張繡とは? わかりやすく解説

張繡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 14:20 UTC 版)

張繡
代の書物に描かれた張繡
後漢
破羌将軍
出生 2世紀頃?
涼州武威郡祖厲県
死去 建安11年(207年
拼音 Zhāng Xiù
諡号 定侯
主君 劉雋→董卓張済→独立勢力→曹操
→独立勢力→曹操
テンプレートを表示
張 繡
各種表記
繁体字 張繡
簡体字 张绣
拼音 Zhāng Xiù
英文 Chang Hsiu
Zhang Xiu
テンプレートを表示

張 繡(ちょう しゅう)は、中国後漢末期の武将。季父は張済[1]。子は張泉・女子一人。涼州武威郡祖厲県(現在の甘粛省武威市靖遠県)の人。『三国志』巻8「魏書」二公孫陶四張伝に伝がある。

生涯

若い頃は県長劉雋の抜擢を得て、県吏として仕えた。しばらくして、韓遂辺章らに呼応した麹勝が謀反を起こし、劉雋を殺害した。張繡は隙を見て麹勝を暗殺し、上司の仇を討ち武名を挙げた。その後、当時董卓の配下であった季父の張済に従った。李傕郭汜政権下で建忠将軍・宣威侯となっている[2]

建安元年(196年)、季父が南陽郡の穣を攻略中に、流れ矢に当たって戦死したために、その軍勢を張繡が継ぐ事となった。その後、新たに参謀として加わった賈詡は、張繡に対し「将軍(張繡)は軍才に優れておられるが、曹操には及ばない」と語ったと言われる。張繡は賈詡の進言に従い、賈詡を派遣して劉表と同盟を結んだ。張繡はに駐屯し、劉表軍と合流した。

建安2年(197年)春、曹操が南陽郡に侵攻し淯水に陣営を置くと、張繡は軍勢を引き連れて曹操に降伏した。ところが、曹操が亡き季父の張済の妻であった未亡人を側妾にしたために、張繡は恨みを抱くようになった。曹操は張繡が恨んでいる事を知ると、密かに張繡を殺害する計画を立てた。しかし張繡はこの計画に気づくと、賈詡の進言を容れて、曹操に奇襲をかけた。この奇襲で張繡は、曹昂曹安民典韋などを含む多くの将兵を討ち取り、勝利を得た。曹操が舞陰に撤退すると、張繡は騎兵を引き連れて舞陰を攻めたが、撃退された。このため張繡は再び劉表と同盟を結び、穣に駐屯した。曹操が許昌に帰ると、南陽郡の諸県は曹操に反逆し、再び張繡に味方する事になった。

その後も、張繡・劉表は曹操と抗争を続けた。建安3年(198年)に曹操が穣に攻め寄せた時は、劉表の派遣した援軍のおかげで、張繡は勝利した。曹操は張繡に退路を絶たれたので、撤退すらままならなくなったが、伏兵を用いて張繡軍を大いに破った。曹操軍の荀攸によれば、張繡軍はまるで劉表軍の遊撃隊のようであり、また劉表に食料を頼っていたという。


建安4年(199年)11月、当初張繡は袁紹からの同盟の誘いを受けるつもりであったが、賈詡から「大勢力たる袁紹との戦いを控えた今の曹操は、味方になる勢力を必ず厚遇するでしょう」と進言され、これに従って曹操に帰順し揚武将軍となり列侯に封じられた。帰順後、張繡の娘は曹均の妻として迎えられている。建安5年(200年)、官渡の戦いで武功を挙げ破羌将軍に昇進した。また曹操に従い袁譚を破ったため、加増を受けて領邑が合計2,000戸になった。

建安12年(207年)、柳城の烏桓征伐中に陣中で病死した。定侯と諡号を贈られた。『三国志』魏志張繡伝が注に引く『魏略』によると、張繡は曹昂の異母弟である曹丕の元へ、何度か頼み事に赴いた。しかし曹丕から「お前は私の兄を殺したのに、どうして平気な顔をして会えるのだ」と言われたために、これに不安を感じ自殺したのだと言われている。子の張泉が後を継いだが、建安24年(219年)に魏諷と共に曹家政権の転覆を目指すクーデターを謀って失敗し、領地を没収され処刑された。

物語中の張繡

小説『三国志演義』にも登場し、ほぼ正史通りの活躍を演じているが、曹操に降伏した後は登場しない。賈詡の進言を良く聞く人物として描かれている。

配下部将

史実

演義のみ

  • 張先:『演義』第17回に登場。雷叙と同じく南陽城外へ張繡に従い出陣。曹操軍の許褚一騎討ちするが、わずか3合で斬って捨てられている。
  • 雷叙:『演義』第17回に登場し、南陽城外で曹操軍を迎撃するために張繡に従い出陣。活躍は特にない。

脚注

  1. ^ 『後漢紀』巻29:「春正月,曹操征張繡,繡降。其季父済妻,国色也,操以為妾。」
  2. ^ 陳琳「袁紹の為に豫州に檄す」(『文選』巻44・檄)内にも記事がある。



張繡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 21:42 UTC 版)

三国志 (横山光輝の漫画)」の記事における「張繡」の解説

宛城太守曹操軍二度攻められるも、賈詡謀略によっていずれも勝利を収めている。ただし二度目合戦において劉表結託し曹操軍追撃した際、曹操の策により追い詰められている。後に賈詡進言曹操降伏している。

※この「張繡」の解説は、「三国志 (横山光輝の漫画)」の解説の一部です。
「張繡」を含む「三国志 (横山光輝の漫画)」の記事については、「三国志 (横山光輝の漫画)」の概要を参照ください。


張繡(ちょうしゅう)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:26 UTC 版)

一騎当千の登場人物」の記事における「張繡(ちょうしゅう)」の解説

武威学園闘士眼鏡掛けたスキンヘッドの男。大闘士大会にて登場し夏侯惇注目1人あげられている。

※この「張繡(ちょうしゅう)」の解説は、「一騎当千の登場人物」の解説の一部です。
「張繡(ちょうしゅう)」を含む「一騎当千の登場人物」の記事については、「一騎当千の登場人物」の概要を参照ください。


張繡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:12 UTC 版)

蒼天航路」の記事における「張繡」の解説

魏での#張繡の記述参照

※この「張繡」の解説は、「蒼天航路」の解説の一部です。
「張繡」を含む「蒼天航路」の記事については、「蒼天航路」の概要を参照ください。


張繍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:14 UTC 版)

パリピ孔明」の記事における「張繍」の解説

50話「偽撃転殺」において偽撃転殺の計の説明登場

※この「張繍」の解説は、「パリピ孔明」の解説の一部です。
「張繍」を含む「パリピ孔明」の記事については、「パリピ孔明」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「張繡」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「張繡」の関連用語

張繡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



張繡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの張繡 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの三国志 (横山光輝の漫画) (改訂履歴)、一騎当千の登場人物 (改訂履歴)、蒼天航路 (改訂履歴)、パリピ孔明 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS