歩騭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/01 10:18 UTC 版)
歩 騭[1](ほ しつ)は、中国三国時代の呉の武将・政治家。字は子山。徐州臨淮郡淮陰県の人。子は歩協・歩闡。孫は歩璣・歩璿。同族に歩練師(孫魯班・孫魯育の母)。
- ^ 歩隲や歩𨽥と表記されることも多い。
- ^ 『呉録』によると、焦矯は豫州汝南郡征羌県令だったことがあり、焦征羌とも呼ばれる。
- ^ 会稽郡の焦征羌は、郡の豪族であって、その食客たちがわがもの顔に横行していた。歩騭と衛旌とは、焦征羌の勢力の下にある土地で生計をはかろうと考えたが、その一味に無茶なことをされるのを恐れて、2人して名刺を通じ瓜を奉じて、焦征羌に献上したいと願い出た。焦征羌は奥で横になっていて、2人を長く待たせたままにしておいた。衛旌は無礼を受けるより帰ろうとしたが、歩騭は、彼の勢力を利用すべく、また怨みを買われないためにも、帰るべきじゃないと説得した。長い時間がたってから、焦征羌は窓を開いて2人と会い、窓の外の地べたに座らせた。焦征羌は、大きな机にご馳走を並べ、歩騭と衛旌とには小さなお盆に盛ったご飯を与え、野菜のおかずが付いているだけであった。歩騭はそれを余すことなく食べた。衛旌は腹を立てて「こんな扱いにどうして堪えられるのだ」。歩騭がいった「我々は貧乏で身分もない。だから主人は貧乏で身分のない者として我々を待遇したのだ。当然のことであって、何の恥ずかしがることがあろうか」
- ^ a b 『呉書』
- ^ 『三国志』呉志 董襲伝
- ^ 関尾 2023, p. 147.
- ^ 『三国志』呉志 潘濬伝 が引く『呉書』
- ^ 『三国志』呉志 張昭伝
- ^ a b 『三国志』呉志 呉主伝
- ^ a b 『呉録』
- ^ 『三国志』呉志 周瑜伝
- ^ 『三国志』魏志 三少帝紀 が引く 干宝著『晋紀』
- ^ 『三国志』呉志 呉主五子伝 が引く『通語』
- 歩騭のページへのリンク