韓浩
漢代末期、兵乱が起こると、近くの山林から盗賊どもが何度も現れた。韓浩は人数を集めて本県を守護した。太守王匡が彼を従事に取り立てて軍勢を統率させ、盟津で董卓と対峙させた《夏侯惇伝》。そのころ韓浩の舅杜陽は河陰県令であったが、董卓が彼を捕らえて韓浩に投降を呼びかけさせた。しかし韓浩は承諾しなかった。袁術はそれを聞いて彼を壮士だと思い、騎都尉に任命した《夏侯惇伝》。 のちに夏侯惇が彼の名声を聞いて会いたがり、(実際に会うと)彼を大いに絶賛して軍勢を宰領させ、征伐に随従させた。興平元年(一九四)、張邈らが叛逆して呂布を招き入れた。呂布は濮陽城に入り、夏侯惇を人質に取って金品を要求した。夏侯惇軍は恐慌状態に陥った。韓浩は兵士を連れて夏侯惇陣営に乗り込み、軍吏・諸将を召集し、甲冑に身を固めて部署に戻り、動揺せぬよう言い付けた。その他の陣営もようやく鎮まった《夏侯惇伝》。 韓浩は夏侯惇の元へ行き、彼を縛り上げている連中を叱りつけ、「汝ら悪党は将軍を人質に取りながら生きていられると思っているのか。吾は賊徒討伐の命令を受けているのだから一介の将軍のために汝らの好き勝手させられるか!」と言った。そして夏侯惇には涙を流しながら「国法だから仕方ないのです」と言った《夏侯惇伝》。 韓浩が兵士に命じて攻撃させようとすると、捕縛者は土下座しながら「我はただ費用を頂戴して立ち去ろうとしただけなんです」と言った。韓浩は彼らを責め立てて、一人残らず斬首した。夏侯惇は命拾いした。曹操はそれを聞くと「卿の行動は万世の法とすべきだな」と韓浩に語り、今後は人質を取る者があっても気遣うことはせず、双方まとめて討ち果たすべしと軍令を定めた。このことから人質を取る者が後を絶ったのである《夏侯惇伝》。 建安元年(一九六)、政治上の得失について大々的な議論があり、韓浩は農事こそが急務であると考え、棗祗とともに屯田を始めるべきだと主張した。曹操はそれを評価し、護軍に昇進させた《武帝紀・夏侯惇伝》。韓浩は領軍の史渙とともに忠勇をもって名を挙げ、列侯に封ぜられた《夏侯惇伝》。 ここでは屯田制を建議した建安元年内に護軍へ昇進したように書かれているが、実際の任官はもう少し下るようだ。『晋書』職官志に「中領軍将軍は魏の官職である。建安四年、魏の武帝が丞相府に中領軍を置いた」、また「魏の武帝は宰相となり韓浩を護軍、史渙を領軍としたが、漢の官職ではない」とある。曹操が丞相になったのは建安十三年だから、中領軍が設置されたのは「十四年」の誤りであろうと趙一清は言う《曹休伝集解》。しかし韓浩が十二年の柳城遠征の時点ですでに護軍の官に就いていたのは確実で、また職官志は同年に護軍を中護軍と改名したとしており、趙一清説は間違いである。年代ではなく「丞相府」を「司空府」に改めるべきなのだろう。ただし司空府の属官を魏の官職とするには疑問が残る。 曹操が柳城討伐を計画したとき、史渙は「道程は遠く、深く進入することになるから、万全の計略ではない」と考え、韓浩へ一緒に諫めようと持ちかけた。韓浩は「いま軍勢は強盛で威信は四海に轟いている。戦えば勝利して攻めれば奪取して目的が達せられなかったことはない。このとき天下の患いを取り除かねば後々の憂いになろう。それに公の神武は発動に際して計画に遺漏がない。吾と君とは中軍の要なのだから軍勢を意気阻喪させてはなるまい」と言い、こうして従軍し、柳城を打ち破った《夏侯惇伝》。 同十二年、その官職が改名されて中護軍となり、長史・司馬が設置された《夏侯惇伝・晋書職官志》。十八年五月、献帝より曹操へ魏公に封ずるとの勅命が下った。曹操は再三辞退したが、韓浩は群臣・諸将とともに連署して拝受するよう勧めている。このとき肩書きは「中領軍・万歳亭侯」である《武帝紀》。 連署者のうちに中護軍曹洪があるが、これは都護将軍曹洪の誤りで、韓浩の肩書きも中護軍が正しいのだろう。また荀彧が万歳亭侯に封ぜられ、その子荀惲が食邑を継いでおり、ここに万歳亭侯とあるのも疑わしい。 二十年、張魯討伐に従軍した。張魯が降服したのち、軍議では「韓浩の智略は辺境を鎮めるに充分であります。ここに残して諸軍を都督させ、漢中を鎮められますよう」との意見が持ち上がった。しかし曹操は「吾が護軍を失ってよいものか」と言い、彼と一緒に引き揚げた。これほどまで信任されていたのである《夏侯惇伝》。 韓浩が薨去すると曹操は哀惜し、子がなかったので養子韓栄に跡を継がせた《夏侯惇伝》。 【参照】袁術 / 王匡 / 夏侯惇 / 韓栄 / 史渙 / 曹操 / 棗祗 / 張邈 / 張魯 / 杜陽 / 董卓 / 劉協(献帝) / 呂布 / 河内郡 / 漢中郡 / 魏 / 万歳亭 / 平陰県(河陰県) / 濮陽県 / 孟津(盟津) / 柳城 / 騎都尉 / 県令 / 公 / 護軍 / 司馬 / 従事 / 太守 / 中護軍 / 長史 / 亭侯 / 領軍 / 列侯 / 屯田 |
韓浩
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韓浩 | |
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後漢 万歳亭侯・中護軍 | |
出生 | 生年不詳 司隷河内郡 |
死去 | 没年不詳 |
拼音 | Hán Hào |
字 | 元嗣 |
主君 | 袁術 → 曹操 |
韓 浩(かん こう、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将・政治家。曹操に仕えた。司隷河内郡の人。字は元嗣。養子は韓栄。妻は杜氏か。『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」、およびそれが引く『魏書』に多くの記述がある。屯田制を提唱した優れた政治家として伝わるが、『演義』では韓玄の弟で愚鈍な武将の設定である。
生涯
夏侯惇に見出される
後漢末の戦乱の中、故郷の県が山岳地帯に隣接していたため、韓浩は人を集めて盗賊から県を自衛した(『魏書』)。
後に王匡から従事に任命され、董卓を討つため兵を率いて孟津に出兵した[1]。董卓が、河陰県令であった妻の父の杜陽を人質にして韓浩を招いたが、彼は応じなかった。この話を聞いた袁術は韓浩の態度に感心し、韓浩を招いて騎都尉とした(『魏書』)。
その後、韓浩の名声を聞いた夏侯惇は彼との面会を要望し、韓浩を大いに評価した。夏侯惇は韓浩に兵を率いさせ、征伐に随行させた(『魏書』)。
興平元年(194年)、呂布との戦いで夏侯惇が人質となった際には、主のいない軍をまとめ、かつ夏侯惇を人質にした者に対し厳しい態度で臨み、夏侯惇には国法を守るため、見殺しにすることを涙ながらに詫び、そのまま攻撃を加えた。夏侯惇を人質にしていた者が叩頭して謝罪したが、韓浩は赦さずに斬り捨て、夏侯惇を救出した。この態度は曹操に称えられ、韓浩のやり方はそのまま法律として用いられた。以後、人質を使う者が後を絶ったという。
曹操の護軍として
建安元年(196年)、曹操が政治について議論を行わせた時、韓浩は棗祗と共に屯田を急いで行なうよう提言したため、曹操に喜ばれ護軍への昇格を果たした(『魏書』)。
韓浩は領軍の史渙と共に忠義と武勇によって名を挙げ、列侯に封じられた。
建安12年(207年)、曹操が烏桓を討つため柳城まで遠征しようとした時、史渙は遠征に消極的であったので、韓浩と相談し協力して曹操を諌めようとした。しかし韓浩は「殿が計画を発動する時、そこに遺漏は無い。私とあなたは中軍の指揮官なのだから、兵士の士気を削ぐ様な事をすべきではない」と逆に史渙を説得した。韓浩は曹操に随行して功績を立て、官号を中護軍に改められ、配下に長吏と司馬をつけることを赦された(『魏書』)。
建安20年(215年)、曹操が漢中の張魯討伐に遠征すると、韓浩もそれに従軍した。張魯を降伏させた後、諸軍を統括し漢中を鎮守する者として、智略に優れた韓浩を推す声が強かったが、曹操は「わしが護軍無しにはできぬ」と難色を示し、供に帰還した(『魏書』)。漢中の軍事は杜襲が統括することとなり、夏侯淵と張郃が守将となった。
曹操は韓浩を大いに信任していたので、彼が病死するとその死を惜しんだ。韓浩には子がなかったので、一族の韓栄が養嗣子として後を継いだ(『魏書』)。
演義での韓浩
小説『三国志演義』では、当初は博望坡の戦いで夏侯惇の部下として登場し、劉備軍の諸葛亮の火計に敗れている。後に漢中攻防戦で夏侯淵配下の武将として登場するが、このとき長沙太守韓玄の弟として紹介される。劉備軍に投降していた黄忠が、自分の兄を殺害したと思いこみ、張郃や夏侯尚と共に兄の恨みを晴らすべく、黄忠・厳顔を攻める。しかし、逆に敵の策にかかり敗走し夏侯徳の陣に逃げ帰っている。最後は、そこに出陣してきた黄忠に対し一騎討ちを挑むものの、逆に討ち取られてしまう。
脚注
- ^ 王匡自身も河陽津に出兵した(「董卓伝」)
韓浩
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