家系公孫氏。父は公孫度。弟は公孫恭。子は公孫晃公孫淵

事跡

建安9年(204年)、父の後を継いで太守となった。

建安年中に、楽浪郡18城の南半分である屯有県(現在の黄海北道黄州か)以南を裂いて帯方郡を設置し、まで勢力を広げた[1]

建安12年(207年)、烏桓の大人(単于)楼班と袁煕袁尚兄弟らが曹操に追われ遼東郡に逃れてきた時、袁尚らがいることを理由に曹操が攻めてくる事を恐れ、楼班をはじめ袁煕・袁尚らを殺し、その首を曹操へ差し出した。これにより、曹操から襄平侯・左将軍に任命された。

没年は不明だが、曹丕(文帝)の時代までには死去していたらしく、曹丕から大司馬を追贈されている。

配下

関連項目

脚注

  1. ^ "是後倭韓遂屬帶方"『三国志』魏書 東夷伝韓条より。

公孫康(こうそん こう)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:12 UTC 版)

蒼天航路」の記事における「公孫康(こうそん こう)」の解説

幽州遼東勢力を持つ群雄曹操連敗して落ち伸びてきた袁煕袁尚兄弟受け入れる。しかし曹操追討軍の進軍停止するやすぐに袁尚らを見限り二人殺して曹操帰順した

※この「公孫康(こうそん こう)」の解説は、「蒼天航路」の解説の一部です。
「公孫康(こうそん こう)」を含む「蒼天航路」の記事については、「蒼天航路」の概要を参照ください。

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