公孫康
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公孫康 | |
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後漢 遼東太守・左将軍・襄平侯 | |
出生 | 生没年不詳 幽州遼東郡襄平県 |
拼音 | Gōngsūn Kāng |
主君 | 曹操 |
公孫 康(こうそん こう、生没年不詳)は、中国後漢末期の群雄。幽州遼東郡襄平県の人。家系は公孫氏。父は公孫度。弟は公孫恭。子は公孫晃・公孫淵。
事跡
建安年中に、楽浪郡18城の南半分である屯有県(現在の黄海北道黄州か)以南を裂いて帯方郡を設置し、韓や倭まで勢力を広げた[1]。
建安12年(207年)、烏桓の大人(単于)楼班と袁煕・袁尚兄弟らが曹操に追われ遼東郡に逃れてきた時、袁尚らがいることを理由に曹操が攻めてくる事を恐れ、楼班をはじめ袁煕・袁尚らを殺し、その首を曹操へ差し出した。これにより、曹操から襄平侯・左将軍に任命された。
没年は不明だが、曹丕(文帝)の時代までには死去していたらしく、曹丕から大司馬を追贈されている。
配下
関連項目
脚注
公孫康(こうそん こう)
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「蒼天航路」の記事における「公孫康(こうそん こう)」の解説
幽州遼東で勢力を持つ群雄。曹操に連敗して落ち伸びてきた袁煕・袁尚の兄弟を受け入れる。しかし曹操の追討軍の進軍が停止するやすぐに袁尚らを見限り、二人を殺して曹操に帰順した。
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